「人間がもっとも恐れるのは死である。生まれたものが死ぬのは当然と言えばそれまでだが、一般に人が死ぬということと、特定の人、たとえば近親者が死ぬということは根本的に違う。近親者の死はいわば自分の生命の一部分を失うことである。
しかし自分自身の死ということになるとどうであろうか。厳密な意味においては、自分の死を考えることはできない。生きているあいだはまだ自分の死を経験することはできない。死を予想するときは、未知への不安がもっとも恐ろしいのである。
肉体の機能の停止と同時に、その人の精神活動がまったく消滅するという確証もない。肉体に必ずしも依存しない心理活動の可能性を実験的に証明しようとする超心理学(パラサイコロジー)はまだ初歩の段階にあるが、将来性が期待される。
個人の肉体の死を生命の終点と考えるならば、理想の追求もありえないことになろう。唯物論者でさえも自己の社会活動に意義を認める以上は自己の死後の存在ー歴史的事実とよんでもよいがーを認めないわけにはいかないだろう。通俗信仰の範囲にとどまるものならば現世の継続として感性的な来世(極楽や天国)を空想して一種の満足を感じるであろう。
しかし精神的に自覚したものは生存中の自己の行為の総決算としての死後の存在を確信し、よく死ぬことができるために、平常からよく生きること、充実した生涯を送ることに全力をあげることであろう。死後の存在は外から与えられるものではなくて、自己の責任において建設すべきものというべきであろう。」
しかし自分自身の死ということになるとどうであろうか。厳密な意味においては、自分の死を考えることはできない。生きているあいだはまだ自分の死を経験することはできない。死を予想するときは、未知への不安がもっとも恐ろしいのである。
肉体の機能の停止と同時に、その人の精神活動がまったく消滅するという確証もない。肉体に必ずしも依存しない心理活動の可能性を実験的に証明しようとする超心理学(パラサイコロジー)はまだ初歩の段階にあるが、将来性が期待される。
個人の肉体の死を生命の終点と考えるならば、理想の追求もありえないことになろう。唯物論者でさえも自己の社会活動に意義を認める以上は自己の死後の存在ー歴史的事実とよんでもよいがーを認めないわけにはいかないだろう。通俗信仰の範囲にとどまるものならば現世の継続として感性的な来世(極楽や天国)を空想して一種の満足を感じるであろう。
しかし精神的に自覚したものは生存中の自己の行為の総決算としての死後の存在を確信し、よく死ぬことができるために、平常からよく生きること、充実した生涯を送ることに全力をあげることであろう。死後の存在は外から与えられるものではなくて、自己の責任において建設すべきものというべきであろう。」
以上、『死について』と題した仏教学者、渡辺照宏(わたなべ しょうこう1907-1977 執筆時は東洋大学教授)のご意見です。1970年代後半のたぶん毎日新聞の随筆欄から。
母の遺稿ノートに挟まれていた新聞切り抜きです=写真。
新聞名、年月日不明。筆者の渡辺照宏氏もこのエッセイをお書きになったあとしばらくして他界されたのではないかと察せられます。母も同じように同じ頃亡くなっています。きっと『死について』には同じ気持ちだったのではないかと思われます。
この記事から半世紀の歳月が流れています。超心理学(パラサイコロジー)の発展はいかがでしたでしょうか。死生観としては、今日的にも十分にうなずけるものを感じます。
「よく死ぬことができるために、平常からよく生きること・・」まさに御意!(ぎょい)
「朝毎に懈怠なく死して置く(葉隠れ)」の心得で、今日もプリティ ワールドに向かいましょう。
Sergio Mendes & Brasil '66 【 Pretty World 】