東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸人形 「拳遊び」(小捻 徳次郎 作?)

2012-01-30 23:20:42 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010151小捻と書いて「しょうねん」と読むのだそうで、有坂与太郎の戦前の著作の中に出てきます。その著作の中でも「小捻」の人形を今戸人形に含めて書いてあったり別枠で取り扱っていたりするので「今戸人形」の範疇に入れるかどうか人によって分かれるものでしょうが、個人的には今戸焼の人形のひとつだと思っています。

ご覧のとおり技巧を尽くした作りで、子供の遊び道具にしては高価だったろうと思いますし、飾ったものでしょう。

画像では4人しかいませんが、本来拳を打つ男性がもうひとりいるのです。何故か拳を打つ2人は愛嬌のある顔をしていて、ここにいないもう一人はしかめっつらをしているのです。(ところでこれは何の拳?狐拳でいいのでしょうか?)奥の若旦那の右手が損じていますが、左のお酌から盃を受けているところです。これと同じ組み合わせの人形の組みは戦前の西沢笛畝著の「玩具叢書」?だったかという本に白黒画像に小さく載っていて、解説では「待乳山辺りで作られていた」と書かれています。捻りの人形といっても頭や胴の芯、小さなパーツそれぞれは型抜きして、合成してあります。袖の細部などは当然捻りで調節して作ってあります。全てはじめから手捻りでは規格を合わせて生産できません。

以前、吉徳資料室のHさんとお話していて、この手の人形のことに及んだのですが、昭和40年代くらいの本で「日本の古人形」という藤沢の時計屋さんの旦那さんが自分のコレクションを出版している本に出ていると聞きました。その本わが家にもあったのですが、見落としていました。掲載されているのは吉原の大晦日の「狐舞」のような人形のセットなのですが「人徳」の作であると解説されています。技巧的にも同じ作者だと思います。「人徳」なる名前は他の本で読んだことがなかったので、どういう人かとずーっと考えていました。(わが家には玩具関係の古書はそんなにないのです。)

その後、図書館で明治10年に出版された上野の内国勧業博覧会での受賞者についての記述の「第二類 焼窯術上ノ製品」「二區五類」という項目の中に「花紋 土偶人 淺艸東仲町  小捻徳次郎  教育ノ用ニ適セズ價モ亦不廉ナレドモ全ク土ヲ揑リ製シ出スハ蓋シ其類少ナキ者」というのを目にしました。「人徳」と「小捻 徳次郎」は同一人物ではないかと思うのです。博覧会にどのような作品を出品したかは知る術もないですが、江戸ッ子好みの粋な人形だったのでしょうか?だとすれば、当時の世相でいうところの教育的ではないというコメントがされても仕方ないと思います。値段も高いが土でこうしたものを作りだす技術は大したものだということでしょう。

こんな人形を作れたらすごいと思いますが、私には修業不足でまだまだ無理です。

この作者のもうひとつの作例はHPでも画像を紹介していますのでよかったらご覧ください。→


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5 コメント

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 この右から二番目の人物のポーズこそが、狐拳=東... (るん馬)
2012-01-31 00:33:14
 この人形は、写実的なお座敷の風景でもありますし、狐拳ではなく、東八拳の人形だと思います。
 これまた前述の通り、東八拳は一対一で行うものなので、狐拳と違って拳を打つ人形なら二対一組でよいのです。したがって、奥の若旦那はおっしゃるように拳を打っているのではなく、お酌してもらいながら拳を打つ人を眺めているのでしょう。
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随分凝った人形ですね。 ()
2012-01-31 23:54:41
お座敷で拳遊びをしていて楽しそうです。
粋な感じで大人が欲しくなりますね。
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るん馬さま (いまどき)
2012-02-02 00:37:15
ありがとうございます。こっちのセットが藤八拳なのですね。ここにいないもう一人については記したとおり、西沢笛畝の本の画像を確認すればいいので、(家にあるのですが、整理が悪くてすぐにみつかりませんが、みつかり次第画像を添えます。記憶では困った顔をしていたので、負けているのだとすればご推察どおり狐なはずです。ご教示いただいて助かりました。狐拳の形は大仰なのでそれをコンパクトに精華させたのが藤八拳の形と考えていいのですか?藤八拳というと直助権兵衛の「藤八・五文・奇妙」の売り声くらいしかしらなかったので、、。でもこの初演は前の狐拳の人形よりも昔だと思うので、子供が狐拳をやっていると同時に粋な人たちは既に藤八拳を打っていたという感じでしょうか?ともかく勉強のため、またお邪魔させていただきます。
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琢さま (いまどき)
2012-02-02 00:41:57
コメントありがとうございます。技術的にすごい人形だと思います。形のつくりだけでなく、彩色の精緻さ、、。こうしたものを規格を揃えて作るというのは並大抵のことではないです。もちろん精緻さだけが人形の善し悪しを決めるものではありませんけど。
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狐拳と藤八拳(東八拳)は、基本的なポーズ(型)... (るん馬)
2012-02-02 12:40:40
ご指摘にもある『東海道四谷怪談』の直助権兵衛、もしくはそのモデルとなった実在の藤八五文薬売りの「藤八、五文、奇妙」の掛け声を、一拳勝つと「藤八!」、続けて二拳勝つと「五文!」、そしてさらに三拳勝つ(三拳連取する)と「奇妙!」といった具合に、拳に取り入れたのが「藤八拳」の名の由来なんです。
しかし、拳の型がコンパクトになっていくに従い、掛け声も「タチ、オモン、キミョ」へと縮まり、今では、一拳目を取った際の「タチ」しか残っていません。

藤八拳の発祥には諸説ありますが、確認しうる最古の資料は国芳による四枚続きの役者絵「当八五文 東八拳集」で、嘉永五年のもの。番付で一番古いのは武蔵野連の嘉永六年のものです。ペルリ来航の頃ですね。いずれも私のところにありますので、機会があったらご紹介したいと思います。
こうした物証などから、藤八拳の発祥は嘉永以前であることは確実ですが、ではどこまでさかのぼれるのかが問題です。
『藤岡屋日記』などの記述から、弘化四年に河原崎座で上演された舞踊「笑門俄七福」の中にでてくる「とてつる拳」が三すくみ系の拳の大流行を引き起こしたことが知られていますが、私は狐拳が藤八拳に進化したのもこの流行を受けてのことなのではないかと考えています。
ですので、藤八拳の誕生は、弘化四年(1847)~嘉永五年(1852) の間のことだと思います。幕末ですね。狐拳はそれよりも百年近く前からあります。

 余談ですが、藤八拳の誕生は今戸の招き猫の誕生と同時期ではありませんか? いずれも「藤岡屋日記」の記述や、国芳の錦絵などが根拠となっているのも面白いです。

 長々と失礼いたしました。
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