小捻と書いて「しょうねん」と読むのだそうで、有坂与太郎の戦前の著作の中に出てきます。その著作の中でも「小捻」の人形を今戸人形に含めて書いてあったり別枠で取り扱っていたりするので「今戸人形」の範疇に入れるかどうか人によって分かれるものでしょうが、個人的には今戸焼の人形のひとつだと思っています。
ご覧のとおり技巧を尽くした作りで、子供の遊び道具にしては高価だったろうと思いますし、飾ったものでしょう。
画像では4人しかいませんが、本来拳を打つ男性がもうひとりいるのです。何故か拳を打つ2人は愛嬌のある顔をしていて、ここにいないもう一人はしかめっつらをしているのです。(ところでこれは何の拳?狐拳でいいのでしょうか?)奥の若旦那の右手が損じていますが、左のお酌から盃を受けているところです。これと同じ組み合わせの人形の組みは戦前の西沢笛畝著の「玩具叢書」?だったかという本に白黒画像に小さく載っていて、解説では「待乳山辺りで作られていた」と書かれています。捻りの人形といっても頭や胴の芯、小さなパーツそれぞれは型抜きして、合成してあります。袖の細部などは当然捻りで調節して作ってあります。全てはじめから手捻りでは規格を合わせて生産できません。
以前、吉徳資料室のHさんとお話していて、この手の人形のことに及んだのですが、昭和40年代くらいの本で「日本の古人形」という藤沢の時計屋さんの旦那さんが自分のコレクションを出版している本に出ていると聞きました。その本わが家にもあったのですが、見落としていました。掲載されているのは吉原の大晦日の「狐舞」のような人形のセットなのですが「人徳」の作であると解説されています。技巧的にも同じ作者だと思います。「人徳」なる名前は他の本で読んだことがなかったので、どういう人かとずーっと考えていました。(わが家には玩具関係の古書はそんなにないのです。)
その後、図書館で明治10年に出版された上野の内国勧業博覧会での受賞者についての記述の「第二類 焼窯術上ノ製品」「二區五類」という項目の中に「花紋 土偶人 淺艸東仲町 小捻徳次郎 教育ノ用ニ適セズ價モ亦不廉ナレドモ全ク土ヲ揑リ製シ出スハ蓋シ其類少ナキ者」というのを目にしました。「人徳」と「小捻 徳次郎」は同一人物ではないかと思うのです。博覧会にどのような作品を出品したかは知る術もないですが、江戸ッ子好みの粋な人形だったのでしょうか?だとすれば、当時の世相でいうところの教育的ではないというコメントがされても仕方ないと思います。値段も高いが土でこうしたものを作りだす技術は大したものだということでしょう。
こんな人形を作れたらすごいと思いますが、私には修業不足でまだまだ無理です。
これまた前述の通り、東八拳は一対一で行うものなので、狐拳と違って拳を打つ人形なら二対一組でよいのです。したがって、奥の若旦那はおっしゃるように拳を打っているのではなく、お酌してもらいながら拳を打つ人を眺めているのでしょう。
粋な感じで大人が欲しくなりますね。
しかし、拳の型がコンパクトになっていくに従い、掛け声も「タチ、オモン、キミョ」へと縮まり、今では、一拳目を取った際の「タチ」しか残っていません。
藤八拳の発祥には諸説ありますが、確認しうる最古の資料は国芳による四枚続きの役者絵「当八五文 東八拳集」で、嘉永五年のもの。番付で一番古いのは武蔵野連の嘉永六年のものです。ペルリ来航の頃ですね。いずれも私のところにありますので、機会があったらご紹介したいと思います。
こうした物証などから、藤八拳の発祥は嘉永以前であることは確実ですが、ではどこまでさかのぼれるのかが問題です。
『藤岡屋日記』などの記述から、弘化四年に河原崎座で上演された舞踊「笑門俄七福」の中にでてくる「とてつる拳」が三すくみ系の拳の大流行を引き起こしたことが知られていますが、私は狐拳が藤八拳に進化したのもこの流行を受けてのことなのではないかと考えています。
ですので、藤八拳の誕生は、弘化四年(1847)~嘉永五年(1852) の間のことだと思います。幕末ですね。狐拳はそれよりも百年近く前からあります。
余談ですが、藤八拳の誕生は今戸の招き猫の誕生と同時期ではありませんか? いずれも「藤岡屋日記」の記述や、国芳の錦絵などが根拠となっているのも面白いです。
長々と失礼いたしました。