「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

モーツァルトを聴いて免疫力を高めよう

2024年10月22日 | 音楽談義

今年の夏は大変な猛暑だったが、ご近所の方で「帯状疱疹」に罹った噂をちらほら聞く。

この病気はストレスなどで免疫力が落ちたときに発病するとされている。つまり、猛暑への対応で自律神経がおかしくなり免疫力が落ちたというわけ。

そういえば、ブログ主も現役時代のメチャ忙しかったときに「八方ふさがり」に陥ってしまい、「帯状疱疹」により1週間ほど入院のやむなきに至ったことがある。何しろ大好きな音楽でさえ聴く余裕がまったく無かったんだからね~(笑)。

というわけで、リラックスして免疫力を回復させるための音楽療法へと話を進めよう。

音楽といってもいろんなジャンルがあるし、作曲家にしても様々だが、取り分け「モーツァルトの音楽」に、より高い健康効果が認められるというのが次の本。

「モーツァルトで免疫力を高める、老化を防止する、快眠へといざなう!」(株)角川SSコミュニケーションズ刊

                                     

著者の
和合治久氏は埼玉医科大学短期大学教授、国際比較免疫学会アジア・オセアニア会長、日本比較免疫学会副会長、専門分野は免疫音楽医療学で日本における第一人者。

モーツァルトは自分も大好きな作曲家だが、聴いていて気持ちが良くなるから聴いているだけで、これまで健康効果を期待したことなんかないが、本書は医学的な見地からモーツァルトの音楽の魅力を解明しようと試みているのがやや新鮮で興味を引かれた。

以下、本書を引用させてもらおう。

モーツァルトの名曲になぜより高い健康効果が認められるのか、それは次のように判明している。

人間の意志とは無関係に作動する自律神経の中でも身体をリラックス状態に導く副交感神経を刺激する音の特性が豊富にバランスよく含まれている。

その特性を具体的に挙げると次の3点。

 音の高い周波数(3500ヘルツ以上の高音)がよく含まれている

 自然の音と同じ一定のリズムを保ちながら「変化のある音=”ゆらぎ”」に満ち満ちていること

 倍音(音と音とがぶつかり合ってさらに高い周波数になる)と呼ばれる音の特性が交感神経(ストレスなどを喚起する)の働きにブレーキをかけること

の”ゆらぎ”については、さらに解説が必要と思う。

たとえば、夏のひんやりしたそよ風は強くなったり弱くなったりする不規則性が人間の生体リズムと一致して涼しく感じるが、扇風機の風は人工的で一定の強さしか吹かないため心地よく感じず「その違い」とのこと。

この3点を基軸として本書は次により構成される。

第1章 なぜ病気になるのか? なぜ眠れなくなるのか?

第2章 なぜ、モーツァルトが効果的なのか?

第3章 モーツァルトが眠りにいいのはなぜ?

第4章 モーツァルト音楽療法の効果を高める聴き方

第5章 モーツァルト音楽療法Q&A

第6章 免疫力を高める、老化を防止する、快眠へと誘う!モーツァルトCD曲目紹介

このうち、特に興味をひかれたのが次の点。

☆ 聴覚は心臓が停止した30分後まで残っている感覚

人間は外部からの刺激を聴覚、視覚、嗅覚、味覚、触覚という五感でキャッチしているがその中で聴覚は最後まで生き残っている感覚で心臓が停止した後も30分間くらい働いている。したがって、意識のない病人の枕元で悪口を言ったりするのはとんでもないこと。(そんな人はいないだろうが・・・)

聴覚が休みなく働くことは(危機をいち早く察知するという点で)動物にとって極めて重要な機能で、五感全体が脳に送っているエネルギーのうち85%以上が聴覚によるもの。

☆ 音楽の周波数と脊髄の位置は対応関係にある

脊髄は頭頂から尾椎(尾てい骨)まで、ピアノの鍵盤のように並んでいて、周波数の違いにより反響する部分が異なる。
尾椎は250ヘルツ前後、腰椎は250~500ヘルツ程度、胃のあたりが1000ヘルツ、胸椎が750~2000ヘルツ、頚椎が2000~3000ヘルツ、延髄から上は4000ヘルツ以上で、高い周波数ほど脊髄の上の方に反響する。低い音がズーンとお腹に響くように感じるのもこれで説明がつく。


さて、第5章では、モーツァルトの音楽以外ではバッハにも同様の効果が認められ、さらに「グレゴリオ聖歌」にも”ゆらぎ”が豊富とのこと。楽器では、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、オーボエなどがそうで、ピアノの場合は背骨にツボ刺激を与えるような響きを持っている。

第6章では音楽療法の効果を高める曲目が具体的に10曲紹介してあった。

因みに、ブログ主が推奨する「これぞ癒しのモーツァルト」は、

ディヴェルトメントK136、ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K365、ヴァイオリン・ソナタ全曲、フルートとハープのための協奏曲、クラリネット五重奏曲、オペラ「魔笛」・・。

昨今の物価高や天候不順、さらには首都圏で相次ぐ強盗殺傷事件などで殺伐とした世の中になってきているが、日頃からモーツァルトを聴いて免疫力を高めましょうね~(笑)

                                                                                                   
 
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可哀想なモーツァルト

2024年10月17日 | 音楽談義

かって、「音楽家はオーディオに熱心ではない」についてブログに搭載したところ、「AXIOM80」の愛好家から次のようなメールをいただいたことがある。

「音楽&オーディオの小部屋」さんへ

「いつも楽しく愛読させていただいております。貴兄の飽くことなき音の探求にはひたすら敬服しております。私も復刻版とはいえAXIOM80を使っていますのでたいへん参考になっています。

このユニットは貴兄がおっしゃるとおり「低音をどうするか」が要諦ですので迷いは尽きませんね。が、なぜか、よく言われていますような「鳴らすのが難しい」とはあまり感じたことがありません。

要求水準が低いのかもしれませんが、素直な良いスピーカーだと思っています。

本題が後回しになってしまいました。

この度の「音楽家がオーディオに熱心でない理由」ですが、貴兄の箇条書きされた内容、また、メル友さんの「(ipodは)手がかりに過ぎない」は、なるほどと感心しました。

全て当てはまるような気がします。が、決定的なことが漏れているのではないかと思いました。

ここでの「音楽家」が「プロ」なのか「アマチュアにちょっとプラスアルファ」なのかわかりませんが私には「彼らには決定的に時間が足りない」のじゃないかと思います。

「人様が演奏しているのなんか聴いている暇があったら練習しなくてはいけない」のだと。

「1日でも練習をサボったらそれが聴衆にわかってしまう」と言ったのは、ピアニストの誰だったか・・・。晩年のホロヴィッツだったかもしれません。

卑近かつ低次元な話で申し訳ありませんが私も30代末から十数年間ピアノ教室に通いつつ練習していましたが趣味とはいえ発表会の前、数か月は余暇はすべて練習に費やしました。(それにしては「ヘボ」でしたが)

そんな私でも「一日でも練習をサボったら、二日分後退してしまう。」と脅迫観念に囚われたものです。

ましてや、プロともなれば1曲を仕上げるのに、数か月いや年単位でしかも1日じゅう寝食を忘れて練習が必要でしょう。そのプレッシャーたるや如何ほどのものか・・・。想像するだに恐ろしい。

たしか内田光子さんだったと思いますが「1日8時間は」とインタビュー記事にあったような記憶が・・・。

でも、この辺のプロ事情は文献などで貴兄の方がよほどお詳しいことと推察いたします。

また「音楽家」がiPODの音に”いい音ね”って簡単に感激するのは実は彼らなりのリップサービスで真意は「プロでないあなたたちこそ音楽をほんとうの意味で楽しんでいるのね!」ってことでしょうか。

私も先生から「生徒さんこそいろんな音楽を知ってて楽しんでるのよね~」ってマジで言われたことがあります。

そうなんです!彼らは自らが演奏するジャンル以外の音楽に関しては無知であることを強いられているのです。

しかも、最も多感な時期にず~っと。これも「決定的に時間が足りない」からでしょう。

また「彼らは客席でどう聞こえるかはあまり気にしていない」も、たぶん違うような気がします。

彼らの関心事はただただ「自分の演奏が聴衆にどう聞こえ、かつ訴えかけるのか」では、無いでしょうか。

何しろそれが「プロがプロたる所以」なのですから・・・。

ここでも「一日でも練習をサボったら聴衆にバレてしまう」という苦悩に満ちた告白が思い起こされます。

以上、一つの意見として気軽にお聞き流しくだされば幸いです。

たいへん失礼しました。」

以上のようにたいへん理路整然としたメールだった。さすがに「AXIOM80」の愛好家だけのことはありますな(笑)。

このブログの読者にこんなに高尚な方がいらっしゃるなんてまことに光栄の至りだが、その一方、これから下手なことは書けませんね~(苦笑)。

それにしても音楽家になら(れ)なくてよかった、肝心の音楽が楽しめないなんて何のことかわかりませんよねえ。

ふとモーツァルトの逸話を思い出した。

モーツァルトが死の床に就いていたときに、当時上演されて大当たりしていたオペラ「魔笛」に思いを馳せながら時計を見て「そろそろ夜の女王の出番だなあ。肝心のときに自分の才能をゆっくり楽しめないなんて情けない・・。」と、思わず涙したというもので、その代わりといっては何だが後世の人間が大いに楽しませてもらっている。

すべての芸術作品は創作者の犠牲の上に成り立っていると言えないこともないですね。

可哀そうなモーツァルト・・、あなたの血筋はすべて死に絶えているそうですが、それ以上の価値がある不滅の作品群を残されましたね・・、どうか安らかに眠ってくださいな。



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「クリエイティヴな演奏」って、いったい何?

2024年10月09日 | 音楽談義

ときどきメールをいただく方の中にジャズ愛好家の「I」さん(東海地方)がいらっしゃる。

傍(はた)から見るとクラシック愛好家とジャズ愛好家とでは「水と油」のような存在だろうが、何だか不思議に相通じるものがあるといつも感じている。

好例としてかって、次のようなメールをいただいたので勝手ながら紹介させていただこう。

「突然ですが、私のジャズの好みについてちょっと聞いてください。
 
最近、上村芳郎さんという哲学の先生が書かれている「村のホームページ」というブログに巡り会いました。
 
興味深い記事が多くあり、「村の茶屋・音楽の聴こえる喫茶店」の項でジャズについて述べられています。久しぶりに共感できるジャズ話に会ったという反面、そうでない部分も多くありました。まあ当たり前のことではありますが。
 
”村”さんに刺激を受けました。
 
私の好きなアヴァンギャルドなジャズについてです。
ふつう、アヴァンギャルド・ジャズというとフリージャズと相似的にとらえることが多いと思います。

私の場合は、フリー系の演奏が好きということはありますが、フリーとは無関係なマイルスやビル・エバンス等の演奏の中にもアヴァンギャルドは感じます。
 
どんなコンセプトに限らず、クリエイティブに向き合った演奏を、私の言葉でアヴァンギャルドと言っています。

そうなんです!これからは「クリエイティブなジャズが好き」と言います。
 
私がクリエイティブだと思う演奏・・・モンクとドルフィーとアルバート・アイラーは生涯に亘ってクリエイティブだったと思います。

オーネット・コールマンは1965年までクリエイティブだったと思います。

マイルスは、ご本人の演奏がクリエイティブだったのは、ウエイン・ショーターが参加する前までだったと思います。

ビル・エバンスはスコット・ラファロがいた時が正にクリエイティブだったと思います。

その他、ブッカー・リトル、ポール・ブレイ、アーチー・シェップ、ファラオ・サンダース・ジョージ・ラッセル・ジョージ・アダムス等々です・・・やはりフリーが多いかな(笑)
 
クリエイティブだと思わない演奏者

ホレス・シルバー、オスカー・ピーターソン、チック・コリア、キース・ジャレット、ハービー・ハンコック・・・ピアニストばかりだなあ(笑)
ソニー・ロリンズ、フレディ・ハバード、 その他フユージョン、クロスオーバーと言われる音楽をやる人達
 
なぜクリエイティブだと思わないかの理由ですが・・・。一口で言ってしまえば、いくら達者な演奏でも、「ハイ!一丁上がり!」を感じる演奏はご免です、ということです。

以上のとおりだが、演奏を聴きながらはたしてこれが「クリエイティブ」といえるのか、それとも「一丁上がり!」なのか、この辺の「微妙な差」を感覚的に嗅ぎ分けるのがクラシック、ジャズを問わず音楽愛好家の愛好家たる所以でしょうか。

これまで軽く100通以上のメールをいただいているので「I」さんの嗜好はおよそ把握している積りだが、想像するに「クリエイティブ」とはおそらく「創造的からもう一歩踏み込んで、演奏から感じる
思索的な余韻が後々まで尾を引くかどうか」ではなかろうかと勝手に推察している。

上記の演奏家の中で心当たりがある曲目としては「ソニー・ロリンズ」の「サキソフォン・コロッサス」ですかね。タイトルからして「コロッサス=巨大な彫像」だから気負ってます。

クラシックファンながら、この演奏にはある種の爽快感を覚えていたのだが、「I」さんから言われてみるとたしかに自己陶酔気味の演奏者による「ハイ!一丁上がり!」の感がありますね。

言い換えると、いかにも「どうだ、参ったか!」と「大見えを切ってくる演奏」・・。

まあ、こればかりは個人の受け止め方次第なので良し悪しとは別の話だが、この「大見えを切ってくる」演奏でふと思い出したのが五味康祐氏の「指揮者カラヤン」への評価だ。



「昔のカラヤンは素晴らしかった、それに引き換え今はすっかり堕落した」と遠慮会釈なく酷評する当時の五味さんの言い分はこうだ。(157頁:要約)

「カラヤンがなぜ低俗かを説明しておく。芝居を例にとると、下手な役者に限ってストーリーの高揚したドラマティックな場面にくると大見えを切り、どうだとばかりに力演する。

つまり低級な演技である。優れた役者はそういう場面ではむしろ芝居を抑え、さりげなく演じるから”いぶし銀”のように演技は光り、ドラマの感動も深い。

交響曲も似たようなもので何楽章のどの辺が劇的かは予め分かっている。それを大根役者のように大見えを切られたのでは聴く方はシラけるばかり。何と低俗な演奏だろうと思う。

第九の極めどころは哀切幽玄の極致とも言うべき第三楽章のアダージョと終楽章の歓喜の合唱だが、そのどちらでもカラヤンはまことに低俗な見栄ばかり切ったからいやらしい演奏と私は言う。昔はそうではなかった。

昭和27年に出た「魔笛」「フィガロの結婚」のカラヤンは素晴らしかった。以下略~」

さあ、「自家薬籠中」の「魔笛」の登場ですよ~(笑)。

カラヤンは魔笛を3~4回録音しているが、たしかに一番出来がいいのは最初の「昭和27年版=1952年版」だと思う。



王子役の「アントン・デルモータ」(テノール)の熱演が白眉だが、総じて出演者たちが伸び伸びと躍動している印象を受ける。

五味さんの説に引っ張られるわけではないが、
どうやらデビュー早々のカラヤンの初々しくて「クリエイティブ」に徹した姿勢が良かったような気がする。

芸術の分野において「権威と増長と大衆受け」が相関関係にあるとすれば、もう悲劇としか言いようがないが、その一例がこのカラヤンでしょうか。

当時長きにわたって帝王としてあれほど君臨したカラヤンなのに、「フルトヴェングラー」に比べると今やはるかに後塵を拝している所以もこの辺にありそうな気がする。

偏った見方かもしれないので、ほかに「ご意見」があれば歓迎します。

最後に、「クリエイティブ」な演奏についてネタを提供していただいた「I」さん、どうもありがとうございました。



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拒絶反応が起こる「押しつけがましい音楽」

2024年10月02日 | 音楽談義

現役を退いてからおよそ20年あまり経つのに、今でもがんじがらめに縛り付けられた思い出だけが残る37年間の宮仕え~。

その反動のせいか「自由を満喫する」、言い換えると「持っている時間を自由に使う」のが第一義なので、「押しつけがましいこと」にはことさら敏感になっている。

たとえば「強制」されたり、毎月定日定時に開かれるような催しなどは、もうそれだけで拒絶反応が起きてしまう~。

そういう視点からのアプローチとして、音楽にまつわるピッタリの文章がある。

「生きている。ただそれだけでありがたい。」(新井 満著:1988年芥川賞)の一節を紹介しよう。

                     

著者が娘に対して「自分のお葬式の時にはサティのグノシェンヌ第5番をBGMでかけてくれ」と依頼しながらこう続く。

「それにしても、何故私はサティなんかを好きになってしまったのか。サティの作品はどれも似たような曲調だし、盛り上がりにも欠けている。淡々と始まり、淡々と終わり、魂を震わすような感動がない。

バッハやマーラーを聴く時とは大違いだ。
だが、心地よい。限りなく心地よい。

その心地よさの原因はサティが声高に聴け!と叫ばない音楽表現をしているせいだろう。サティの作品には驚くほど音符が少ない。スカスカだ。

音を聴くというよりはむしろ、音と音の間に横たわる沈黙を聴かされているようでもある。
沈黙とは譜面上、空白として表される。つまり白い音楽だ。

サティを聴くということは、白い静寂と沈黙の音楽に身をまかせて、時空の海をゆらりゆらりと漂い流れてゆくということ。

毎晩疲れ果てて帰宅し、ステレオの再生ボタンを押す。サティが流れてくる。昼間の喧騒を消しゴムで拭き消すように。静寂の空気があたりに満ちる。この白い壁の中には誰も侵入することができない。白い壁の中でたゆたう白い音楽。」

以上、これこそプロの作家が音楽について語る、まるでお手本のような筆致の文章で、自分のような「素人」がとても及ぶところではない(苦笑)。

で、以前にもこの「お気に入りの文章」を紹介したことがあったが、メル友さんからすぐに反応があった。大のクラシック愛好家で奥様はピアノの先生。

「最近になって第4番から第6番の3曲が新たに発見されて全6曲であることがわかりました。

グノシェンヌはサティの作った造語とのことです。

ギリシャ神話のクノックス宮殿や、キリスト教以前から存在していた神秘の宗教団体”グノーシス派”におそらくは関係があるのではないかと云われています。(以上 小原 孝のピアノ楽譜より)

早速、家内に弾いてもらって聴いてみますとゆったりと柔らかな音ですね!

確かに葬式の時に合う音楽で私も葬式のBGM候補にしたくなりました!

ただ・・・。

文面の「沈黙とは譜面上、空白として表される」ここがどうしても気になります。

スラーの多いのに気付きますがどこに空白が・・・。ご参考までに譜面を添付します。」

   

以上のようなご指摘だったが、たしかに空白はないものの音符の数が少ないことが際立っているので、著者はその点を象徴的に「沈黙=空白」として表現したかったように思うのですがどうなんでしょう。

なお、同書の冒頭の文章の中で一番興味を惹かれたのが「声高に聴け!と叫ばない音楽表現」という言葉。

実際に「俺の音楽を聴け」と命令されているわけでは無論ないが、どうもそういう気配が濃厚に感じられる音楽がたしかにある・・。


たとえば、あの楽聖「ベートーヴェン」は「音楽は哲学よりもさらに高い啓示である、さあ私の音楽に耳を傾けなさい」と言ったが・・、若い頃は感動も ”ひとしお” だったけど、人生も後半になると何だかときおり「押しつけがましさ」を感じて気分的に重たくなることがときどきある。

たしかに「いい音楽」には違いないし、聴けば心を揺り動かされるんだけど、どうも進んで聴こうという気がしない・・、クラシック・ファンでそう思う人はかなりいらっしゃるのではなかろうか。

その点、究極の自然体の音楽スタイルとなると、やっぱり「モーツァルト」の作品に尽きるように思う。

あの「天馬(てんま)空を駆けるような音楽」・・、「声高に聴け!」と叫ばない音楽表現の極致だと思うのですがいかがでしょうか・・、「また我田引水か」と外野席からヤジが飛んできそうだが(笑)。 



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励まされる「音楽記事」を通じての連帯感

2024年09月26日 | 音楽談義

先日のこと、東北地方の方から実に ”ありがたくて、うれしくなる” メールが届いた。

ご本人の了解なしの掲載だが、匿名なので大目に見てもらうことにして、大要、以下のような内容だった。


「貴ブログを読んでオペラ”魔笛”(モーツァルト)を見直したくなり、わざわざプロジェクタを購入した。

所有していた”魔笛”は昔懐かしいレーザーディスクによるサバリッシュ指揮の1983年の録画で、10年くらい見る機会がなかったが、これからじっくりとオペラ鑑賞を楽しみたい。貴ブログのおかげでオーディオと音楽にやる気が復活してきた。」

こういうメールをいただくと、つくづくブログを続けていて良かったと思いますねえ~。

ブログを始めて19年になるが、大した内容でもないのにご覧になる方も随分増えてきてたいへんありがたいことだが、ときどき「自分はいったい何のためにブログを続けているんだろう」という思いが過(よぎ)ることがある。

まあ一種の惰性からくる倦怠期みたいなものだろうが、こうして「初心忘るべからず」という気持ちを想起させるメールをいただくと「よしっ、これからもがんばろう」という気分になる。

実を言うとこのブログを始めた動機そのものが、「魔笛」の素晴らしさを広く世に伝え、最終的には「魔笛」に魅せられた愛好者ばかりが集まった全国的な「魔笛倶楽部」を創ろうというのがそもそもの発端だった。

しかし、ブログを開始して3か月も経たないうちに「魔笛」に関する材料が種切れとなり、仕方がないのでオーディオや読書などの話題を盛り込まざるを得なくなって、いつの間にかブログの性格が変質してしまったというのが偽らざるところ。

いわば「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」というのかな~(笑)。

今や(自分のブログの)メインになっているのは「オーディオ」だが、たしかに面白くてたまらない趣味には違いないが、この分野には「お金に糸目をつけないご先達(せんだつ)」がそれこそ ”ごまん” と、いらっしゃるのを十分承知している(笑)。

正直言って、自分のような「ビンボー」で中途半端な人間が太刀打ちできるような世界ではないし、それに加えて人によって「好み」や「環境」があまりに違うので広く共感を呼ぶ話題としてはちょっと無理があるように思っている。

たとえば、自分がどんなに「いいシステムだ、いい音」だと力説しても、「私はラジカセやヘッドフォンで聴く方が好きです、箱庭の世界のような音が好きなんです」と言われればそれまでの話。

その点、あらゆる民族共通の言語ともいうべき音符の世界は共感できる幅が大きいのが利点。

「死ぬということはモーツァルトを聴けなくなることだ」と述懐した天才物理学者の「アインシュタイン」を始めとして、老いも若きも、貧富の差も、秀才も鈍才も関係なく、そして人種を問わず万人が同列に楽しめる趣味なんて、この世に音楽を除いてほかにあるんでしょうかね。


というわけで「オーディオ関係の記事」には「どうせ理解し合えないだろうけど・・」という虚しさがいつもつきまとっているわけだが、その点「音楽に関する記事」は読者と何かしらの共感を期待できるのがいいところ。

ちなみに、つい最近の「音楽記事」を5題ほど挙げると次の通り。

「愛聴盤の信頼性」「重さが浮かび、軽さが限りなく重い音楽」「ロザリオ・ソナタって知ってます?」「1日の始まりはバッハの無伴奏チェロ組曲から」「人間の生涯は真面目さと遊びからなる」

いずれも「アクセス」がオーディオ記事を軽く上回って「20%以上増し」だったのは特筆すべきことです!(笑)

つまり、記事を通じての「連帯感」となると「オーディオ」よりも「音楽」の方が上ということになりますね。


というわけで、これからもオーディオ関係はとにかく「ネタが豊富」なので頻繁に記事にするつもりだけど、そういうつもりで読んでいただくと非常にありがたいです~(笑)。



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愛聴盤の信頼性

2024年09月23日 | 音楽談義

これまで我が「愛聴盤」について勝手気ままに紹介してきたが、いくら自由にモノが言えるブログの世界とはいえあまり見当ハズレのことを言ってはまずいという良心はもちろん持ち合わせているつもり~(笑)。

たとえば、自分が貶した盤が他の高名な音楽評論家や音楽好きの作家から名盤だとされていた場合、自分の鑑賞力が正しいのかどうか、少しばかり立ち止まって考えざるを得ない。

もちろん「好き嫌いの世界」なので確たる物差しのない世界である・・、不屈の信念があれば歯切れのいい発言もときにはカッコいいのだろうが、常に自分の「ものさし」が普遍的なものかどうかを客観的に見る目はやはり必要だと思っている。

これはオーディオにも通じる話ですね(笑)。

そういう中で自分の鑑賞力がまともかどうかを推し測るまことに都合のいい本がある。中国古典を題材とする作家・宮城谷昌光氏の「クラシック私だけの名曲1001曲」(新潮社刊)である。



何しろ1001曲もの作品を試聴して感想を書いた本なので1020頁にも及ぶ分厚い本だが、「序」を読んでみると、CD6000枚を所有しその中から選り分けて1年半を費やして出来上がった本だという。

「クラシック入門書のつもりでは書かず、ひととおり名曲を聴いたあとに、クラシック音楽から離れてしまった人に読んでもらいたい。クラシック音楽は奥が深く、いわゆる名曲を聴いただけでは門をたたいたにすぎず、門内に入ったわけではない。」との著者の言がある。

さて、本書の内容だが同曲異種の盤をいくつか聴いて、最終的に「私だけの名曲」として気に入ったCD盤を紹介していくスタイルで進行していく。

なお、宮城谷さんの「私だけの名曲」という表現は「あくまでも自分の好み」ということであって他人に強制しない意味が込められているのはお察しのとおり。

1001曲もあれば当然、中には自分のブログ「愛聴盤紹介コーナー」で取り上げた曲とダブりがある。

調べてみると「田園」「ピアノソナタ32番」「ブラームスヴァイオリン協奏曲」そして「アルルの女」の4曲だった。

これは絶好のチャンス、宮城谷さんの愛聴盤と比べるいい機会~。


とにかくCD6000枚を聴き分けた宮城谷さんの鑑賞力がトップ・レベルなのは間違いあるまい。その宮城谷さんと自分を並べるのは誠におこがましいが、音楽鑑賞に垣根はないと思っている。非礼を承知で以下のとおり4つの曲目をピックアップして比較させてもらった。

☆ ベートーヴェン「交響曲第六番田園」

宮城谷さんの名曲:ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団

「この曲にある明るさは田園の光だけでなく、精神の不屈の光である。そういう具象性と抽象性を見事に描ききったのはワルター盤しかない。この盤と他の盤とは隔絶している。」

比較した盤 → トスカニーニ盤、ベーム盤。

そして、自分の愛聴盤:マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団

比較した盤 → ワルター、フルトヴェングラー、クレンペラー、ブロムシュテット、イッセルシュテット、ハイティンク、ケーゲル、ジュリーニ(2種類)、ジンマン盤計10セット

☆ ベートヴェン「ピアノ・ソナタ32番」

宮城谷さんの名曲:ピアニスト「ウィルヘルム・バックハウス」

「不思議な重みがある曲で澄んだ美しさと力強さ、それに回想的なやさしさも包含されている。バックハウスのピアノを聴いているとこの曲は良否を超越したところにあると思われてきた。作為をほとんど感じられないのも不思議で、要するにベートヴェンの存在だけを感じている。恐るべき演奏である。」

比較した盤 → ベレンデル、ブッフビンダー、キンダーマン、ポミエ、ハイドシェック、ウゴルスキ

そして、自分の愛聴盤:ピアニスト「ウィルヘルム・バックハウス」

比較した盤 → アラウ、グールド、リヒテル、ミケランジェリ、内田光子、ブレンデル、ケンプほか

☆ ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」

宮城谷さんの名曲:ヴァイオリニスト「ジネット・ヌヴー(イッセルシュテット指揮)」

「この曲に関しては、ヌヴー盤とオイストラフ盤を聴かずして語るなかれといわれている。そこから入り、そこに還る、というのが名盤であるが、この両盤がそれにふさわしいというのである。

まず手もとにオイストラフ盤が二つある。クレンペラー指揮とセル指揮のものだが、比較すると前者の方がよい。艶の点で優り,みずみずしさを感じる。ヌヴー盤はイッセルシュテット指揮のものでこの演奏は永遠に人気を保つような気がする。情熱のほとばしりを感じる。オイストラフとの比較ではヌヴー盤を上とする。」

比較した盤 → オイストラフ(2セット)、フランチェスカッティ、ハイフェッツ(2セット)

そして、自分の愛聴盤:ヴァオリニスト「ジネット・ヌヴー(イッセルシュテット指揮)」

比較した盤 → オイストラフほか6セット

☆ ビゼー「アルルの女」

宮城谷さんの名曲:マルケヴィッチ指揮 コンセール・ラムルー管弦楽団

「クリュイタンス、レーグナー、ビーチャム、マルケヴィッチの4つの盤が名演。すべてを買い揃えるべきだ。今の私はマルケヴィッチ盤ばかり聴いているので正直にそれを挙げた。」

そして自分の愛聴盤:マルケヴィッチ盤、オッテルロー盤、ケーゲル盤の3つで一つに絞り込むのは無理~(笑)。

比較した盤 → クリュイタンス、オーマンディ、デュトワ

以上のとおり、宮城谷さんの推す名曲とダブった4つの曲目すべてについて比較したが、そのうち3曲についての愛聴盤が完全に一致、違ったのは「田園」だけだが、それでも自分はワルター指揮を2番手にしていたので当たらずといえども遠からず~。

もちろんすべて有名な曲目であり定評ある名盤なので一致しない方がおかしい気もするが、結構、「正鵠」を射ており、自分の愛聴盤があまり偏っていないのが分かってひと安心~(笑)。

最後に申し添えます。

このところCDを聴くのが億劫になってきて、「リモコン」で簡単に聴ける「You Tube」が主流になってきた。


その中でよく聴いているのが「ジャズ・クラリネット奏者」の「アッカー・ビルク」(英国:故人)。

どこか哀愁を含んだクラリネットの豊かな音色にゾッコンで、自信を持ってお薦めできる演奏家です!

「ラ・パロマ」「The Shepherds Song=バイレロ」「Limelight」「Send In The Clowns」・・、名曲の数々。

もうジャズとかクラシックの範疇を越えていて、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」「クラリネット協奏曲」を彼の演奏でぜひ聴いてみたかったなあ・・。



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重さが浮かび、軽さが限りなく重い音楽

2024年09月18日 | 音楽談義

俳聖「芭蕉」に「命なり わずかの笠の 下涼み」(季語は笠)という句があるが、それをもじって「命なり ウォーキング後の 缶ビール」(季語はビール)(笑)。

今年は異常な猛暑だったが、ようやく次の3連休後くらいから涼しくなるみたいですよ。

さて、これまで50年以上にわたってモーツァルトの音楽を鑑賞し、同時に文献を読み漁ってきたので、自称「モーツァルティアン」としての自負心は誰にも負けないつもり~。

ん、「モーツァルティアン」って?

ほら、ワーグナーの音楽の熱狂的なファンを「ワグネリアン」と呼ぶが、それと一緒です。

で、先日出かけた図書館の新刊コーナーで目に触れたのがこの本。



著者の「
高橋英夫」さんといえばモーツァルトの愛好家兼研究家として名前だけはよく存じ上げているが、たしか10年ほど前にお亡くなりになったはずなので遺稿集のようだ。

「上から目線の物言い」になるが、モーツァルトに関して大概のことは把握しているので、どうせ目新しいことも書かれてないだろうから借りようか、どうしようか・・。

一応試しに本を取って「目次」をぱらぱらとめくってみたところ、「私のモーツァルト・ベスト5」という項目があった。

ウ~ム、どれどれ・・。

その人の好みの曲目を見れば、ほぼ「愛好度のレベル」がわかる。

で、その順位とは次のとおりだった。

1 「魔笛 K620」 ベーム/ベルリンフィル

2 「ヴァイオリン・ソナタ K526」 シェリング/ヘブラー

3 「交響曲25番 K183」 ワルター/コロンビアpo

4 「デュポールのメヌエットによる変奏曲 K573」 ハスキル

5 「春への憧れ K596」 シュワルツコップ/ギーゼキング

ウ~ム、「魔笛」が1位とは・・、お主(ぬし)なかなかやるな!(笑)

「クラシックの鬼」と称された「五味康佑」さんの「好きなクラシック・ベスト20」の中でも「魔笛」が一番だった。

ただし、魔笛以外の曲目はどうもベスト5に入れるほどではないように思える。

で、「それならお前のベスト5は何だ?」と訊かれたら次のとおり。

1位 「魔笛」 ハイティンク指揮/バイエルン放送交響楽団

2位 「ドン・ジョバンニ」 フルトヴェングラー指揮・ベルリンフィル

3位 「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K364」 五島みどり/今井信子

4位 「踊れ、喜べ汝幸いなる魂よ K165」 コープマン指揮

5位 「ディヴェルティメント K136」 コープマン指揮

3位以下は、その日その時の気分次第によるところが多いけどね~(笑)

モーツァルトの音楽にほんとうに親しもうと思うのなら第一にオペラでしょうよ・・、それには「魔笛」と「ドン・ジョバンニ」は絶対に外せない。

ある専門誌に「どうしようもないモーツァルト好きはオペラ・ファンに圧倒的に多い」とあったが、まさにその通りだと思う。

とまあ、いろいろ言ってみても高橋さんが「魔笛」を1位に推されるとは一目置きたくなるし、うれしくなったので借りてじっくり読むことにした。

以下、記憶に残った個所を記録しておこう。

173頁「私の実感ではモーツァルトはどんな気の合った仲間でも、いかに親密な相手でも人と一緒になって心を合わせて手と手を握り合って聴く音楽ではない。ひとりで聴く音楽、それがモーツァルトの音楽のように思われる」

※ これには思い当たる節が大いにあります。オーディオ仲間と試聴するときに自宅であろうと相手宅であろうとモーツァルトを聴くのはどうも気が進まない。なぜだかわからないが、自分だけの殻の中にひっそりと閉じこめておきたい音楽なのだろうか・・。

201頁「もっとも短くて見事なモーツァルト論は僅々600字余りからなる林達夫の「遊戯神通(ゆぎじんつう)の芸術」という文章である。

これは中央公論社から出たレコードの「モーツァルト大全集」の内容見本に寄せられた推薦文だが、林達夫が現代芸術批判から入っていって、一息でモーツァルトを言い切っているのに感嘆する。

だがこの文章は単行本に入っていないので断念し、代わって西欧人が達成した見事な典型としてカール・バルトの本を挙げてみることにした」


202頁「神学の大家バルトは毎朝まずモーツァルトを聴き、それから神学の著作に向かうと述べていたし、”重さが浮かび、軽さが限りなく重い”のがモーツァルトだとも言っていた」

※ 不世出の天才「モーツァルト」の音楽に対して各人各様の想いがあると思うが、彼の音楽を解くカギは「天馬空を駆ける」ような疾走(軽さ)、そして「涙が追い付かない悲しさ、はかなさ」(重さ)を感じとれるか否かに尽きると思っている。

で、この程メル友の「K」さん(横浜)から「カール・バルト」の本を借りる運びとなりました! 今週中に到着の予定です。

211頁 「先生は弦の組み合わせの曲がお好きなんじゃないですか」と訊かれた評論家小林秀雄はこう答えている。

「そうかもしれないね。カルテット、クィンテットに好きなものが多いな。変わったものじゃヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲など好きだなあ、弦楽器というのは本当に人間的な感じが強いものだ。それにくらべてピアノは機械的すぎるんじゃないかな」

212頁「僕(作家:大岡昇平)はモーツァルトが好きなことで人後に落ちないつもりである。個人的にはヴィオラの入ったK364がどうも好きだ。昭和12年ごろ、コロンビア盤をすり切ってしまったことがあるが20年経った今日でも趣味は変わらない」

稿を改めて「一番よく聴くのはK364である。初めて聴いたのはコロンビアの10インチ盤で緑のラベルが貼ってあった。演奏は忘れたがヴィオラはプリムロースだったはずである。これは小林秀雄が持っていた盤で、毎日少なくとも一度聴いていたらすり切れてしまった。(そのころ私は蓄音機を持っていなかったので毎日鎌倉の小林さんの家へ行って聴いたのである)」

※この曲目「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K364」は自分でもベスト3にあげているほどで大岡さんとはとても気が合いそう~。

とまあ、以上のとおり小林さんや大岡さんなどかっての文壇の大御所たちのモーツァルトへの傾倒ぶりを知ることができて本書は予想以上の収穫だった。

しかるに、現代の作家たちや評論家たちから「モーツァルト礼賛(らいさん)」があまり聞こえてこないのは淋しい限り~。

一般人ならともかく、「美意識」を生業(なりわい)としている人たちなんだからもっと多く居ても不思議じゃないと思うんだけどなあ・・、あの村上春樹さんでさえモーツァルトは分かっていないみたいだし、ま、仕方がないかな(笑)。



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「ロザリオ・ソナタ」って知ってます?

2024年09月08日 | 音楽談義


近年になって、クラシックが尊ばれた古き良き時代の名盤が次々に復刻されているが、その中から60枚余ほどの曲目を紹介した本がこれ。

指揮者「フルトヴェングラー」の名演を皮切りに、過去の名演奏家がズラリと登場する。

もちろん、当時の演奏を録音する機材はお粗末なものなので、音質に期待するのは はなっから
 無理というもの、真摯に音楽性だけに耳を傾けるタイプの人向きだといっていい。

言い換えると、「真のクラシックファン」向きかな~(笑)。

こういう音質のハンディを抱えた中で、「この曲を聴いてみようか」という気を起させるのは並大抵のことではないと思うが、つい「迸(ほとばし)る熱意」に胸を打たれた解説の曲目があった。

ちょっと抜き書きさせてもらおう(103頁)。

「ようやくこの日がきた。アリア・レーベル第100弾。タイトルはずっと前から決まっていた。というか、このアルバムしかなかった。ズサーネ・ラウテンバッハーが(ヴィオリンを)弾く、ハインリッヒ・ビーバーの ロザリオ・ソナタ。

お墓に持っていく10のアルバムというのは少しずつ決まってきているが、天国か地獄の門番に「一つだけ」と言われたら・・、このアルバムになる。許されるなら、このアルバムだけは持っていかせてほしい。

今回復刻するにあたって、復刻担当のARDMOREの社長に言い続けた。”俺たちが死んでもこのアルバムは残り続ける。そのつもりで復刻して欲しい”」~以下略~。

まるで、あの音楽評論家「宇野巧芳」さん(故人)を彷彿とさせますね(笑)。

まあ、こういう書き方をされると「ロザリオ・ソナタ」を聴きたくなります
よね~

どういう作曲家とか、曲目の解説などは「グーグル」にお任せしましょう。

さっそく、「You Tube」で検索して聴いてみたが、ヴァイオリニストの「ラウテンバッハー」の演奏は見つからなかったものの、他の演奏家たちのは雲のように湧き出てくるのに驚いた。



結構、有名な曲みたいですよ~。

じっくりと耳を傾けてみたが、なんだかバッハの音楽を聴いているような気がしてきた。「神への信仰」なくては聴けないような音楽だと思うが、なかなか敬虔な気持ちにさせられて、つい聴き耽ってしまった。

興味のある方は「ご一聴」をお薦めします。

関連して・・、「パレートの法則」ってのがありますよね。別名「2:8」の法則とも言われている。

たとえば、


☆ 普段着ている服の80%は、持っている服のうちお気に入りの20%である

☆ 部屋で過ごす時間の80%は、部屋全体のスペースの20%の場所を使用している

☆ 1冊の本に書かれている内容の80%は、20%読めば理解できる

☆ 家庭における支出の80%は、20%の項目に集中している

で、このブログへの訪問者はおよそ一日「1000人前後」である。そのうちの2割の訪問者の200名がこの「ロザリオ・ソナタ」に興味を持って聴いてみたとする。

そして、そのうちの2割の40名がこの曲を気に入ったとしよう。

結局、40名の方の「レパートリー」にこの曲が入ってくれれば、このブログの狙いは達したも同然といえます・・、そんなに都合よくいくかなあ(笑)。




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一日の始まりはバッハの「無伴奏チェロ組曲」から

2024年09月05日 | 音楽談義

このブログで、たびたび「バッハの音楽はどうしても馴染めない」と、嘆いているのをお気付きだろうか・・、ところが、どなたかのメル友さんから「マタイ受難曲などの重たい曲ではなくて、比較的軽くて親しみやすい曲目からバッハの森に入ったらいかがですか」というご親切なアドバイスがあった。

なるほど・・、それもそうですねと、「You Tube」で「無伴奏チェロ組曲」を聴いてみたところこれが大当たり~、すっかり嵌ってしまいました(笑)。バッハにしてはまったく線香臭くないのがいちばん~。



「おいおい、お前はクラシックファンを標榜しておきながら、今さら(あの有名な)無伴奏チェロ組曲か」と、お叱りを受けそうだが、これまでじっくりと腰を据えて聴く機会がありませんでした・・、と言いたいところだが、もちろん言い訳にはなりませんよねえ(笑)。

「歳とともに音楽の嗜好が変わる」のがいちばんの理由かもしれないですね。べートーヴェン、モーツァルト、そしてバッハの順・・。

で、当然、CDも持ってるんだけど、どうしても手っ取り早くリモコン操作で済む「You・・」へ手が伸びてしまう~。



名演中の名演とされる「カザルス」盤、そして「ロストロポーヴィッチ」盤だけど、ほら「悪貨は良貨を駆逐する」(笑)。

チェロの魅力~、音楽の三要素である「旋律(メロディ)、リズム、ハーモニー」とはまったく無縁だけど、滔々たるチェロの雄大な響きにすっかり胸を打たれてしまった。

手元の資料によると、チェロの周波数帯域はおよそ「70ヘルツ~1万ヘルツ以上」となっており、ちなみにヴァイオリンはといえばおよそ「170ヘルツ~1万ヘルツ以上」となっており、ローエンドが100ヘルツ違うことになる。

この差は大きいと思う。同じバッハの「無伴奏ヴァイオリンソナタ」を聴いているとあの「AXIOM80」で聴いてさえも、(低音が出ないアンバランスのせいで)何だか耳が疲れてきてしまう~。

つまり100ヘルツ前後の胴鳴りがチェロのたまらない魅力の根源ではないかな・・。

ちなみに、70ヘルツからの再生帯域となるとどんなスピーカーでも守備範囲となってくれるところが非常に好ましい。

試しに、3系統のスピーカーで聴いてみたが、違和感がなくすべて合格の範囲だった。巷間、いちばん好ましいと思われるのは「ウェストミンスター」だろうが、それほどの変化は無かった。



ただし、一点だけ・・、それはアンプのボリュームを絞ったときに「音が痩せない」ことで、結局大きな箱によって低音域がカバーされていることに尽きる。

猛暑が続く夏のこと、早朝からエアコンを入れるのは不健康なので窓を開け放して聴くわけだが、隣近所の迷惑になると拙いので必然的にアンプのボリュームを絞って聴くことになるが、そういうときに「ウェストミンスター」の威力が発揮される。

それでも、豊かなチェロの響きが外部に向けて浸透せざるを得ないが、家人のウォーキング仲間から「とても素敵な音楽ですね!」と、お褒めの言葉があったそうで、「やっと公認されたか!」と、つい嬉しくなった(笑)。



我が家から徒歩2分ぐらいの所に観光名所「別府湯けむり展望台」(市営)がある。終点の「鉄輪」(かんなわ)バス停から徒歩10分ぐらいの位置だが、外人さんが我が家の前をときどき通りかかっているのをよく見かける。

で、ドイツの旅行者あたりがこのチェロソナタを漏れ聞いて、「まさか東洋の片隅の別府でバッハの音楽を聴こうとは思わなかった」と、感心してくれると「国際親善に一役立てるんだけどなあ~」と、夢は果てしない~(笑)。

とまあ、それはさておき「チェロソナタ」を聴いていると、「これぞ音楽だ!」と深遠で豊かな気持ちになること請け合いです。

まさに、一日の始まりに相応しい音楽だと思いますよ。

皆様もいかがでしょうか~。



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人間の生涯は「真面目さ」と「遊び」からなる

2024年08月31日 | 音楽談義

「人間の生涯は“真面目さ”と“遊び”から成る。この二つのバランスの取り方を知っている者こそが、最も賢明なる者、最も幸運な者と呼ばれるにふさわしい。」(ゲーテ)

いきなりこういう文章で始まるのが「ギャンブラー・モーツァルト」~遊びの世紀に生きた天才~(ギュンター・バウアー著)。

ちなみに、自分のように「遊び」の方が大きな比重を占めている人間は、とても賢明とはいえないが、不幸な人生だったとは思っていない(笑)。

                 

さて、本書は431頁にわたって細かい文字がビッシリ詰まっており、よほどのモーツァルト・ファンじゃないととても読む気が起こらないに違いないが、ザット、ひと通り目を通してみたがこれはこれでたいへんな労作だと思った。

本書のテー
マは「ゲーテが語ったような意味でモーツァルトははたして幸運な人間であったのだろうか、生涯を賢く生きたのだろうか。別の言い方をすれば“音楽への真面目さ”と“遊び”の魔力との間でうまくバランスをとることが出来たのだろうか」に尽きる。


結論から言えば、モーツァルトは35年という短い生涯(1756~1791)において600以上にもわたる膨大な曲を作ったにもかかわらず、あらゆる遊びを楽しんでいたことが分かった。きっと人生を大いに楽しんだに違いない。

たとえば遊びの種類を挙げるだけでも第一章「射的」、第二章「カードゲーム
」、以下「ビリヤードと九柱戯」 「パーティゲーム」 「言葉遊び」 「お祭り、舞踏会、仮装パーティ」 「富くじ」と実に多種多様なものが(章ごとに)詳しく紹介されている。


「楽想は奔流のように現れて、頭の中で一気に完成します。すべてのものが皆一緒になって聞えるのです。まるで一幅の美しい絵を見ているみたいです。後で作曲する段になると、脳髄という袋の中からこれらを取り出してくるだけです。」(小林秀雄著「モーツァルト」)

モーツァルトの音楽がロジック的に解明できない原因を、驚くべき率直さとシンプルさでもって(モーツァルトの手紙の一節)語られているが、こういう天性の才能に恵まれた音楽家だからこそ時間に余裕ができて沢山の遊びを楽しめたに違いない。

つまり、逆説的に言えば「仕事の処理能力が高い者ほど遊びも楽しめる」と解釈できる(笑)。

モーツァルトは手紙魔だったらしく、(当時は唯一の通信手段だったので当然だが)、父や妻、姉、友人たちに宛てた膨大な手紙が「モーツァルト書簡集」として残されており、これからの引用が本書の全編にわたって多様に駆使されていて、読んでいくうちに自然にモーツァルトの人間像が浮かび上がってくる。

映画「アマデウス」にも描かれていたようにモーツァルトは通常の市井の人間と何ら変わりなかったが、あまりにもありふれた人間像とあの神々しいほどの輝きを放つ作品との落差がとても印象的だった。

さて、本書の中で頻繁に登場するのは教育魔だった父親(レオポルド)だが、姉のナンネル(二人姉弟)も負けず劣らずの頻度で登場する。幼い頃に彼女と一緒に興じた“遊び”はモーツァルトの生涯に大きな影響を与えた。

そのナンネルを主人公にした映画が光テレビで放映されたので録画して、このほど観賞してみた。「ナンネル・モーツァルト~哀しみの旅路~」

                    

フランス映画だそうで、折角取り上げたのだから「絶賛!」といきたいところだが個人的には「?」だった。

「弟モーツァルトに劣らないほどの才能に恵まれたナンネルだったが、女性に生まれたばかりに作曲を許されず、ソロ活動もできなかった。時代に恵まれなかった歴史上のヒロインに光を当ててみた。」というのが趣旨なのだろうが、どうもピンとこなかった。女性が観ればまた別の感想があるのかもしれない。

最後に、最愛の姉ナンネルの結婚に当たり、彼女に宛てたモーツァルトの天真爛漫な手紙を同書の中から紹介しておこう。(298頁)

「それではウィーンからザルツブルグへ、1000回の祝福を送りましょう。お二人が私たちよりも幸せに暮らすことが出来ますように。お、お、おっと、詩でいっぱいの頭の中の引き出しから、ちょっとした文句が出てきましたよ。ではご静聴。

結婚したら沢山のことが分かります。これまで半分謎だったことも経験すればわかるのです。エヴァがその昔カインを産むためにしなければならなかったこと。しかし姉さん、この結婚のお務めをあなたは喜んで果たすでしょう。ぼくを信じて、少しも辛くはないのですから。

でも物事には表と裏が、結婚だって同じこと、楽しみもあれば苦労もある。彼が険しい顔をしていても、心当たりがないならば、勝手に不機嫌になっているだけ。男の気まぐれと思えば良し。そして彼に言いましょう。“旦那様、昼間はあなたのお好きなように。でも夜は私のものよ”」~あなたの誠実な弟 W.A.モーツァルト

いやはや・・・(笑)。



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マーラーの音楽からジャズとクラシックの再生を問う 

2024年08月27日 | 音楽談義
先日のこと、メル友の「I」さんから興味深い内容のメールが届いた。

ちなみに、ブログで情報発信をやってると全国各地からメールをいただくがず~っと継続して長続きしているのは「I」さん(東海地方)、「K」さん(横浜)、そして南スコットランド在住の「ウマさん」だけなのはちょっと淋しい(笑)。


「〇〇様にクラシックの話を持ち出すのは、ケンカを売っている(笑)ようなものですが、ご意見を聞かせていただけましたら幸いです。
 
当方、実は、マーラーが好きです。マーラーの交響曲を聴いていると、巨大な室内楽を聴いているような気分になります。なぜ室内楽のように聴こえるのか。よくわかりませんが、たぶん、指揮者なしで、奏者の間合いで演奏する方が合っているような気が・・・。
 
普段そんなふうに思っているところへ、先月NHKTVで、交響曲第4番室内楽版の放送がありました。演奏者はパリ管弦楽団&紀尾井シンフォニエッタ東京の10人編成です。室内楽版があったんだ!!
 
演奏は素晴らしかったです。初めは、やはりバイオリンとビオラはもう少し人数がほしいかなとも感じましたが、聴いているうちに「そんなことはない、これでいい」と納得できました。
 
その後、FMでも同じコンサートの放送がありました。音を比較してしまいました。どちらかと言えば、FMの方が好きな音ですね。今のTVやFMの放送は、マスターはデジタルとアナログどっちなんでしょうか。その後、DA、ADの変換はどのようになっているのでしょうか。知る術もないところですが。
 
ということで、マーラーの室内楽版についてどう思われますか。また、1番と4番はともかく、マーラーの交響曲はなぜあんなに長いのでしょう。長いことに必然性はあるのでしょうか。(音楽家の失業対策?失礼!)

というわけで「盲目蛇に怖じず」とばかり、次のように返信した。

「いつも当方の拙いブログに付き合っていただきありがとうございます。
そこでマーラーの話ですが・・。過去に好きになったこともありますが以下はあくまでも「現時点」での個人的な意見です。

マーラーは元々指揮者として大成した音楽家ですが、作曲の方はイマイチだと思ってます。ま、モーツァルトなどに比較すればの話ですが・・・。

大編成の曲目が多いのですが、それに意味があるのかなと思ってます。むしろ中身の薄さをカバーするためにコケオドシ的な要素もあるのではないかという気がします。ちょっと辛口ですが~。また、ときおり魅力的な旋律が出てくるのですがどうも部分的で持続しません。

また長さの方もこれまた大編成と同じで必然性があまり感じられません。

したがって私には縁の薄い作曲家だと思ってます。ただし、「大地の歌」の最終楽章にはいつも胸を打たれます。この曲にはずっと以前のブログ「大地の歌8枚の試聴盤」(2009.11.28)に記載したことがあります。

これに対して「I」さんからご返信がありました。

「ご回答ありがとうございました。早速「大地の歌」を聴きなおしました。(バーンスタイン・ウィーンフィル・キング・ディースカウ)
この曲は最終楽章だけでもひとつの作品として充分ですね。ということは、全楽章の作品としての在り方・必然性が薄いということにもなります。
 
今回、お話を伺って、なぜマーラーの交響曲を巨大な室内楽と感じてしまうのか、理由が少し見えてきました。
素晴らしい素材を内包している割には、交響曲としては構成に難がある(失礼!マーラーさん)ということでしょうか。
そこで、演奏家に素材を生かして欲しい・・・「室内楽」を聴きたい、となってしまうようです。
 
似たようなことを、チャイコフスキーにも感じます。また、パガニーニに対しては、誰もが思うことではないでしょうか。
もっとも、パガニーニの5番・6番の協奏曲のオーケストレーションは後世の作曲家の手によるもののようですが、あまり良くないですね。オーケストレーションには大変な才能が必要ということでしょう。
 
以下は、門外漢であるジャズファンの、世間知らずの戯言とお聞き流しいただきたいのですが、現代作曲家は、オリジナルの作曲もいいけれど、古典のアレンジをもっとしてみたらどうかと思います。
 
ジャズやポップス風ではなく、クラシック音楽の現代の技法を用いてです。新たな楽しみが生まれると思います。私が知らないだけで、音楽界では行われているのかも知れませんが。
 
今回はありがとうございました。クラシックには「曲」と「演奏」という2面があるのでまだ嗜好が分散していいのですが、ジャズでうかつにこのような嗜好をいうと、人間関係が悪くなりかねません。ジャズには演奏=演奏者しかありませんので。」

稀代のジャズ愛好家「I」さんからは、いろいろとご示唆をいただくことが多い。

たとえば、ジャズとクラシックの再生の違いについて、前者では「力感と勢い」が重視され、後者は「ハーモニー」が重視されるので、両者に対してオーディオ的には異なるアプローチが必要だと気付かされたのもその一つ。

ジャズの再生は「何でもあり」のようでオーディオ的には欠点になるところが聴感上ではむしろ長所になったりして、「個性」という言葉で片付けられるところがとても便利~。

その一方、クラシックの再生となると人間の耳は押しなべてハーモニーの違和感にはとても敏感に感じやすいので、家庭で十全に聴こうと思ったら、まずは泥沼の世界を覚悟しなければならない。

こんなことを書くとジャズ・ファンから盛大なバッシングを受けるかもしれないですね~。

最後に、ときどきですけど「クラシックもジャズも両方いける!」という二刀流のシステムに出会うこともありますので念のため(笑)。



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「現状に飽き足らない貪欲さ」が左右するものとは

2024年08月14日 | 音楽談義

先日のこと、NTTの光テレビ「時代劇専門チャンネル」で黒沢明監督の名作「七人の侍」を放映していた。

過去、何度も観た映画だが今回もつい惹きつけられてしまい、3時間半もの大作を一気に見終った。いやあ、とても面白い!

映画に求められるあらゆる要素がびっしり詰まっていて、改めて黒沢監督(故人)の偉大さに思いを馳せたが、折しもBS放送の「昭和偉人伝」(1時間もの)で黒沢監督特集をやってた。

その中で「七人の侍」の製作裏話が披露されていたが、当時の俳優陣で最後まで生き残られた「土屋嘉男」さん(現在では故人)が出演されていた。

妻を野武士にさらわれた苦悩を一身に背負う難しい役どころで、百姓の中で武闘派の急先鋒となっていた「利吉」の役柄である。

この番組の中で黒沢監督の映画につきものだった俳優「三船敏郎」(故人)と同監督との訣別に至った理由などが明かされ、興味深い話が満載だった。

それはそれとして、ここで話題にしたいのは芸術家にも二つのタイプがあるようで、年齢を重ねるにつれて才能をますます開花させる「才能昂進型」と、一方では才能がますます朽ち果てていく「才能枯渇型」とがあるように思える。

たとえば、後者の例として挙げられるのが冒頭の「七人の侍」だ。見終ったときに「こんな完璧な作品を若い頃に作ったら後が大変だろうなあ」というのが正直な感想だった。

事実、黒沢監督は以後、この作品を越える映画を作れなかった(と思う)。後年の映画にはいずれも緊張感の持続性というのか、根気が続かない中だるみの印象を受けるのは自分だけだろうか。

晩年には「自殺未遂」騒ぎまで起こしているが、理由はいろいろあろうが、この才能の「枯渇現象」が一因であったことは想像に難くない。

芸術家にとって「命」ともいえる閃きが加齢とともに失われていく苦しみと悲しみは自分のような凡人にはとても想像がつかないが、一方では加齢とともにますます才能を開花させていく芸術家だっている。

江戸時代の浮世絵師「葛飾北斎」がそれだ。今や「神奈川沖浪裏」に代表される「富岳36景」などで世界の「北斎」になっている。

    

88歳という当時ではたいへんな長生きの生涯だったが「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」とある。

死を目前にして、現状に満足しなかったその意気たるや凄い!

作曲家モーツァルトも35年の短い生涯だったが、わずか10代の頃にあれほど優れた作品を残しておきながら益々才能を開花させていき、とうとう亡くなる年に作曲したオペラ「魔笛」が彼の生涯の集大成となる最高傑作となった。

はたして最高傑作かどうか、論議がいろいろあろうが文豪「ゲーテ」や楽聖「ベートーヴェン」が最高傑作だと言ってるのだからそう決めつけてもおかしくはないだろう。

その一方、作曲家でも「才能枯渇型」が居ることはいる。それは北欧フィンランドが生んだ国民的作曲家「シベリウス」(1865~1957)。

とても長い生涯だったが、40歳ごろを境にプツンと才能が切れてしまった。ご本人の慟哭たるやいかばかりかと思うが、92歳まで生きたのだから過去の栄光にしがみつきながら意外とのんびり余生を送ったのかもしれない(笑)。

以上、こうしてみると「才能枯渇型」と「才能昂進型」の二つのタイプの芸術家を分かつものはいったい何だろうか?

もちろん、持って生まれた資質もあるんだろうが、意欲というか向上心とでもいうか、どうも根っこには「現状に飽き足らない貪欲さ」があるような気がしてならない。皆様はどう思われますか?

文豪「森鴎外」の名作「高瀬舟」には「罪人・喜助の 足るを知る ことの崇高さ」が見事な筆致で描かれているが、こと芸術に関しては「足るを知らない貪欲さ」が必要なのかもしれない。

オーディオもしかりだと思うが、ちょっと手前味噌かな~(笑)。

それはさておき、前述のシベリウスには代表作として「ヴァイオリン協奏曲」がある。彼の才能がプツンと切れる前の37歳の時の作品である。

           

上段左から順に「ジネット・ヌヴー」盤、「カミラ・ウィックス」盤、「ダヴィド・オイストラフ」盤、下段左から「ヤッシャ・ハイフェッツ」盤、「サルヴァトーレ・アッカルド」盤、「ヒラリー・ハーン」盤の6枚。

この曲の聴きどころは「北欧フィンランドのリリシズム、透明な抒情とほのかな暖かみ、強奏するときのオーケストラが常に保持する暗い、激しい響き。これらはシベリウスの音楽を愛する者を直ちにとらえる要素である」(小林利之氏)だそうだ。

この中で一番好きなのは「アッカルド」盤でオケの指揮がコリン・デーヴィスだが、シベリウスには定評のあるところでたしかに申し分のない演奏とお見受けした。

ヌヴー盤もさすがで、第二楽章はダントツといっていいくらいだが、もっと録音とオケが良ければ言うことなし・・、惜しい。

カミラ・ウィックス盤は、シベリウスが存命中に「これが一番私の作曲の意図を再現している」と作曲家ご本人が推奨した曰くつきの演奏だが「老いては駄馬」(失礼!)だった作曲家の言うことにしばられる必要はないだろうと、それくらいの印象だったけど、あの五味康佑氏さえもが名演奏として挙げられているので、おいらの鑑賞力不足なのかなあ~(笑)。

オイストラフ盤とハイフェッツ盤は巨匠同士だが何だか新鮮味に乏しい。

最後のヒラリー・ハーン盤は期待したほどではなかった・・、「プレイズ     バッハ」でたいへんなテクニックを披露したものの、同時に若さを露呈した感じのハーンだが、この盤でも まだまだ の感がする。

後年のブルッフのヴァイオリン協奏曲の方がずっといいと思うのは自分だけだろうか。

ただし、未完の大器の雰囲気を感じさせるところがあるのはさすがで、それには、主たる活動拠点をアメリカからクラシックの本場ヨーロッパに移した方がいいと思うが、これは素人風情の余計なお世話かもね~(笑)。



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生命の暗号を聴く

2024年08月12日 | 音楽談義

通常、音楽の効用といえば、ストレス解消や癒し、あるいは精神の高揚などが言われているが、それ以外にもたとえば乳牛にモーツァルトの音楽を聴かせると乳の出が良くなったとか、あるいは酒の酵母を活性化させて発酵を促進するなどの不思議な現象の話も散見する。

その因果関係については科学的な根拠がハッキリと示されたわけでもないので「偶然の産物」とか「眉唾モノ」という受け止め方が一般的だ。

しかし、こうした生物と音楽とを結びつける不思議な現象の「科学的根拠」として提唱されているのがここで紹介する
「生命の暗号を聴く」だ。

 

これをうまく利用すると人類の宿敵「ガン」を撃退できるというのだ。今や国民の2人に1人がガンになるというのだから放っておく手はない。

というわけで、以下やや ”理屈っぽくなる” が順を追って紹介してみよう。

ただし、最終的にこの内容を信じる信じないはまったく貴方の自由・・、決して押し付けるつもりはないので念のため申し添えます!

☆ 「音楽の不思議な力の由来」について

「音楽」とは一体何か。音楽を知らない人はいないのに、言葉で説明しようとするとうまく説明できないのが音楽だ。(そもそも音符を言葉で表現するなんて、どだい無理な話だ。)

まず、音楽の起源について。

中国では音楽を意味する文字として「樂」という語が一般に用いられていた。「樂」は象形文字で、楽器とそれを載せる台の組み合わせでできている。上辺の中心文字である白という字が鼓を象(かたど)っているとすると、太鼓のような楽器を叩いて音を出したことが、音楽という概念が生まれるきっかけになったとも考えられる。

西洋に目を転じると、「音楽」に対応する英語は「ミュージック」である。その語源をたどっていくと、ギリシャ語の「ムシケー」に行き着く。

これは「ムーサの技芸」という意味で、これに対応する英単語が「ミューズ」(学芸をつかさどる女神)→「ミュージック」(ミューズの技芸)となる。因みにミューズの女神を祭った場所が、美術館や博物館を意味する「ミュージアム」である。

ミューズ(女神)は全部で9人いる。いずれも神々の頂点に立つゼウスと記憶の女神ムネモシュネとの間に生まれた娘たちである。それぞれ、天文学、喜劇、舞踊、宗教音楽、悲劇、音楽、歴史、叙事詩(2名)を担っている。

(音楽には終始優しい女性的なイメージがつきまとっているがこの辺に由来しているのかもしれない)

なお、天と地の結びつきによって生まれた女神ムネモシュネ(天空の神ウラノスと大地の女神ガイアの娘)がミューズたちの母であるというのは音楽の意味を考える意味で示唆的である。

アフリカでは「音楽は神々の言語である」と見なされているし、カトリック・キリスト教でも、「音楽は天国の言語であり、それを人間が発見して真似したのが教会音楽である」とされている。

音楽が天と地をつなぐものであれば、神秘的な力を持っているのは当然で音楽の不思議な効果は古今東西を問わず、物語の形で多数残されている。

☆ 「細胞が奏でる音楽」
とは

こうした不思議な効果を持つ音楽と生物を科学的に結びつけるカギがステルンナイメール博士(素粒子論を専門とする理論物理学者)による「タンパク質の音楽」の発見である。

ご承知のとおり、タンパク質は生物の身体を構成する基本材料である。細胞の中で必要に応じて必要なタンパク質が合成されるから生物は生きていける。

たとえば皮膚のコラーゲン、髪の毛や爪のケラチン、赤血球に含まれるヘモグロビン、それに血糖値を下げるインスリンなどの酵素もそうだが、これらは壊れては新たに合成されるという新陳代謝によって生まれ変わっている。

ステルンナイメール博士によるとそれぞれのタンパク質は独自のメロディを持っているという。「コラーゲン」という題名の曲、「インスリン」という題名の曲があるというのだ!それぞれの曲はDNAの中に「生命の暗号」として隠れている。

DNAが四種類の塩基からなることはよく知られている。A=アデニン、T=チミン、G=グアニン、C=シトシンである。これらの塩基が決められた順番で並ぶことで一種の「文章」が作られている。つまりDNAとは四種類のアルファベットでできた書物であり、「辞書」を作ればそれを読んで理解できるようになるはず。

ステルンナイメール博士は理論的な研究に基づき、同じDNAという書物を文章としてだけでなく音楽としても読めることを発見した。タンパク質のアミノ酸配列を解読してメロディに変換する規則を見出すとともに、そのメロディの持つ意味まで明らかにした。その規則にしたがって得られたメロディを「タンパク質の音楽」と呼ぶ。

ひとつのタンパク質には合成を盛んにするメロディと合成を抑えるメロディとがあって、それぞれ独自の非可変式チューナーがあり、そのメロディを同調させて電磁波に変換して細胞に伝えていくという。

まあ、平たく言えば音楽の中にも「ガンを促進する曲」と「ガンを打ち消す曲」があるというわけ。

好きな音楽を毎日聴きながらガンを撃退できれば言うことなし・・。

という調子だが、この猛暑の中で「理屈っぽい話を・・、いい加減にしろ」という声が聞こえて来そうなので、この辺で打ち止め~(笑)。


続きに興味のある方はご一読をお薦めします。



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「ワーグナー」の音楽と熱中症

2024年08月05日 | 音楽談義

かってクラシック音楽好きが集まって試聴会(計4名)を開催した時に「ローマの松」(レスピーギ)というCDがあった。やっぱりというか、一度聴いたくらいでは良さがわからず、自分のレパートリーではとても及びもつかないような曲目だった。

そういえば、食べ物の好き嫌いと同じで、音楽も人によって嗜好に随分差があり、そっくり同じ曲目が好きだというケースは稀のような気がする。

たとえば自分の場合ではオペラ「魔笛」(モーツァルト)だが、一方では「こんな退屈極まりないオペラは大嫌い」という人がいたりする~、もちろんこれは「いい、悪い」という問題でもない。

音楽にも一度聴いてすぐに好きになる曲目があれば、何度でも聴いていくうちに好きになってくる曲目と二通りあるが、えてして、前者の場合、何回か聴いているうちに比較的早く「飽き」がくるが、後者は聴く度に新たな発見があったりして長期間の鑑賞に耐え得るケースが多い。

オペラは典型的な後者だと思うのだが、逆に開き直られて ”いったいオペラのどこがそんなにいいのか” と問われた場合にその魅力を適切に表現する言葉がすぐに浮かんでこず、何ともいえない ”もどかしさ” を感じてしまう。

そもそも音楽の魅力を口で表現するのは本質的に難しくて、なぜなら言葉(文字)で表現できないために音楽(音符)というものがある~。

しかし、そういう “もどかしさ” を解消し代弁してくれる恰好の本がある。

「ドイツオペラの魅力」(著者:中島悠爾氏、日本放送教会刊)

                                

この本は、冒頭から「魔笛」がドイツオペラの草分けとなる重要なオペラとしてしてかなりのページを割いて詳しく解説しているが、音楽理論というよりもオペラ愛好家の立場から素人向きに執筆されていて大変分りやすい。

クラシックには交響曲、協奏曲、室内楽、管弦楽、そして声楽などいろんなジャンルがあるがオペラはこれらと、どういう点が違うのだろうか、というわけで「オペラの特質」について以下のように書いてある。

☆ 演劇的な要素

オペラの特質の第一点は、演劇を通して、具体化された音楽を提供することにある。ドイツのソプラノ歌手エッダ・モーザー女史(1972年サバリッシュ盤:夜の女王)が自らの体験を踏まえて実に分かりやすい表現をしている。   

「オペラには舞台装置があり、衣装があり、演技があり、共演者たちがあり、そして色彩豊かなオーケストラがあって、私の歌う内容は視覚的にも聴覚的にもリート(独唱用歌曲)に比べ、はるかに容易に聴衆に伝わっていきます。いわば、オペラは自分の周りに既に半ば以上構築されている一つの世界の中で歌い、その世界を深めていけばよいので、リートよりは
ずっと楽です。」

☆ 人間の声という特質

第二点目は人間の声の特質である。声という音の素材はどんな楽器よりも直接的にはっきりと、また容易に人間のさまざまな感情を表現し得ることにある。

例えば舞台でヒロインが一人たたずむとき、あわただしく登場してくる人物に向かって「まあ、あなたでしたの」と発する、たった一言の中にはこのオペラの文脈に沿って、喜び、悲しみ、恥じらい、ためらい、皮肉、怒りなどごく微妙な心の表現が可能である。

これほどに直接的な感情の表現は人間の声以外のいかなる楽器にも不可能であり肉声という音素材の持つ簡単で直接的な効果、そしてそれを十二分に活用したオペラという形式はやはり最も分かり易く、身近で、一般にも親しみやすい音楽なのである。

というわけで、オペラの特質は以上の二点に尽きるが、オペラがレパートリーに入るとたとえ台詞の意味が多少分からなくても音楽の楽しみ方が倍増すること請け合い。

そういうわけで、長年親しんできたモーツァルトのオペラはひとまず脇に置くことにして、ここ3日ばかり「ワーグナー」のオペラに挑戦してみた。

手持ちのCDを「You Tube」のせいで「宝の持ち腐れ」にするのはもったいないし、さらにはスケールの大きな音楽で猛暑なんか吹き飛ばしてしまおうという魂胆である(笑)。


            

「ヴァルキューレ」(ショルティ指揮、4枚組)、「ジークフリート」(ショルティ指揮、4枚組)、「パルシファル」(クナッパーツブッシュ、4枚組)、「神々のたそがれ」(ショルティ指揮、4枚組)、「ラインの黄金」(ショルティ指揮、3枚組)

何せ一つの楽劇あたりにCDが3枚~4枚セットだから、時間にするといずれも4時間あまり~。

一通り聴いてみたが、乱暴な言い方を許してもらえれば、ひたすら「雄大なスケール感」を楽しむ音楽ということに尽きる・・、加えて劇中の人物になりきれる「自己陶酔型」に浸れればいうことなし。

となると、こういう音楽は「豊かな音」で聴くのが常道で、しかも「たっぷりとした中低音域」のもとで鑑賞したい・・となると、必然的に次のシステムの出番。



タンノイ・オートグラフを愛好していた作家の五味康祐さん(故人)が「我が家のオートグラフはワーグナーを聴くためにある」といった趣旨のことを著書の中で述べられていたが、あの深々とした低音なら “さもありなん” 、ただし、ほかの曲目ではあまり頷けない・・とは、これは個人的な意見です。

で、どうしても比較的大きめの音で聴くので、はた迷惑にならないように窓を閉め切ってエアコンを入れっぱなしでの鑑賞となったが、根がビンボー性のせいか電気代がちょっと気になる・・。

ただし、老人がワーグナーを聴きながら熱中症で亡くなったとなると、まったく様にならないしねえ(笑)。



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バッハとモーツァルトの両立は「可能or不可能」?

2024年07月31日 | 音楽談義

月一回のペースでの受診時に、医師が「コロナが猛烈に流行っていますので気を付けた方がいいですよ」、「そうですか・・、以前と違って症状は大したことないんでしょう?」「いえいえ、そうでもないですよ・・、〇〇さんは持病があるので特に用心してくださいね」

昨日(30日)には、家内の友人からメールが来たそうで「コロナに罹りました。ようやく熱が下がりました。どうも運動ジムでもらったみたいです」とのこと。

人混みにはなるべく行かない、マスク、手洗い、うがいを忘れないようにお互いに気を付けましょうね。

閑話休題


指揮者にしろ、演奏家にしろ音楽に携わる人物の著作は非常に参考になることが多いので、図書館で見かけたら必ず借りてくることにしている。

                   

そういう中でも女性ヴァイオリニスト「千住真理子」(せんじゅ まりこ)さんは雰囲気が好きな演奏家の一人なので本書を興味深く読ませてもらった。

父が慶応大学名誉教授、母が教育評論家、長兄が日本画家、次兄が作曲家、ご本人は慶応大学哲学科卒というまるで絵に描いたようなエリート一家である。

血筋がいい人はそれだけで説得力がありそうな気がする(笑)。

本書は音楽や音響を主な題材にしたエッセイ集だったが、207頁に「バッハは自分を消さないと弾けない」との小見出しのもとに次のような記事があった。

「バッハは私の人生そのものであり、私の心の中にある聖書、神でもある。バッハは一生追い続けていくと思うのですが、バッハを弾くときというのは<お坊さんがミソギをする心境ってこんなかなと思う>そこまでいかないとバッハが弾けないと思っています。

それはどういうことかというと、<自分を表現しよう>と思ったら弾けなくなるのがバッハなのですね。<こう弾こう>と思ったら弾けなくなるし、<こういう音を出そう>と思ったら弾けない。つまり自分というものをいっさい消し去らないと、バッハは入れてくれない。バッハの世界に入れません。

要するに<無になる>ということなのですが、これは大変難しい。これこそなにかお坊さんの修行というのが必要なのかなと思ったりします。<無になったぞ>と思った瞬間は、なったぞと思ったことがもう違います。ふっと無になっていて、するとまた邪念が出てくるのですね。

<あ、次は、二楽章はこう弾こう>と思った瞬間にまた自分に戻ってしまう。<どうやって自分を捨てるか>というのがバッハとの闘いで、たぶん私は生涯バッハを弾くたびに、そうやって修行をしていくのだなと思います。それでも好きな曲がバッハですね。」

以上のとおりだが、「どうやって自分を捨てるか=無になる」というのは、文豪「夏目漱石」が理想とした境地「則天去私」(天に則り、私心を去る)に通じるものがあると思うし、自分の拙い「人生経験」を振り返ってみてもたいへん厳しいテーマだった。

たとえば、様々な人間関係をはじめとして、いろいろ思い当たる節が多いし、このブログの主題になっている「音楽&オーディオ」だってソックリ当てはまると思う。

だって、王様は音楽でありオーディオは召使いに過ぎないので、(音楽の前では)オーディオは存在感を消して「無」になってもらわないといけない。

言い換えると「スピーカーの存在を意識させない音」これが、オーディオのあるべき究極の姿だといつも思っているが、これが油断するとつい「出しゃばって」きて、いつのまにか主役に祭り上げてしまうのが我が家の大きな課題だ(笑)。

さて、何度も書くようだがこれまでいろんな作曲家の音楽を手広く聴いてきたものの、しっくりこないのがバッハの音楽である。嫌いじゃないんだけど進んで聴こうとは思わない。

「平均律クラヴィーア曲集」をはじめバッハの残した作品は、後続の作曲家達にとって常に教科書であり御手本だったという意味から「音楽の父」とも称されるバッハ。

バッハが自分のレパートリーに入ると音楽人生がもっと豊かになるのは確実なので、これまで世評高き「マタイ受難曲」をはじめ、「ロ短調ミサ」などに挑戦してみたが、その都度「お前は縁なき衆生(しゅじょう)だ!」とばかりに軽く場外へはじき出されてしまう(笑)。

「いきなり高い山を目指すのでなくて、手頃な山から始めたらどう」という「ありがたいアドバイス」を読者からいただいたこともある。

そういう自分に最後のチャンスが巡ってきた。同じ千住さんが書かれた新聞記事にこういうのが載っていた。                       

          

バッハの「シャコンヌ」の素晴らしさに言及しつつ、「4分半を過ぎたあたり、小さい音で音階を揺らしながら奏でるアルペジオの部分。涙の音が現れます。~中略~。

巨匠といわれる演奏家のCDをひととおり聴きましたが1967年に録音されたシェリングの演奏が別格です。完璧で心が入っていて、宇宙規模でもあり・・・。すべて表現できている。<神様>ですね。」

う~む、ヘンリク・シェリング恐るべし!

幸いなことに、シェリングが弾いた「シャコンヌ」を持ってるんですよねえ(笑)。
                  

もういつ頃聴いたのかはるか忘却の彼方にあるCDだが、バッハの音楽に溶け込める最後のチャンスとばかり、この程じっくり耳を傾けてみた。

「涙の音」が聴こえてくればしめたもので、ひとつのきっかけになってくれればありがたい。

だが、しかし・・・。

真剣になって耳を澄ましたものの、この名演からでさえも「涙の音」どころか、そのかけらさえも感じ取れなかった、無念!

やっぱりバッハは鬼門で、そもそもバッハとモーツァルトの両立は難しいのかもしれない・・、に思い至った。

バッハを愛好する人でオペラ「魔笛」が死ぬほど好きという方はこれまでお目にかかったこともないし聞いたこともない・・、つまりこれは理屈以前の問題として秘かに自分の胸に収めておきましょうかね~(笑)。



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