つい先日、家人がドキリとするようなことを言った。
「昔は、お父さんはモーツァルトの音楽を聴いて ”涙が出るほどいいなあ~” とよく感激していたのに、この頃はなんだかオーディオのことばかり熱中してちっとも音楽を話題にしなくなったね~」。
ウーム、言われてみるとそうかもしれない。このところ、どうも音楽にのめり込む気がしないのも事実でいったいどうして?
やはり集中力と根気(持続性)が少なくなったことは否めないようで、たとえば長時間のオペラをずっと聴きとおすことはほぼ無くなっていることに気付かされる。肝心の感受性が鈍くなったとは思っていないけどね~(笑)。
このブログでもこのところ、好きな曲目の紹介など音楽関係の記事とはほぼ無縁の状態で「スピーカーをどうしたこうした、いい音とは・・」とかのオーディオ関係の記事が氾濫しているのはご承知の通り。
で、丁度いい機会だからここで改めて「音楽&とオーディオ」の関係について考えてみよう。
今さら述べるほどのことでもないが、これはいわば「主従の関係」であり「目的と手段」の関係でもある。
もちろん王様が音楽、オーディオが召使いである。音楽を聴くためにオーデイオが存在するのだから当然至極。
そして、音楽がおろそかになってオーディオが主になっている人は俗にいう「音キチ」とされ、これは道を踏み間違えて倒錯している人に対する蔑称となる。
で、当然のごとく「音キチでいいじゃないか!」と開き直る方がいてもちっとも不思議ではない。
あまり大きな声では言えないが、実は自分もその心境に近づいているのだ(笑)。
若干言い訳めくが「好きな音楽をいい音で聴きたい」と、一心不乱にシステムの一部を代えたり、ちょっとした工夫で「いい音」になったときの快感が忘れられず、それは名曲に親しむときに覚える快感に勝るとも劣らないといえる。
とはいえ、「キリがない」のも事実で、いくら「いい音」を手に入れたとしても何回も聴いているうちに何かしら不満が出てきてどこかをいじりたくなる、その繰り返しが延々と続いていく。いわばずっとトンネルの中にいて出口の明かりが見えないし、むしろ見ようともしないのかもしれない。
対比するとしたら、音楽は完結の世界になるが、オーディオは永遠に彷徨を続ける未完のような世界となる。
で、どちらが飽きがこないかといえばそれは後者でしょう(笑)。どんなに気に入った音楽でも何回も聴いていると飽きてくる経験をどなたでもお持ちのはずだから。
と、ここで堂々巡りの混迷の中、何らかの指針を得る意味で「村上春樹」さんの言葉を引用しよう。
「 僕は思うのだが、優れた芸術とは多くの奥深い疑問を我々に突き付けるテキストのことだ。そしてたいていの場合、そこには解答は用意されていない。解答は我々一人ひとりが自分の力で見つけていくしかない。
おまけにそのテキストは~もしそれが優れたテキストであればだが~休みなく動き続け、形を変え続ける。そこには無限の可能性がある。時には間違った解答も出てくることもあるかもしれない。そこにはそんな危険性もある、しかし可能性とは危険性の同義語でもあるのだ。」(バイロイト日記:文芸春秋)
音楽作品に対する奥深い疑問を自分なりに持ち続けてコツコツとその解答を見つけていく・・、まさに「頂門の一針」(ちょうもんのいっしん)で平和ボケした頭をガツンと殴られたような衝撃を受けましたよ(笑)。
で、その「奥深い疑問」とは、たとえば「神の存在」「信仰」あるいは「死」・・、「一流の芸術はその底流に死を内在させている」(河合隼雄氏)といったことになるんでしょうか。
音楽自体は芸術に昇華できるけどオーディオはどんなにいい音を出そうと不可能だという冷徹な事実を前に、チマチマした「音楽&オーディオ」論議なんか軽く吹き飛んでしまいますね~。
しかし、その一方では「面倒くさい話は抜きにして音楽もオーディオもそれなりに楽しめばいいんじゃない」という声が囁いてくる~、アハハ(笑)。
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