前々回の「ワーグナーのオペラ」を聴きだしてから、このところ「オペラ三昧」の日々へ。
「オペラ」と「シンフォニー」に限っては、豊かな低音域に恵まれないと聴けない音楽のような気がしているが、国内でオペラ・ファンが少ないのもこの辺が理由の一つかな~。
で、ワーグナーをひととおり聴き終えるとモーツァルトのオペラへ回帰。
ここに「オペラの学校」という本がある。
著者はオペラ演出家でケルン音楽大学教授。表題の中に「学校」とあるように、先生(オペラの専門家)が生徒たちに教えるような調子で全編が貫かれている。
何といっても本書で一番印象に残ったのが「モーツァルト礼讃」に終始していることだった。
たとえば68頁。
「多くがモーツァルトからの剽窃(ひょうせつ)だ」と、オペラ“ばらの騎士”を観たある人が作曲家のリヒャルト・シュトラウス(1864~1949)に言いました。シュトラウスは平然と、“そうですよ、もっと良い人がいますか?”と答えました。
事実、モーツァルトは最高のオペラの師匠です。すべてを彼から学ぶことができます。彼に関しては“ごまかし”は利きません。オーディションでは歌手の長所も短所も数小節で分かってしまいます。」
といった調子。
次に、彼のオペラが持つ社会性に注目せよとの指示が72頁に出てくる。
たとえば、モーツァルトのオペラに必ずといっていいほど登場する下層階級の人物。いつも下積みのタダ働き同然なので高貴な人々に対して常に反感を抱いているが、その下層階級と上層階級との間でもたらされる何がしかの緊張感が彼のオペラの中で劇的な効果を生じている、とのこと。
そういえば大好きなオペラ「魔笛」にも、しがない平民の“鳥刺し”のパパゲーノが貴族階級を皮肉る台詞が沢山出てくるが、このオペラは単に美しいメロディに満ち溢れているばかりではなく、こういう鋭い社会風刺の側面も併せ持っていることに気付かされる。
作曲家モーツァルトの下層階級に対する眼差しは実に暖かい。パパゲーノや憎むべき悪漢の奴隷モノスタトスの「アリア」などはコミカルだけではなく、ほのぼのとした優しさ、はかなさが漂ってくるのが不思議。
これは本書には載っていないことだが、モーツァルトが当時の階級制度に対して常に不満を持っていたことはこれまでの彼の言動を記した本から明らかである。
貴族や権力が大嫌いで、芸術家としての自分の才能に対するプライドがあり、大司教や貴族といった権威に対する反発心が人一倍強かった。
たとえば傑作オペラ「フィガロの結婚」に次のような一節がある。
「単に貴族に生まれたというだけで“初夜権”(結婚した花嫁の初夜を領主が奪う権利)を振り回す伯爵に対して、フィガロは「あなたは、それだけの名誉を手に入れるために、そもそも何をされた?この世に領主の息子として生まれてきた、ただそれだけじゃないか!!」
と、辛辣なセリフを投げかける。このオペラが当時、上演禁止になった所以である。
最後にもう一つ。「音が多すぎる・・・・」(94頁)。
「音が多過ぎる、モーツァルト君、音が多過ぎますよ」と、皇帝ヨーゼフ二世は≪後宮からの誘拐≫の初演後にモーツァルトに言った。それに対してモーツァルトは「丁度それだけ必要なのです、閣下」と答えた。
皇帝の言わんとするところは「モーツァルト君、君のやり方はよろしくないですね。君は表現すべき多くの要素をオーケストラに委ねています。性格、状態、気分、表現の微妙な差異、それから無意識のことまでも、それらの要素は本来舞台上のオペラ歌手の役割です」だった。
これはオペラの本質にかかわる事柄でもある。そもそもオペラとは「音楽によって表わされる物語」だが、どんなオペラでも次のような問題点を孕んでいる。
すなわち「大切なのは話の内容か、音楽か?オペラ歌手とオーケストラのどちらが重要か?それらは補完しあうのか?どちらに優先権があり、、片方が完全に黙り込んでしまうのか?」というもの。
この相互関係は作曲家によって、オペラによって、そして場面によってさまざまだし常にその真意が汲み取られなければならない。
で、音符をまるで言葉や文字のように自由自在に操ったモーツァルトのことだから、舞台表現においても音楽重視となったことは想像に難くない。
「オペラにあっては台本は絶対に音楽の忠実な娘でなければならない」という言葉を遺している。
最後に、改めてオペラの魅力に思いを馳せるとモーツァルト、ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニ、ヤナーチェクと広大な森が広がっていく。
いつぞやのブログで取り上げたが、とっつきにくいヤナーチェクの「利口な女狐の物語」だが根気勝負で30回ほど聴いたらようやく耳に馴染んできて好きになりましたよ!(笑)
みなさん、もっとオペラを聴いて豊かな「音楽ライフ」にしましょう。
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