「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「オペラ」への熱情に打たれて

2019年09月14日 | 音楽談義

前回からの続きです。

ドナルド・キーンさんの著作「オペラへようこそ!」を読み終えたところ、オペラに対する熱情にすっかり感化されてしまい、何だかずっと昔からのオペラファンだったような錯覚を覚えてしまった(笑)。

それほど本書にはオペラに対する熱情がほとばしっている。何事につけ人の胸を打つのは最後は「情熱」ということを改めて思い知らされた。

    

それでは前回のお約束どおり、キーンさんの大好きなオペラ「ベスト10」を挙げてみよう。

1位 ドン・カルロス(ヴェルディ) 2位 トラヴィアータ(椿姫:ヴェルディ) 3位 神々の黄昏(ワーグナー) 4位 カルメン(ビゼー) 5位 フィガロの結婚(モーツァルト) 6位 セビーリャの理髪師(ロッシーニ) 7位 マリーア・ストゥアルダ(ドニゼッティ) 8位 湖上の美人(ロッシーニ) 9位 エヴゲーニイ・オネーギン(チャイコフスキー) 10位 連隊の娘(ドニゼッティ)

偏ることなく、とても幅の広いオペラファンであることが伺えるが、惜しいことに
自他ともに認めるオペラの最高峰「魔笛」(モーツァルト)が入っていない!

5位の「フィガロの結婚」(モーツァルト)も凄くいいけど、それよりは上だと思うけどなあ(笑)。

このことで、キーンさんのオペラへの嗜好性が垣間見えた気がした。

おそらく魔笛を外された理由は「ドラマ性」が物足りないといったことだろう。

周知のとおり「魔笛」は荒唐無稽の「おとぎ話」の世界だからストーリー性は皆無といっていいくらいだが、その反面、音楽の美しさといったらもうこの世のものとは思えないほどだ。

その辺りに自分のように
クラシックから分け入ったオペラ・ファンと、キーンさんのようにオペラ・オンリーの生粋のファンとの違いが鮮明にあぶり出されてくるような気がした。

ところで上記のベスト10には指揮者が特定されていないのが残念。あえて無視されたのかもしれない。

そのかわり、「思い出の歌手たち」の一項がわざわざ設けてあった。

✰ キルステン・フラグスタート(キーンさん一押しのソプラノ歌手)

✰ エリザベート・シュワルツコップ(類い稀な美人かつ際立った声の個性)


✰ ビルギット・ニルソン(ついにフラグスタートの後継者が登場)


✰ マリア・カラス(スーパースターが持つ独特の雰囲気を発散)


✰ プラシド・ドミンゴ(パバロッティを上回る魅力的な声を持つテノール)

ほかにもいろんな歌手が登場するがこのくらいに留めておこう。 

さて、キーンさん一押しのソプラノ「フラグスタート」だが、幸いなことに手元にフルトヴェングラー指揮の「トリスタンとイゾルデ」(ワーグナー)がある。

   

これまで「フラグスタート」をそこまで意識して聴いたことがないが、稀代のオペラファンが絶賛するのだからいやが上でも興趣が募る。

まず、ネットでのコメントを紹介しておこう。

「1895年7月12日、ノルウェーのハーマル生まれのソプラノ歌手。1962年12月7日、オスロにて没。父は指揮者、母はピアニストという恵まれた音楽環境の中で育ち、オスロのヤコブセン夫人の下で声楽を学ぶ。

1913年、同地の歌劇場でデビューしたが、30年代に入ってバイロイトに招かれ、ジークリンデ役で大成功を収める。その後も、ブリュンヒルデやイゾルデなどの歌唱で高く評価され、ワーグナー歌手としての名声を不動のものにした。

その声量は極めて豊かで、膨大なオーケストラの強音をも圧して響き渡ったにもかかわらず、清澄な美しさを失わず、劇的表現と気品に満ちたもので、ワーグナー・オペラのヒロインとして理想的であった。

また、R.シュトラウスの歌曲の歌唱においても、歴史的名歌手として名を残している。」

以上のとおりで、これを前にして素人の分際であれこれコメントするのは気が引けようというものだが、気の遠くなるような長い前奏の後でようやくフラグスタートが登場してくれた(笑)。

後継者とされる「ブリギット・ニルソン」と比べると、やや声質が柔らかくて軽やかで高音域への伸びが一段と際立っているような印象を覚えた。さすがキーンさん一押しのソプラノですね。

あとは彼女の声で「4つの最後の歌」(R・シュトラウス)をぜひ聴いてみたいですねえ。   

この内容に共感された方は積極的にクリック →     



 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「オペラ狂」だったドナルド・キーンさん

2019年09月13日 | 音楽談義

つい先日のこと、運動ジムでエアロバイクを漕いでいたら「BGM」で何ともご機嫌なサウンドが聞こえてきた。このところ、聴くと心が浮き浮きしてきていつも気になっている曲である。

バイクを中断して、たまたま接客してなかったトレーナーさん(妙齢のすこぶる美人ですぞ!)に、勇気を奮って「今鳴っている曲のタイトルは判りますかね?」と尋ねてみた。

すると、チューナーの小窓を見ながら気さくにメモしてくれた。

   

「どうもありがとう、あれ、テイラー・スウィフトですか!」

   

いくらオジサンでも「テイラー・スウィフト」ぐらい知ってるよ(笑)。

「反トランプ」を旗印にしており、アメリカの若者に絶大な人気を誇る美人歌手である。

さっそく、自宅に戻ってから「You need to calm down」(「もっと頭を冷やしてよ」ぐらいの意味かな)でググってみると、8月下旬にリリースされたばかりで、いきなり「ビルボード誌」で2位にランクされた超ヒット曲だった。道理で・・・。

運動効果を目指した末の思わぬ副産物だったが、さて、これから音楽のジャンルへと話を発展させよう。

ジャンルといえば周知のとおりクラシックをはじめジャズ、ポピュラー、歌謡曲、ラテン系などいろいろある。

「職業に貴賤はない」というが、音楽についても同様で、自分のようにクラシックもポピュラーも楽しむ人間もいるのはご愛嬌(笑)。

さて、以前のブログでも「音楽のジャンルとは」と題して、この話題に触れたことがある。

「音楽のジャンルを分ける基本中の基本は西洋音階(ドレミファソラシド)とそれ以外の民族特有の言語としての音階をもとに作られた音楽との二種類に分けられるという

そして「クラシック音楽の定義」となると一見簡単そうに見えて意外と手ごわい。そもそも定義なんてないに等しいが、結局のところ、古さ(歴史)、曲目の奥深さ、作曲家自身の多彩な人間像などがポップスなどとの境界線になる。」


そのクラシックといえどもこれまた中身の方はいろいろで、時代ごとに「バロック」派(バッハなど)、「古典派」(べートーヴェン、モーツァルトなど)、「ロマン派」(ブラームス、ヴェルディなど)といった区分があるかと思えば、「オーケストラ」、「協奏曲」など演奏形態による区分もある。

そして「オペラ」というジャンルも後者の区分に入るが、歌、演技、演奏、ストーリー、舞台装置などを網羅した総合音楽芸術として、クラシックの中でもかなりの異色な存在となっている。

期し方50年近くを振り返ってみても、クラシック好きの友達の中でオペラファンはとても少ない。

いろんなブログを拝見しても日本では、ごく一握りの人たちが楽しんでいる程度であり、もちろん自分なんぞはせいぜい階段を一段登った程度の存在だ(笑)。

前置きはこのくらいにして、本題のドナルド・キーンさんの話に移ろう。

アメリカ出身の日本文学者で日本好きが高じて日本に帰化されたことでも有名だが、惜しくも今年(2019年)の2月に97歳で亡くなられた。

お茶の間のテレビにもたびたび出演されていたので、お顔を拝見されると思い出す方がいらっしゃるかもしれない。

    

日本文学一筋の方とばかり思っていたところ、たいへんなオペラファンであることが分かった。

    

本書の末尾には実際に歌劇場に足を運んでオペラを鑑賞された回数が細かく記載され、その半端ないことに驚かされるが、遺作といってもいい本書からオペラへの愛情がひしひしと伝わってきて深~い感銘を受けた。

何しろ日本在住(帰化)での唯一の不満は「メトが無いこと」と仰っている。

メトとは「メトロポリタン歌劇場」(マンハッタン)のことである。

それでは、熱い熱情に裏打ちされたキーンさんの大好きなオペラ「ベスト10」を紹介させてもらおう。

以下、続く。

この内容に共感された方は積極的にクリック →        



          

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「推敲」という言葉の由来

2019年09月12日 | 独り言

つい先日、日本経済新聞の文化欄に「推敲」(すいこう)という言葉の「由来」が書かれてあった。言葉の意味はもう言わずもがなですよね(笑)。

その由来について、要約すると「中国の唐の時代の故事や逸話を集めた「唐詩紀事(とうしきじ)」という書があり、この中に収められた、詩人「賈島(かとう)」の逸話が「推敲」の由来と言われている。

詩人である賈島は、自分が書いた詩の中にある「僧は推す、月下の門」という部分を、「推す」より「敲(たた)く」の方が良いのではないか、と迷いながら歩いていた。

すると前方を歩いていた「韓愈(かんゆ)」という、有名な詩人にぶつかってしまう。賈島は韓愈に「推」と「敲」について相談したところ、韓愈から「敲が良い」と言われた。」

この逸話のタイトルが「推敲」になっており、逸話の内容から「文章をより良くしようと考え続けること」を「推敲」というようになった。

なぜこんな話題を持ち出したかというと、卑近な例で恐縮だがこのブログも何回もの「推敲」の連続で成り立っているからである。

何しろ文才がないので、一度仕上げても少なくとも二晩は置くことにしており、前日とは違う気分で何回も何回も読み返して筆を入れている。

その割にはパッとしないブログですけどね(笑)。

推敲するときの視点となると、「読む人の身になって理解しやすい表現になっているか」「上から目線の物言いになっていないか」「自慢話に陥っていないか」などで、己の人間性の弱点をなるべく隠す意図があるのも事実だが、けっしてうまくいってないことはよく分かっている。

そこで、文節の終わりに(笑)を付けて誤魔化しているのを読者の方はきっと見抜かれているに違いない、ハハハ(笑)。

ただし「推敲」そのものは大好きである。頭の体操にもなるし、そうじゃないと(ブログを)13年も続けていないでしょうよ。

なお、日本経済新聞にちなんだ話題といえば、現在「私の履歴書」の登場人物は経営学者の「野中郁次郎」氏である。

あの永遠の名著といわれる累計60万部のベストセラー「失敗の本質」の著者(共著)である。

    

この「私の履歴書」は各界一流の「功成り、名を遂げた」方たちが次々に登場される。各界といえば、政界、実業界、芸術、学術、スポーツといったところ。

ただ、このうち実業界の方々の話はそりゃあご立派な方もおられるのだろうが、所詮は「企業の金儲けの話」に落ち着くので言い方が悪いが「志」がちょっと低いように思う。

やっぱり天下国家、人類の幸福のためにという「大義名分」がないとちょっと淋しい(笑)。

そういえば3年ほど前に「私の履歴書」に登場した実業界の雄「カルロス・ゴーン」さんは今となってはあんな風だから有為転変が激しくて、きっと日経新聞も起用しなければよかったと臍(ほぞ)を噛んでいるに違いない(笑)。

まさに「人の一生は棺を覆いて定まれり」(人間の真価は死んでから決まる)ですね。

さて、野中氏の話に戻って30回シリーズのうち現在8回目を迎えており、段階的には大学をご卒業後に民間企業に就職され、職場結婚を果されるとともにアメリカへの留学を志向されるなど公私ともどもヤル気満々の人生が綴られている。

           

今後、一橋大学に戻られてからの「失敗の本質」にまつわるエピソードがどう飛び出してくるかメチャ楽しみ~。  

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオにおける「正しい音」とは

2019年09月11日 | オーディオ談義

前回からの続きです。

オーディオシステムから「魅力的な音」(好みの音)を引き出そうと思えば、地獄の苦しみを味わうことになるが、奇妙な快感を伴うことも事実で、世の中には自分も含めて音質依存症になる人が結構いるのはご同慶の至り(笑)。

せっかく「いい音」になったと思ったら、異なる音楽ソースによって次から次に(サウンドに)瑕疵が見つかって収拾(しゅうよ)がつかなくなるというのは日常茶飯事だ。

まあ、半分は楽しんでいるので仕方がないが、はたして客観的に見て「正しい音」とは何かということを知っておいても損はないと思う。

もちろん自分ごときに「正しい音」を云々する資格はない。受け売りである(笑)。

その昔、「オーディオ・テクネ」というオーディオ・メーカーが専門誌に「原音に近づく正しい音とは」と題して記載していたものがある。

ご存知の方も多かろうが、以下、列挙してみよう。

 ボリュームを上げてもうるさくない音で会話が楽にできる

 音は前には出ない。後方に広がり自然に消える

 音像は左右後方に定位し、左右フラットに定位しない

 小さな音でも明瞭度が下がらない

 スピーカーの近くでも離れた後方でも音質、音圧の変化をあまり感じない。音は波紋である

 音は思っている程、迫力、パワー感のあるものではない

 視聴上、歪(物理特性ではない)が小さくなると音像が下がり、音階、楽器の音色が正しくなる

 長時間聴いても疲れない、連室でも音が邪魔にならない

以上、ご参考になれば幸いだが、当方に音響に対する専門的な知識があるわけでもなし、そのまま鵜呑みにするのはどうかとも思うが、これまでのオーディオ経験を通じて、思い当たる節が多い。

たとえば、2、3については「音が前に出てくる」と、いささか品が無くなるし、の「音は(空気の)波紋である」は当たり前のことだが日頃つい忘れがちな事柄。

たとえば2000人ほどを収容する大ホールで弾かれたストラディヴァリ(ヴァイオリン)の音が客席の奥まで伝わるのは音がきれいな形の波紋を描いているからで、直接音とホールの壁に当たって跳ね返った間接音とがうまく重なり合って(ハモって)響いていくのに対し、ダメなヴァイオリンの音がなぜ伝わらないのかといえば楽器から出される波紋がいびつな形なので直接音と間接音とがうまく重なり合わず途中で打ち消しあっているからだと「素人考え」ながら思うのだがどうだろうか。

 ちなみに「正しい音」を得るために、これらの項目群に対して順番に個別撃破すればいいという考え方もあろうが、そうはいかないところがつらいところで、たとえば、ひとつの項目が実現できなければその他の項目も総じて同じレベルに留まってしまうという厳しい現実が待っている。

もちろん、主観的な存在としての「魅力的な音」と客観的な存在としての「正しい音」が一致すれば理想なのだろうが、これがなかなか一筋縄ではいかない。

「俺の場合は両方一緒だぞ」と思っている方もあろうが、そういう自信家の音はあまり当てにならない。

「音の道」を究めるには広く他人の意見を求めるいくばくかの謙虚さが必要だから~。まあ、偉そうに言う資格もないが(笑)。

最後に、いくらノンポリ派の自分でも日頃聴いている音に何がしかのプライオリティ(優先権)を設けていることだけは申し添えておこう。

それは、「音が澄んでいて柔らかい雰囲気で楽器の音色がそのまま素直に表現されているような音。それに音像に奥行き感があること。彫りの深さとでも言うべきか。それぞれの楽器の前後の位置関係が明瞭に分かればこの上なし。」

はてさて、完璧に実現できるのはいつのことやらですね(笑)。   

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無難な音、魅力的な音、そして正しい音

2019年09月10日 | オーディオ談義

いつも思うのだがオーディオ愛好家が百人いるとすればまさに「百人百様」で、好きな曲目や好きなサウンドが完全に一致することはまずあり得ない。

たとえば仲間が試聴にやってきて当方の好きな曲目を一緒に聴いてもらいながら、そろそろ”さわり”の個所がやってきてウットリと聴き惚れていた折も折「別の話題」がいきなり提供されてガックリくることがときどきある(笑)。

まあ、曲目ぐらいならまだしもこれが「音質」となると彼我の違いも穏やかではなくなる。

  

たとえば、ずっと以前にお付き合いさせていただいた仲間から次のような言葉をいただいたことがある。

「魅力的な音というのは絶対に”野太い音”ですね。以前聴いたWEー205D真空管のプッシュプル・アンプの音が忘れられません。

まるで実像が眼前でリアルに再現されたような印象を受けました。205Dは憧れの球ですがもはや良質のものが手に入りにくいのが難点です。」

おそらく我が家の「細身の音」が反面教師となったのだろうが、何気なしに呟かれた言葉にオーディオへの飽くなき探究心を垣間見た気がして印象深かった。

「野太い音」の定義については、これまでのお付き合いを通して感覚的に分かるのであえてお訊ねしなかったが、こういう明確な指針があるとオーディオに対する座標軸がブレないので大きなメリットだろうと痛切に思ったことだった。

自分の場合、少しでも「好みの音」を得ようと毎日、余念がないところだが、どちらかといえば「今よりももっと良い音を」というタイプなので、いわば「ノンポリ派」に分類され、非常に寄り道が多いのもそのせいかもしれないと思っている。

とはいえ、ある程度合理的な「オーディオ・ライフ」を営んでいくうえで便宜上自分なりの「音」の分類は持っている積り。

たとえば日常的には「無難な音」「魅力的な音」そして「正しい音」の3つに振り分けている。

まず「無難な音」とは音楽鑑賞をするうえでそれほど違和感を感じない音」で、デジタル時代のオーディオシステムは平準化が進み、今やどこのご家庭においても「無難な音」を確保しておられることは想像に難くない。家庭で「音」ではなく「音楽」を愉しむのならこれで十分。

次いで「魅力的な音」だが、これは「好みの音」と言い換えてもいい。一言でいえば聴いていて「振るいつきたくなるような音」だが、こればかりは一朝一夕で得られるものではなくまずは塗炭の苦しみを覚悟しなければならない。

いわば「オーディオの泥沼」に浸かって、幾度も幾度も試行錯誤を繰り返しながら、根気というか「求道的」な 要素が必要となる。

もちろん、遂行するうえで「奇妙な快感」を覚えないと長続きしないのは経験者ならお分かりのとおり(笑)。

そして、最後に「正しい音」について述べてみよう。

以下続く。   


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モーツァルトへの旅~音楽と人生に出会う~

2019年09月09日 | 音楽談義

去る9月1日付で「近未来、モーツァルトの新作オペラが聴けるかも!」を登載してから1週間あまり経つがどうも気になって仕方がないことがある。

こういう一節を記載していたことを覚えておられるだろうか。

「その昔、モーツァルト関連のエッセイの中に(たしかドイツ文学者の「小塩 節」氏だったと思うが)、8歳の頃に作曲した一節が、亡くなる年(1791年)に作曲された「魔笛」の中にそのまま使われており、「彼の頭の中でそのメロディが円環となってずっと流れていたのでしょう。」とあって、それを読んで深~い感銘を受けたことを覚えている。」


気になって仕方がないこととは、この内容の真偽のほどとその出典元がはたしてドイツ文学者の「小塩 節」(おしお たかし:1931~)氏のエッセイだったのかどうか・・・。

読者におかれてはどうでもいいことかもしれないが、記載した本人にとっては大いに気になる事柄である。


おそらく図書館から借りてきた本だから今さら真偽のほどを確かめようがないものの、簡単に諦めてしまうのも何だか癪だ。

自分がやや粘着質の人間であることをよく理解している積りだが(笑)、「よし!突きとめてみせるぞ」と珍しくヤル気をだしてみた。

こういうときの「ネットの威力」は凄い。

「小塩 節」でググってみると、著作がずらりと並んでいたが、いかにもそれらしき表題が見つかった。「モーツァルトへの旅」。

おそらくこの本ではないかと確信に近いものがあった。在庫の表示があり、本のお値段が20円、送料が260円で併せて280円なり(笑)。さっそくクリックして注文したところ3日ほどで届いた。

  

かなり薄目の文庫本だったので比較的「組みやすし」と読み進んだが、ようやくお目当ての個所を見つけたときはそれはもう感慨もひとしおだった。

ちなみに本書を最後まで通読した結果、著者はさすがにドイツ生活が長い方だけあって現地にもよく通暁されており、これは最高の「モーツァルト解説本」だと太鼓判を押したくなるほどの出来栄えだった。

上から目線で恐縮だが、日本有数の「モーツァルト通」(自称)が保証するのだから間違いなし(笑)。

ちなみに「日本有数のオーディオ愛好家」と「日本有数のモーツァルト通」と呼ばれるのに、どちらがうれしいかと問われたらもちろん後者だ。芸術的な価値に雲泥の違いがある(笑)。

前置きが長くなったが、それでは押しつけがましくも関係個所(62頁)をそっくり引用させてもらおう。

「モーツァルトが5歳の時に作曲した小品が数奇な運命を経てロンドンのある家庭から「モーツァルト協会」に寄贈された(1956年)のが「アレグロ へ長調」の楽譜だった。

形式もきちんと整ったこの譜を注意深く見ると、人はある有名な旋律を思い出して愕然とする。

この旋律型はモーツァルト最晩年の、彼の創造活動の終局点を示す30年後の大作「魔笛」(K620)の中でパパゲーノが歌うアリア第20番「パパゲーノが欲しいのは・・・」、あのメロディーなのである。

モーツァルトがあんなに小さいときに作曲を始め、そして30年して彼の世界の円環を閉じるとき、彼の心に鳴っていたのはこの懐かしいメロディーだったのである。

専門家はこの旋律が民謡の一節に由来したものであると指摘している。そうだろう、モーツァルトは町や村のちまたの歌を聴いてヒントを得て、多くの作曲をしていった人なのだから。彼は多くの旋律をいくつも作品に繰り返し使っている。いたるところで懐かしい旋律に出会う。

彼はその生涯の初めの幼い日に街で聞こえた何げない民謡のメロディーから無意識のうちにヒントを得てこの作品を創ったのである。」

以上のとおりだが、モーツァルトの僅か35年の短い生涯といえばヨーロッパ各地への旅から旅への連続であり、様々な人との出会い、各地の伝統音楽に接した記憶のすべてが彼の音楽に結実した。

天才モーツァルトにあやかるのはまことに恐れ多いが、この頃幼いときからの記憶が何の脈絡も無しに走馬灯のように巡って来ることがよくある。

結局、人間とは己の記憶ともに生涯歩み続ける生き物なのだろう。

ふと「村上春樹」さんの言葉が蘇った。

「僕らは結局のところ血肉ある個人的記憶を燃料として世界を生きているのだ」。   

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「プリアンプ不要論」の後日談

2019年09月07日 | オーディオ談義

このブログの取り柄は一に「オーディオ」記事にかかっていると思っているが、このところ一頃の勢い(アクセス数)が無くなってしまった(笑)。

飽きられたのか、それとも極めてマイナーな分野の限界なのか、はたまた筆力不足のせいかどうも理由は判然としない。

そういう中「プリアンプ不要論」について、ぐだぐだと書き記したのはつい先日のことだったが、身近な話題だったせいか久しぶりにアクセスが活況を呈してくれた。

どうやら100年も前の古典管がどうのこうのといった専門的な記事よりも、親しみやすかったらしい(笑)。

さっそく東京在住の「I」さんからも、この件について次のようなメールをいただいた。

「私も、この課題に右往左往したことがありまして、結果今はプリアンプ(ラインアンプ)派で落ち着いています(笑)。

で、なぜかと申しますと、アンプは、それぞれ入力感度(ゲイン)、入出力インピーダンス、出力特性が異なるので、パワーアンプの美味しいゾーンを使うには、プリアンプの ボリュームコントロールが必須なためです。

例えば、パワーアンプのボリュームを12時、プリアンプのボリュームを12時、もう一方は、パワーアンプのボリュームを11時、プリアンプを1時で使うと、同じ音量であっても、 アンプの出力特性が変わるという話です。

また、私のパワーアンプのように、入力感度が0.5vと非常に高い物ですと、CDプレーヤーがおよそ2vなので、入力感度ボリュームを相当搾らないと使えませんし、ボ リュームを絞るという事は左右のセパレーションも悪いので、やはりプリアンプないし、アッテネーターは必要になります。

ということで、プリ、パワーの双方のボリュームコントロールを使うことにより、それぞれのアンプの特性やSN、セパレーションが良いところを使えるということで、私はプ リアンプ派です。

〇〇サンのおっしゃる通り、パワーアンプダイレクトはスピード感があり、少しクールに聴こえるというのは、私もそう思います。

その原因は、そこに介在するケーブル、プリ アンプの素性もありますが、アンプの特性やSN、セパレーションの違い、またSPからの逆起電力の影響も加わることで起きていると思います。

これは、余談ですが、〇〇さんは、たくさんのユニットとアンプをお持ちなので、JBLユニットはネットワークだけでなく、チャンデバによるマルチアンプを試されるといい のではと勝手に妄想してます。

ネットワークを介さない、JBLユニットは、見違えるように鳴り始めますよ。2wayのマルチなら、パワーアンプ2台で済むので、おすすめです。」

この記事に対して、 以下のように返信した。

「お久しぶりです。メールありがとうございます。まことにごもっともなご意見を頂戴し、いたく恐縮しております。

何ら理論的な裏付けも無く、あくまでも聴感上でのプリアンプ不要論でしたのでなおさらです。

我が家の場合はプリアンプを入れるときは、必ずパワーアンプのボリュームを全開にしていますが、お説のとおり、いろいろ両者のボリュームの位置を試してみるのも面白そうですね。さっそく、実験してみましょう。

なお、チャンデバの件ですが機会があれば試そうと思ってますが、一昨日(5日)アキュフェーズの「F25」がオークションで落札されてましたが21万円でした。ちょっと実験で使うにしては高過ぎて諦めました(笑)。しばらくはこのままLCネットワークでいってみるつもりです。」

以上のとおりだが、これがオークションに出品されていた噂の「F25」だ。

    

周波数ボードが「800ヘルツ」「10000ヘルツ」と選択できて、我が家にとっては理想的な3ウェイが組めるが、前述したように冒険というレベルではちょっとお値段が折り合わなかった。

それに「アキュフェーズ」ブランドはどうも我が家の家風に合わないので敬遠したのも事実。

さらには、我が家では現在JBLの「LCネットワーク」を使って変則的な「3ウェイ」を組んでいるが、今のところいっさい音質に不満がないのも見送った理由の一つ。

ただし「LCネットワーク」と「チャンデバ」の優劣論争も「プリアンプ不要論」と同様に古くて新しい課題だ。

これまでにも、「LCネットワーク」と「チャンデバ」を交互に試してきたが、それぞれに一長一短あるものの最後はいつも「LCネットワーク」に落ち着いている。

とはいえ、使った「チャンデバ」の性能がイマイチだったせいもあるので一概に結論は出せない。

こうしてみると、オーディオは至るところに優劣論争があり、それぞれに奥が深いし、個人ごとの好き好きも加わって簡単に結論が出せないものが多いが、それも大きな魅力の一つになっている(笑)。   

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「薄氷を踏むような人生」とは

2019年09月06日 | 独り言

このところ、テレビの「モーニングショー」「アフタヌーンショー」では呆れるほど韓国の話題で持ち切りだ。

次期法相候補のスキャンダル騒ぎが主だが、相手が韓国ともなると「対岸の火事と喧嘩は大きければ大きいほど面白い」(笑)。

「ソウル大学の法学部教授」にしては脇が甘くて、家族ごとスキャンダラスな事件が出るわ出るわで、まさに「薄氷を踏むような人生」を歩んでいる。また韓国の上流階級は「子息の大学への不正入学」「兵役逃れ」は常習らしいと聞いて二度ビックリ。

これに関して、ふと10年ほど前の記事を思い出した。もう忘れている方も多いと思うので、中身を今風に改変して再掲してみた。

かなり以前の話だが我が県では「県職員が強姦未遂」という事件が勃発している。

 ちょっと信じられないような事件である。都会と違って田舎では公務員はそれなりの位置づけだし、まして率先して法律を遵守するべき立場にある公務員がなんてことを! 

事件の概要はこうだ。

G容疑者(46歳)は ジョギングがてら午後6時頃に市内の大学建物に侵入。女子大学生を殴ったり床に押さえつけるなどして暴行、脅迫して乱暴しようとしたが未遂に終わった疑い。

被害女性からの届出を受けた県警が聞き込みなどの捜査を進めた結果逮捕。本人は容疑を認めている。二人に面識はなかった。

こういう破廉恥罪で逮捕されるぐらいなら、むしろ役人にはつきものの汚職の方がまだマシというか”品がいい”というものだろう(笑)。
ところがである。G容疑者の普段はとても評判がいいものだったのである。

「熱心な仕事ぶりだった」「信じられない」県庁の同僚らはそろって言葉を失った。G容疑者は部の主管課に在籍し予算編成から県議会対応など重要な業務をこなしており46歳で課長補佐級なので出世の方も順調そのもの。

さらにG容疑者を擁護する話が続く。以前同じ職場だった男性職員は「仕事ができるからこそ現在のポジションを任せられている。上司や同僚にはっきり物が言えるタイプで人望も厚かった」。

自宅近くの女性は「地区の体育部長などを務めていた。真面目な人柄で犯罪をするような人にはとても見えない」。

「魔がさした」のかもしれないが、なんとも愚かなことをしでかしたものである。本人にはまったく同情の余地がないが、被害者とご家族の心痛はいかばかりかと察するにあまりある。

さて、この手の犯罪については比較的寛容な態度で受け止めたり、あるいは厳しく断罪してみたりといろいろ個人差があると思うが、たまたま運悪くエアポケットに落ち込んでしまったのかもしれない。

 関連して、丁度「世界文学は面白い」(2009.6.10:奥泉光×いとうせいこうの対談)という本を読んでいたら次のような話が掲載されていた。(102頁)

 「電車に乗っているとき、ふっと横に座っている女性のミニスカートの中に手を入れちゃったとしたら、俺の人生、終わるんだなあって。そんな欲望があるわけではないのに、何となく手を入れちゃったとしたら。」

男性諸氏にこういう思いをしたことがない方がいるとしたら、そういう人はまず「聖人君子」に近い存在だろうが同時に無味乾燥で面白みのない人だと思う(笑)。

おそらくこの世には「大過なく人生を終える」人が大部分だろうが、そういう人たちは一歩間違えばというスリリングな機会がたまたま無かったというだけ、言い換えれば好運(?)に恵まれただけで実は危険と隣り合わせの「薄氷を踏むような人生」だったのではなかろうか、なんてつい思ってしまう。

何かの本(たしか小題が「時空を駆ける遺伝子」だったと思うが)で、長い目で見ると人間の肉体なんかは「一時的な仮の乗り物」に過ぎずDNA(遺伝子)こそが何代も続いて生き抜いていく本来の主役だという説を読んだことがある。

冒頭の公務員の事例では、本能としてできるだけ広く自分のDNAをばらまきたかったのかもしれない。もちろん許されることではないが(笑)。

それにしても、近年、犯罪者のうち地域社会で日頃から評判がよく「まさかあの人が・・」という犯人像が非常に多いような気がする。

それだけ日常的に抑圧されたものがあって何かを契機に爆発してしまうのかもしれないが、そういうものを発散する機会、たとえば趣味に熱中するなんかは非常にいいことだと思う。

ゴルフでもいいし、「音楽とオーディオ」でも何でもいい。

後者のいい点は、相手が要らず手軽に楽しめるし「いい音で好きな音楽」を聴くといろんな怨念がきれいに昇華できそうな気がする。

そして、万一の時にどなたか熱心な方がシステムを引き継いでくれれば、「ありふれたDNA」を残すよりもずっと有意義のような気がしている今日この頃だ(笑)。     

 

 


 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

このアンプはこんな音でしたかね?

2019年09月04日 | オーディオ談義

前回からの続きです。

レコードに変わってCDが登場したのは1980年代初頭だが、それ以降、「プリアンプ不要論」が台頭したが、はたして(プリアンプが)あった方がいいのかどうか、延々と論争が尽きない課題に対して、仲間を交えての実験(8月31日)は実に楽しかった。

結論から言えば、我が家の「ウェストミンスター」(改)では、プリアンプ無しの方に軍配が上がった。「音の鮮度が違う」というのが一番の決め手である。

その反面、ややコクがないというのか素っ気ないサウンドと言えないこともないが、その辺は大きな箱の響きがカバーしてくれているようだ。

そして、前回予告していたようにこのプリアンプ無しの状態でエース級の二つのアンプのどちらがスピーカーと相性がいいのか一騎打ちをやってみた。

まずは「WE300Bもどきの出力管」シングルアンプで実験。テスト盤は低音域が充実していないと聴けないオペラ「マクベス」(ヴェルディ)だ。

   

   

お互いに無言のままで20分ほど試聴した後に仲間が開口一番「このアンプはこんな音でしたかね?」

「エッ」と一瞬、虚をつかれた思いがして、はじめはネガティブに受け止めたのだが、言葉を交わすうちにどうやら誉め言葉だと分かった(笑)。

音の鮮度といい、分解能といい、シャープな音像といいこれまでの印象をすべて覆すような音らしい。

「プリアンプ無しの効果もたしかにありますが、あれからインターステージトランスを挿入したり、前段管には「MH4」(マルコーニ:メッシュプレート)を起用したことも無視できないかもですね」と、応じた。

次はクラシック向きで定評のある「PP5/400シングル」アンプの出番。

   

こちらは10分ほどの試聴に終わったが、仲間が「いずれも甲乙つけ難しですね。シャープさは300Bの方が上ですが、雰囲気はこちらの方が上手です。低音域の迫力となると互角でしょう。」

アンプの選択肢の数が増えることは非常にありがたいことなので、耳のいい仲間の言葉にまずはひと安心(笑)。

実はセパレートアンプの優位性でもって「300Bアンプ」の勝利を予想していたのだが、「PP5/400」の健闘に胸が熱くなった。

プリアンプ無しだと一段と冴えわたってきて、これまでの(プリアンプとの)相性がイマイチだったことがよくわかった。強いて好みでいえば、ジャズなら「300B」アンプ、クラシックなら「PP5/400」アンプに色分けしたいところ。

無事、実験を終えてメデタシ、メデタシだったが、仲間が「今度はぜひAXIOM80をプリアンプ無しで聴いてみたいのですが・・」

「ハイ、お安い御用ですよ」

そこで、第二系統システムの出番となった。構成は次のとおり。

CDトラポ「ヴェルディ・ラ・スカラ」(dCS) → DAコンバーター「エルガープラス」(dCS) → パワーアンプ「6098シングル」→スピーカー「AXIOM80」

試聴の結果「ボーカルなどの小編成のジャンルを聴くときはやはりAXIOM80の方が断然いいですね。しかし、こちらの方はプリアンプ無しだと何だかおとなしくて、こじんまりとした感じの音になりますね」

「そのようですね、一つのスピーカーで大編成も小編成もハイレベルでこなすのはハッキリ言って無理だと思いますよ。それにしても、この場合はプリアンプがあった方がいいようですね」

というわけで、端的に言えば我が家のケースでは箱が小さいときはプリアンプを使い、箱が大きいときはプリアンプ無しがいいという結論に落ち着いた。


結局、ありふれた結論で「大山鳴動して鼠一匹」かな(笑)。

ところで、話は戻って「ウェストミンスター」を聴いていた時のこと、無音時に右チャンネルからジジッという微かなノイズが発生する。

プリアンプを経由していたときには聞こえなかったのでおかしいなあ。

そこで、「175ドライバー」に近寄って仔細に点検したところ、マグネットの部分に「8000ヘルツ」でローカットするためのネットワークのコイルが近接していた。

「百聞は一見に如かず」で画像をご覧になっていただくとよくわかる。

    

青い線は「銀線コード」だが、画像のように「銅線コイル」をやや離してみたところピタリとノイズが止んだのには驚いた。

どうやら「175」の強力なマグネットによる磁界が悪さをしていたらしい。

磁界は目に見えないだけに始末が悪いが、プリアンプ使用時にはノイズが目立たなかったので(プリアンプは)「ノイズキャンセラー」の役割も果たしていたようだ。

「清濁併せ飲む」のもいいが、裏を返すとそれだけ音の管理が大雑把だったことになる。

オーディオは実験をするたびに新たな発見があり、もう毎日が忙しくてまったく退屈しない(笑)。     





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古くて新しい課題「プリアンプ不要論」

2019年09月02日 | オーディオ談義

これまで飽きもせずにオーディオを延々と50年近く続けてきたが、長いことが果たしていいことなのか、どうなのか。

文豪「夏目漱石」は若き日の「芥川龍之介」に対して「人は才能の前には頭を下げないが、黙々と働く牛のような努力に対しては自然と頭を垂れるものだ」(要約)と諭したが、おそらく50年もかかってこの程度のサウンドかと人様から嘲笑されるだろうが、せめて飽くなき「努力」だけは認めてもらいたいものだと、ときどき思う(笑)。

さて、長年やってきたオーディオにも「古くて新しい課題」というか、はっきりした結論がいまだに下せないものがあって、そのうちの一つが「プリアンプ不要論」だと思う。

レコードと違って、いわばCDなどのデジタル系に限っての話だが、プリアンプを経由せずにDAコンバーターからパワーアンプに直結して聴く方が音がいいのではないかという説だ。

これまで(このブログでも)この問題を再々にわたって取り上げきたが、結論は「ケースバイケース」というものだった。

平たくいえば、それは個人ごとのシステム環境に大きく左右され、たとえばプリアンプやDAコンバーターの性能の優劣、そしてスピーカーの個性との相性に尽きるというものだった。

あえて個人的な感想を言わせてもらうと、プリアンプを経由したときは「響きが芳醇になるがやや音のフォーカスが甘くなる」、その一方、外したときは「音像がシャープになるが、何だか蒸留水のような味気ない音」になるというもので結局「帯に短し、たすきに長し」の世界だった。

ただし、オーディオは基本的には「シンプル・イズ・ベスト」なので、プリアンプ無しで気に入った音が出てくれればそれに越したことはないと常々思っている。

それに高性能のプリアンプになると結構なお値段になるので節約の意味からも無い方が大いに助かるのは間違いなし(笑)。

さて、このところの長雨で気が滅入りがちなので打開策として前々回のブログに記載したように「JBLの出番」となったが、第二弾として「ウェストミンスター」(改)のシステムから久しぶりに「プリアンプ」を外してみた。

これまで「マランツ7」回路のプリアンプを使って、まったく不満はなかったが、果たしてどういう音になるんだろうという興味本位の実験である。

改めてシステムの流れを述べておくと、

CDトラポ「TL3 3.0」(CEC) → DAコンバーター「HD7A-192」(Phasemation) → パワーアンプ「300Bシングル」(銅板シャーシ) → スピーカー「ウェストミンスター」(改:ワーフェデールの赤帯マグネット・スーパー12内蔵)

    

プリアンプの接続コードを外してパワーアンプに直結するのだから実に簡単である。ただし音量調整はパワーアンプに付属しているボリュームに頼らなければいけないので初めはゼロ状態に絞っておくことが肝心。

さあ、いよいよ音出しだ。試聴盤はモーツァルトの「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」(K165)。

ボリュームをじわじわ上げていきながら7分目ぐらいでちょうどいい音量になった。これは理想的な位置ですね。

そして、音の感想といえばプリアンプ無しでも十分聴けるなあ(笑)。

もともとウェストミンスターは図体が大きいので、良きにつけ悪しきにつけ響きが豊かだったが、これがほど良い具合になってくれたし、分解能や奥行き感、音像のシャープさは申し分なしだった。

とはいえ、「2週間ほどは様子を見た方がいいよ」と、これまでの「ほろ苦い経験」がそっと耳元で囁いてくる(笑)。

それはひとまず措いておくとして、いろんなソースを次から次に聴いてみたが、歌劇「マクベス」(ヴェルディ)の段になって、もうちょっと雄大な低音域が欲しいなあとつくづく思った。

    

この「マクベス」はディースカウの豊かなバリトン、スリオティスの超絶的なソプラノにウットリする名盤中の名盤である。

ただし、CD2枚組だが2枚目となると途端に色褪せてきてどうでもいいような陳腐なオペラになってしまう。

原因は作曲家にあるのか、演奏にあるのか、はたまた自分の鑑賞力不足か、いずれにしても素人が軽々に深追いしない方が無難だろう(笑)。

話は戻って、低音不足というのはこの「ウェストミンスター」(改)に限っては致命傷に値するので直ちにアンプを交換する破目になった。

アンプ次第でスピーカーは生きもすれば死にもする。

次の候補は「PP5/400シングル」と「WE300Bもどきの出力管」(モノ×2台)で、両エース級の華々しい一騎打ちである。

   

   

何しろプリアンプという色付けが無いので、アンプの実力がもろに出ること間違いなし。

そこで8月31日(土)の午後に、近くの仲間に来てもらい前述の「マクベス」をテスト盤にして「雨の日の品定め」を行ったところ、アッと驚く意外な展開が待ち受けていた。

以下、長くなるので続きは次回へ。

この内容に共感された方は積極的にクリック →     





 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近未来、モーツァルトの新作オペラが聴けるかも!

2019年09月01日 | 音楽談義

さあ、いよいよ今日から9月ですね。

9月といえば暑かった夏の想い出と爽やかな秋への橋渡しをしてくれる月だが「セプテンバー・ソング」という歌があるように、(月の)名前がそのまま曲目のタイトルになるのは珍しい。

ネットの受け売りだが、この歌には「日が短くなるこの時期を愛の感情に重ねて歌い上げる曲です。明るい夏が終る九月という月の持つ季節の変わり目に対して、人が無意識に感じる感傷を表現しています。あるいは人生の秋、無駄にする時間は無くなり、残り少ない時間をあなたと共に過したいという意味も感じられます。」と、ある。

たしかに「オーガスト・ソング」なんて、まったく様にならないし(笑)、かといって「オクトーバー・ソング」となるとちょっと直截過ぎるし、(9月は)1年の中でも曖昧模糊とした独特の月のような気がする。

実はカミさんと知り合ったのも9月だったし、きっと当時は気分が曖昧模糊としていたに違いない(笑)。


さて、長年に亘って購読してきた朝日新聞だが購読を止めてからもう5年ほどになる。何故止めたかは、私怨などではなくて義憤にかられてのことである。詳述しなくてももうお分かりのことだろう。

しかし、購読を止めて読売新聞にしたのはいいものの、家内が喜ぶプロ野球「巨人」情報は別として国際的なテーマや社会問題の深い掘り下げとなるとちょっと物足りない。

一日遅れでお隣さんからお借りしている「日本経済新聞」で補っているが、ふと目に留まったのが次の記事。こういう国際的な芸術情報も載せてくれるんだと、ついうれしくなった。

         

モーツァルトが作曲したものの、これまで闇に埋もれていた楽譜が発見されたという記事。映画「アマデウス」で一躍有名になった宮廷音楽家サリエリとの共作らしい。しかし、どうやら小品のようだ。

35歳で早世したモーツァルトがあと1年でも長生きしてくれたら人類は「魔笛」以上のオペラを手にしたかもしれないといつも思う。

そういえば、ずっと以前の過去記事を思い出した。忘却の彼方にある方が大半だろうから要所を抜粋してみよう。

「評判のミステリー<ノックス・マシン>だが、その内容をかいつまんで報告しておくと、近未来の話で2058年の出来事が舞台になっている。

主人公は中国人で「数理文学解析」の研究に打ち込む青年である。(なぜ中国人が主人公なのかは非常に面白い理由があるのだが、ここでは触れない。)


「数理文学解析」とは、もともと詩や小説作品に用いられる単語や成句の頻度分析から始まった学問で、計算機テクノロジーの飛躍的な進歩にともなって、その対象は語句のレベルから始まって、文章の成り立ち、さらには作品構造の解析にまで引き上げられ、作家固有の文体を統計学の手法によって記述することが可能になった。

そして、人間の手を借りない完全に自動化された物語の創作、すなわち「コンピューター文学」の制作が開始されるようになり、シェイクスピアやドストエフスキーの新作が次々に発表されて権威ある評論家たちが渋々、その質の高さを認めざるを得なくなったというのがこの物語の設定となっている。」
 

以上のとおりだが、実に面白い着想だと思う。

世界文学史上最高の傑作とされるが、惜しくも未完に終わった「カラマーゾフの兄弟」の続編が、ドストエフスキーになりきったコンピューターによって制作されるかもしれないなんて、まるで夢物語のようだが、現在のように留まることを知らないコンピューターの進化を考えると何だか実現しそうな気もする。

さあ、そこで我らがモーツァルトの登場である。

わずか35年の短い生涯に600曲以上も作曲した多作家でモーツァルト抜きにはクラシックは語れない。

オペラには幸い脚本というものがある。登場人物の台詞、動作、心理描写などがこと細かく記載されているが、これらを手掛かりにコンピューターがモーツァルトになりきって音符の流れを解析し旋律を作って、新作のオペラを作曲するってのはどうだろう!

ちなみに、ここでモーツァルトが生涯に亘って残したオペラを挙げてみよう。

(あいうえお順)

「アポロとヒャアキントス」「イドメネオ」「劇場支配人」「賢者の石、又は魔法の島」「後宮からの誘拐」「皇帝ティートの慈悲」「コシ・ファン・トゥッテ」「第一戒律の責務」「ドン・ジョバンニ」「偽の女庭師」「バスティアンとバスティエンヌ」「羊飼いの王様」「フィガロの結婚」「ポントの王ミトリダーテ」「魔笛」

すっかり馴染みのないオペラを含めて、何と15ものオペラを作曲しておりコンピューターの解析材料(音符、台詞、登場人物の描写など)としては十分な量である。

また、その昔、モーツァルト関連のエッセイの中に(たしかドイツ文学者の「小塩 節」氏だったと思うが)、8歳の頃に作曲した一節が、亡くなる年(1791年)に作曲された「魔笛」の中にそのまま使われており、「彼の頭の中でそのメロディが円環となってずっと流れていたのでしょう。」とあって、それを読んで深~い感銘を受けたことを覚えている。

<三つ子の魂百までも>で天才モーツァルトなら、その“曲風”は生涯を通して変わらなかったに相違ない。まさにコンピューターによって解析できる「申し子」のような作曲家だ。

こうしてみると、音符は文字と同様に記号の一種なのだから「数理文学解析」と「数理音符解析」(?)とを合体して、モーツァルトになりきったコンピューターが新作オペラを作曲するなんてことが何だか夢物語ではないような気になってくるから不思議。

まあ、自分が存命中は無理かなあ・・、いやもしかして(笑)。

この内容に共感された方は積極的にクリック →     


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする