これまで飽きもせずにオーディオを延々と50年近く続けてきたが、長いことが果たしていいことなのか、どうなのか。
文豪「夏目漱石」は若き日の「芥川龍之介」に対して「人は才能の前には頭を下げないが、黙々と働く牛のような努力に対しては自然と頭を垂れるものだ」(要約)と諭したが、おそらく50年もかかってこの程度のサウンドかと人様から嘲笑されるだろうが、せめて飽くなき「努力」だけは認めてもらいたいものだと、ときどき思う(笑)。
さて、長年やってきたオーディオにも「古くて新しい課題」というか、はっきりした結論がいまだに下せないものがあって、そのうちの一つが「プリアンプ不要論」だと思う。
レコードと違って、いわばCDなどのデジタル系に限っての話だが、プリアンプを経由せずにDAコンバーターからパワーアンプに直結して聴く方が音がいいのではないかという説だ。
これまで(このブログでも)この問題を再々にわたって取り上げきたが、結論は「ケースバイケース」というものだった。
平たくいえば、それは個人ごとのシステム環境に大きく左右され、たとえばプリアンプやDAコンバーターの性能の優劣、そしてスピーカーの個性との相性に尽きるというものだった。
あえて個人的な感想を言わせてもらうと、プリアンプを経由したときは「響きが芳醇になるがやや音のフォーカスが甘くなる」、その一方、外したときは「音像がシャープになるが、何だか蒸留水のような味気ない音」になるというもので結局「帯に短し、たすきに長し」の世界だった。
ただし、オーディオは基本的には「シンプル・イズ・ベスト」なので、プリアンプ無しで気に入った音が出てくれればそれに越したことはないと常々思っている。
それに高性能のプリアンプになると結構なお値段になるので節約の意味からも無い方が大いに助かるのは間違いなし(笑)。
さて、このところの長雨で気が滅入りがちなので打開策として前々回のブログに記載したように「JBLの出番」となったが、第二弾として「ウェストミンスター」(改)のシステムから久しぶりに「プリアンプ」を外してみた。
これまで「マランツ7」回路のプリアンプを使って、まったく不満はなかったが、果たしてどういう音になるんだろうという興味本位の実験である。
改めてシステムの流れを述べておくと、
CDトラポ「TL3 3.0」(CEC) → DAコンバーター「HD7A-192」(Phasemation) → パワーアンプ「300Bシングル」(銅板シャーシ) → スピーカー「ウェストミンスター」(改:ワーフェデールの赤帯マグネット・スーパー12内蔵)
プリアンプの接続コードを外してパワーアンプに直結するのだから実に簡単である。ただし音量調整はパワーアンプに付属しているボリュームに頼らなければいけないので初めはゼロ状態に絞っておくことが肝心。
さあ、いよいよ音出しだ。試聴盤はモーツァルトの「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」(K165)。
ボリュームをじわじわ上げていきながら7分目ぐらいでちょうどいい音量になった。これは理想的な位置ですね。
そして、音の感想といえばプリアンプ無しでも十分聴けるなあ(笑)。
もともとウェストミンスターは図体が大きいので、良きにつけ悪しきにつけ響きが豊かだったが、これがほど良い具合になってくれたし、分解能や奥行き感、音像のシャープさは申し分なしだった。
とはいえ、「2週間ほどは様子を見た方がいいよ」と、これまでの「ほろ苦い経験」がそっと耳元で囁いてくる(笑)。
それはひとまず措いておくとして、いろんなソースを次から次に聴いてみたが、歌劇「マクベス」(ヴェルディ)の段になって、もうちょっと雄大な低音域が欲しいなあとつくづく思った。
この「マクベス」はディースカウの豊かなバリトン、スリオティスの超絶的なソプラノにウットリする名盤中の名盤である。
ただし、CD2枚組だが2枚目となると途端に色褪せてきてどうでもいいような陳腐なオペラになってしまう。
原因は作曲家にあるのか、演奏にあるのか、はたまた自分の鑑賞力不足か、いずれにしても素人が軽々に深追いしない方が無難だろう(笑)。
話は戻って、低音不足というのはこの「ウェストミンスター」(改)に限っては致命傷に値するので直ちにアンプを交換する破目になった。
アンプ次第でスピーカーは生きもすれば死にもする。
次の候補は「PP5/400シングル」と「WE300Bもどきの出力管」(モノ×2台)で、両エース級の華々しい一騎打ちである。
何しろプリアンプという色付けが無いので、アンプの実力がもろに出ること間違いなし。
そこで8月31日(土)の午後に、近くの仲間に来てもらい前述の「マクベス」をテスト盤にして「雨の日の品定め」を行ったところ、アッと驚く意外な展開が待ち受けていた。
以下、長くなるので続きは次回へ。
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