去る9月1日付で「近未来、モーツァルトの新作オペラが聴けるかも!」を登載してから1週間あまり経つがどうも気になって仕方がないことがある。
こういう一節を記載していたことを覚えておられるだろうか。
「その昔、モーツァルト関連のエッセイの中に(たしかドイツ文学者の「小塩 節」氏だったと思うが)、8歳の頃に作曲した一節が、亡くなる年(1791年)に作曲された「魔笛」の中にそのまま使われており、「彼の頭の中でそのメロディが円環となってずっと流れていたのでしょう。」とあって、それを読んで深~い感銘を受けたことを覚えている。」
気になって仕方がないこととは、この内容の真偽のほどとその出典元がはたしてドイツ文学者の「小塩 節」(おしお たかし:1931~)氏のエッセイだったのかどうか・・・。
読者におかれてはどうでもいいことかもしれないが、記載した本人にとっては大いに気になる事柄である。
おそらく図書館から借りてきた本だから今さら真偽のほどを確かめようがないものの、簡単に諦めてしまうのも何だか癪だ。
自分がやや粘着質の人間であることをよく理解している積りだが(笑)、「よし!突きとめてみせるぞ」と珍しくヤル気をだしてみた。
こういうときの「ネットの威力」は凄い。
「小塩 節」でググってみると、著作がずらりと並んでいたが、いかにもそれらしき表題が見つかった。「モーツァルトへの旅」。
おそらくこの本ではないかと確信に近いものがあった。在庫の表示があり、本のお値段が20円、送料が260円で併せて280円なり(笑)。さっそくクリックして注文したところ3日ほどで届いた。
かなり薄目の文庫本だったので比較的「組みやすし」と読み進んだが、ようやくお目当ての個所を見つけたときはそれはもう感慨もひとしおだった。
ちなみに本書を最後まで通読した結果、著者はさすがにドイツ生活が長い方だけあって現地にもよく通暁されており、これは最高の「モーツァルト解説本」だと太鼓判を押したくなるほどの出来栄えだった。
上から目線で恐縮だが、日本有数の「モーツァルト通」(自称)が保証するのだから間違いなし(笑)。
ちなみに「日本有数のオーディオ愛好家」と「日本有数のモーツァルト通」と呼ばれるのに、どちらがうれしいかと問われたらもちろん後者だ。芸術的な価値に雲泥の違いがある(笑)。
前置きが長くなったが、それでは押しつけがましくも関係個所(62頁)をそっくり引用させてもらおう。
「モーツァルトが5歳の時に作曲した小品が数奇な運命を経てロンドンのある家庭から「モーツァルト協会」に寄贈された(1956年)のが「アレグロ へ長調」の楽譜だった。
形式もきちんと整ったこの譜を注意深く見ると、人はある有名な旋律を思い出して愕然とする。
この旋律型はモーツァルト最晩年の、彼の創造活動の終局点を示す30年後の大作「魔笛」(K620)の中でパパゲーノが歌うアリア第20番「パパゲーノが欲しいのは・・・」、あのメロディーなのである。
モーツァルトがあんなに小さいときに作曲を始め、そして30年して彼の世界の円環を閉じるとき、彼の心に鳴っていたのはこの懐かしいメロディーだったのである。
専門家はこの旋律が民謡の一節に由来したものであると指摘している。そうだろう、モーツァルトは町や村のちまたの歌を聴いてヒントを得て、多くの作曲をしていった人なのだから。彼は多くの旋律をいくつも作品に繰り返し使っている。いたるところで懐かしい旋律に出会う。
彼はその生涯の初めの幼い日に街で聞こえた何げない民謡のメロディーから無意識のうちにヒントを得てこの作品を創ったのである。」
以上のとおりだが、モーツァルトの僅か35年の短い生涯といえばヨーロッパ各地への旅から旅への連続であり、様々な人との出会い、各地の伝統音楽に接した記憶のすべてが彼の音楽に結実した。
天才モーツァルトにあやかるのはまことに恐れ多いが、この頃幼いときからの記憶が何の脈絡も無しに走馬灯のように巡って来ることがよくある。
結局、人間とは己の記憶ともに生涯歩み続ける生き物なのだろう。
ふと「村上春樹」さんの言葉が蘇った。
「僕らは結局のところ血肉ある個人的記憶を燃料として世界を生きているのだ」。