犯罪者を指導者とは違和感
2017年3月9日
朝鮮労働党(北)の金正恩委員長の残虐、残忍な犯罪、暴挙はまだまだ続きそうです。肉親を毒殺し、側近を虐殺し、国民を見捨てて核ミサイルの開発に狂奔する様子が連日、報道されています。朝日新聞を読んでいましたら、社説で「最高指導者・金正恩委員長」という表現に出会い、絶句しました。えっ、なんで「最高指導者なの」と。
金正男殺害事件は、何年も前から金正恩委員長(以下、肩書略)が命令、指示していたとの報道です。猜疑心が強く、側近でも疑いを持つと、ためらいなく処刑する。独裁国家ですから、重大な決定のほとんどをトップが決めていると考えていいでしょう。国際刑事裁判所規定にある「人道に対する罪」にいくつ該当するか、数えきれないでしょう。
問題の朝日の記事というのは、ミサイル発射を扱った7日の社説です。「北朝鮮の挑発 暴挙の連続が招く孤立」との見出しです。「最高指導者・金正恩委員長の異母兄が殺害された事件では、相互にビザなし渡航を認めていたほどの友好国、マレーシアとの関係も急速に悪化した」というくだりに出てきます。
たかが呼称の問題ではない
「最高指導者」という呼称を使っているのは妙です。金正恩が父親の後継者に決まった当初、肩書は確か労働党第一書記で、正式に父親に代わる「国家のトップ」に就任したことを強調するために、「最高指導者」という呼称がメディアには頻繁に登場しました。この呼称には違和感があり、次第に使われなくなり、久しぶりに朝日新聞の社説で見かけました。
同じ日の毎日新聞の社説は、「日米韓の協調で抑止力を高めよ」との見出しで、「朝鮮労働党の金正恩委員長は大陸間弾道弾の発射が最終段階にあると、言い放っていた」という部分で、「金委員長」という表現を使いました。せめてこの表現にとどめておくべきでしょう。
読売新聞には、時々、「最高指導者」との表現が登場します。「独裁者による恐怖政治はとどまるところを知らない。韓国情報機関によると、金委員長が最高指導者となった5年前から、工作機関は暗殺指示を受けていた」(2月17日、社説)です。5年前にトップになったことを意味するために「最高指導者」と説明し、その前段では「独裁者」と指摘しています。
さらに読売には、「金正男氏の存在さえ、国民に知らせていない。事件を巡る情報が拡大して最高指導者の威信が揺らぐことを恐れている」(3月4日、社説)とあります。「国内における威信」について書いているのですから、この場合なら「最高指導者」との表現は許容範囲でしょう。
米国紙はずばり「独裁者」
米国紙にはずばり、「独裁者」という表現が出てきます。16年7月のウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)紙は「オバマ政権は北朝鮮の独裁者である金正恩労働党委員長に制裁を課すと発表した」と、表現しました。「独裁者」、「委員長」と併記しており、意図するところが分かりやすいですね。
金正恩は、「最高指導」どころか、平然と国民を痛みつける「最低」かつ「反(国際)社会的的」人物という印象ですから、朝日新聞の用語法は無神経です。日本の新聞では、以前、北朝鮮と略さずに朝鮮民主主義人民共和国と書いてきました。民主主義でもないし、人民共和国でもないし、独裁国家なので北朝鮮と略記する新聞が増えてきた時も、朝日はなかなか「北朝鮮」に踏み切らなかった経緯があります。北朝鮮に親近感を持ち続けた過去が尾を引いているのかもしれません。
ジャーナリストは言葉を、文字を選ぶプロフェッショナルであり言葉のチョイスを間違えるとは到底思えません。
報道の倫理、中立性、公平性は勿論の事、何を伝えたいか、どう感じて欲しいかといった観点から社説としての呼称には意味があると思っています。
こういった問題について問題提起するメディアは少なく、最近でも政府が慰安婦像に呼称を統一すると表明した時、朝日は少女像と表記し、匿名ユーザーコメントでの批難の声が大きくなるまで少女像という表記をし続けていました。
メディアを選別する意識も高まって来てはいますがネット社会は未だ未成熟な環境にあり、全ての人が正しい情報を選択出来るとは限りません。
朝日に対して切り込んだ内容の記事を提示した中村氏には賛同と、充分にジャーナリズムに値する、という事をお伝えしたいと思います。