だから活字離れが進む
2020年3月21日
五輪の選手側や複数の国の五輪委員会から「東京五輪の夏開催はもう無理」という声がどんどん大きくなっています。新型コロナの感染がアフリカに拡大し、株暴落の中心的舞台、ニューヨークでは従業員は出勤禁止(自宅勤務)です。ニューヨーク・タイムズ紙は「五輪中止を(キャンセル・ザ・オリンピック)という見出しの論評を掲載しました。
他国で開催するならともかく、開催国の日本の新聞こそ、はっきりした自己主張か提言をすべきです。日本の新聞・テレビは五輪の協賛企業で、利害関係者です。メディアが利害関係者になってしまうと、客観的、中立的な報道ができなくなる。その典型的な現象が日本で起きています。
日経の朝刊(21日)の社会面を広げて見ましょう。「復興の歩み/聖火に重ね/五輪へ宮城で到着式」「住民は元気をくれたと」「復興の火/各地を巡回」とあり、6段の写真も添えてあります。一面のお知らせコーナーでは「東京五輪まであと125日」です。
2面を開きますと、「五輪開催/選手から批判」「IOC・日本政府に逆風」「バッハ会長/違うシナリオ検討」という記事が飛び込んできます。社会面の記事は「順調に準備が進んでいる」と、2面の記事は「もう無理だな」と読み取れます。日経はどっちなのか。読者のことより、自社のふところ懐勘定のほうが心配なのです。
この1週間ほど、「東京開催危うし」の情報は増えるばかりです。多くの国民が関心を持つ五輪なのに、不思議なことに主要な新聞社は社説で取り上げていません。逃げているのです。「延期か中止をせよ」というと、優柔不断なIOCやJOCから「早まったことをするな」と、にらまれる。多額の広告収入が絡んでくるから「延期、中止」は、新聞社として主張しにくい。
こういうケースの場合は、IOCやJOC・日本政府などが正式決定した段階で、「やむお得ない決定だ」「JOCは丁寧に説明せよ」と社説で書くことが多い。重要な問題ほど、社説で新聞社としての見解を掲載することから逃げてしまう。
かなり驚いたのは読売新聞の解説面(21日)の大きなコラムです。「東京五輪の延期は難しい」と、署名入りの大きな見出しです。肩書は調査研究本部客員研究員とあり、読売を代表する筆者でしょう。一面の半分近いスペースを割いています。
広告収入が多額で、読者対策にもなる五輪特集を次々に掲載できるから、新聞社としては、新型コロナが終息して、なんとか予定通りの開催にこぎつけたいと願う気持ちは分かります。
「延期という選択肢は現実的か」と自問し、五輪関係筋の話を紹介します。「中止はあっても延期は考えにくい。五輪会場となる施設は2年先まで、各種のイベントの予約で埋まっている。3年先となると、次の五輪まで1年しかなく、中止せざるを得ない」と。
そうなのでしょう。1年延期でも、来年の同じ時期に、五輪並みのビッグイベント「世界陸上選手権」の予定が決まっています。時期を調整するにしても、五輪も世界陸上も、というわけにはいきません。スポーツの花、人類最速を競う「男子100㍍」を同じ年に重ねるわけにはいきません。
こうしたバッティングがあちこちで起きるから、IOCやJOC・政府の早期決断が必要なのです。私も19日に「五輪の延期決定が遅れると中止の事態も」というブログを書きました。読売は社説でなく、大型コラムで「中止しかない」との態度表明をしたのかというと、どうもそうではない。
コラムは「中止なら7.8兆円の経済損失が発生し、日本経済は大打撃を受ける」「政治責任が持ち上がり、安倍政権を直撃する」と、指摘します。この金額は広告・CM料収入、観客の来日特需、ホテル収入などを含むわけで、得られるはずだった利益との比較ですから、「大打撃」は誇張です。むしろ新型コロナによる経済停滞、バブル崩壊のマイナス効果こそ「大打撃」なのです。
それでコラムの結論はというと、「世論は冷めている。共同通信の世論調査では、開催できないとの回答が約70%に上った」です。中止に反対しているようでもあり、反対はやむなしでもある。要するにどうしたらいいのかの言及を逃げている。これでは読者も新聞から逃げる。
日本のIOC委員の「延期すべきだ」「選手が十分かつ公平に準備できていない」という発言、英タイムズ紙が紹介した「延期は90%確実」という専門家の指摘、米国水泳連盟の「1年延期を」の要請という現実に対し、開催国のメディアはきちんと自己主張をしなければなりません。
五輪がますます商業主義化してカネがかかり、五輪の開催国になるとカネが入り、景気浮揚にもなり、政治的評価につながる。開催を強行して難問だらけ、延期・中止しても難問山積です。メディアはその連鎖の輪の中におり、明確な意思表示ができない。そう思います。
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