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言論戦でなく宣伝戦の場と化す米国の議会制民主主義

2019年12月20日 | 政治

 

ネット社会が歪める政治的正義

2019年12月20日

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展」について、劇作家の山崎正和氏が新聞のコラム(12/2、読売)で、「企画者は表現と主張を取り違えている」と指摘しました。「なるほど」と、思いました。「表現の自由」を侵すなと言いながら、「展示品企画展がイデオロギーを背負った宣伝手段(主張)の場になっている」と、批判したのです。芸術ではなく、宣伝物だと。


 米議会下院がトランプ大統領を弾劾訴追する決議を可決しました。共和党が過半数を占める上院は弾劾を否決する情勢です。そのニュースに接して、山崎氏の指摘を思い出しました。米議会は「言論の自由」を取り違え、「党利党略のための宣伝戦」の場に化しているのです。言論の府であるはずの議会は「言論の自由」の場ではなく、選挙のための宣伝戦術の場ですね。


 米国は世界を代表する民主主義の国でした。表現の自由、言論の自由の先頭を走る国でした。何が政治的、社会的正義かをめぐり、言論戦を通じて一致点を見出していく。なりふり構わず、大統領再選のためには、品性を捨てさるトランプ氏の登場で、その姿はすっかり失われてしまいました。


議会の多数決では決められない正義


 何が法的な正義であるかを、議会の多数決で決めるのは、おかしいと私は思ってきました。議会は政治的な利害対立、駆け引きの場です。合法、違法を裁判所が判定するならともかく、思惑で動く議会はその場としてふさわしくない。弾劾裁判では、最高裁長官が裁判長を務めるにしても、全上院議員が陪審員になり、多数決で判定を下す。正義が政治的な思惑で決まってしまう。


 弾劾の規定は230年前に、合衆国憲法に盛り込まれました。大統領にふさわしくない人物を罷免するのが弾劾ですから、議会の多数決主義にその権能を与えたのでしょう。言論の自由に基づき、公正な議論が行われるはずという確信があったからでしょう。それが崩壊してしまった。


 トランプ氏への支持率は、この2,3か月で40%から45%程度に上がっているそうです。トランプ氏を排除させないために、議員、有権者が結束を固めてしまったという解釈です。トランプ氏が民主党下院を「政権転覆の試み」「魔女狩り」と誹謗するのは、喝采する有権者がいることを意識している。


 「何が正義か」より、「自分たちに何をしてくれるか」を有権者は望んでいる。グローバル化、格差拡大で階層、地域が分断され、政治家が囲い込む。世論調査やネット上での反応を見て、政治行動を決めている。言論の自由より、選挙最優先の宣伝戦術の重視です。下院の採決で、民主、共和党から脱落者は出ませんでした。思考停止の状態なのでしょう。


膨大な情報を前に狭くなる視野


 言論の府はどこへは、日本も似ています。「ネット社会の中で膨大な情報が溢れているのに、人間の視野はどんどん狭くなっている。ネットだと、自分の関心のあるニュースしか入ってこないし、アクセスしない。思考停止ということになる」(近現代史家の半藤一利氏)。


 野党は「桜見の会」の追及に最大のエネルギーを使い、財政赤字問題のように、テレビのワイドショーに向かないテーマにはのってこない。政権与党も「全世代型社会保障」とかを掲げながら、やっていることは社会福祉予算のばらまきです。言論の府にふさわしい論戦がないのは双方に責任がある。


 溢れるほどの言論の自由がありながら、それを行使しない。選挙戦術、宣伝戦術ばかりに気を奪われています。ネット社会化が進む世界共通の現象でもあり、「何が正義か」はどうでもいい。「弾劾が見せつけているのは、混迷と凋落が続く米国の嘆かわしい姿」(朝日新聞社説)と嘆くなら、何が正義かを議会の多数決に委ねている米国憲法のおかしさを嘆いてほしい。


 

 

 

 


 


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