今日から4月ですが、今日は昨日より寒くなり、冷たい雨も降り続きました。令和7年度の始まりだというのに、この寒さは身体に堪えます…。
ところで、今日4月1日はラフマニノフの誕生日です。

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873〜1943)はロシア帝国出身の作曲家・ピアニスト・指揮者です。
セルゲイ・ラフマニノフは1873年4月1日(当時ロシアで使われていたユリウス暦では3月20日)、ロシア帝国のノヴゴロド県セミョノヴォで下級貴族の家に生まれました。ラフマニノフ家は音楽家の素養を持つ家系で、セルゲイの祖父アルカディ・アレクサンドロヴィチや陸軍の将校だった父ヴァシーリイ・アルカジエヴィチはアマチュアのピアニストで、父親はピョートル・ブタコフ将軍の娘リュボーフィ・ペトローヴナと結婚し、その際に妻の持参した5つの地所を手に入れていました。
ヴァーシリイ夫妻は3男3女を儲け、セルゲイはその第3子でした。父親は音楽の素養のある人物でしたが妻から受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたといいます。
1877年、セルゲイが4歳になった後、一家はセミョノヴォから180km離れた豊かな自然に恵まれたオネグの地所に移り住み、セルゲイは9歳まで同地で過ごしました。セルゲイは4歳のとき母からピアノのレッスンを受け始め、彼女が弾いたパッセージを1度聴いただけで完璧に再現する息子を見て、母が彼の音楽の才能に気づいたとされていますが、姉たちの家庭教師をしていたドゥフェール夫人がセルゲイに宛てた1934年の手紙によると、ドゥフェール夫人が歌唱する際に母親の伴奏を聴いて暗譜したセルゲイが後日夫人の前で演奏を披露し、それを彼女が両親に報告した…とあります。
この話を聞いた祖父アルカディに説得された父ヴァシーリィは息子のためペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナツカヤを招き、セルゲイはラフマニノフ家に住み込んだ彼女からレッスンを受けることとなりました。後にセルゲイ自身、
「彼女が最初の音楽の先生だった」
と語っていて、歌曲《12のロマンス 作品14》の第11曲『春の水』をオルナツカヤに捧げています。
そんなセルゲイ・ラフマニノフの誕生日である今日は、《交響曲第1番ニ短調 作品13》をご紹介しようと思います。ラフマニノフは1891年に『ユース・シンフォニー』と通称される単一楽章の《交響曲 ニ短調》を作曲していますが第1楽章だけであとは未完のため、完成した交響曲としては事実上この作品が初めてのものとなります。
ラフマニノフは、20歳の1892年にモスクワ音楽院を首席で卒業すると、有名な《前奏曲嬰ハ短調 作品3-2》を作曲して熱狂的な人気を獲得しました。1895年になると交響曲の作曲に取り掛かり、約8か月で《交響曲第1番ニ短調 作品13》を完成させました。
交響曲は1897年3月15日にペテルブルクで初演されましたが、この初演は記録的な大失敗に終わってしまいました。失敗の原因は作曲家でもあるアレクサンドル・グラズノフ(1865〜1936)の指揮に問題があったともいわれていますが、『ロシア五人組』の一人であった作曲家ツェーザリ・キュイ(1835〜1918)に酷評されるなど散々なもので、ラフマニノフはその後約3年もの間作曲活動がままならないまでに大きな精神的ダメージを受けてしまいました。
初演の失敗もあり、《交響曲第1番》はラフマニノフによって出版が禁じられていたため、次第に忘れられていきました。しかし、ラフマニノフの死後の1945年に初演時のパート譜が発見されると同年10月17日にモスクワで復活初演され、1947年にはソヴィエト国立音楽研究所(当時)によって楽譜が出版されて世界的に知られることとなりました。
この《交響曲第1番》は、曲の冒頭に提示されるモチーフが全楽章を貫いていて、名曲の誉れ高い《ピアノ協奏曲第2番ハ短調》や《交響曲第2番ホ短調》などのように甘い旋律を歌い上げるというよりかは、リズムや対位法に重点が置かれている作品です。最後の第4楽章は多くの打楽器を伴う華やかなニ長調の曲ではありますが、変ロ音や変ホ音という♭の音を多用することでニ短調の第1楽章を想起させて全体に統一感を与えていて、最後には重々しく結ばれます。
そんなわけで、今日はラフマニノフの事実上の初めての交響曲である《交響曲第1番ニ短調 作品13》をお聴きいただきたいと思います。ミハイル・プレトニョフ指揮によるロシア・ナショナル管弦楽団の演奏で、有名な第2番に先駆けるラフマニノフ初の交響曲をお楽しみください。