共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

《里の秋》の真の姿を

2024年10月31日 17時17分17秒 | 音楽
今日は、勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室の日でした。ところが、蓋を開けてみたら子どもが2人しか来なかったのです。

何事かと思ったのですが、すぐに理由が分かりました。今日は10月31日…そう、あの乱痴気南瓜祭り当日であり、多くの子どもたちは珍妙な仮装をして菓子をせびりに街へ繰り出してしまったのです。

折角来てくれた子どもたちを、大人たちが総出でもてなすような感じになってしまいました。用意した工作はほとんど無駄になってしまいましたが、仕方ありません。

今日も最後に歌を歌って終わることにしました。今月の歌は、小学4年生の音楽の教科書に掲載されている《里の秋》です。

《里の秋》といえば、





ここまでは皆さんも教科書で習ってご存知かと思います。この歌詞を読むと、どうやらこの家庭には父親が不在であることが読み取れますが、『何故に父親が不在であるのか』が分かりません。

しかし、昨年も書きましたがこの曲には意図的に削除された『幻の3番』が存在しています。それは



というもので、これを読めばこの家庭の父親が南方戦線に徴兵され、未だに帰ってきていないのだ…ということが明らかになるのです。

《里の秋》は、終戦後にラジオで放送されていた『復員だより』という番組の主題歌でした。かつて多くの人が肉親の帰還を待ちわび、縋るような思いで聴いていたこの曲の肝を、『なぜか』文部省(現文部科学省)はザックリとカットしやがったのです。

文部科学省はどういうつもりか知りませんが、小学生の時からこの3番の存在を知っている私は、しっかりと子どもたちに《里の秋》の真の姿を伝えていくことにしています。今年もしっかりと…と言っても2名だけですが、それでも子どもたちに教科書から抹殺されてしまったフルコーラスを教えることができました。

明日から11月、2024年も残すところあと2ヶ月となりました。週末にかけては台風21号から変わった熱帯低気圧の影響で天候が荒れるようですが、さてどうなりますやら…。

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穏やか小学校と収めの『パンプキンワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年10月30日 18時30分15秒 | カフェ
今日は、比較的穏やかな一日でした。それでも、昨日刃傷沙汰を起こした子だけは、終始私を遠巻きに睨みつけていました。

今までも勝手に大立ち回りして数々のイザコザを作って、その度に自身を正当化して他人に責任を押し付けてきた子ですから、当然ながら反省なんぞしてはいません。そして、本当はいけないのでしょうが、こちら側としても最早その子には心の中で何も期待しないようになってしまっています。

その子が『他者に本気で接してもらえない』ことの本当の恐ろしさを実感するのはまだまだ先のことでしょうが、だからといって18歳で成人と見なされる現代にあっては、そう遠くない未来とも言うことができるでしょう。その時を迎えたら、あの子は一体どうなるのでしょうか…。

そんなことを考えながら小学校を退勤して、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日で10月の限定メニューが終了してしまうので、今日は



今月限定メニューの『パンプキンワッフル』をオーダーしました。

お店の看板メニューのクロワッサン生地のワッフルにダイスカットしたカボチャとカボチャの種が散りばめられ、キャラメルソースがかけられています。アイスクリームの上には紫芋のモンブランがあしらわれ、ハロウィンカラー満載のワンプレートとなっています。

明日はお店の定休日で、週明けからは11月になるので、また限定メニューが一新されます。《雫ノ香珈琲》は11月が開店アニバーサリーなので、どんな限定メニューが登場するのか楽しみです。

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刃傷事件発生!

2024年10月29日 18時18分18秒 | 日記
今日、勤務先の小学校で、以前から恐れていたことが起きてしまいました。

今日、支援級で図工の授業があったのですが、ひとりの子が自分の思った通りに作品が出来上がらないことにイライラし始めました。この子は普段からその傾向が著しく強い子なので、この時まだ周りは子どもも大人も

『またか…』

くらいに思っていました。

ところが、今日は殊の外虫の居所が悪かったのか、その子は作りかけの作品を床に投げつけ、ハサミを振り回して奇声を発し出しました。さすがに事が事だけに担任が窘めたのですが、その子は担任に向かって

「うっせえ!黙れ◯ソ先公!!」

と暴言を投げつけて、ハサミを手にしたまま突進していったのです。

丁度ふたりの間に立っていた私は、咄嗟に手を出して止めようとしました。その時、急に攻撃先を私に変更したその子のハサミが私の腕に命中して



腕時計にキズがついてしまったのです。

避けた弾みでほんの少しその子に腕が当たったのですが、その瞬間、自分が担任に暴行を加えようとしていたことをチョモランマの頂に蹴り上げて有らん限りの量の涙を流しながら

「暴力教師だ!教育委員会に訴えて◯ビにしてやる!!!!!!!!」

と、私の足を踏みつけにかかったのです。これには、さすがに面食らいました。

一応申し上げておくと時計にキズがついただけで、腕そのものは負傷しませんでした。また、足を踏みつけにかかってきた時も、その足を苦笑しながらヒョイヒョイと避け続けたので実害はありませんでした。

しかし、何しろ子どもとはいえ刃傷沙汰に及んだのですから、こうなるとさすがに捨て置けません。その子の保護者を呼びつけて、大騒ぎに突入してしまいました。

応接室に当事者の子どもとその親・教頭・担任・私が揃い、事実確認が始まりました。

その子はいつもするように、いかに自分が被害者であり、私がとんでもない暴力教師であるかを親や教頭に涙ながらに語りました。その間、担任が反論しようとしましたが、私がそれを制して言いたいだけ言わせることにしました。

一頻り喋り終えたその子は『我が意を得たり』と言わんばかりの満足気な顔をしていました。しかし、その子にとって誤算だったのは、ここに誰一人として自身の味方がいなかったことでした。

私は極めて冷静に事の顛末を説明し、キズのついた腕時計を証拠として提出しました。すると、その子の親が私に向かって

「うちの子が大変なことをしでかしまして、本当に申し訳ございませんでした。」

と深々と頭を下げたのです。

自身が思ったのと180度違う方向に話が進んだことに驚いたその子は

「なんで!?なんでお母さんがコイツに謝るの!!??」

と抗議していました。しかしその子の親は

「黙りなさい!」

とその子を一喝したのです。

聞けば、その子は家でも下の兄弟に日常的に暴力をふるい、やり返されるとあたかも自身が被害者であると言わんばかりに泣き叫んで同情を乞うのだそうです。そうした狡猾な部分を始めは見過ごされていたようですが、それでもあまりにもそうした大騒ぎが続くと、むしろその子に疑惑の目が向けられるようになっているのが現状なのです。

小学校には謹慎処分というものがありませんから、その子は親が休ませない限りは明日からも学校に登校してきます。そうなった時にどのように対処するのか長い時間をかけて話し合いが続きましたが、その間その子は自分の憐れみ芝居を打ち砕かれたことに苛立ち、さりとて親の手前静かにしていなければならず、俯いた前髪の隙間から私をずっと睨みつけていたのでした。

勿論、昭和時代の鉄拳教師を肯定するつもりは毛頭ありませんが、こうした凶暴な小学生が存在しているということについて、教師側にも自身を護る術は持たせるべきだと思います。今回の刃傷沙汰は、こうしたことも起きうるという支援級の在り方を改めて考えさせられる事件となりました。

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すっかり無かったことに…

2024年10月28日 18時45分00秒 | 日記
今日は先日の運動会の代休で、一日お休みでした。朝から肌寒く雨も降っていましたから、こんな日に出かけずに済んでよかったな…と思います。

午後になって雨も止んだので、放課後子ども教室で使う工作の材料を買いにダイソーに行きました。すると、まだハロウィンが終わっていないにも関わらず、



店内はすっかりクリスマス仕様に変わっていました。

商業ベースというものは常に先へ先へと行くものですが、それでも今からクリスマスはちょっと面食らいます。それでも、あの黒と紫と橙の下品な色味から解放されたと思えば喜ばしい限りです(笑)。

明日が実質的な週明けとなりますが、子どもたちがどんな様子で登校してくるのか、何となく想像がつくようなつかないような…。まぁ、明日の朝の様子を確認してみることにしましょう。

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今日はドビュッシー《夜想曲》初演の日〜個人的に忘れ得ぬ名曲

2024年10月27日 15時55分51秒 | 音楽
昨日の運動会の疲れを引きずりまくって、今日は昼過ぎまで寝ていました。目覚めてからもそのままウダウダしていようかとも思ったのですが、今日が衆議院議員選挙の投票日なことを思い出して、渋々投票所まで行ってきました…。

ところで、今日10月27日はドビュッシーの《夜想曲(ノクチュルヌ)》が初演された日です。《夜想曲》は、



クロード・ドビュッシー(1862〜1918)が1897年から1899年にかけて作曲した管弦楽曲で『雲』『祭』『シレーヌ』の3曲からなる一種の組曲となっている作品です。

《夜想曲》というと、一般的にはショパンの《ノクターン》を想像する方が多いかと思います。一方、ドビュッシーはこの曲について

「《夜想曲》という題名は、ここではより一般的な、とりわけいっそう装飾的な意味で理解されるべきです。だから夜想曲という慣行の形式を意味するのではなく、さまざまな印象と光の特別な効果のすべてを意味します。」

と述べていて、音楽上の形式で捉えるのではなく、より広い意味で、且つより絵画的に説明しているものであることを示しています。

ドビュッシーが《夜想曲》完成に至るまでの道のりはかなり長いもので、前身的存在といえる作品が2つありました。

◎《3つの黄昏の情景》(Trois scènes au crépuscule )

初めて《夜想曲》の前身となるこの作品について言及が為されたのは1892年9月のことで、この当時ドビュッシーは手紙で

「《3つの夕暮れ(黄昏)の情景》がほぼ完成しました。」

としたためています。この《3つの夕暮れ(黄昏)の情景》は、20世紀フランスの最も重要な詩人の一人とされているアンリ・ド・レニエ(1864〜1936)の『古代ロマネスク詩集』から着想を得たものとされていますが、結局完成することはありませんでした。

◎《独奏ヴァイオリンと管弦楽のための『夜想曲』》

ドビュッシーは構想を練り直し、1894年8月に《ヴァイオリンと管弦楽のための『夜想曲(ノクチュルヌ)』》という題名を付けるとともに、同年9月にはヴァイオリニストのウジェーヌ・イザイ(1858〜1931)に宛てた手紙の中で、この構想について

「第1曲は弦楽器だけで、第2曲はフルート(複数)、4本のホルン、3本のトランペットと2台のハープで、第3曲はそれら2種類の楽器の組み合わせを結合した形で演奏されます。」

「これは実際のところ、実験です。絵画でなら、さしずめ灰色のエチュードといった、ただひとつの色のなかで可能なさまざまなコンビネーションを探求する実験です。」

と紹介しています。しかし、のちにイザイとの関係が悪化してしまったことから、この構想も立ち消えとなってしまいました。

そして1897年12月になって、ようやく現在の形での《夜想曲》の作曲に着手することになりました。因みにここに至るまでに、ドビュッシーは歌劇《ペレアスとメリザンド》(1893年)に着手していたり、《牧神の午後への前奏曲》(1894年)を完成させたりしています。

《夜想曲》は、先ず『雲』と『祭』の2曲を1900年12月9日にカミーユ・シュヴィヤールが指揮するラムルー管弦楽団の演奏でパリで初演されました。そして翌1901年の10月27日に、同じコンビで全3曲の初演が同じくパリで行われました。

1. 雲 (Nuages)

空の雲のゆっくり流れて消えていく様を描写した曲で、冒頭に「セーヌ河の上に垂れこめた雲」を表すクラリネットとファゴットの動機が現れます。4分の6拍子のリズムに「汽船のサイレン」を表すコーラングレの旋律が4分の4拍子のポリリズムで絡み、拍節感がぼやけさせられています。

ソロを除き常に弱音器がつけられた弦楽器は、ヴァイオリンは第1、第2がそれぞれ6分割、合計12分割もの分奏によって細分化されていて、弱音器をつけたホルン、低音域のフルートなどと共にこの曲独特の『灰色』の質感を作り上げています。中間部でハープを伴ったフルートが東洋的な五音音階の旋律を奏でますが、これは1889年のパリ万国博覧会でドビュッシーが聴いたジャワのガムランの影響であると考えられています。

2. 祭 (Fêtes)

祭の盛り上がりと祭の後の静けさが描かれている曲で、ff の空虚五度(ドとソだけの和音)によるリズムが弦楽器によって刻まれ、木管楽器がスケルツォ風の駆け巡るような主題を奏でます。強烈なハープのグリッサンドに導かれて、活発な3連符のリズムに乗って進行する祭りの音楽が唐突に中断すると、ティンパニとハープの弱奏にのって遠くから幻影のような管楽器の行列が近づいてきます。

やがて祭りの主題と行列の主題が同時進行し溶け合うクライマックスを迎え、その後、諸主題を回想しながら消え入るように終わります。終盤では、トランペットによって次の『シレーヌ』の序奏がさりげなく予告されます。

3. シレーヌ (Sirènes)

シレーヌとはセイレーンとも呼ばれていて、美しい歌声で船乗りたちを惑わし船を難破させてしまう伝説の人魚のことです。この曲ではトロンボーン、チューバ、ティンパニと打楽器は使われていない代わりに歌詞のない女声合唱(ヴォカリーズ)が加わられていて、月の光を映してきらめく波とシレーヌの神秘的な歌声が、精緻なオーケストレーションによって表現されています。

私も随分昔に演奏に参加したことがありますが、個人的にかなり印象深かったこともあって、今でもその時のことをよく覚えています。またいつか演奏する機会は…あるかな?

そんなわけで、今日はドビュッシーの《夜想曲》をお聴きいただきたいと思います。ミッコ・フランク指揮によるフランス放送交響楽団の演奏で、浮遊感が支配するドビュッシーの音世界をお楽しみください。


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神頼み全開!運動会

2024年10月26日 16時25分55秒 | 日記
今日は運動会本番の日でした。天気予報で雨の心配はないとのことでしたが、念には念を入れて、



我が家の神棚から相模國一之宮・寒川神社の『御来光守』を持ち出して、ネームカードホルダーに入れて首からぶら提げていました。

一之宮の御神徳か、はたまた昨日小田原総鎮守にお参りしたからか、今日は曇天模様ながら雨は一滴も降ってこず、無事に運動会を開催することができました。関係者一同、今日で決めたいと思っていましたから、本当によかったです。

子どもたちは皆、一生懸命に競技やダンスに取り組んでくれていました。昨日まで

「絶対にやらない!」

と言い張っていた支援級の子も、今日はしっかりと参加してくれていました。

寄る年波なのでしょうが、子どもたちの一生懸命な姿を見ると涙腺が緩みます。ましてや普段から我が儘放題やりたい放題の子たちですから、感慨もひとしおなのです。

全ての競技を終えてから、6年生と大人たちとで撤収作業をしました。退勤したからは、もちろん



小田原総鎮守・松原神社にお礼参りに参じました。

今日はものすごく疲れました。帰宅してシャワーを浴びたら、即寝ます…。

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小田原総鎮守に神頼み

2024年10月25日 17時30分10秒 | 神社仏閣
いよいよ明日は運動会本番です。朝から何だかぱっとしない陽気でしたが、どうにか雨は降らずに済みました。

子どもたちも大人たちも、ダンスに使う小物の確認や、競技に使用する道具の用意に余念がありません。子どもたちが帰った後も、大人たちでコースに杭打ちをしたりロープを張ったりと大童になっていました。

あとは明日の本番を迎えるばかり…となりましたが、それでも何となく天候に対する不安が拭えません。ということで、小学校を退勤してから



小田原総鎮守の松原神社に参詣しました。

ここまで、子どもも大人も多くの時間を割いて練習を重ねてきました。特に先生方は夏休み中からダンスの選曲や振り付けを考えておられましたから、それが明日結実すると思うと感慨深いものがあります。

あとはとにかく、開催中に雨が降らないことだけです。何をおいても、無事に終わることを願います。

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今日はカール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフの祥月命日〜《ヴィオラとヴィオローネ(コントラバス)のための二重奏曲 変ホ長調》

2024年10月24日 17時30分17秒 | 音楽
今日は勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室の日…なのですが、学校側の都合で開所しないことになりました。なので、今日は週末の運動会に向けてゆっくりと鋭気を養うことにしました。

ところで、今日10月24日はディッタースドルフの祥月命日です。



カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ男爵(1739〜1799)は、ハイドンやモーツァルトと同時代のウィーンに生れ、ボヘミア・ノイホーフ(チェコ)で没した作曲家・ヴァイオリン演奏家です。

『…誰?』

と思われるかも知れませんが、生前はモーツァルトを凌ぐ名声を得ていた作曲家で、もとは『カール・ディッタース』と称していましたが、のちに貴族に列せられて『ディッタースドルフ男爵』と称しました。

カール・ディタースの父親は、神聖ローマ皇帝カール6世の下で宮廷劇場の衣装デザイナー(刺繍職人)としての地位を得ていました。息子カールの音楽への興味に対して身近な音楽家たちを教師に頼み、息子は期待通りの成長をしていきました。

その後ディッタースドルフは1761年、22歳の時に、



25歳年長のクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714〜1787)が1752年から楽長をしていたウィーンの宮廷歌劇場管弦楽団のメンバーとなり、1763年、24歳の時にグルックと共にイタリアを旅行しました。1765年から1769年にかけて



ハイドンの実弟ミヒャエル・ハイドン(1737〜1806)の跡を継ぎ、ハンガリーのグロースヴァルダイン(現ルーマニア、オラデア)の司教の楽長を務めました。

1772年、33歳の時に



オーストリア大公妃マリア・テレジア(1717〜1780)によって貴族に列せられたことにより、フォン・ディッタースドルフという家名が付け加えられました。1786年、47歳の時にオペラ《医師と薬剤師》を作曲するとケルトナー・トーア劇場で1788年に初演されて大成功をおさめ、当時モーツァルトの栄光をすっかり奪ったと伝えられています。

1795年、56歳の時にパトロンであった領主司教シャフゴチ伯爵の死後、かろうじて生活が可能な年金を受けるようになりますが、その後、関節炎と貧しさの中でイグナーツ・フォン・シュティルフリート男爵からボヘミアの領地ロート・ロータの住居を提供され、家族と共に生活することとなりました。そして1799年10月24日、ロート・ロータの近くにあるノイホーフ城で死去しました(享年60)。

ディッタースドルフというと《コントラバス協奏曲》を残していることからコントラバス奏者だったと誤解されることもありますが、実際はブルク劇場で定期演奏会が開催されていたほどのヴァイオリン演奏の巨匠で、当然ヴァイオリン協奏曲も多数作曲しています。ディッタースドルフの作品は好評に迎えられ、1760年代初期にはハイドンや



ヨハン・バプティスト・ヴァンハル(1739〜1813)らと並んで、ウィーンでの楽壇の指導的な立場にあったといい、ハイドン、モーツァルト、ヴァンハルとは弦楽四重奏を組んだこともあるそうです。

そんなディッタースドルフの祥月命日にご紹介するのは《ヴィオラとヴィオローネのための二重奏曲変ホ長調》です。

この曲は私が学生時代にたまたま見つけた楽譜を買ってきて演奏してみたのことあるもので、ヴィオラとヴィオローネ(コントラバス)という何とも地味な楽器の組み合わせで書かれています。ただ、この曲に関しての来歴が昨今のネット社会においても全く分からず、楽譜にも何の説明も書かれていないため、詳細は不明です。

ディッタースドルフはこの組み合わせで《ヴィオラとコントラバスのための協奏交響曲 ニ長調》という曲も作曲していますし、この時代には珍しい《コントラバス協奏曲》も書いていることから、ディッタースドルフの周りにかなり腕のたつコントラバス奏者がいたことは確かなようです。実際に演奏してみると、コントラバスとヴィオラが丁々発止に歌い合えるこの作品は、小品ながらかなり弾きごたえがあります。

そんなわけで、ディッタースドルフの祥月命日である今日は《ヴィオラとヴィオローネ(コントラバス)のための二重奏曲 変ホ長調》をお聴きいただきたいと思います。ヴァイオリンやチェロといった花形楽器が一切登場しない、何とも渋い響きの古典派音楽をお楽しみください。


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複雑な支援級サポートと『ぶどうのパフェ』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年10月23日 20時30分00秒 | カフェ
今日は生憎のお天気でしたが、それでも小学校では明々後日に迫った運動会の練習が続きました。それでも、支援級の子たちは何かと理由をつけてサボろうとするので、こちらもいろいろと大変です。

ただの怠け心だったら叱り飛ばしてしまえばいいのですが、一人複雑な家庭環境の子がいて大変なのです。というのも、その子の家は言うなれば質の悪いネグレクトで、こちらが呆れ返るくらい子どもに興味関心がないのです。

なので、その子の親は二親とも運動会や授業参観に来たためしがありません。子どもの方もそれを分かっていて、グダグダしているのを注意されると

「どうせやったって、誰も見に来てなんてくれないもん!」

とプイと横を向いてしまうのです。

これには大人たちも困ってしまうのですが、私はとにかく何か言わなければいけない、と思って

「お父さんお母さんが見てくれないなら、先生(私)が穴の空くほど見ててあげる。〇〇はみんなの輪の中に入ったらきちんとできるんだから、みんなと一緒にいい自分の思い出を作ろう?」

と言っています。

それがどれほどその子の心に響いているかいないかは別として、少なくともそれを言う前ほど頑強に拒否することが減ってきているような気がします。果たしてこれが意味があるのかどうか分かりませんが、せめて間近に迫った本番にその子が参加できるよう、できるだけのサポートはしていくつもりです。

そんな小学校勤務を終えてから、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は



先週フラれた『ぶどうのパフェ』をオーダーすることにしました。葡萄尽くしのスイーツと美味しいコーヒーとで、すっかりリフレッシュすることができました。

明日以降、関東では雨は降らないようですが、その代わりすっきりとしない曇天模様が続くようです。せめて土曜日まで雨が降ることのないよう、今から願うばかりです。

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何か違うのよね…

2024年10月22日 16時16分16秒 | 音楽
今日も小田原の小学校では、いよいよ今週末に迫った運動会の練習でもちきりでした。特に先生方が不安があるのかダンスに結構な時間を割いて練習に充てていたのですが、何度も踊らされる子どもたちは一様にヘロヘロになっていました。

とは言え、他の授業もあるため、そちらの学習支援にも入っていました。そんななで中学年の音楽の時間があったのですが、そこで



ソプラノリコーダーの高音域の奏法の学習がありました。

日本人なら必ず通る道ですが、リコーダーの高いミから上の音域を演奏するために『サミング』という技が必要となります。これはリコーダーの裏面にある



サムホールという左手親指で押さえる穴を、ほんの少し開けるというものです。

ただ、ここで私は又してもジェネレーションギャップを感じることとなりました。というのも、私が小学生だったン十年前のサミングは



サムホールに親指の爪を立てるように教わったのですが、現在では



わずかに親指をズラして隙間を空けるように教えているのです。

時代が変われば奏法も変わるのでしょうが、どうも私は腑に落ちません。それでも、今の子どもたちに昭和式を教えるわけにもいきませんから、何とかして後者のサミングを会得する必要に迫られてきました。

先日のローマ字もそうですが、これまで何十年も常識として使っていたことを、いろいろと認識を新たにする必要がありそうです。とりあえず、先生出直してきます…。

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今日はヨハン・シュトラウス2世《皇帝円舞曲》初演の日〜ブラームスも絶賛したウィンナワルツの名曲

2024年10月21日 17時00分17秒 | 音楽
今日も涼しい一日となりました。朝は寒かったくらいで、寒くて目が覚めてしまったほどでした。

さて、今日10月21日は《皇帝円舞曲》が初演された日です。《皇帝円舞曲》作品437は、



ヨハン・シュトラウス2世(1825〜1899)が1889年に作曲した演奏会用のウィンナ・ワルツで、日本では原題のまま《カイザー・ワルツ》と呼ばれることも多いようです。

《皇帝円舞曲》はヨハン・シュトラウス2世の晩年の作品の中では最も高い人気を誇っている作品で、シュトラウス2世の『十大ワルツ』に数えられています。特にその中でも、《美しく青きドナウ》《ウィーンの森の物語》とともに『三大ワルツ』に数えられています。

1889年10月19日、ドイツ帝国の首都ベルリンで『ケーニヒツバウ(国王の建築)』と命名された新しいコンサートホールが開場することとなり、10月19日から5日間の『こけら落とし演奏会』が催されることとなりました。著名な音楽家たちに作曲・指揮の依頼が行われ、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世も依頼を受けた音楽家の一人でした。

シュトラウス2世は当時新作オペラの作曲に取り組んでいて多忙だったことから、一度はこの依頼を断ろうとしました。しかし、五夜にわたる祝典演奏会の最初に指揮するという名誉ある要請であったことと、楽団が総勢100人という大構成で報酬も良かったことから、結局シュトラウス2世は考え直してこの仕事を引き受けることに決めました。

発表当時、この曲は《手に手をとって》(Hand in Hand)という題名でした。この演奏会には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の臨席が予定されていて、《手に手をとって》は独墺両国の親善を祝う意味でつけられた曲名でした。

後にベルリンの楽譜出版社ジムロックが曲名を《皇帝円舞曲》と改めたほうがよいと強硬に主張し、シュトラウス2世がこれを受け入れたことで現在の曲名に変更されました。初演日は10月19日ではなく2日後の10月21日にずれ込んでしまいましたが、それでも予告通り100人編成の大オーケストラによって演奏されて大成功を収めました。

このワルツは



ブラームス(1833〜1897)からも大いに称賛を受けました。



ブラームスとシュトラウス2世は大の親友でしたが、ブラームスは当時シュトラウス2世のことを年老いて創造力が減退したと思っていたようでした。しかしそんなブラームスも《皇帝円舞曲》については非常に好意的にとらえていて、

「この作品は管弦楽法が素晴らしいので、見事に鳴るのだ。しかし結局、魅力の秘密なんか考えても仕方がない 」

などと語っていて、ジムロック社からこのワルツの楽譜が出版されることを心から喜んだといいます(因みにシュトラウス2世にジムロック社を紹介したのは、他ならぬブラームスでした)。

心浮き立つようなマーチ風に始まり、優美なワルツが次々と展開していくこの作品は、今日でもシュトラウス2世の代表作として親しまれています。またウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでも度々取り上げられていて、その人気のほどがうかがえます。

そんなわけで、今日はヨハン・シュトラウス2世の《皇帝円舞曲》をお聴きいただきたいと思います。アルフレッド・エシュヴェ指揮によるウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団の演奏で、一度聴いたら口ずさんでしまうようなシュトラウス2世の名旋律をお楽しみください。


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《愛の挨拶》はホ長調?ニ長調?どっちでやるの?

2024年10月20日 17時00分50秒 | 音楽
今日は昨日とうって変わって、朝からひんやりした空気に覆われた一日となりました。最高気温は20℃に届かず、一気に長袖日和となりました。

さて、先日あざみ野の音楽教室の大人の生徒さんがエルガーの《愛の挨拶》が弾きたいとリクエストしてきたことを書きました。それで、ホ長調とニ長調の2つのバージョンを聴き比べてどちらにするかを選んでもらったら

「ホ長調がいいです。」

ということだったので、自宅にある楽譜をひっぱり出してみることにしました。

《愛の挨拶》の楽譜というのは、洋書から廉価版まで様々なものがあります。そんな中で、我が家にあるのは



ヘンレ社から出版されているものです。

ヘンレ版のいいところは、パート譜が2冊入っていることです。これは他の曲でもそうなのですが、ヘンレ版には



ヴァイオリンのポジショニングや指番号がふられたものと



そういうものが全くないプレーンなものとが入っています。

指番号がふられたものは便利なのですが、反面

『この指使いってどうよ…?』

と思うこともしばしばで、時にはわざわざ指番号を修正液で消したりすることもあります。その点で指番号のないパート譜があると、そうした煩わしさがなくて便利なのです。

今の曲が終わったら、ホ長調の《愛の挨拶》を手掛けることにします。ということで、今日はフェリックス・アーヨの演奏によるホ長調の《愛の挨拶》をお楽しみください。


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まさかのリヒテル&ブリテンによるモーツァルト《2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448》

2024年10月19日 17時20分25秒 | 音楽
今日は何だか、ものすごく暑くなりました。10月だというのに気温が30℃近くまで上昇し、ちょっと動くと汗ばむような陽気でした。

こういう時はヘタに外出せずに、大人しく自宅でデスクワークするに限ります。ということで、いろいろな音楽を聴きながら細々したことをしていました。

こういう時に聴きやすいのは



やはりモーツァルトです。その中から、今日はピアノ2台のソナタをご紹介しようと思います。

《2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 (375a) 》は、モーツァルトが1781年にウィーンで作曲した作品です。モーツァルトは2台のピアノ用の曲をいくつか書いていますが殆どが断章で、この曲が唯一の完成作となっています。

モーツァルトにはヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマーという女性の優れたピアノの弟子がいましたが、この曲は2人で弾くために作曲され、1781年に彼女の家で開かれたコンサートで初演されました。モーツァルトは弟子の中でもアウエルンハンマーの才能をとりわけ高く評価していて、貴重な時間を毎日2時間彼女のレッスンに割き、何度も共演したり曲を書いたりしています。

しかしその一方でモーツァルトは、自身に好意を寄せる彼女の厚かましい言動に閉口していて、

「もし画家が悪魔をありのままに描こうと思ったら、彼女の顔を頼りにするにちがいありません。……彼女は田舎娘のようにデブで、汗っかきで、吐き気を催すほどです」
(1781年8月22日付)

と手紙に彼女の容姿を書いているほどでした。そのため、この曲が連弾ではなく2台のピアノを用いていることに、彼女の才能と容姿に対するモーツァルトの評価を関連させて見る向きもあるようです。

この曲が日本で一躍有名になっるきっかけとなったのは、間違いなく



クラシック音楽をテーマとした二ノ宮知子の漫画作品『のだめカンタービレ』でしょう。この漫画の第一巻で千秋真一と野田恵(のだめ)が初共演する曲としてこの《2台のピアノのためのソナタニ長調》が登場し、一気に知名度が上がることとなりました。

我が家で聴いていたのは別の奏者のもののですが、YouTube上にとんでもない組み合わせのピアニストの演奏がありました。それが、



20世紀を代表するウクライナ出身のピアニストのスヴィヤトスラフ・リヒテル(1915〜1997)と、



作曲家でもあるベンジャミン・ブリテン(1913〜1976)の共演、しかもライブ録音という、何とも濃い〜い演奏です。

そんなわけで、今日はモーツァルトの《2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448》をお聴きいただきたいと思います。20世紀の巨匠2人の共演で、華やか、かつ濃い〜いモーツァルトをお楽しみください。


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今年も開催!『小田原ちょうちん光アートフェア2024』

2024年10月18日 18時45分18秒 | 日記
今日も小田原の小学校では、運動会の練習でもちきりでした。特にダンスの練習はフォーメーションチェンジも含めて2時間分の枠が充てられているため、子どもたちだけでなく大人たちもヘロヘロになっています…。

そんな一日を終えて子どもたちを下校させてから、一人で教室や黒板の掃除をしていました。特に今日はチーム毎に分かれての応援練習があったことで子どもたちの掃除がなかったので、なかなかのゴミが集まりました。

掃除を終えて退勤したのですが、結構疲れていたので軽くお茶をして帰ることにしました。そして暮色が迫る頃になって思い出したことがあったので、小田原城址公園に向かうことにしました。

こちらでは現在、『小田原ちょうちん光アートフェア』という催しが開催されています。これは小田原市内の小学校高学年児たちが製作したおよそ1600張もの小田原提灯を集めて展示するもので、私が到着した時には



ちょうど提灯に明かりが灯された時でした。







子どもたちが頑張って絵柄を描いた小田原提灯はどれも美しく、ついつい見とれてしまいます。やがて宵闇が迫ってくると



天守閣のライトアップと相まって、一層幻想的な光景が広がります。

このイベントは、明後日20日まで開催されています。17:00から21:00までは提灯に明かりが入りますので、小田原市内の子どもたちの力作と幻想的な光景をお楽しみになってみてください。
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ようやく香った金木犀

2024年10月17日 17時50分20秒 | 
今日は勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室の日でした。先週はお休みだったので、2週間ぶりでした。

後期日程に入って、冬季の早まる夕暮れに合わせて前期より30分早く終わることになりました。なので開所時間がかなり短くなりますが、その中でできる限りのことをやっていこうと話し合いました。

子どもたちを早く帰して部屋の片付けを終え、帰路につきました。すると、夕暮れの空気の中に



金木犀の甘い香りが漂うようになってきました。

例年なら秋の彼岸頃には香り始める金木犀ですが、今年はとにかく開花が遅くなっています。10月も半ばになってやっと香ってきた金木犀に、本格的な秋の到来を感じることができました。

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