共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はプッチーニの歌劇《ラ・ボエーム》初演の日〜2つの別れが交錯する第3幕の四重唱

2025年02月01日 17時17分17秒 | 音楽
今日か入りましたが、日差しの乏しい寒い陽気となりました。明日は節分ですが、春を感じるにはほど遠い天気です。

ところで、今日2月1日はプッチーニの《ラ・ボエーム》が初演された日(サムネイルは初演時のポスター)です。歌劇《ラ・ボエーム》(La Bohème)は、



ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)の作曲した4幕オペラで、今日最もよく演奏されるイタリアオペラのひとつです。

《ラ・ボエーム》の物語は、アンリ・ミュルジェール(1822〜1861)が1849年に発表した小説・戯曲『ボヘミアン生活の情景』からとられました。台本はジュゼッペ・ジャコーザ(1847〜1906)とルイージ・イッリカ(1857〜1919)のコンビによるもので、プッチーニ自身の台本に対する注文が多く完成が難航したものの、短編の集積である原作の雰囲気をよく伝え、オペラ的な見せ場に富む出来映えとなりました。

実は歌劇《道化師》で知られる作曲家ルッジェーロ・レオンカヴァッロ(1857〜1919)も同時期に《ラ・ボエーム》の作曲を進めており、以後ふたりの仲は険悪となってしまいました。レオンカヴァッロの発表した《ラ・ボエーム》がいわゆるヴェリズモ・オペラ的な感情の激しく渦巻くものになったのに対して、プッチーニの《ラ・ボエーム》は青春群像と男女の恋愛を描いた叙情的なオペラになりました。

《ラ・ボエーム》の初演は1896年2月1日、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮によりトリノ・レージョ劇場で行われました。ヴェリズモに傾倒していた当時の批評家の不評はあったものの初演はまずまずの成功をおさめ、各地での再演の度に聴衆からの人気は次第に高まっていきました。

日本でも《ラ・ボエーム》はかなり人気の高い演目ですが、その理由のひとつに、このオペラが日本人の好きな交響曲のような構成になっていることがあると分析する向きもあります。物語が快活な展開を見せる第1幕、陽気で展開の早いスケルツォのような第2幕、緩徐楽章のような甘く切ない第3幕、そして怒涛の展開から劇的な結末へと流れる第4幕という展開が、まるて交響曲のようだ…という意見もあるようです。

オペラ全編通すと2時間以上かかるので、今日はその中から個人的に好きなロドルフォとミミ、マルチェッロとムゼッタによる四重唱「さらば甘い目覚めよ」 "Addio, dolce svegliare alla mattina!"をご紹介しようと思います。

愛し合いながらも互いの行く末を案じ、

「花の咲く頃に別れよう。」

とミミとロドルフォが手を取り合う横で、前の第2幕でよりを戻したばかりのくせに酒屋から飛び出してきて

「他の男に色目使いやがって!」
「亭主面しやがってなにさ!」

と、しょーもないことで互いを罵り合うムゼッタとマルチェッロ。ただ美しいだけでなく、愛し合うからこその別れと、痴話喧嘩の勢いで

「売れない看板絵描きw」
「毒ヘビ!」
「ヒキカエル!!」
「魔女め!!!」

と罵詈雑言の応酬での別れという全く質の違う別れがプッチーニの美しい音楽にのって同時に展開されていくという、なかなかシュールな場面です(笑)。

そんなわけで、今日はプッチーニの歌劇《ラ・ボエーム》から、第3幕四重唱をお聴きいただきたいと思います。ルチアーノ・パヴァロッティ、フィアンマ・イッツォ・ダミーコ他の歌唱で、まるっきり正反対の二組の別れの場面をお楽しみください。


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達成感のあったリコーダーテスト

2025年01月31日 18時18分18秒 | 音楽
今日、高学年の音楽の時間に



リコーダーのテストがありました。支援級の子どもたちは

「できない!できない!」

と大騒ぎしていたので、老婆心ながら私がちょっとヒントをあげたら、少しずつ落ち着いてきたようでした。

休み時間を使ったりして何回か練習を重ねていたら、どうにか止まらずに最後まで吹けるようになっていました。

「はい、これでいけるよね。いってらっしゃい✋️。」

と試験会場まで送り出して外で聴いていたら、多少つっかえたものの、全員見事に完奏することができました。なので、最大限の賛辞で迎えて、気持ちよく授業を終えることができました。

私が与えたヒントというのは極簡単なものですが、短時間で理解してもらうにはちょうどよかったようでした。極端な話、楽譜が読めなくても演奏が成立すればいいことなので、その点を重点的にケアしておきました。

跳び箱の時もそうでしたが、彼らにはできる限り成功体験を積んでいってほしいと思っています。そのための手段は、決してひとつではありません。

子どもたちを下校させてから担任と話をしていたら、すっかり遅くなってしまいました。まぁ、急ぐ用事もないので小田原駅までチンタラあるいて向かうと、



小田急線のコンコースに置かれた蝋梅の生け花がだいぶ開花していました。

花を写そうと思ったのですが、何だか見事なまでに全部の花が私のいる方と反対側にばかり開いていました。それでも無理矢理撮ったのが



これです(汗)。

明日から2月になりますが、天候が徐々に下り坂になるようです。節分には今季初の雪アイコンがついているのですが、どうなりますでしょうか…。


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今日はモーツァルトの誕生日〜事実上初の自作ピアノ協奏曲《ピアノ協奏曲第5番 ニ長調 K.175》

2025年01月27日 17時00分55秒 | 音楽
今日は何だか、朝から曇りがちな空が広がる天気となりました。日差しがあまりない分気温も10℃に届かず、なんとも薄ら寒い一日となりました。

ところで、1月27日は今日はモーツァルトの誕生日です。改めて説明するまでもありませんが、



ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)は主に現在のオーストリアを活動拠点とした音楽家であり、ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在です。

上の絵は、ピエートロ・アントーニョ・ロレンツォーニ(1721〜1782)が1763年初めに描いた『大礼服を着た6歳のモーツァルト』の肖像画です。1762年、女帝マリア・テレジア(1717〜1780)から下賜された皇子の大礼服を身にまとった姿で、幼いマリー・アントワネット(1755〜1789)にプロポーズしたとされる頃のものです。

モーツァルトの来歴については今更拙ブログであれこれと説明する必要もないかと思いますので、今回はモーツァルトが初めて手がけたピアノ協奏曲をご紹介しようと思います。それが《ピアノ協奏曲第5番 ニ長調 K.175》です。

なんで5番?と思われるかも知れませんが、実はモーツァルトのピアノ協奏曲の第1番から第4番まではカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜1788)をはじめとした先輩作曲家たちの作品を編曲したものなのです。そのため、実質的にモーツァルトがオリジナルで作曲したピアノ協奏曲というと、この第5番からということになります。

このピアノ協奏曲はバッハの末子であり『ロンドンのバッハ』とも呼ばれていたヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜1782)の様式を模倣して作曲されたことが明らかであり、クリスティアン・バッハの影響を留めていると一般には評価されています。しかし、フランスの作曲家オリヴィエ・メシアン(1908〜1992)は

「試作というには、あまりに見事な腕前」

と評価し、ドイツの音楽学者アルフレート・アインシュタイン(1880〜1952)も

「独奏楽器とオーケストラの釣合、ならびに規模の点で、既にヨハン・クリスティアンをはるかに越えている」

と絶賛するなど、音楽研究家からは高く評価されている作品です。

この作品は1773年の12月にザルツブルクで作曲されましたが、既に習作の範囲を越えて完成された様式を持っています。トランペットとティンパニを加えた祝祭的な作品で、おそらくモーツァルト自身、あるいは姉のナンネルの演奏を目的としたものと思われています。

後にモーツァルトはこの曲をミュンヘンやウィーンでも演奏し、1777年頃にオーケストラに手を加えています。モーツァルトはこの協奏曲に愛着を持っていたようで、最晩年まで自身で演奏し続けたといいます。

第1楽章はニ長調、4/4拍子のアレグロ。『颯爽』『溌剌』という言葉を音楽にしたような曲で、若きモーツァルトがオーケストラを従えて堂々とピアノを弾く姿が思い浮かびます。この楽章だけでも、間違いなく初期の傑作です。

第2楽章はト長調、3/4拍子のアンダンテ・マ・ウン・ポコ・アダージョ。まだ翳りの無い幸福なモーツァルトそのもののようですが、時折短調の影が差す場面はさすがモーツァルトで、要所要所で合いの手に入れられたホルンの音形も印象的です。

第3楽章はニ長調、2/2拍子のアレグロ。冒頭の弦楽合奏に2小節ずれの堂々としたカノンが現れ、それにのってピアノが爽快に駆け回ります。

そんなわけで、今日はモーツァルトの《ピアノ協奏曲第5番 ニ長調 K.175》をお聴きいただきたいと思います。アルフレード・ブレンデルのピアノ、ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズによる演奏で、17歳のモーツァルトが手がけた事実上の最初のピアノ協奏曲をお楽しみください。



後にモーツァルトは1782年にウィーンでこの協奏曲を演奏するにあたり、第3楽章の別稿を作曲しました。この曲は現在協奏曲の第3楽章として使われることはあまりありませんが、《ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調 K.382》として単独で演奏されることがあります。

そんなわけで、第3楽章の別稿として作られた《ピアノの管弦楽のためのロンド ニ長調 K.382》の動画も転載してみました。上の録音と同じ奏者たちによる演奏で、どこか聴き馴染みのある、愛らしいロンドをお楽しみください。


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今日はリヒャルト・シュトラウス《薔薇の騎士》初演の日〜とんでもない組み合わせの豪華映像

2025年01月26日 17時17分17秒 | 音楽
今日もいい天気になりましたが、私は今日もグダグダしていました。本当に週末毎にこんなんでいいのかと、真剣に悩み始めています…。

ところで、今日1月26日は《薔薇の騎士》がドレスデンで初演された日です。歌劇《薔薇の騎士》(Der Rosenkavalier)作品59は、



リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)の作曲、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール(1874〜1929)の台本による3幕物のオペラで、ワーグナー後期のオペラに比肩する長大な作品規模と大掛かりな管弦楽を要する大作です。

シュトラウスとホーフマンスタールは既に歌劇《エレクトラ》を共作していましたが、それは既存の舞台戯曲にシュトラウスが曲をつけただけのものでした。それ故にこの《薔薇の騎士》こそが、シュトラウスとホーフマンスタールのゴールデンコンビによる長年の実り豊かな作品の、実質的に最初の共同作業となりました。

《薔薇の騎士》の作曲は、1909年初めから1910年にかけて行われました。当初はホーフマンスタールの発案で男装の女性歌手を起用した軽い喜劇的な作品として計画されましたが、2人の夥しい数の往復書簡を中心とした議論の末、最終的に現在の形としてまとめられました。

物語の舞台はマリア・テレジア治世下のウィーンに置かれ、ロココの香りを漂わせながら遊戯と真実を対比させた作品として仕上げられました。音楽内容的としては『モーツァルト・オペラ』を目指したもので、プロットが《フィガロの結婚》と似ているのはこのためです。

《薔薇の騎士》の音楽は、これより前に作曲された歌劇《サロメ》や《エレクトラ》で用いられた、部分的には無調音楽ですらあった激しいオーケストレーションや前衛的な和声はすっかり影を潜め、概して親しみやすい平明な作風で書かれています。声楽パートもワーグナー的なドラマティックなものから、モーツァルト的なリリックな歌唱スタイルになっているのが特徴です。

初演は入念なリハーサルの後1911年1月26日、ドレスデン宮廷歌劇場で、エルンスト・フォン・シューフの指揮、ゲオルク・トラーとマックス・ラインハルトの演出により上演され、未曾有ともいえる大成功を収めました。すでに作曲家としての地位を確立していたシュトラウスの新作に対する世間の期待は高く、ウィーンからドレスデンまでの観劇客用特別列車が運行されたほどだったといいます。

ドレスデンでは引き続き50回におよぶ再演が続けられたほか、ベルリン宮廷歌劇場、プラハ歌劇場、バイエルン宮廷歌劇場、ミラノのスカラ座など主要な歌劇場でも立て続けに上演され、いずれも好評をもって迎えられました。《サロメ》や《エレクトラ》など、それまでのシュトラウスの前衛的な作風に好意を示していた批評家や作曲家たちからは「時代遅れ大衆迎合的」だと批判されたりもしましたが、聴衆からの支持は絶大で、今日ではシュトラウスの代表作と見なされているばかりか、ドイツ圏の主要歌劇場や音楽祭において最も重要なレパートリーの一つに数えられています。

何しろ3時間かかるオペラですから、あらすじ云々は割愛させていただきます。なので今回は、有名なフィナーレの三重唱をご紹介しようと思います。

美しい新興貴族の娘ゾフィーを好色なオックス男爵から守るべく、オクタヴィアン伯爵と元帥夫人が一計を案じてやりこめるための茶番劇をしかけます。しかし、打ち合わせになかった元帥夫人自身の登場で場面が混乱する中、元帥夫人・オクタヴィアン・ゾフィーそれぞれの思いが交錯し、元帥夫人は若い2人の恋路を目の当たりにして静かに身を引いていきます。

この場面を観ていると、個人的に元帥夫人に感情移入してしまいます。こんな恋愛をした経験は1ミクロンもありませんが、若い2人を残して去っていく元帥夫人の背中に、言いようのない哀しさを感じずにはいられません。

そんなわけで、今日は歌劇《薔薇の騎士》からフィナーレの三重唱をお聴きいただきたいと思います。エリザベート・シュヴァルツコプフの元帥夫人、セーナ・ユリナッチのオクタヴィアン、アンネリーゼ・ローテンベルガーのゾフィーという豪華な配役、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏による1962年のオペラ映画で、リヒャルト・シュトラウスの美しい音楽と20世紀を代表する名歌手たちの歌唱でお楽しみください。


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ギュッと凝縮した《魔笛》公演

2025年01月23日 17時17分17秒 | 音楽
今日は小学校中学年の付き添いで、小田原の三の丸ホールに行きました。今日はここで、市内の小学校中学年合同の『芸術鑑賞会』なる催しがありました。

公演は『小田原オペラ』なる団体によるもので、演目は



モーツァルトの名作《魔笛》でした。本来ドイツ語台本で二時間以上かかる《魔笛》ですが、今回はそれを子どもたち向けに日本語台本で約一時間に短縮したものが上演されました。

始まってみると、日本語台本そのものは二期会オペラで使われていた、個人的に馴染み深いものでした。あとはどこをどう切り詰めていくのかが焦点でしたが、ちゃんと序曲(もちろん短縮バージョン)から始まってストーリーも破綻させずに

『あぁ、ここからここへ飛んで、ここへ繋げてこうしたのね。』

と、思わず感心してしまう仕事ぶりでした。

歌手も三人の童子以外のソリストは揃っていて、夜の女王がハイトーンを外したのはイタかったのですが、特にパパゲーノは存在感もあり、演技も子どもたちに大ウケでした。オーケストラは弦楽四重奏+コントラバスにピアノ・フルート・クラリネット・ホルンという編成で、オーボエとファゴットの無いさびしさはあったものの、それでもオペラオケとしての存在感はなかなかでした。

支援級の子たちは時折席でモゾモゾしたりしていたものの、最後まで公演を妨害するような騒ぎを起こしたりはしませんでした。彼らは彼らなりに初めてのモーツァルトを楽しんでいたようで、こちらとしてもホッとしました。

現代の子たちは、こうしたものに触れる機会を作ってもらえて幸せだなと思います。これからも小田原市には、いろいろといいものを子どもたちに観せて聴かせてあげてほしいものです。

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同作品で曲が違う?!〜バッハ《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第6番 ト長調 BWV1019》

2025年01月20日 17時17分17秒 | 音楽
まだ咳が止まらなくなることがあるものの、早退してきた金曜日に比べたらだいぶ体調はマシになってきました。咳を何とかしないと明日の小学校勤務も覚束なくなってしまうので、服薬を続けて何とかしたいところです。

それで、ただボンヤリしているのも時間が勿体ないので、真面目に練習してみることにしました。今回練習したのは



バッハの《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第6番ト長調 BWV1019》です。

この曲は一連のソナタの最後を飾る曲ですが、いろいろとかわった点があります。

先ず他のソナタが4楽章なのに対して、この曲だけ5楽章からなっているということです。しかも何度か改作が重ねられていて、その異版の楽譜も残されています。

この前のソナタ第4番がハ短調、第5番がヘ短調というなかなか鎮痛な調性で書かれていますが、これはバッハの最初の妻アンナを亡くした悲しみからきているといわれています。しかし、この第6番でバッハは再びバッハらしい明朗さを取り戻していて、そこに妻の死を克服した姿を見るという人もいます。

次にかわっている点が、最終稿となった版の第3楽章です。実はこの楽章、なんとヴァイオリンは一切沈黙するチェンバロ独奏の楽章なのです。

ヴァイオリンとチェンバロのソナタだと言っているのに何でまた…と思われるかも知れませんが、実際に聴いてみるとこのチェンバロ独奏楽章を挟んで前半と後半がシンメトリーな構図になります。そうした点からみると、この改変も納得することができるのです。

そんなわけで、先ずは最終稿となった《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第6番 ト長調 BWV1019》をお聴きいただきたいと思います。佐藤俊介氏のバロックヴァイオリンとディエゴ・アレスのチェンバロによる演奏で、途中でヴァイオリニストが休憩するという斬新なソナタをお楽しみください。



さて、ここからは異版のご紹介です。先ずは初稿とされるタイプaから。

この異版はなんと6楽章もあり、そして第3楽章がチェンバロ独奏であることは同じなのですが、全くメロディの違うものが採用されています。緩徐楽章も最終稿とは違っていて、第5楽章はト短調のガヴォットになっているところから、最後は第1楽章が回帰されて終わります。

それではそのタイプaの異版を、全く同じ演奏者による演奏でお楽しみください。



どうでしたか?最終稿とはかなり違った姿をしていることが分かっていただけましたでしょうか。

更に異版は続き、今度はタイプbです。この版では第3楽章がチェンバロ独奏ではなくヴァイオリンも演奏するカンタービレとなっていて、最後はガヴォットを挟まず第1楽章が回帰して終わります。

それでは、タイプbをお聴きいただきたいと思います。



これはこれで、如何にもヴァイオリン・ソナタだな…といった雰囲気を感じることができるのではないでしょうか。

そしてタイプcとなるのが、いわゆる最終稿となるわけです。普段はこの稿のもの以外の版が演奏されることはほとんどありませんが、今回の動画では同じ奏者が全ての異版を演奏してくれていることが貴重で、大変ありがたいものでした。

そんなわけで、最終稿となったタイプcを改めてお聴きいただきたいと思います。上までスクロールして戻らなくても大丈夫なようにしてみました(笑)ので、お時間が許せば再生してみてください。


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今日はヴェルディの歌劇《イル・トロヴァトーレ》初演の日〜パヴァロッティのハイトーン冴え渡るカバレッタ『見よ、恐ろしい炎を』

2025年01月19日 17時25分20秒 | 音楽
さすがに二日もゴロゴロしていたら、どうにか容体も安定してきました。病院の開いていない週末に具合を悪くすると、ろくなことがありません…。

さて、二日も投稿を休んだので、さすがに今日は書いてみようと思います。今日は歌劇《イル・トロヴァトーレ》が初演された日です。

歌劇《イル・トロヴァトーレ》は、



イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)が作曲した全4幕からなるオペラです。1853年の今日ローマで初演され、ヴェルディ中期の傑作の一つとされています。

1839年に発表した《オベルト》以来、年間1作以上のペースで作曲を続けてきたヴェルディでしたが、1851年に《リゴレット》を初演、成功させた38歳のヴェルディの作曲の筆はそこからしばらく止まっていました。1851年6月の母の死、《椿姫》を初演したソプラノ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815〜1897)との同棲生活に対する世間の冷ややかな眼、そこからの逃避の意味もあって近郊での農園購入とその経営(ヴェルディは単なる不在地主ではなく農地管理の些事にまで干渉していたようです)など、作曲以外の雑事に忙殺されていたのも原因でした。

実際のヴェルディは作曲家としてどうにかこれからの暮らしには困らない収入も得て、この頃はどこの劇場の委嘱も受けず、自ら選んだ題材を好きなだけ時間をかけてオペラ化する、という大家ならではの作曲法が可能となっていました。そして、そうした自己の選択による作品が《イル・トロヴァトーレ》でした。

《イル・トロヴァトーレ》の原作『エル・トロバドール』はスペインの劇作家グティエレスによって書かれ、1836年にマドリードで初演された舞台劇でした。ただ、中世の騎士物語、男女の恋愛、ジプシー女の呪い、といった雑多なテーマを盛り込んだこの複雑な舞台劇をヴェルディがどうやって知ったのか、今日でもはっきりしていません。

スペイン語原典のイタリア語訳は当時まだされていなかったので、イタリア・オペラの重要な演奏拠点の一つであったマドリードのオペラ関係者がヴェルディに個人的にこの戯曲を送付し、イタリア語以外の言語に疎かったヴェルディに代わって語学の才のあったジュゼッピーナがイタリア語に仮訳したのではないかと想像されています。いずれにせよ、遅くとも1851年の春頃、ちょうど《リゴレット》初演の前後までにはヴェルディはそうしたイタリア語訳に目を通し、台本作家カンマラーノに台本化を開始してほしいと要請していたと思われています。

ナポリ在住の台本作家サルヴァトーレ・カンマラーノ(1801〜1852)は、ドニゼッティのための《ランメルモールのルチア》や《ロベルト・デヴリュー》などの台本で有名です。《イル・トロヴァトーレ》はどこの劇場の委嘱も受けずヴェルディが創作したもので、劇場の座付き作家を利用しなければならない…といった制約は元々なかったわけですが、この作品がカンマラーノとの共同作業となった理由も、またはっきりしていません。

カンマラーノは長年の劇場生活に培われた本能的とも言える劇的展開、ならびに詩文の美しさについて定評の高かった作家で、こういった複雑怪奇な戯曲のオペラ台本化には適任の人物だとヴェルディが考えた可能性が高いと思われています。ただし、構成面では、カンマラーノは保守的な「番号付き」オペラの伝統に強く影響されていたため、ヴェルディが前作《リゴレット》で採用した、切れ目のない重唱の持続で緊張感を維持するといった新手法は、《イル・トロヴァトーレ》ではいったん後退をみせています。

初演都市としては、初めカンマラーノと縁の深いナポリ・サン・カルロ劇場が考慮されていましたが、ヴェルディの要求する金額があまりに法外であるとして劇場側が降りてしまい、結局ローマのアポロ劇場での初演と決定しました。これは作曲どころか台本の完成以前の話です。

ところがカンマラーノは1852年7月に急死してしまい、第3幕の一部と第4幕の全てが未完のまま残されてしまったため、ヴェルディは友人の紹介により、やはりナポリ在住の若い詩人レオーネ・エマヌエーレ・バルダーレ(1820〜1874)と契約し、台本はカンマラーノの草稿に沿う形で同年秋に完成しました。ヴェルディは1852年10月のわずか1か月でそれに作曲したとの逸話がありますが、完成稿としてはともかく、メロディーのほとんどはカンマラーノとの交渉が開始された1851年から作り貯めていたと考えるのが自然だと思います。

初演は、ヴェルディのそれまでのどのオペラと比べても大成功といって良いもので、世界各都市での再演も早く、パリ(イタリア座でのイタリア語上演)は1854年、ロンドンとニューヨークが1855年に行われました。またフランス語化しグランド・オペラ様式化した『ル・トルヴェール』(Le Trouvère)は1856年にオペラ座で上演されました。

ヴェルディ自身はのちに

「西インド諸島でもアフリカの真ん中でも、私の『イル・トロヴァトーレ』を聴くことはできます」

と豪語しています。かなり大袈裟な表現だとは思いますが、それほどの手応えを感じていたことは伝わってきます。

さて、オペラ全編を載せるとさすがに長いので、今回はその中から第3幕のマンリーコのカバレッタ『見よ、恐ろしい炎を』をご紹介したいと思います。

様々な困難を乗り越えて、ようやく結婚式を挙げて幸せになろうとするマンリーコとレオノーラ。しかし、そこにマンリーコの母親であるアズチェーナが敵方のルーナ伯爵軍に捕らえられたとの報があり、母を救出すべく

「武器を取れ!」

と歌う勇猛果敢なカバレッタです

かくも勇ましく幕を閉じますが、続く第4幕では信じられないほど沈痛な場面が展開します。そして、最後は誰一人として幸せにならない壮絶な結末を迎えるのです。

このカバレッタで、テノールは楽譜に書かれていない高音ハイC(高いド)を挿入することが慣例になっています。通説では、これはロンドン初演時のテノール歌手のエンリコ・タンベルリック(1820〜1889)がヴェルディの許可を得て創始したとされていて、以来テノールのアリアとして最大の難曲の一つに数えられています。

逆にこのハイCを失敗することはテノールにとっての恥辱とも考えられ、一部の歌手は失敗を恐れて半音下げて歌っている(オーケストラのピッチを半音下げて演奏させる)ようです。ただし、指揮者のリッカルド・ムーティはスカラ座での上演に際して

「常に作曲者の書いたままを演奏すべし」

との原典主義に基づき、ハイCを入れないヴェルディの楽譜通りに演奏させて賛否両論を巻き起こしました。

そんなわけで、今日はヴェルディの歌劇《イル・トロヴァトーレ》から『見よ、恐ろしい炎を』をお聴きいただきたいと思います。三大テノールの一人ルチアーノ・パヴァロッティ(1935〜2007)による1988年のメトロポリタン歌劇場ライブで、これぞヴェルディ!という名旋律と、パヴァロッティの輝かしいハイトーンをご堪能ください。


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ただひたすらに美しき響きを〜アレグリ《ミゼレーレ》

2025年01月11日 17時17分17秒 | 音楽
昨日学校から帰宅してから、しばらく自宅でボー・・・っとしていました。本人は意識していなくても、恐らくどこかで神経をすり減らしていたのだと思います。

私が支援級の子どもたちを叱り飛ばしているのを私の武勇伝のように揶揄するコメントが届いていたのですが、そうした的外れなコメントは丁重に葬らせていただきました。私だって教育者の端くれとして『怒る』ことと『叱る』ことの区別くらいちゃんとつけていますし、それができない50過ぎは最早人として終わっています。

今日も朝起きてから、何だか気持ちが落ち着きません。こういう時には内職もしないで、ひたすら静養するに限ります。

こんな時に聴きたくなるのはバッハやベートーヴェンではなく、ルネサンス期の宗教作品です。いろいろと聴いていたのですが、とりわけ染みたのがアレグリの《ミゼレーレ》でした。

《ミゼレーレ(Miserere)》、または《ミゼレーレ・メイ、デウス》(Miserere mei, Deus)は、イタリアの作曲家であるグレゴリオ・アレグリが、旧約聖書詩篇第51篇をもとに作曲した合唱曲です。邦訳すると《神よ、我を憐れみたまえ》という意味になります。

ヴァチカン・システィーナ礼拝堂に伝わるこの作品は五声と四声の合唱が単旋律聖歌を挟んで交唱する作品で、かつてはシスティーナ礼拝堂の秘曲とされていました。今ではシスティーナ礼拝堂を越えて世界各国で歌われていて、そのあまりにも美しい響きに魅了されている人も多いようです。

今日は難しいことは考えず、ひたすら美しい合唱に浸っていました。そんなわけで今日はアレグリの《ミゼレーレ》を、ケンブリッジ・シンガーズの歌唱でお楽しみください。


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オケの要らない協奏曲?!〜バッハ《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ長調 BWV1061》

2025年01月07日 17時17分17秒 | 音楽
昨日の冷たい雨も朝にはあがり、昼頃からは再び陽が差してくるようになりました。関東地方は先月から一ヶ月以上雨が降らずに空気がカラカラの状態でしたから、いいお湿りになったことは確かです。

ところで、明日から始まる小学校勤務に向けて今日も内職をしながらいろいろな音楽を聴いていたのですが、その中でちょっと気になったものをとりあげてみたいと思います。それが



バッハの《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ長調 BWV1061》です。

バッハは生涯にわたって少しでもよい条件の働き口を探し続けていた人なのですが、その最後の到着点は



ライプツィヒの聖トーマス教会のカントルでした。ただ、この仕事は教会の仕事だけでなくライプツィヒ市全体の音楽活動の責任を負う立場でもあったので、バッハにとってはかなりの激務だったようです。

そんな激務の中でバッハが喜びを見出したのが、コレギウム・ムジクムの活動でした。コレギウム・ムジクムは若い学生や町の音楽家などによって構成されたアマチュア楽団で、当時のライプツィヒ市では人気があったようです。

コレギウム・ムジクムは、通常の時期は毎週1回の演奏会、見本市などがあってお客の多いときは週に2回の演奏会を行っていました。バッハはこのアマチュア楽団の指導と指揮活動を、1729年から1741年まで務めています。

バッハの一連のチェンバロ協奏曲は、すべてこのアマチュア楽団のために書かれたもので、ソリストはバッハやバッハの息子たちや弟子たちが担当していました。ただ、そのほとんどがオリジナル曲ではなくて、自作か、または他の作曲家の作品を編曲したものでした。

その理由としては、公務の合間の活動であったことで、すべてオリジナル作品で演奏するのはさすがのバッハでも大変だったのでしょう。しかし編曲ものとは言え、その手練手管はいずれの作品でも見事なものです。

そんなバッハのチェンバロ協奏曲群の中で一際異彩を放っているのが、今回ご紹介する《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ長調 BWV1061》です。

この作品はバッハのチェンバロ協奏曲の多くが自作、もしくは他の作曲家の作品の編曲であったのに対して間違いなくオリジナル作品なのですが、協奏曲としてみるとおかしなところがあります。楽譜を見ると一番分かりやすいのですが、チェンバロ協奏曲とはいいながらどうにも後ろのオーケストラが『取ってつけたよう』な印象を受けるのです。

バッハの協奏曲といえばソロ楽器とオーケストラとが有機的に絡み合い、重厚な響きを聴かせてくれるものが多く見受けられます。ですが、この曲のオーケストラからはそうした重厚さが感じられないのです。

そんなわけで、先ずはオーケストラをバックに従えた《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ長調 BWV1061》をお聴きいただきたいと思います。ネザーランド・バッハ・ソサエティの演奏で、何とも明るい響きのチェンバロ協奏曲をお楽しみください。



どうでしょう、何だか違和感を感じられませんでしたか?

明らかにおかしいのは第2楽章で、この楽章では弦楽合奏が完全に沈黙して2台のチェンバロだけで演奏されています。更に第1楽章の弦楽合奏もリズムにアクセントをつけたり主題動機を反復したりという控えめな役割に徹しているだけですし、第3楽章はフーガ形式で書かれているにも関わらず弦楽合奏は特別な動きを見せず、独奏チェンバロにユニゾンで付き従っているだけなのです。

つまり、これは協奏曲とは言いながら、『弦楽合奏がなくても2台のチェンバロのみによる作品としても十分に成り立ってしまう』作品なのです。もしかしたら、これは有名な独奏チェンバロのための《イタリア協奏曲 BWV971》のような試みを2台のチェンバロによって行った作品であって、それをバッハ自身がコレギウム・ムジクムでの演奏会用に仕立て直したのかも知れません。

今日ではそうしたアプローチの演奏も聴かれるようになっていて、2台のチェンバロだけでの演奏や録音もされるようになってきました。果たして真相はどうなのか…そんなことを思いながら聴き比べてみるのも楽しいのではないでしょうか。

ということで、今度はオーケストラの無いバージョンの《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ長調 BWV1061》をお聴きいただきたいと思います。ダ・カーポというイタリアのチェンバロデュオによる演奏で、至極スッキリとしたバッハのチェンバロ協奏曲をお楽しみください。


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懐かしく思い出したヴィヴァルディの《ラ・フォリア》

2025年01月06日 17時17分17秒 | 音楽
今日、ものすごく久しぶりな昔の生徒から年始の便りがありました。あの当時中学生だった彼も、今では立派な青年になっていました。

彼は横浜あざみ野の音楽教室の生徒だったのですがものすごく熱心な子で、私が出した課題以上の練習をして次のレッスンに臨むような生徒でした。私も嬉しくなって、彼に様々なことを教えていったのを覚えています。

その彼が転居のために退会することになり、お互いに残念に思っていました。そして、せめてもの記念に発表会でなにか大きな曲をやろうということになり、話し合って決めたのが



ヴィヴァルディの《ラ・フォリア》でした。

《ラ・フォリア》というとアルカンジェロ・コレッリ(1653〜1713)の『ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ』作品5(1700年)の12曲中最後に置かれた『ラ・フォリア』がよく知られていますが、《ラ・フォリア》というタイトルの音楽は他にも沢山の作曲家が作品を残しています。そして、ヴィヴァルディは『トリオ・ソナタ集』作品1(1703年頃)の12曲目に、コレッリ形式の《ラ・フォリア》を据えています。

当日は第1ヴァイオリンを生徒が、第2ヴァイオリンを私が弾き、そこに通奏低音をつけました。チェロを私の大学の後輩に、オルガンを生徒のお姉さんに、そして私の友人のリュート奏者に



テオルボを演奏してもらい、本格的なバロックコンソートを組んでの演奏となりました。

終演後はその日一番の喝采となり、無事に終えたことを喜びました。あれから10年近い時が経ちましたが、あんなに充実した発表会はやっていません。

久々の便りに懐かしくなっていたら、あの時の《ラ・フォリア》が聴きたくなりました。というわけで今日はヴィヴァルディの《ラ・フォリア》を、セバスティアンズというグループによる演奏でお楽しみください。


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バッハの手によるトランスフォーム〜《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006》の『プレリュード』の華麗なる転身

2025年01月04日 17時17分17秒 | 音楽
今日もよく晴れた、穏やかな天気の一日となりました。そんな中、私は相変わらず我が家で小学校勤務へ向けての内職作業に勤しんでいました。

ところで、昨日



バッハの《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ》について書きましたが、バッハは自身の作品を様々なかたちに編曲してもいますので、今回はそのことについて書いてみたいと思います。今回とりあげるのは、ヴァイオリン独奏曲の金字塔的作品である《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》から、パルティータ第3番ホ長調 BWV1006の第1曲目『プレリュード』です。

《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1001〜1006》は、3曲ずつのソナタ(BWV番号は奇数)とパルティータ(BWV番号は偶数)合計6曲からなるもので、ヴァイオリン独奏曲として今日では古今の名作の筆頭に数えられ、『ヴァイオリン音楽の旧約聖書』とも称えられています。作曲時期は1720年、バッハが35歳の頃で、ケーテン宮廷楽長として音楽好きの君主レオポルト侯に仕え、多くの世俗曲(協奏曲、室内楽曲)を書いていた頃の楽曲です。

バッハの時代にはこのような無伴奏のヴァイオリン曲というのは人気があったようで、バッハ以前にも様々な作曲家が作品を作曲していました。たとえばイタリアのフランチェスコ・ジェミニアーニ(1687〜1762)、ドイツのハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバー(1644〜1704)やヨハン・ゲオルク・ピゼンデル(1687〜1755)といった作曲家が試みていて、優れた作品を残しています。

このバッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》は特にピゼンデルの影響が指摘されていて、バッハはビゼンデルとも交流があったことから、ヴァイオリン奏者としても名高かったピゼンデルのために書いたのではないか…とも推定されています。ところが古典派以降になるとこの無伴奏という形式はパッタリと流行らなくなり、次に無伴奏ヴァイオリン音楽が登場するのは20世紀に入ってからのウジェーヌ・イザイ(1858〜1931)やバルトーク・ベーラ(1881〜1945)らを待たなければなりません。

話を戻して、バッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1006》は一般的な組曲の配列からは大きく逸脱して、最も自由に振る舞っています。そのために全6曲の中では最も明るく、最も華麗な音楽になっています。

また全6曲の中では比較的演奏しやすい作品であるため、昔からコンサートピースとしても高い人気を持っています。特に第3楽章の『ガヴォット』は、《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》という曲名を知らない人でもどこかで一度は耳にしたことがある有名な旋律です。

そんなわけで、今日はバッハ自身による編曲の妙を聴き比べていただきたいと思います。先ずは原曲である《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006》のプレリュードを、川畠成道氏の独奏でお楽しみください。



後にバッハは自身の手で、このパルティータを1オクターヴ下げてリュート用に編曲しています。ヴァイオリンだけでは表現しきれなかったバスパートがつけられ、原曲とはまた違った豊かな響きを感じることができます。

ということで、次にそのリュートバージョン《パルティータ ホ長調 BWV1006a》のプレリュードをお聴きいただきたいと思います。今村泰典氏のバロックリュートによる演奏で、より重厚さの加わった姿をお楽しみください。


更にこのプレリュードは、教会音楽であるカンタータの冒頭を飾るシンフォニアにも転用されています。それがカンタータ第29番《神よ、我ら汝に感謝せん》です。

このカンタータはライプツィヒ市の公の行事の為に作られた事もあり、ティンパニにトランペット3本を加えた祝祭的で華やかなカンタータです。そして、その冒頭のオルガン協奏曲かのようなシンフォニアに《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番》のプレリュードが、ニ長調に一音下げて使われています。

というわけで、プレリュードをバッハ自身が編曲したカンタータ第29番《神よ、我ら汝に感謝せん》のシンフォニアをお聴きいただきたいと思います。ネーデルラント・バッハ・ソサエティの演奏で、ものすごく華やかな姿になったプレリュードをお楽しみください。


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コンビニBGMで思い出した名曲〜バッハ《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第3番 ホ長調 BWV1016》

2025年01月03日 15時55分51秒 | 音楽
昨日ブログの投稿が上手くいかなかった原因は私のスマホの問題ではなく、どうやらサーバー側の問題だったようです。今日になって恐る恐る開いてみたら、どうやら解決していたようで安堵しました。

ところで、2025年を迎えてからいろいろな商業施設へ出かけると、正月だからかBGMとしてクラシック音楽が流されていることがあります。こういう時ばかりクラシック音楽をありがたがる傾向も如何なものかと思いますが、恐らく流す側からしたら手っ取り早いのでしょう。

今日、近所のセブンイレブンに行ったら、何だかものすごく聴いたことのあるクラシック音楽がうっすらと流れていたので

『何だっけ?!これ何だっけ?!!』

と、記憶をフル回転させました。そして思い出したのが、その曲が



バッハの《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第3番 ホ長調 BWV1016》の第4楽章だということでした。

聴き覚えがあるも何も、この曲は自分でも演奏したことのある曲でした。この曲を本気で忘れ去っていたら、仮にも音楽家の端くれとして最早おしまいです(汗)。

《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタBWV1014~1019》は、《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1001〜1006》とともに、バッハのヴァイオリンのための重要な室内楽作品です。

バロック時代のヴァイオリン・ソナタというとヘンデルやコレッリの作品に代表されるように独奏楽器を支える通奏低音楽器が必ず入っていて、鍵盤の右手パートには和音を示す数字だけが書かれているだけで、指定された和声の中で演奏者の裁量に任される部分が多く見受けられます。しかしバッハ自身はチェンバロのパートを重視することを好んでいて、この曲でも右手パートにしっかりとメロディラインが書かれているので、ベートーヴェン以降の近代的な二重ソナタへの橋渡しをしている作品と言うことができます。

曲の構成は6曲中5曲が『緩-急-緩-急』という教会ソナタ形式となっていて、緩徐楽章ではチェンバロは和音的な形を取っていますが、速い楽章ではチェンバロの両手が独立して動き、独奏ヴァイオリンとあわせて『ヴァイオリン、鍵盤右手、鍵盤左手によるトリオ・ソナタ』のようになる作りになっています。舞曲形式の曲はありませんが、リトルネッロ形式やフォルテとピアノを対比させたエコー効果などイタリア音楽の影響も見られ、当時としては珍しいくらいに各曲の速度指定に神経を使っている点も特徴となっています。

《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第3番 ホ長調 BWV1016》は、全6曲中で最も華麗な作品という印象があります。内容的には2つの緩徐楽章に比重がありますが、2つのアレグロ楽章もそれぞれ性格を異にしていて、特に終楽章はこの曲の中で最も華やかさが目立つものとなっています。

第1楽章はホ長調、4/4拍子のアダージョ。

バッハのホ長調で書かれた作品には気高くてスケールの大きな曲が多いのですが、この楽章はそうした作品の中でも筆頭に挙げられるべきものです。この楽章でチェンバロは伴奏に徹していますが、チェンバロ声部が一貫して5声部という分厚い和音で書かれているのは、恐らくオーケストラがイメージされているからなのかも知れません。
 
第2楽章はホ長調、2/2拍子のアレグロ。

このフーガは、緊張感の高い第1楽章に比してずっと緩やかな印象を与えるものです。バッハのフーガは通常、もっと生真面目であったり構築的であったりするのですが、そうした『硬派の音楽』という印象はこの楽章とは無縁で、むしろこんなにエレガントでお洒落な音楽は、バッハの作曲した厖大な数のフーガの中でも珍しいと言えるでしょう。
 
第3楽章は嬰ハ短調、3/4拍子のアダージョ・マ・ノン・タント。

第1楽章よりも更に長大な緩徐楽章で、4小節を単位とした執拗低音の上でチェンバロの右手が8分音符で和音を奏し、独奏ヴァイオリンの奏する三連符の美しい旋律を迎え入れます。この和音と旋律の分担はやがて入れ替わり、チェンバロの右手が三連符の旋律を奏する時にはヴァイオリンは8分音符の重音による和音で伴奏しますが、途中でヴァイオリンとチェンバロの右手が共に三連符の旋律を奏しながら絡み合う部分も印象的です。
 
第4楽章はホ長調、3/4拍子のアレグロ。

3つの声部が16分音符による速い動きを競い合う華麗なフィナーレで、中間部では上2声部に三連符の動きが現れますが、冒頭にヴァイオリンが奏する16分音符のモティーフがそれを再三中断させます。これはオーケストラのトゥッティに対して独奏楽器による旋律が切り込みをかけるという、イタリアのヴァイオリン協奏曲のような手法です。

そんなわけで、今日はバッハの《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第3番 ホ長調》をお聴きいただきたいと思います。佐藤俊介氏のバロックヴァイオリンとメンノ・ヴァン・デルフトのチェンバロで、ちょっと可愛らしい印象すらあるバッハの室内楽をお楽しみください。


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今日はブラームス《交響曲第2番 ニ長調》の初演の日〜クライバー&ウィーン・フィルによるライブで

2024年12月30日 17時17分17秒 | 音楽
今日は12月30日、2024年も明日の大晦日を残すのみとなりました。そんな中、私は今日もひたすら折り紙を折りながら、いろいろと音楽を聴いていました。

調べてみたところ、12月30日には様々な音楽が初演されていることが分かりました。ざっと挙げてみると

●1877年 ブラームス《交響曲第2番》

●1884年 ブルックナー《交響曲第7番》

●1905年 レハール オペレッタ《メリー・ウィドウ》

●1921年 プロコフィエフ 歌劇《三つのオレンジへの恋》

とこれだけあったのですが、今回はその中からブラームスの《交響曲第2番》をご紹介しようと思います。

《交響曲第2番 ニ長調 作品73》は、



ブラームスが1877年に作曲した2作目の交響曲です。重厚で壮大な第1交響曲とは対照的に伸びやかで快活な雰囲気を示すことでベートーヴェンの《交響曲第6番『田園』》に例えられ、「ブラームスの『田園』交響曲」と呼ばれることもある作品です。

1877年6月、ブラームスは



南オーストリアのケルンテン地方、ヴェルター湖畔にあるペルチャッハに避暑のため滞在していました。そこで第2交響曲の作曲に着手し、9月にはほぼ完成したといいます。

その後ブラームスは10月にバーデン=バーデン近郊のリヒテンタールに移り、そこで全曲を書き上げました。《交響曲第1番》が推敲を重ねて20年あまりを要したのと対して《交響曲第2番》の作曲期間は4ヶ月とかなり短期ですが、実は第1交響曲の作曲中にも準備が進められていたという説もあるようです。

ブラームスは、ペルチャッハから批評家エドゥアルト・ハンスリックに宛てた手紙に

「『ヴェルター湖畔の地にはメロディがたくさん飛び交っているので、それを踏みつぶしてしまわないように』、とあなたに言われることでしょう。」

と書き送っています。その後、ブラームスは2年間続けてペルチャッハで夏を過ごし、この地で《ヴァイオリン協奏曲》や《ヴァイオリンソナタ第1番『雨の歌』》などを作曲しました。ブラームスの親友のひとりである外科医のテオドール・ビルロートは、第2交響曲に接して

「ペルチャッハはどんなに美しいところなのだろう。」

と語ったといいます。

初演は1877年12月30日、ハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって行われました。この初演は大成功で第3楽章がアンコールされ、翌年9月にブラームスは故郷のハンブルクに招かれて自身の指揮によって再演を果たしています。

第1楽章はアレグロ・ノン・トロッポ ニ長調 3/4拍子。

冒頭に低弦が演奏する基本動機が登場し、この低弦の動機と共にホルンや木管によりゆったりとした美しい第1主題が奏でられます。その後出てくるヴィオラとチェロによる第2主題は豊麗な音が響き、魅力的なものとなっています。

前半部に繰り返し記号があるのですが、あまり実行されることはありません(私自身、前半部を繰り返して演奏したことは1〜2回しかありません)。後半部からはブラームスらしい厚みのある音楽が展開されますが、コーダでは弦楽合奏のピチカートの上に木管楽器群やホルンが可愛らしくも感じるメロディを展開し、冒頭のテーマを木霊のように響かせながら静かに閉じられます。

第2楽章はアダージョ・ノン・トロッポ ロ長調 4/4拍子

どことなく寂しげなチェロの第1主題によって始まり、ヴィオラがその裏に有機的に絡んでいきます。この主題は裏拍であるはずの4拍目から出発し、音楽の重みが弱拍である4拍目と次の小節の2拍目にあるのが特徴で、長調の楽章ではあるものの、全体に明るい交響曲第2番の中で重い一面を見せています。

第3楽章はアレグレット・グラツィオーソ ト長調 3/4拍子

スケルツォに相当する楽章ですが諧謔的な感じはあまり強くなく、どちらかというとのどかで楽しげな印象を受けます。オーボエの愛らしい主題から始まるこの楽章は演奏時間が短い中でテンポやリズムが何度も変化し、ブラームスならではのオーケストレーションの工夫が随所になされています。

第4楽章はアレグロ・コン・スピリート ニ長調 2/2拍子
 
弦楽器が静かに基本動機を用いた第1主題を掲示し、管を加えて明るい旋律が続いた後、休符を挟んで突然大きな音量でエネルギーが放たれます。強烈な音型や木管の柔らかい旋律を経てヴァイオリンとヴィオラによる第2主題が現れた後、トランクイロ(静かに)と指定された場面で弦と木管が三連符で応答します。

この曲では、ブラームスの4つの交響曲で唯一この曲にのみ使われるテューバを含めた金管楽器群が活躍します。そして最後はトロンボーンのドミソの和音の咆哮の中で、歓喜の高まりを感じながら華やかに締めくくられます。

そんなわけで、今日はブラームスの《交響曲第2番 ニ長調》をお聴きいただきたいと思います。カルロス・クライバー指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による1991年のライブ録音で、『ブラームスの田園』とも称される伸びやかな交響曲をお楽しみください。


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今日はラヴェルの祥月命日〜自作自演と自作自編の《亡き王女のためのパヴァーヌ》

2024年12月28日 17時17分17秒 | 音楽
昨日が官庁をはじめとした業種の御用納めだったこともあってか、今日は土曜日だというのに何だか街中が静かな感じがしました。デパートやコンビニなどは普通に営業してはいるのですが、どことなく年末感が漂っているように感じたのは私だけでしょうか。

ところで、今日12月28日はラヴェルの祥月命日です。



ジョゼフ・モーリス・ラヴェル(1875〜1937年)は、《スペイン狂詩曲》やバレエ音楽《ダフニスとクロエ》や《ボレロ》、またムソルグスキーの《展覧会の絵》のオーケストレーションでも知られるフランスの作曲家です。

ラヴェルは1927年ごろから軽度の記憶障害や言語症に悩まされていましたが、1932年、パリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していきました。同年に最後の楽曲《ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ》の作曲に取りかかりましたが、楽譜や署名で頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いていきました。

言葉がスムーズに出てこなくなったもどかしさから、ラヴェルはたびたび癇癪を起こすようになりました。1933年11月にはパリで最後のコンサートを行って代表作《ボレロ》などを指揮しましたが、このころには手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化していました。

1934年には周囲の勧めでスイスのモンペルランで保養に入ったものの一向に回復せず病状は悪化の一途をたどり、1936年になると周囲との接触を避けるようになって小さな家の庭で一日中椅子に座ってぼんやりしていることが多くなりました。たまにコンサートなどで外出しても無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させるなどして、周囲を困惑させたといいます。

その後ラヴェルは失語症などの権威だった神経学者テオフィル・アラジョアニヌ博士の診察を受け、博士は失語症や理解障害、観念運動失行など脳神経学的な症状であると判断しました。しかし脳内出血などを疑っていたラヴェルの弟のエドゥアールや友人たちはその診断に納得せず、1937年12月17日に血腫や脳腫瘍などの治療の専門家として名高かった脳外科医クロヴィス・ヴァンサンの執刀のもとで手術を受けることとなりました。

しかし実際にヴァンサンがラヴェルを開頭手術してみると腫瘍も出血も発見されず、脳の一部に若干の委縮が見られただけでした。もともと万が一の可能性に賭けて手術という決断をしたヴァンサンは、ラヴェルが水頭症を発症していないことを確かめると萎縮した脳を膨らまそうとして、なんと生理食塩水を頭に注入したのでした。

手術後は一時的に容体が改善したものの間もなくラヴェルは昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま12月28日に死去しました (享年62) 。葬儀にはダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、イーゴリ・ストラヴィンスキーといった作曲家たちが立ち会い、



遺体はルヴァロワ=ペレ(パリ西北郊)に埋葬されました。

そんなラヴェルの祥月命日である今日は、《亡き王女のためのパヴァーヌ》をご紹介しようと思います。この作品はラヴェルが1899年に作曲したピアノ曲で、1910年にラヴェル自身が管弦楽に編曲した作品です。

パヴァーヌとは、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの宮廷で普及していた舞踏のことです。ラヴェルと同じくフランスの作曲家ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)も、管弦楽と合唱による《パヴァーヌ》を作曲しています。

原題である《Pavane pour une infante défunte》のinfanteはスペインの王女の称号「インファンタ」のことであり、défunteは第一義には「死んだ」を意味します。なので、そこから

《亡き王女のためのパヴァーヌ》
《逝ける王女のためのパヴァーヌ》
《死せる王女のためのパヴァーヌ》

と日本語では訳されていますが、défunteの第二義には「かつての、過ぎ去った」という意味もあり、ラヴェル自身はこの題名について

「亡くなった王女の葬送の哀歌」

ではなく、

「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」

だとしています。

因みにこの『小さな王女』とは誰か…ということですが、



スペイン王フェリペ4世の娘で、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の最初の皇后となったマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(1651〜1673)を、ディエゴ・ヴェラスケス(1599〜1660)が描いたルーブル美術館所蔵の肖像画からラヴェルがインスピレーションを得た…とも言われています。いずれにしても、この古風な曲は歴史上の特定の王女に捧げて作られたものではなくスペインにおける風習や情緒に対するノスタルジアを表現したもので、こうした表現は、例えば《スペイン狂詩曲》や《ボレロ》といったラヴェルによる他の作品や、ドビュッシーやアルベニスといった同年代の作曲家の作品にも見られるものです。

《亡き王女のためのパヴァーヌ》のピアノ版はパリ音楽院在学中に作曲した初期を代表する傑作であり、ラヴェルの代表曲の1つと言える作品です。

ラヴェルはこの曲を自身のパトロンであるポリニャック公爵夫人に捧げ、初演は1902年4月5日、スペインのピアニストのリカルド・ビニェスの手によって行われました。この曲は世間からは評価を受けましたが、一方でラヴェルの周りの音楽家からはあまり評価されなかったといいます。

曲はト長調で4分の4拍子、速度標語は

『十分に柔らかく、ただし緩やかな響きをもって(Assez doux, mais d'une sonorité large)』

と指定されています。曲の構造としては2つのエピソードを挟んだ小ロンド形式(単純ロンド形式)を取っていて、A-B-A-C-Aという構成をしています。

優雅でラヴェルらしい繊細さを持つ美しい小品であり、ピアノ版の他にも多くの編曲者によってピアノと独奏楽器のデュオや弦楽合奏など様々に編曲され、コンサートやリサイタルの曲目や、アンコールピースとしてもしばしば取り上げられています。

この曲には、ラヴェル晩年の悲しいエピソードがあります。

記憶障害や言語障害が悪化していたある日、偶然この曲が演奏されているのを聴いたラヴェルは、

「美しい曲だね。 いったい誰が書いたんだろう。」

と口にしました。なんと、自分の作品であることを忘れてしまっていたのです。

作曲当初はこの曲があまりにも人気が高かったので、若きラヴェル自身はむしろ

「大胆さに欠ける」
「シャブリエの過度の影響」
「かなり貧弱な形式」

といった天邪鬼的な低い評価をしていました。もしかしたら様々な障害を負ったことによって、最後に自分自身のこの曲に対しての正直な感想が出たのかも知れません。

そんなわけで、今日はラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》をお聴きいただきたいと思います。先ずはラヴェル本人のピアノ演奏による録音をお楽しみください。



続いて、同じ作品のオーケストラ版をご紹介しようと思います。

オーケストラ版は1910年にラヴェル自身が編曲し、1911年に初演されました。『管弦楽の魔術師』の異名に恥じない華麗な編曲ですが、《ボレロ》や《展覧会の絵》から連想されるような大規模な管弦楽編成ではなく、むしろ、これもピアノ曲の編曲である《クープランの墓》などに近い小規模な編成です。

旋律美と知名度に加えて演奏時間が6分前後と短いため、演奏会のプログラムやアンコールピースとして取り上げられる機会も多い曲です。ただ、冒頭を飾るホルン奏者からしてみたらかなりの高音域を弱奏で吹かなければならないため大変な思いをする曲でもあり、演奏後には真っ先にホルン奏者が指揮者から称えられます。

そんなわけで、続いて《亡き王女のためのパヴァーヌ》オーケストラ版をお聴きいただきたいと思います。エサ・ペッカ・サロネン指揮によるフィルハーモニア管弦楽団の演奏で、ラヴェルの冴え渡るオーケストレーションをお楽しみください。


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今日はベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》の初演日〜レオニード・コーガン独奏によるライブ映像

2024年12月23日 17時17分17秒 | 音楽
今日も神奈川県はかなり冷えこみました。電気代が気になるところですが、風邪をひいてしまっては元も子もないので、暖房器具は必須です。

ところで、今日12月23日は上皇陛下のお誕生日ですが、ベートーヴェンの《ヴァイオリン協奏曲》が初演された日でもあります。《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61》は、



ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827)が1806年に作曲したヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲で、ベートーヴェン中期を代表する傑作の1つでもあります。

ベートーヴェンは、ヴァイオリンと管弦楽のための作品を他に3曲残しています。作品40および作品50である2つの《ロマンス》と、第1楽章の途中で未完に終わったハ長調の協奏曲(WoO 5、1790-92年)がそれにあたり、完成したヴァイオリン協奏曲はこの1作しかありません。

しかしその完成度はすばらしく、『ヴァイオリン協奏曲の王者』とも、あるいはメンデルスゾーンの作品64、ブラームスの作品77、チャイコフスキーの作品35とともに『4大ヴァイオリン協奏曲』とも称されています。 この作品は、同時期の《交響曲第4番》や《ピアノ協奏曲第4番》にも通ずる叙情豊かな作品で、伸びやかな表情が印象的です。

第1楽章はニ長調のアレグロ・マ・ノン・トロッポ、4分の4拍子のソナタ形式。

ティンパニの連打に木管のやわらかな合奏が続き、ほどなく力強い総奏がきます。第2主題もまた木管によって穏やかに提示されます。

オーケストラが簡素ながら雄大に序奏部を結ぶと、いよいよヴァイオリン・ソロの登場です。独奏ヴァイオリンも、冒頭のティンパニ連打のリズムを刻みつつ、第1主題、第2主題を繰り返しつつ、展開していきます。

中間部でのオーケストラの総奏はさすがの迫力ですが、再びヴァイオリンが冒頭と同じ上行音型で帰ってくると、影のある展開部に入っていきます。そしてティンパニと低弦が刻むリズムが遠雷のように響く中で哀愁を漂わせながらヴァイオリンが歌うと、力強い再現部から長大なコーダで結ばれます。

因みに、この第1楽章だけで演奏時間が20分を超えます。更にカデンツァの長さによっては25〜26分になることもあり、この楽章だけでこの曲の半分以上の長さになります。

第2楽章はト長調のラルゲット、4分の3拍子の変奏曲。

弱音器をつけた弦楽合奏が夢見るようなテーマを奏すると、クラリネットとホルンのアンサンブルにヴァイオリンソロが絡みつくように展開していきます。その後、3回の変奏を重ねてカデンツァに入り、そのまま第3楽章に入っていきます。

第3楽章はニ長調のアレグロ、8分の6拍子のロンド。

実に楽しい、ウキウキするようなロンド主題をヴァイオリンソロが歌い、オーケストラがそれに続きます。ロンド主題の合間にヴァイオリンが変幻自在に新しい旋律を繰り出して踊りながら技巧を尽くしますがそれをしつこく感じさせない自然さで、木管との絡みも小気味よく流れていきます。

形式でいうと、A-B-A-C-A-B-Aの構造になっていて、2回目のBのあとにカデンツァがあり、最後のAは結尾に向けて大いに盛り上げます。その後急に音量を落としてヴァイオリンが静かに短く語ったのちに、フォルテッシモの和音をオーケストラが2回鳴らして音楽を締めくくります。

そんなわけで、今日はベートーヴェンの《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調》をお聴きいただきたいと思います。レオニード・コーガンのヴァイオリン、エマニュエル・クリヴィヌの指揮による1977年のライブ映像で、4大ヴァイオリン協奏曲の筆頭を飾る壮大な音楽をお楽しみください(アンコールにバッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ》第2番より『サラバンド』の演奏もあります)。


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