共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はゴセックの祥月命日〜最後の審判のラッパの音が降り注ぐ壮大な《レクイエム》

2025年02月16日 17時17分50秒 | 音楽
今日はかなり暖かな陽気となりました。この勢いだと桜の蕾も膨らんでしまいそうですが、週明けからまた冷え込みが戻ってくるようなので、ことはそう安々とは進まないようです。

ところで、今日2月16日はゴセックの祥月命日です。



フランソワ=ジョゼフ・ゴセック(1734〜1829)は、フランスで活躍したベルギー出身の作曲家・指揮者です。

『…誰?』

と思われる方もおいでかと思いますが、



ヴァイオリンのための愛らしい小品《ガヴォット》の作曲家といえば、分かっていただける方も多いのではないでしょうか。

現在はこの《ガヴォット》1曲のみによって知られているゴセックですが、実は交響曲の大家で30曲近くの交響曲を書きました。パリ音楽院創立の際には作曲の分野における教授として招かれていて、共和政・帝政時代の革命歌の作曲家としても歴史的に名を残している人物です。

ゴセックは95年という当時としては異例とも言える長い生涯を過ごし、大雑把に言えばバロック音楽の終焉から初期ロマン派音楽の勃興までに遭遇した稀有な人物でした。同じような時期を過ごした長寿の作曲家といえば



フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)が有名ですがそれでも77年の生涯ですから、ゴセックが如何に長生きしたかが分かるかと思います。

多くの交響曲を作曲したゴセックでしたが、次第に交響曲の作品数を減らしていってオペラに集中するようになると、1784年に『エコール・ドゥ・シャンÉcole de Chant (唱歌伝道所)』を設立し、フランス革命の際には作曲家エティエンヌ・メユール(1763〜1817)とともに救国軍の楽隊指揮者を務めました。1795年にパリ音楽院が設立されるとルイジ・ケルビーニ(1760〜1842)やメユールとともに視学官に任命され、フランス学士院の最初の会員に選ばれるとともに、レジオンドヌール勲章を授与されました。

しかし、1815年にワーテルローの戦いでナポレオンが敗北するとパリ音楽院はしばらく閉鎖に追い込まれ、当時81歳のゴセックも引退を余儀なくされてしまいました。その後は音楽院近くで年金暮らしを続けながら、最後の作品となる3曲目の《テ・デウム》の作曲に1817年まで取り組んでいました。

ゴセックはフランスの外ではほとんど無名であり、おびただしい数の作品は、宗教音楽も世俗音楽もともに同時代のより有名な作曲家の陰に隠れていってしまいました。そして1829年の2月16日、ゴセックはパリ郊外のパシーに没しました(享年95)。

そんなゴセックの祥月命日である今日は、《レクイエム》をご紹介しようと思います。

18世紀の後半になると、フランスではレクイエムに大きな変化が現れていました。それはオペラ的要素が加わったばかりでなく曲全体が長大となり、特にセクエンツィアの〈怒りの日〉が楽曲の大きな部分を占めるようになっていったのですが、この作品はその顕著な例となっています。

1760年3月に、当時のパトロンであったコンデ公の妻シャルロット・ド・ロアンが亡くなるとゴセックはその追悼のために《レクイエム》を作曲し、同年5月に初演しました。この曲は演奏に1時間半を要する大作で、オラトリオ以外の宗教音楽としては当時異例の長さでした。

ゴセックはこの《レクイエム》で、最初の大成功を収めました。中でも『トゥーバ・ミルム(妙なるラッパ)』部分の管弦楽法は当時としては驚くべきもので、ゴセック自身によれば

「〈怒りの日〉の3章と4章で3本のトロンボーン、4本クラリネット、4本のトランペット、4本のホルン 、8本のファゴットが教会の見えない場所や、高いところから最後の審判を告げたので、聴衆は恐怖に包まれた。その時オーケストラの全部の弦楽器がトレモロを弾き続けたのは、その恐怖の表現だったのである」

と言っています。

また、京都ノートルダム女子大学元学長の相良憲昭氏(1943〜2020)はゴセックの《レクイエム》の先進性について

「ゴセックの《レクイエム》は、おそらく当時のもっとも前衛的な曲の一つだったのではないだろうか。バッハが死んで十年、ヘンデルの死の翌年にこのような曲が生まれたのは驚くばかりである。」

「勿論、対位法の用い方にはバロック音楽の体臭を濃厚に感じとることができるが、大胆なオーケストレーションや壮麗極まりないホモフォニックな旋律などは古典派の全盛期の例えば、ハイドン晩年の『ミサ曲』やベートーヴェンのオペラ 『フィデリオ』、さらにはベルリオーズの『レクイエム』すらを予見させるものがある」

と評しています。

この作品を称賛したモーツァルトは、1778年のパリ滞在中にゴセックを訪ねました。そして、

「とてもいい友人になりました。とても素っ気ない人でしたが。」

という会見記を父レオポルトに書き送っています。

そんなわけで、今日はゴセックの《レクイエム》をお聴きいただきたいと思います。フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮による演奏で、現在では愛らしい《ガヴォット》のみで知られるゴ豪華で壮麗な鎮魂歌をお楽しみください。

因みに、この動画の『トゥーバ・ミルム』は21:05から始まります。バルコニーの上から降り注ぐ、最後の審判のラッパの迫力も聴きどころです。


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今日はヨハン・シュトラウス2世の名作《美しく青きドナウ》初演の日〜『オーストリア第二の国歌』としての合唱曲

2025年02月15日 17時18分20秒 | 音楽
今日は、比較的暖かな陽気となりました。今日は調子が良かったので散歩に出かけてみたのですが、日陰に入るとまだ風の冷たさが身に沁みました。

ところで今日2月15日は、かの名作ワルツ《美しく青きドナウ》が初演された日です。《美しく青きドナウ》(An der schönen, blauen Donau)作品314は、



ヨハン・シュトラウス2世(1825〜1899)が1867年に作曲したウィンナ・ワルツで、現在は管弦楽作品として親しまれていますが、元々は合唱用のウィンナ・ワルツです。

この曲は《ウィーンの森の物語》《皇帝円舞曲》とともにヨハン・シュトラウス2世の『三大ワルツ』に数えられている中でも最も人気が高い作品で、作曲者およびウィンナ・ワルツの代名詞ともいわれる作品です。オーストリアにおいては、正式なものではありませんが、帝政時代から現在に至るまで『第二の国歌』とも呼ばれています。

1865年初頭、シュトラウス2世は、ウィーン男声合唱協会から協会のために特別に合唱曲を作ってくれと依頼されました。この時シュトラウス2世は断ったのですが、


「今はできないことの埋め合わせを、まだ生きていればの話ですが、来年にはしたいとここでお約束します。尊敬すべき協会のためなら、特製の新曲を提供することなど、おやすい御用です。」


と約束しました。

約束の1866年には新曲の提供はされませんでしたが、シュトラウス2世は合唱用のワルツのための主題のいくつかをスケッチし始めました。翌1867年、シュトラウス2世にとって初めての合唱用のワルツが、未完成ではあったもののウィーン男声合唱協会に提供されました。

シュトラウス2世はまず無伴奏の四部合唱を渡しておいたのですが、その後、



急いで書いたピアノ伴奏部を


「汚い走り書きで恐れ入ります。二、三分で書き終えないといけなかったものですから。ヨハン・シュトラウス。」


というお詫びの言葉とともにさらに送りました。シュトラウス2世からピアノ伴奏部が協会に送付されてきた当初、この曲には四つの小ワルツがワンセットになっていて、それに序奏と短いコーダが付いていました。

この四つの小ワルツとコーダに歌詞を付けたのはアマチュアの詩人であるヨーゼフ・ヴァイルという協会関係者でしたが、歌詞を付ける作業は一筋縄ではいかなかったようです。というのも、ヴァイルが四つの小ワルツにすでに歌詞を乗せた後で、シュトラウス2世がさらに五番目の小ワルツを作ったからで、シュトラウス2世はヴァイルに四番目の歌詞の付け替えと、五番目の小ワルツの新たな歌詞、そしてコーダの歌詞の改訂を要求したといいます。

初演の直前になって急に曲にオーケストラ伴奏を付けることが決まり、シュトラウス2世は急ピッチで作曲の筆を進めました。ドナウ川をイメージしたと伝えられる有名な序奏部分も、実は初演の直前に急いで書き足されたものです。

そして1867年2月15日、合唱曲《美しく青きドナウ》はウィーンのディアナザールで初演されました。当日夜、シュトラウス2世とシュトラウス楽団は宮廷で演奏していたため、合唱指揮者ルドルフ・ワインヴルム(ドイツ語版)の指揮のもと、当時ウィーンに暫定的に駐留していたハノーファー王歩兵連隊管弦楽団の演奏で初演されました。

初演は不評に終わったと言われることが多いですが、実際のところ当時のウィーンの新聞の多くはこの初演の成功を報じています。決して不評というわけではなかったのですが、アンコールがわずか1回だけだったことは作曲者にとって期待外れだったようです。

その後《美しく青きドナウ》は、パリやロンドンで絶賛され、こうした評判がウィーンにも届くとウィーンでも演奏されるようになり、その後たちまち世界各地で演奏されるようになっていきました。1872年6月17日にシュトラウス2世を招いてアメリカ合衆国ボストンで催された「世界平和記念国際音楽祭」では、2万人もの歌手、1000人のオーケストラ、さらに1000人の軍楽隊によって、10万人の聴衆の前でこのワルツも演奏されました。

やがて、この曲に「国歌」にふさわしい歌詞が伴うようになりました。1890年、フランツ・フォン・ゲルネルトによる現行の歌詞に改訂されたのです。

ゲルネルトもやはりヨーゼフ・ヴァイルと同様ににウィーン男声合唱協会の会員で、作曲や詩作をたしなむ裁判所の判事でした。新たに付けられた歌詞は、かつてヴァイルが付けたものとはまったく異なる荘厳な抒情詩でした。


Donau so blau,
so schön und blau
durch Tal und Au
wogst ruhig du hin,
dich grüßt unser Wien,
dein silbernes Band
knüpft Land an Land,
und fröhliche Herzen schlagen
an deinem schönen Strand.


いとも青きドナウよ、
なんと美しく青いことか
谷や野をつらぬき、
おだやかに流れゆき、
われらがウィーンに挨拶を送る、
汝が銀色の帯は、
国と国とを結びつけ、
わが胸は歓喜に高鳴りて、
汝が美しき岸辺にたたずむ。


改訂新版が初めて歌われたのは1890年7月2日で、この後広く『ハプスブルク帝国第二の国歌』と呼ばれるようになっていきました。ウィーンを流れるドナウ川をヨーロッパの国々に繋がる一本の帯に見立てた国土を謳う立派な歌詞が付けられたことで、このワルツはハプスブルク帝国およびその帝都ウィーンを象徴する曲に生まれ変わったのでした。

オーストリアでは帝政が廃止された後、ハイドンによる皇帝讃歌《神よ、皇帝フランツを守り給え》から別の国歌に変更され、さらに紆余曲折を経てモーツァルトの作品とされる『山岳の国、大河の国』に変更されました。その一方で《美しく青きドナウ》は、オーストリア=ハンガリー帝国時代と変わらず『第二の国歌』としての立ち位置を維持していきました。

1945年4月に、オーストリアはナチス・ドイツ支配から解放されました。しかし独立後の国歌が未定だったことから、オーストリア議会はとりあえず正式な国歌が決まるまでの代わりとして《美しく青きドナウ》を推奨しました。その伝統は、今でも続いています。

そんなわけで、今日は《美しく青きドナウ》を、初演時の合唱曲バージョンでお聴きいただきたいと思います。ヨハン・シュトラウス2世最大のヒット曲にして、『オーストリア第二の国歌』たる名曲をお楽しみください。






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思った通りの答えがきた『じょじょ』

2025年02月13日 18時18分18秒 | 音楽
今日は日差しが暖かな、春を思わせるような天気となりました。そんな中、今日は勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室がありました。

今月は帰りの歌に《春よ来い》を歌わせていますが、その中に

〽赤い鼻緒のじょじょ履いて

という歌詞があります。そこで、今回はこの『じょじょ』とは何か子どもたちに問いかけてみることにしました。

すると、中学年の男子が真っ先に手を挙げたので指名すると

「◯ョ◯ョの奇妙な冒険!」

という答えが返ってきました。まぁ、これは想定内だったので

「その『◯ョ◯ョ』はカタカナ、こっちの『じょじょ』は平仮名な。」

と突っ込んでおきました(笑)。

ご存知の方もおられるでしょうが、『じょじょ』とは



草履の幼児語です。小さな子どもはまだ言葉を上手く発音できないため『ぞうり』が『じょーり』になり、更に幼児語では同じセンテンスを繰り返す・・・例えば犬を『わんわん』と言ったり車を『ブーブー』と言ったりする・・・傾向があるので、草履のことも『じょじょ』というようになった…というのが通説です。

近頃は七五三でもなければ、子どもが草履を履く機会もなくなってきています。せめて歌を通して、子どもたちにこうした文化を伝えていければと思っています。

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静養の身に沁みた名曲〜リヒャルト・シュトラウス『明日!』

2025年02月10日 17時17分17秒 | 音楽
昨日までと比べるとだいぶ体調は良くなってきましたが、それでも咳だけがどうしても止まりません。声も出し辛いのでここ数日はひたすら黙っていることが多く、龍角散のど飴がお友達になっています。

土曜日からはとにかくゆっくりと過ごすことを目的としていて、身体を温めながらいい音楽を聴くようにしています。そのいくつかの音楽の中で特に心に沁みたのが、『明日!』という歌曲です。

『明日!(Morgen!)』作品27-4は、



リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)が1894年に作曲した歌曲です。タイトルの『Morgen!』は、『明日!』『あした!』『あした』『あしたには!』『明日(あす)の朝』など、さまざまに訳されていますが、今回は『明日!』にさせていただきます。

『明日!』は、新婚の妻パウリーネのために書かれたと伝えられる《4つの歌曲》作品27の締めくくりに位置する作品です。シュトラウスの作品のなかでも特にロマンティックなものの一つとされていて、単体で知名度も高いものとなっています。

簡素ながら、非常に繊細な美しさを持った作品で、ピアニストのジェラルド・ムーア(1899〜1987)は著書『歌手と伴奏者』の中で、

「『壊れものにつき、取扱注意』のラベルを張るべきである」

と述べています。少々大袈裟な表現かも知れませんが、そのくらい繊細な小品だということができます。

スコットランド系ドイツ人作家ジョン・ヘンリー・マッケイ(1864〜1933)によるテクストは、



Und morgen wird die Sonne wieder scheinen
Und auf dem Wege,den ich gehen werde,
Wird uns,die Glücklichen,sie wieder einen
Inmitten dieser sonnenatmenden Erde …

そして あした 太陽は再び輝くだろう
そして私が歩む道々の上で
幸せな私たちを 太陽は再び一つにするだろう
隅々まで太陽が呼吸している大地に囲まれた中で …

Und zu dem Strand,dem weiten,wogenblauen,
Werden wir still und langsam niedersteigen,
Stumm werden wir uns in die Augen schauen,
Und auf uns sinkt des Glückes stummes Schweigen …

そして 広がる 青く波打つ浜辺へ
私たちは静かにゆっくりと降りていくだろう
黙って 私たちはお互いに見つめ合い
そして 私たちの上に 幸せな無言の沈黙が沈んでいく …



という希望に満ちた愛の詩で、やや感傷的で儚く繊細な詩です。シュトラウスもそれを受けて、繊細の極みといってよい音楽をつけました。

『明日!』はLangsam, sehr getragen(ゆるやかに、きわめて落ち着いて)という指示の書かれた、ト長調、4/4拍子の曲で、最初のフレーズが解決しないうちに歌がサブドミナントで入ってくる開始は非常に印象的です。作曲者自身による管弦楽編曲もあり、そこでは一貫してアルペッジョをハープが、主旋律を独奏ヴァイオリンが受け持っています。

この曲は、かつて私も知り合いのソプラノ歌手のリサイタルの客演でヴァイオリンを弾いたことがありました。至ってシンプルな音符なのですが、線が細くなり過ぎないようにしながらもソプラノの邪魔になってもいけないので、かなり悩みながら練習した記憶があります。

そんなわけで、今日はリヒャルト・シュトラウスの『明日!』をお聴きいただきたいと思います。ディアナ・ダムラウのソプラノ、ルノー・カピュソンのヴァイオリンソロ、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮、フランス国立管弦楽団によるエッフェル塔前での野外ライブ映像で、この上なく美しいリヒャルト・シュトラウスの歌曲をお楽しみください。


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今日はヴェルディの歌劇《ファルスタッフ》初演の日〜豪華キャストによる大団円『この世は全て冗談』

2025年02月09日 17時17分17秒 | 音楽
今日もよく晴れた、気持ちのいい天気となりました。それでも、何だか疲れがとれずにいた私はそんないい天気の中に身を投ずるこどなく、今日も自宅で引きこもっていました…。

ところで、今日2月9日は《ファルスタッフ》が初演された日です。歌劇《ファルスタッフ》は、



ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)作曲、アッリーゴ・ボーイト(1842〜1918)改訂と台本による3幕物のコメディア・リリカ・オペラで、原作はイギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564〜1616)の喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』です。

《ファルスタッフ》はヴェルディが80代目前に制作した最後のオペラであり、26作に及ぶヴェルディのオペラ作品の中でわずか2作しかない喜劇のうちの一つです(もう1作である初期の喜劇作品《一日だけの王様》は、現在では滅多に上演されることはありません)。また、19世紀半ば以降に書かれ、今日も上演されるイタリアオペラとしても、喜劇は《ファルスタッフ》の他にはプッチーニの中篇《ジャンニ・スキッキ》が挙げられる程度です。

シェイクスピアの劇を題材としたヴェルディのオペラは《マクベス》、《オテロ》に次いで3作目となります。同じ原作によるオペラには、カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフの《ウィンザーの陽気な女房たち》やアントニオ・サリエリ《ファルスタッフ》などがあり、半世紀先行してオットー・ニコライが作曲したドイツオペラ《ウィンザーの陽気な女房たち》が序曲を中心に有名ですが、これらの歌劇全体の上演機会はヴェルディ作品に比べずっと少ないものです。

《ファルスタッフ》の初演は1893年2月9日にミラノのスカラ座で行われ、大成功を収めました。直前の作品である《アイーダ》や《オテロ》ほど爆発的な人気を得たわけではないものの、《ファルスタッフ》はその高尚さと音楽的創造性のために大好評となったのでした。

全部聴くと2時間以上かかるので、今回はフィナーレの大フーガ『この世は全て冗談だ』をご紹介しようと思います。

巨漢の騎士ファルスタッフと様々な人たちとのドタバタ劇が笑いに包まれて終わると、まるでロッシーニのオペラ・ブッファのフィナーレのようにキャストが横に並んで

♪この世は全て冗談、人は皆道化師だ!

と陽気に歌います。聴いているだけなら楽しげに聴こえますが、実はこのフィナーレはファルスタッフから始まるフーガになっていて、想像以上にものすごく緻密な音楽が展開されていきます。

そんなわけで、今日はヴェルディの晩年の傑作歌劇《ファルスタッフ》から、フィナーレの大フーガ『この世は全て冗談だ』をお聴きいただきたいと思います。ポール・プリシュカ、ミレッラ・フレーニ、マリリン・ホーン、バーバラ・ボニーといった錚々たる歌手陣、ジェームス・レヴァイン指揮によるメトロポリタン歌劇場でのライブで、ヴェルディが悲劇を書き連ねた果てに行き着いた境地たる喜劇の愛すべきエンディングをお楽しみください。


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何故だが頭で無限ループ〜アーノンクール指揮によるベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》より「サンクトゥス」&「ベネディクトゥス」

2025年02月08日 17時17分17秒 | 音楽
昨日ほどではないにせよ、今日もそこそこ寒い一日となりました。そんな中、今日は何だか頭が痛くてずっと床に臥せっていました。

ところで、ここ2〜3日私の頭の中でずっと鳴り続けている音楽があります。それが、ベートーヴェンの大曲《ミサ・ソレムニス》の「サンクトゥス」と、「ベネディクトゥス」のヴァイオリンソロです。

この曲は自分でも何度かオーケストラで演奏しているので心当たりはあるのですが、何で久しく忘れていた音楽が急に頭の中で鳴りだしたのかは全く心当たりがありません。似たような音楽を聴いたりしたわけでもないので、尚更謎です。

《ミサ・ソレムニス》ニ長調 作品123は、ベートーヴェンの晩年に書かれた大作です。ベートーヴェンといえば



この肖像画が有名ですが、この絵でベートーヴェンが手にしているのが《ミサ・ソレムニス》の楽譜です。

ベートーヴェン自身

「私の最大の作品」

と言っているとおり大変聞き応えのある名曲で、ミサ曲の中ではバッハの《ロ短調ミサ曲》と並ぶ傑作です。曲は《交響曲第9番》ニ短調 作品125と似た編成で書かれていて、作品番号の近さからしても第9の兄弟分と言うことができます。

曲は「キリエ」「グローリア」「クレド」「サンクトゥス〜ベネディクトゥス」「アニュス・デイ」という伝統的なミサ曲通常文を構成する5つの部分から成っています。歌詩もラテン語で歌われますが、全体的に純粋な宗教曲というよりは演奏会的な雰囲気と教会的な雰囲気とをあわせ持ったスケールの大きさがあります。

各楽章はかなり長く、初演も全曲ではなく一部だけが演奏されています(全曲が初演されたのは、意外なことにロシアのサンクトペテルブルクです)。作品は、ベートーヴェンの生涯のパトロンだったルドルフ大公に献呈されています。

第1曲キリエの冒頭に

「心より出て、そして再び心にかえらん」

と書いてあるように、この曲はベートーヴェンの作曲技法のみならず、彼の理想や哲学の総決算ともいえる作品です。どことなくフランス革命やナポレオン戦争時代直後の啓蒙主義的な気分が漂うのも、ベートーヴェンらしいところです。

「サンクトゥス」はヴィオラ以下の中低音弦楽器と木管楽器、ホルン、金管楽器群とティンパニの弱奏で始まります。高音楽器のいない渋いアンサンブルの中から、独唱者が静かに歌い出します。

その後、ニ長調のきらびやかな音楽に転じますが、やがて「前奏曲」と銘打たれた橋掛かり的な音楽になります。こちらもまたヴィオラ以下の中低音弦楽器にフルートが加わって、第9の4楽章の大フーガ前の部分のような静謐な音楽が展開していきます。

その重々しい和音の中からヴァイオリンソロと2本のフルートが、まるで垂れ込めた厚い雲の中から差す天使の梯子のように高音で降りてきて「ベネディクトゥス」が始まります。稀代の名曲《ヴァイオリン協奏曲ニ長調》を彷彿とさせるヴァイオリンソロは歌唱や管弦楽団の間を自由自在に飛び回り、聴くものの心に忘れ難い印象を残します。

そんなわけで、今日は最近私の頭の中でループしまくっているベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》から「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」をお聴きいただきたいと思います。ニコラウス・アーノンクール指揮、アムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による2012年の演奏で、中低音の魅力満載のサンクトゥスと、天国的なヴァイオリンソロが美しいベネディクトゥスをお楽しみください。


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涙腺が崩壊しかけた歌〜《赤いやねの家》

2025年02月07日 16時40分45秒 | 音楽
今日、中学年の音楽の時間に支援に入りましたが、その時に子どもたちが歌ったのが《赤いやねの家》という歌でした。



私は子どもたちの後ろで歌を聴いていたのですが、この歌のシチュエーションが私の実家とあまりにも似過ぎていて驚きました。

茨城の私の実家は常磐線に乗ると、窓から赤…というか臙脂色の屋根が見えました。庭には柿の木があり、二階の子供部屋には妹が描いたクレヨンの落書きの跡がありました。

学校から帰宅するまでに見つけた自分だけの秘密の近道もあり、人気のない遊び場だった原っぱもありました。昨年実家仕舞をして取り壊されることが決まっていますが、この歌を聴いていてそんな実家の様子がありありと瞼の裏に浮かんできてしまい、涙腺が崩壊しそうになって慌てて後ろを向いてしまいました。

あとで子どもに

「先生(私)、さっきどうしたの?」

と突っ込まれてしまったのですが、そんなところだけは見られたくなかった…と、心底思ってしまいました。知らなかったとは言え、あまりの不意打ちに焦りまくったのでした(汗)。

覚悟を決めたと思っていましたが、それでも心のどこかで実家に対する思いというものがこびりついていたのだと思います。帰宅したら、実家の写っているアルバムの写真でも見返してみようか…と思っています。

そんなわけで、今日はその《赤いやねの家》という歌を載せてみました。杉並児童合唱団の歌唱で、50過ぎのオジサンを授業中にノスタルジックな気持ちにさせた歌をお聴きいただきたいと思います。


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鶯の上生菓子と《早春賦》

2025年02月03日 17時17分17秒 | 音楽
今日は二十四節気のひとつ『立春』です。まだまだ寒い日が続きますが、暦の上では誰が何と言おうと今日から春です。

今日は特別に立春らしいことをしたわけでもありませんが、敢えて言えば和菓子屋で



上生菓子を買ってきました。これは『鶯』という名の上生菓子で、鶯に見立てた菓子に梅の花があしらわれています。

お煎茶と一緒に美味しくいただきましたが、実際には鶯なんぞ飛んでいようはずもないくらいの寒さでした。そんなことを思っていたら、ふと

〽春は名のみの、風の寒さや
 谷の鶯、歌は思へど…

と歌う《早春賦》を思い出しました。

この《早春賦》には、個人的な思い出があります。

音楽大学時代、教職課程の教科教育法の授業で《早春賦》の旋律にオブリガート(対旋律)を付けるという課題がありました。代表して私が発表することになったのですが、私はヴィオラ専攻なのでヴィオラの音域を使ったオブリガートを作り、黒板に楽譜を書いた上で履修者たちの歌に合わせて一緒に演奏しました。

教科教育法の教授からはお褒めいただけたのですが、一人の同期のヴァイオリン科のお嬢さんが

「こんな分かりにくい音域のオブリガートなんてダメじゃぁんw」

「だいたい学校の音楽の授業でヴィオラなんて特殊楽器使うことないんだから、もっと一般的な楽器でできるもの作らないといけないんじゃないのぉww?」

と、授業中に鼻で笑ってきたのです。なので私はその場で

「ふ〜ん、じゃあ貴女って教科教育法の教授が『ヴィオラで作ることを指定なさった』ことを否定するつもりなの?それとも、自分がアルト譜表の楽譜が読めないことへの腹いせ?」

と軽く言い返したのですが、お嬢さんは

「…はっ?」

と言ったきり黙ってしまったのです。

一応説明すると、『アルト譜表』とは



ヴィオラの楽譜に使われる音部記号のことで一般的なト音記号やへ音記号と並んで『ハ音記号』と呼ばれているものです。今でこそ特殊なハ音記号ですが、ルネサンス期からロマン派初期にかけての声楽曲ではよく使われているもので



このような記号でソプラノからバリトンまで存在しており、上の一覧表で書かれている全ての音符が



ト音記号の『ド』の音を示しています。

現在ではソプラノ・メッゾソプラノ・バリトン譜表はあまり使われず、アルト譜表がヴィオラやアルト・トロンボーンに、テノール譜表がチェロやファゴットの高音域で使われています。我々ヴィオラ弾きからすると日常的なのですが、ヴァイオリンのお嬢さんからするとただの妙ちきりんな記号にしか見えなかったのでしょう。

その時、教科教育法の教授から

「アルト譜表はヴァイオリン科の生徒も習っているはずだが、どうして貴女は読み方が分からないのかね?」

という素朴なツッコミが入ったことで教室内に笑いが起き、その場はチャンチャン♪となりました。しかし、そのお嬢さんは授業の後に教室を出たところで縦になるのではないかと思うほど目をつり上げて

「大勢の前で私に恥をかかせた!」

と言ったきり、それから卒業するまで私と一言も口をきくことはありませんでした。

私は女性に詰め寄られても動じない性格なので、オロオロしたりご機嫌を伺ったりすることはしません。それが、反ってお嬢さんの反感を買ったようですが、こちらに言わせれば己の不勉強を自ら白日の元に晒したというだけのことでしたし、他の受講生からは賛同してもらえていたので良しとしていました。

個人的な思い出を長々と語ってしまいましたが、今でもこの《早春賦》を聴くと、あの時の授業と、目が縦になったお嬢さんの醜態が思い出されます。本来は素晴らしい歌なので、作詞の吉丸一昌氏と作曲の中田章氏には大変申し訳ないのですが…。

そんなわけで(どんなわけだ?!)、今日は《早春賦》をお聴きいただきたいと思います。由紀さおりと安田祥子の姉妹による歌唱で、早春を歌った美しい日本歌曲をお楽しみください。


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今日はプッチーニの歌劇《ラ・ボエーム》初演の日〜2つの別れが交錯する第3幕の四重唱

2025年02月01日 17時17分17秒 | 音楽
今日か入りましたが、日差しの乏しい寒い陽気となりました。明日は節分ですが、春を感じるにはほど遠い天気です。

ところで、今日2月1日はプッチーニの《ラ・ボエーム》が初演された日(サムネイルは初演時のポスター)です。歌劇《ラ・ボエーム》(La Bohème)は、



ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)の作曲した4幕オペラで、今日最もよく演奏されるイタリアオペラのひとつです。

《ラ・ボエーム》の物語は、アンリ・ミュルジェール(1822〜1861)が1849年に発表した小説・戯曲『ボヘミアン生活の情景』からとられました。台本はジュゼッペ・ジャコーザ(1847〜1906)とルイージ・イッリカ(1857〜1919)のコンビによるもので、プッチーニ自身の台本に対する注文が多く完成が難航したものの、短編の集積である原作の雰囲気をよく伝え、オペラ的な見せ場に富む出来映えとなりました。

実は歌劇《道化師》で知られる作曲家ルッジェーロ・レオンカヴァッロ(1857〜1919)も同時期に《ラ・ボエーム》の作曲を進めており、以後ふたりの仲は険悪となってしまいました。レオンカヴァッロの発表した《ラ・ボエーム》がいわゆるヴェリズモ・オペラ的な感情の激しく渦巻くものになったのに対して、プッチーニの《ラ・ボエーム》は青春群像と男女の恋愛を描いた叙情的なオペラになりました。

《ラ・ボエーム》の初演は1896年2月1日、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮によりトリノ・レージョ劇場で行われました。ヴェリズモに傾倒していた当時の批評家の不評はあったものの初演はまずまずの成功をおさめ、各地での再演の度に聴衆からの人気は次第に高まっていきました。

日本でも《ラ・ボエーム》はかなり人気の高い演目ですが、その理由のひとつに、このオペラが日本人の好きな交響曲のような構成になっていることがあると分析する向きもあります。物語が快活な展開を見せる第1幕、陽気で展開の早いスケルツォのような第2幕、緩徐楽章のような甘く切ない第3幕、そして怒涛の展開から劇的な結末へと流れる第4幕という展開が、まるて交響曲のようだ…という意見もあるようです。

オペラ全編通すと2時間以上かかるので、今日はその中から個人的に好きなロドルフォとミミ、マルチェッロとムゼッタによる四重唱「さらば甘い目覚めよ」 "Addio, dolce svegliare alla mattina!"をご紹介しようと思います。

愛し合いながらも互いの行く末を案じ、

「花の咲く頃に別れよう。」

とミミとロドルフォが手を取り合う横で、前の第2幕でよりを戻したばかりのくせに酒屋から飛び出してきて

「他の男に色目使いやがって!」
「亭主面しやがってなにさ!」

と、しょーもないことで互いを罵り合うムゼッタとマルチェッロ。ただ美しいだけでなく、愛し合うからこその別れと、痴話喧嘩の勢いで

「売れない看板絵描きw」
「毒ヘビ!」
「ヒキカエル!!」
「魔女め!!!」

と罵詈雑言の応酬での別れという全く質の違う別れがプッチーニの美しい音楽にのって同時に展開されていくという、なかなかシュールな場面です(笑)。

そんなわけで、今日はプッチーニの歌劇《ラ・ボエーム》から、第3幕四重唱をお聴きいただきたいと思います。ルチアーノ・パヴァロッティ、フィアンマ・イッツォ・ダミーコ他の歌唱で、まるっきり正反対の二組の別れの場面をお楽しみください。


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達成感のあったリコーダーテスト

2025年01月31日 18時18分18秒 | 音楽
今日、高学年の音楽の時間に



リコーダーのテストがありました。支援級の子どもたちは

「できない!できない!」

と大騒ぎしていたので、老婆心ながら私がちょっとヒントをあげたら、少しずつ落ち着いてきたようでした。

休み時間を使ったりして何回か練習を重ねていたら、どうにか止まらずに最後まで吹けるようになっていました。

「はい、これでいけるよね。いってらっしゃい✋️。」

と試験会場まで送り出して外で聴いていたら、多少つっかえたものの、全員見事に完奏することができました。なので、最大限の賛辞で迎えて、気持ちよく授業を終えることができました。

私が与えたヒントというのは極簡単なものですが、短時間で理解してもらうにはちょうどよかったようでした。極端な話、楽譜が読めなくても演奏が成立すればいいことなので、その点を重点的にケアしておきました。

跳び箱の時もそうでしたが、彼らにはできる限り成功体験を積んでいってほしいと思っています。そのための手段は、決してひとつではありません。

子どもたちを下校させてから担任と話をしていたら、すっかり遅くなってしまいました。まぁ、急ぐ用事もないので小田原駅までチンタラあるいて向かうと、



小田急線のコンコースに置かれた蝋梅の生け花がだいぶ開花していました。

花を写そうと思ったのですが、何だか見事なまでに全部の花が私のいる方と反対側にばかり開いていました。それでも無理矢理撮ったのが



これです(汗)。

明日から2月になりますが、天候が徐々に下り坂になるようです。節分には今季初の雪アイコンがついているのですが、どうなりますでしょうか…。


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今日はモーツァルトの誕生日〜事実上初の自作ピアノ協奏曲《ピアノ協奏曲第5番 ニ長調 K.175》

2025年01月27日 17時00分55秒 | 音楽
今日は何だか、朝から曇りがちな空が広がる天気となりました。日差しがあまりない分気温も10℃に届かず、なんとも薄ら寒い一日となりました。

ところで、1月27日は今日はモーツァルトの誕生日です。改めて説明するまでもありませんが、



ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)は主に現在のオーストリアを活動拠点とした音楽家であり、ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在です。

上の絵は、ピエートロ・アントーニョ・ロレンツォーニ(1721〜1782)が1763年初めに描いた『大礼服を着た6歳のモーツァルト』の肖像画です。1762年、女帝マリア・テレジア(1717〜1780)から下賜された皇子の大礼服を身にまとった姿で、幼いマリー・アントワネット(1755〜1789)にプロポーズしたとされる頃のものです。

モーツァルトの来歴については今更拙ブログであれこれと説明する必要もないかと思いますので、今回はモーツァルトが初めて手がけたピアノ協奏曲をご紹介しようと思います。それが《ピアノ協奏曲第5番 ニ長調 K.175》です。

なんで5番?と思われるかも知れませんが、実はモーツァルトのピアノ協奏曲の第1番から第4番まではカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜1788)をはじめとした先輩作曲家たちの作品を編曲したものなのです。そのため、実質的にモーツァルトがオリジナルで作曲したピアノ協奏曲というと、この第5番からということになります。

このピアノ協奏曲はバッハの末子であり『ロンドンのバッハ』とも呼ばれていたヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜1782)の様式を模倣して作曲されたことが明らかであり、クリスティアン・バッハの影響を留めていると一般には評価されています。しかし、フランスの作曲家オリヴィエ・メシアン(1908〜1992)は

「試作というには、あまりに見事な腕前」

と評価し、ドイツの音楽学者アルフレート・アインシュタイン(1880〜1952)も

「独奏楽器とオーケストラの釣合、ならびに規模の点で、既にヨハン・クリスティアンをはるかに越えている」

と絶賛するなど、音楽研究家からは高く評価されている作品です。

この作品は1773年の12月にザルツブルクで作曲されましたが、既に習作の範囲を越えて完成された様式を持っています。トランペットとティンパニを加えた祝祭的な作品で、おそらくモーツァルト自身、あるいは姉のナンネルの演奏を目的としたものと思われています。

後にモーツァルトはこの曲をミュンヘンやウィーンでも演奏し、1777年頃にオーケストラに手を加えています。モーツァルトはこの協奏曲に愛着を持っていたようで、最晩年まで自身で演奏し続けたといいます。

第1楽章はニ長調、4/4拍子のアレグロ。『颯爽』『溌剌』という言葉を音楽にしたような曲で、若きモーツァルトがオーケストラを従えて堂々とピアノを弾く姿が思い浮かびます。この楽章だけでも、間違いなく初期の傑作です。

第2楽章はト長調、3/4拍子のアンダンテ・マ・ウン・ポコ・アダージョ。まだ翳りの無い幸福なモーツァルトそのもののようですが、時折短調の影が差す場面はさすがモーツァルトで、要所要所で合いの手に入れられたホルンの音形も印象的です。

第3楽章はニ長調、2/2拍子のアレグロ。冒頭の弦楽合奏に2小節ずれの堂々としたカノンが現れ、それにのってピアノが爽快に駆け回ります。

そんなわけで、今日はモーツァルトの《ピアノ協奏曲第5番 ニ長調 K.175》をお聴きいただきたいと思います。アルフレード・ブレンデルのピアノ、ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズによる演奏で、17歳のモーツァルトが手がけた事実上の最初のピアノ協奏曲をお楽しみください。



後にモーツァルトは1782年にウィーンでこの協奏曲を演奏するにあたり、第3楽章の別稿を作曲しました。この曲は現在協奏曲の第3楽章として使われることはあまりありませんが、《ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調 K.382》として単独で演奏されることがあります。

そんなわけで、第3楽章の別稿として作られた《ピアノの管弦楽のためのロンド ニ長調 K.382》の動画も転載してみました。上の録音と同じ奏者たちによる演奏で、どこか聴き馴染みのある、愛らしいロンドをお楽しみください。


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今日はリヒャルト・シュトラウス《薔薇の騎士》初演の日〜とんでもない組み合わせの豪華映像

2025年01月26日 17時17分17秒 | 音楽
今日もいい天気になりましたが、私は今日もグダグダしていました。本当に週末毎にこんなんでいいのかと、真剣に悩み始めています…。

ところで、今日1月26日は《薔薇の騎士》がドレスデンで初演された日です。歌劇《薔薇の騎士》(Der Rosenkavalier)作品59は、



リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)の作曲、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール(1874〜1929)の台本による3幕物のオペラで、ワーグナー後期のオペラに比肩する長大な作品規模と大掛かりな管弦楽を要する大作です。

シュトラウスとホーフマンスタールは既に歌劇《エレクトラ》を共作していましたが、それは既存の舞台戯曲にシュトラウスが曲をつけただけのものでした。それ故にこの《薔薇の騎士》こそが、シュトラウスとホーフマンスタールのゴールデンコンビによる長年の実り豊かな作品の、実質的に最初の共同作業となりました。

《薔薇の騎士》の作曲は、1909年初めから1910年にかけて行われました。当初はホーフマンスタールの発案で男装の女性歌手を起用した軽い喜劇的な作品として計画されましたが、2人の夥しい数の往復書簡を中心とした議論の末、最終的に現在の形としてまとめられました。

物語の舞台はマリア・テレジア治世下のウィーンに置かれ、ロココの香りを漂わせながら遊戯と真実を対比させた作品として仕上げられました。音楽内容的としては『モーツァルト・オペラ』を目指したもので、プロットが《フィガロの結婚》と似ているのはこのためです。

《薔薇の騎士》の音楽は、これより前に作曲された歌劇《サロメ》や《エレクトラ》で用いられた、部分的には無調音楽ですらあった激しいオーケストレーションや前衛的な和声はすっかり影を潜め、概して親しみやすい平明な作風で書かれています。声楽パートもワーグナー的なドラマティックなものから、モーツァルト的なリリックな歌唱スタイルになっているのが特徴です。

初演は入念なリハーサルの後1911年1月26日、ドレスデン宮廷歌劇場で、エルンスト・フォン・シューフの指揮、ゲオルク・トラーとマックス・ラインハルトの演出により上演され、未曾有ともいえる大成功を収めました。すでに作曲家としての地位を確立していたシュトラウスの新作に対する世間の期待は高く、ウィーンからドレスデンまでの観劇客用特別列車が運行されたほどだったといいます。

ドレスデンでは引き続き50回におよぶ再演が続けられたほか、ベルリン宮廷歌劇場、プラハ歌劇場、バイエルン宮廷歌劇場、ミラノのスカラ座など主要な歌劇場でも立て続けに上演され、いずれも好評をもって迎えられました。《サロメ》や《エレクトラ》など、それまでのシュトラウスの前衛的な作風に好意を示していた批評家や作曲家たちからは「時代遅れ大衆迎合的」だと批判されたりもしましたが、聴衆からの支持は絶大で、今日ではシュトラウスの代表作と見なされているばかりか、ドイツ圏の主要歌劇場や音楽祭において最も重要なレパートリーの一つに数えられています。

何しろ3時間かかるオペラですから、あらすじ云々は割愛させていただきます。なので今回は、有名なフィナーレの三重唱をご紹介しようと思います。

美しい新興貴族の娘ゾフィーを好色なオックス男爵から守るべく、オクタヴィアン伯爵と元帥夫人が一計を案じてやりこめるための茶番劇をしかけます。しかし、打ち合わせになかった元帥夫人自身の登場で場面が混乱する中、元帥夫人・オクタヴィアン・ゾフィーそれぞれの思いが交錯し、元帥夫人は若い2人の恋路を目の当たりにして静かに身を引いていきます。

この場面を観ていると、個人的に元帥夫人に感情移入してしまいます。こんな恋愛をした経験は1ミクロンもありませんが、若い2人を残して去っていく元帥夫人の背中に、言いようのない哀しさを感じずにはいられません。

そんなわけで、今日は歌劇《薔薇の騎士》からフィナーレの三重唱をお聴きいただきたいと思います。エリザベート・シュヴァルツコプフの元帥夫人、セーナ・ユリナッチのオクタヴィアン、アンネリーゼ・ローテンベルガーのゾフィーという豪華な配役、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏による1962年のオペラ映画で、リヒャルト・シュトラウスの美しい音楽と20世紀を代表する名歌手たちの歌唱でお楽しみください。


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ギュッと凝縮した《魔笛》公演

2025年01月23日 17時17分17秒 | 音楽
今日は小学校中学年の付き添いで、小田原の三の丸ホールに行きました。今日はここで、市内の小学校中学年合同の『芸術鑑賞会』なる催しがありました。

公演は『小田原オペラ』なる団体によるもので、演目は



モーツァルトの名作《魔笛》でした。本来ドイツ語台本で二時間以上かかる《魔笛》ですが、今回はそれを子どもたち向けに日本語台本で約一時間に短縮したものが上演されました。

始まってみると、日本語台本そのものは二期会オペラで使われていた、個人的に馴染み深いものでした。あとはどこをどう切り詰めていくのかが焦点でしたが、ちゃんと序曲(もちろん短縮バージョン)から始まってストーリーも破綻させずに

『あぁ、ここからここへ飛んで、ここへ繋げてこうしたのね。』

と、思わず感心してしまう仕事ぶりでした。

歌手も三人の童子以外のソリストは揃っていて、夜の女王がハイトーンを外したのはイタかったのですが、特にパパゲーノは存在感もあり、演技も子どもたちに大ウケでした。オーケストラは弦楽四重奏+コントラバスにピアノ・フルート・クラリネット・ホルンという編成で、オーボエとファゴットの無いさびしさはあったものの、それでもオペラオケとしての存在感はなかなかでした。

支援級の子たちは時折席でモゾモゾしたりしていたものの、最後まで公演を妨害するような騒ぎを起こしたりはしませんでした。彼らは彼らなりに初めてのモーツァルトを楽しんでいたようで、こちらとしてもホッとしました。

現代の子たちは、こうしたものに触れる機会を作ってもらえて幸せだなと思います。これからも小田原市には、いろいろといいものを子どもたちに観せて聴かせてあげてほしいものです。

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同作品で曲が違う?!〜バッハ《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第6番 ト長調 BWV1019》

2025年01月20日 17時17分17秒 | 音楽
まだ咳が止まらなくなることがあるものの、早退してきた金曜日に比べたらだいぶ体調はマシになってきました。咳を何とかしないと明日の小学校勤務も覚束なくなってしまうので、服薬を続けて何とかしたいところです。

それで、ただボンヤリしているのも時間が勿体ないので、真面目に練習してみることにしました。今回練習したのは



バッハの《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第6番ト長調 BWV1019》です。

この曲は一連のソナタの最後を飾る曲ですが、いろいろとかわった点があります。

先ず他のソナタが4楽章なのに対して、この曲だけ5楽章からなっているということです。しかも何度か改作が重ねられていて、その異版の楽譜も残されています。

この前のソナタ第4番がハ短調、第5番がヘ短調というなかなか鎮痛な調性で書かれていますが、これはバッハの最初の妻アンナを亡くした悲しみからきているといわれています。しかし、この第6番でバッハは再びバッハらしい明朗さを取り戻していて、そこに妻の死を克服した姿を見るという人もいます。

次にかわっている点が、最終稿となった版の第3楽章です。実はこの楽章、なんとヴァイオリンは一切沈黙するチェンバロ独奏の楽章なのです。

ヴァイオリンとチェンバロのソナタだと言っているのに何でまた…と思われるかも知れませんが、実際に聴いてみるとこのチェンバロ独奏楽章を挟んで前半と後半がシンメトリーな構図になります。そうした点からみると、この改変も納得することができるのです。

そんなわけで、先ずは最終稿となった《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ 第6番 ト長調 BWV1019》をお聴きいただきたいと思います。佐藤俊介氏のバロックヴァイオリンとディエゴ・アレスのチェンバロによる演奏で、途中でヴァイオリニストが休憩するという斬新なソナタをお楽しみください。



さて、ここからは異版のご紹介です。先ずは初稿とされるタイプaから。

この異版はなんと6楽章もあり、そして第3楽章がチェンバロ独奏であることは同じなのですが、全くメロディの違うものが採用されています。緩徐楽章も最終稿とは違っていて、第5楽章はト短調のガヴォットになっているところから、最後は第1楽章が回帰されて終わります。

それではそのタイプaの異版を、全く同じ演奏者による演奏でお楽しみください。



どうでしたか?最終稿とはかなり違った姿をしていることが分かっていただけましたでしょうか。

更に異版は続き、今度はタイプbです。この版では第3楽章がチェンバロ独奏ではなくヴァイオリンも演奏するカンタービレとなっていて、最後はガヴォットを挟まず第1楽章が回帰して終わります。

それでは、タイプbをお聴きいただきたいと思います。



これはこれで、如何にもヴァイオリン・ソナタだな…といった雰囲気を感じることができるのではないでしょうか。

そしてタイプcとなるのが、いわゆる最終稿となるわけです。普段はこの稿のもの以外の版が演奏されることはほとんどありませんが、今回の動画では同じ奏者が全ての異版を演奏してくれていることが貴重で、大変ありがたいものでした。

そんなわけで、最終稿となったタイプcを改めてお聴きいただきたいと思います。上までスクロールして戻らなくても大丈夫なようにしてみました(笑)ので、お時間が許せば再生してみてください。


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今日はヴェルディの歌劇《イル・トロヴァトーレ》初演の日〜パヴァロッティのハイトーン冴え渡るカバレッタ『見よ、恐ろしい炎を』

2025年01月19日 17時25分20秒 | 音楽
さすがに二日もゴロゴロしていたら、どうにか容体も安定してきました。病院の開いていない週末に具合を悪くすると、ろくなことがありません…。

さて、二日も投稿を休んだので、さすがに今日は書いてみようと思います。今日は歌劇《イル・トロヴァトーレ》が初演された日です。

歌劇《イル・トロヴァトーレ》は、



イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)が作曲した全4幕からなるオペラです。1853年の今日ローマで初演され、ヴェルディ中期の傑作の一つとされています。

1839年に発表した《オベルト》以来、年間1作以上のペースで作曲を続けてきたヴェルディでしたが、1851年に《リゴレット》を初演、成功させた38歳のヴェルディの作曲の筆はそこからしばらく止まっていました。1851年6月の母の死、《椿姫》を初演したソプラノ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815〜1897)との同棲生活に対する世間の冷ややかな眼、そこからの逃避の意味もあって近郊での農園購入とその経営(ヴェルディは単なる不在地主ではなく農地管理の些事にまで干渉していたようです)など、作曲以外の雑事に忙殺されていたのも原因でした。

実際のヴェルディは作曲家としてどうにかこれからの暮らしには困らない収入も得て、この頃はどこの劇場の委嘱も受けず、自ら選んだ題材を好きなだけ時間をかけてオペラ化する、という大家ならではの作曲法が可能となっていました。そして、そうした自己の選択による作品が《イル・トロヴァトーレ》でした。

《イル・トロヴァトーレ》の原作『エル・トロバドール』はスペインの劇作家グティエレスによって書かれ、1836年にマドリードで初演された舞台劇でした。ただ、中世の騎士物語、男女の恋愛、ジプシー女の呪い、といった雑多なテーマを盛り込んだこの複雑な舞台劇をヴェルディがどうやって知ったのか、今日でもはっきりしていません。

スペイン語原典のイタリア語訳は当時まだされていなかったので、イタリア・オペラの重要な演奏拠点の一つであったマドリードのオペラ関係者がヴェルディに個人的にこの戯曲を送付し、イタリア語以外の言語に疎かったヴェルディに代わって語学の才のあったジュゼッピーナがイタリア語に仮訳したのではないかと想像されています。いずれにせよ、遅くとも1851年の春頃、ちょうど《リゴレット》初演の前後までにはヴェルディはそうしたイタリア語訳に目を通し、台本作家カンマラーノに台本化を開始してほしいと要請していたと思われています。

ナポリ在住の台本作家サルヴァトーレ・カンマラーノ(1801〜1852)は、ドニゼッティのための《ランメルモールのルチア》や《ロベルト・デヴリュー》などの台本で有名です。《イル・トロヴァトーレ》はどこの劇場の委嘱も受けずヴェルディが創作したもので、劇場の座付き作家を利用しなければならない…といった制約は元々なかったわけですが、この作品がカンマラーノとの共同作業となった理由も、またはっきりしていません。

カンマラーノは長年の劇場生活に培われた本能的とも言える劇的展開、ならびに詩文の美しさについて定評の高かった作家で、こういった複雑怪奇な戯曲のオペラ台本化には適任の人物だとヴェルディが考えた可能性が高いと思われています。ただし、構成面では、カンマラーノは保守的な「番号付き」オペラの伝統に強く影響されていたため、ヴェルディが前作《リゴレット》で採用した、切れ目のない重唱の持続で緊張感を維持するといった新手法は、《イル・トロヴァトーレ》ではいったん後退をみせています。

初演都市としては、初めカンマラーノと縁の深いナポリ・サン・カルロ劇場が考慮されていましたが、ヴェルディの要求する金額があまりに法外であるとして劇場側が降りてしまい、結局ローマのアポロ劇場での初演と決定しました。これは作曲どころか台本の完成以前の話です。

ところがカンマラーノは1852年7月に急死してしまい、第3幕の一部と第4幕の全てが未完のまま残されてしまったため、ヴェルディは友人の紹介により、やはりナポリ在住の若い詩人レオーネ・エマヌエーレ・バルダーレ(1820〜1874)と契約し、台本はカンマラーノの草稿に沿う形で同年秋に完成しました。ヴェルディは1852年10月のわずか1か月でそれに作曲したとの逸話がありますが、完成稿としてはともかく、メロディーのほとんどはカンマラーノとの交渉が開始された1851年から作り貯めていたと考えるのが自然だと思います。

初演は、ヴェルディのそれまでのどのオペラと比べても大成功といって良いもので、世界各都市での再演も早く、パリ(イタリア座でのイタリア語上演)は1854年、ロンドンとニューヨークが1855年に行われました。またフランス語化しグランド・オペラ様式化した『ル・トルヴェール』(Le Trouvère)は1856年にオペラ座で上演されました。

ヴェルディ自身はのちに

「西インド諸島でもアフリカの真ん中でも、私の『イル・トロヴァトーレ』を聴くことはできます」

と豪語しています。かなり大袈裟な表現だとは思いますが、それほどの手応えを感じていたことは伝わってきます。

さて、オペラ全編を載せるとさすがに長いので、今回はその中から第3幕のマンリーコのカバレッタ『見よ、恐ろしい炎を』をご紹介したいと思います。

様々な困難を乗り越えて、ようやく結婚式を挙げて幸せになろうとするマンリーコとレオノーラ。しかし、そこにマンリーコの母親であるアズチェーナが敵方のルーナ伯爵軍に捕らえられたとの報があり、母を救出すべく

「武器を取れ!」

と歌う勇猛果敢なカバレッタです

かくも勇ましく幕を閉じますが、続く第4幕では信じられないほど沈痛な場面が展開します。そして、最後は誰一人として幸せにならない壮絶な結末を迎えるのです。

このカバレッタで、テノールは楽譜に書かれていない高音ハイC(高いド)を挿入することが慣例になっています。通説では、これはロンドン初演時のテノール歌手のエンリコ・タンベルリック(1820〜1889)がヴェルディの許可を得て創始したとされていて、以来テノールのアリアとして最大の難曲の一つに数えられています。

逆にこのハイCを失敗することはテノールにとっての恥辱とも考えられ、一部の歌手は失敗を恐れて半音下げて歌っている(オーケストラのピッチを半音下げて演奏させる)ようです。ただし、指揮者のリッカルド・ムーティはスカラ座での上演に際して

「常に作曲者の書いたままを演奏すべし」

との原典主義に基づき、ハイCを入れないヴェルディの楽譜通りに演奏させて賛否両論を巻き起こしました。

そんなわけで、今日はヴェルディの歌劇《イル・トロヴァトーレ》から『見よ、恐ろしい炎を』をお聴きいただきたいと思います。三大テノールの一人ルチアーノ・パヴァロッティ(1935〜2007)による1988年のメトロポリタン歌劇場ライブで、これぞヴェルディ!という名旋律と、パヴァロッティの輝かしいハイトーンをご堪能ください。


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