共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

来年も魅力的な展覧会が!

2024年12月16日 17時25分10秒 | アート
今日も寒い一日となりました。そんな中、買い物に行った先で



来年の美術展を紹介する雑誌があったので購入しました。

来年も様々な展覧会が開催予定なのですが、個人的に特に注目なものの一つが9月9日から東京国立博物館で開催される《運慶 祈りの空間ー興福寺北円堂》展です。

奈良県奈良市にある興福寺北円堂は1210年頃に建てられた寺内に現存する最古の堂宇として知られていて、国宝に指定されています。堂内には



鎌倉時代の大仏師運慶晩年の作である弥勒如来(みろくにょらい)坐像や、無著(むちゃく)・世親(せしん)菩薩立像(いずれも国宝)等が安置されています。

弥勒如来は、



弥勒菩薩が釈迦の入滅から56億7千万年後に悟りを開いた姿とされています。北円堂の弥勒如来坐像は像高141.9センチの寄せ木造りで、運慶の晩年の作として知られています。

無着と世親は大乗仏教の学僧である兄弟で、ともに2m近い大きさを誇ります。眼には水晶を嵌めた玉眼が施され、リアリティある表現が魅力的です。

先日、



北円堂本尊の弥勒如来坐像が奈良国立博物館文化財保存修理所内の工房で修理されることになり、堂内からの搬出作業が行われました。弥勒如来坐像の修理は昭和58年以来、約40年ぶりとなります。

今回の修理では本体の剝落(はくらく)止めなどを実施し、光背(こうはい)と台座も90年ぶりに修理されることとなります。公益財団法人・美術院の修理技術者らが本体と光背・台座に分け、それぞれ丁寧に梱包した上で堂内から運び出してトラックに積み込んでいました。

この修理で堂内から運び出された弥勒如来坐像が、両脇に立つ無著・世親菩薩立像や、現在中金堂に安置されている四天王像(国宝)とともに東京国立博物館にやってくることとなりました。中金堂の四天王像は、最近の研究で実は北円堂に安置されていたものであるといわれていて、今回はかつての内陣を再現するような展示がされるとのことで、非常に楽しみです。

あとは、9月20日から神戸市立博物館で開催される《大ゴッホ展》も注目です。

この展覧会は、阪神淡路大震災発生から30年の節目に開催されるものです。この《大ゴッホ展》はオランダのクレラー・ミュラー美術館のゴッホコレクションが来日し、2期にわたる大規模なものです。

第1期の目玉は、何と言っても



1888年に描かれたアルル時代の傑作の一つ『夜のカフェテラス』が20年ぶりに来日することです。この展覧会は神戸と福島で開催された後、翌年2026年5月29日からは東京・上野の森美術館に巡回してきます。

そして、更に翌年の2027年2月頃から開催される第2期では



同じく1888年に描かれた『アルルの跳ね橋』が、なんと約70年ぶりに来日することが決まっています。こちらも楽しみです。

いずれの展覧会も相当な混雑が予想されますので、いつも忘れがちな前売券を絶対にGETしておこうと思います。来年もいろいろな展覧会に足を運んでみようかと、今から楽しみにしております。

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息遣い迫る《モネ〜睡蓮のとき》展@国立西洋美術館

2024年10月10日 19時15分50秒 | アート
先に申し上げておきます。今日の記事は長いです(汗)。

今日は木曜日の放課後子ども教室が休みの日でした。なので、今日は東京・上野の国立西洋美術館に出かけることにしました。

上野駅公園口から改札を出ると、



世界遺産の国立西洋美術館(ル・コルビュジエ作)が見えてきます。今日は、ここで開催中の


《モネ〜睡蓮のとき》という展覧会に来ました。



クロード・モネ(1840〜1926)は印象派を代表するフランスの画家で、代表作のひとつである



『印象・日の出』(1872年)は、『印象派』の名前の由来にもなりました。今回はモネを代表する睡蓮のシリーズを中心として、パリのマルモッタン・モネ美術館のコレクションや、国立西洋美術館をはじめとした日本国内の美術館が所蔵するモネの様々な『睡蓮』などの連作が一堂に会する展覧会となっています。

会場に入ると



国立西洋美術館が所蔵する『ポプラ並木』の絵が出迎えてくれます。

光の戯れと反映を何よりも深く追求したモネは、同一のモティーフを光や色彩あるいは構図を変えて何回か描くという意味での「連作」をいくつも残していいます。1890年に着手された『積みわら』、1892〜94年の『ルーアン大聖堂』、晩年の『睡蓮』などがその例で、そこではほぼ同一のモティーフを朝・白昼・夕方などの異なった時刻に捉えて、さまざまな光の効果の下に描き出しています。

この作品は、こうした連作の一つ『ポプラ並木』のうちの一点で、ジヴェルニーにほど近いエプト川左岸のポプラ並木に魅了されたモネは、1891年の春から夏にかけて幾度もその姿をキャンバスに描きました。それら一連の作品は、S字型の曲線を空に描き出すポプラ並木を扱っている点ではほぼ共通しているものの、構図と画面効果は微妙に異なっています。

そこから進むと、



『ジヴェルニー近くのセーヌ川支流・日の出』が姿を現します。このモチーフもモネが何枚も描いたもので、徐々に明けていく川辺の様子を描いた絵からは、川面を渡る空気まで描きとったかのようです。

そこからはいよいよ『睡蓮』の連作の世界が始まります。先ず登場するのは



『睡蓮、夕暮れの効果』という作品です。1897年に描かれたこの『睡蓮』は睡蓮の連作の最初期のものと推定されているもので、白い睡蓮が夕日に染まってほんのり薄紅色に映える一瞬を捉えています。

そこから更に進むと



1907年に描かれた『睡蓮』が登場します。先程の睡蓮の絵は睡蓮が中心に描かれていましたが、こちらでは水面に映るポプラや柳の影と夕日に染まる空が強調して描かれ、睡蓮はその水の反映の中にリズムをつけるように浮かんでいます。

始めは睡蓮そのものを描いていたモネでしたが、その後

「水の反映にとらわれてしまいました。』

と語っているように、睡蓮という花を通して水面に映る光や影、水の中の流れをも描きとろうとしました。しかしモネは妻のアリスや息子のジャンを病で亡くし、自身も白内障と診断されたことで、一時期活動が途絶えてしまいました。

そこに第一次世界大戦が勃発したことによって、モネの制作活動は更に追い込まれていきました。戦後、モネは自身の作品を国家に寄贈することにし、それを飾る円形の美術館に『睡蓮』の壁画を描く構想を練ることになりました。

その絵の上部にモネの庭に咲いていた藤の花を描いたフリーズ(帯状装飾)を描くことになりましたが、その時制作されたのが



この『藤』の習作でした。この美術館構想は残念ながら予算の都合等で実現はしませんでしたが、テュイルリー公園内にあった建物を使って『睡蓮』の壁画を展示することになったのが、



現在のオランジュリー美術館『睡蓮の間』です。

『睡蓮』の他にも様々な連作が展示されていますが、その中に



ジヴェルニーのモネの自宅にある「水の庭」に架けられた『太鼓橋』の連作もあります。モネの『太鼓橋』というと



この1899年に描かれたシュトゥットガルト美術館の作品が有名ですが、今回の展覧会に出品された『太鼓橋』はモネの白内障がだいぶ進んでしまっている中で制作されたものが中心となっています。



こちらの緑の作品は辛うじて太鼓橋の姿を確認することができますが、更に白内障が進行してしまった頃の作品は



色彩の中に太鼓橋が溶け込んでしまったかのようで、言われなければ橋の絵だとは分からないくらいです。

こうしたモネの作品は具象を超越したものですが、それが後のアメリカ画壇をはじめとした近現代の画家たちから熱烈な支持を受けることとなりました。そういった意味で、モネは印象派の創始者であるとともに抽象画の先達ということもできるのです。

地下三階の展示スペースに移動すると



楕円形の壁面に飾られた『睡蓮』が登場します。このスペースは写真撮影OKということで、



お言葉に甘えていろいろと撮影しました。

この部屋で一際異彩を放っているのが



この傷みの激しい巨大な『睡蓮』です。これは



日本の実業家で衆議院議員も務めた美術収集家の松方幸次郎(1866〜1950)がモネから直接譲り受けたものです。

国立西洋美術館の洋画コレクションの基礎を築いた松方幸次郎は1921年にジヴェルニーのモネの家を訪れ、モネから直接18点の作品を購入しました。この作品もそのひとつで、オランジュリー美術館の大装飾画の関連作品を外に出すことを嫌ったモネが、唯一売却を認めたものです。

その後、1923年に関東大震災被災者救済のためにパリで開かれた展覧会にこの作品が出品されました。ところが、それを知ったモネが猛抗議したため、この作品は撤去されてしまいました。

その後、第二次世界大戦を経て行方不明になっていたのですが、2016年に画面の半分以上が破損した状態で発見され、約1年かけて修復された上で展示されることになりました。破損の原因としては、キャンバスを木枠から取り外したこの作品が上下逆さまに保管されていた上に浸水被害にあったらしく、画面上半分が殆ど朽ち落ちてしまったようです。

画面には





かつて木枠に留められていた時の釘跡が生々しく残っています。幸いなことに完成品の白黒写真が残されていて、そこから復元すると



このような作品になるようですが、修復作業時には欠損部分を補うことはせず、残ったモネの手になる部分の修復のみに留めたのだそうです。

画面右側に描かれた睡蓮を息がかかるほど間近で観ることができましたが、横から観ると







絵筆で描いたというよりもパレットナイフに直接油絵の具を盛り付けて、キャンバスに直接擦ったような痕跡がありありと観て取れました。大切にガラスの掛けられた作品では感じることの難しいモネの息遣いまでもが伝わってくるようで、興奮気味に写真を何枚も撮ってしまいました(汗)。

他にも















パリのマルモッタン・モネ美術館や国立西洋美術館が所蔵するモネの『睡蓮』コレクションを堪能することができました。こうした作品がオランジュリー美術館の大装飾画につながっていくことを考えると、非常に貴重な絵画たちです。

後半にも様々な連作が展示されていましたが、個人的に惹かれたのが



『バラの庭から見た画家の家』という連作です。ジヴェルニーの「花の庭」から見た自宅の構図を何度も描いているのですが、特に一番右にある



紫色に彩られた月夜の絵に強く心惹かれました。

展示スペースの最後には、モネが最晩年に描いた



『枝垂れ柳と睡蓮の池』と



『睡蓮』が展示されていました。どちらも縦200cm✕横180cmという大作ですが、白内障の手術を受けたものの完全には視力の戻らなかった老境のモネの哀しさが伝わってくるようでした。

恐らく混むだろうな…と予想して平日を選んだのですが、それでもなかなかの観覧者数で、館内のコインロッカーが全滅するほどでした。モネの人気たるや、恐るべしです(汗)。

この展覧会は来年2月11日まで、東京上野の国立西洋美術館で開催されています。日本初公開の作品や撮影可なスペースもあり、期間中の金曜日と土曜日は21:00まで開館するとのことですので、モネの絵画がお好きな方は是非いらしてみてください。
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黒板アートでスタート!

2024年09月03日 16時20分25秒 | アート
9月も3日目を迎えて、今日からようやく小田原の小中学校がスタートしました。私は先日の小田急線の盛土崩落から間もないこともあっていつもより早い電車に乗ったのですが、当該箇所では電車が徐行運転していて、まだまだ油断ならない状況であることを感じました。

小学校に到着して校長をはじめとした先生方に挨拶をして、担当の教室にむかいました。そこで見たものは、



黒板いっぱいに描かれた担任から子どもたちへの渾身の黒板アートメッセージでした。

私の勤務している小学校にはこうしたイラストに長けた先生が何人かいらしていて、毎年入学式・夏休み明け・お正月休み明け・卒業式・修了式の時になると、こうした黒板アートで子どもたちを楽しませてくれています。そのどれもが玄人はだしで、いつ見ても感心してしまいます。

他の教室にも様々なキャラクターの黒板アートが描かれていて、投稿していた子どもたちは一様に歓声を上げていました。こうしたサプライズは、やはり嬉しいものでしょう。

今日は午前中授業でしたが、明日からいきなり通常授業が始まります。午前中授業でさえも支援級の子どもたちはグダグダ状態でしたが、さて明日からどうなりますでしょうか。

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今日は美術史に残る2つの盗難事件が発生した日〜《モナリザ》と《叫び》

2024年08月22日 17時17分17秒 | アート
昨日、あざみ野から厚木まで無事に帰り着くかどうかヒヤヒヤしながら帰宅していましたが、どうにかこうにか無事に我が家までたどり着くことができました。昨日の記事を御覧いただいた皆様、お騒がせしました。

さて、今日8月22日は、1911年と2004年とに美術史上に残る絵画の盗難事件がおきた日です。先ず1911年に盗まれたのは、


あのレオナルド・ダ・ヴィンチの名画《モナリザ》です。

1911年8月22日、ルーヴル美術館を訪れた画家のルイ・ベルーは



《モナリザ》が飾られているはずの場所が空っぽになっていることに気づきました。


(事件当時の《モナリザ》展示エリア)

当初は写真撮影のために絵が別の場所に移されていると思われていましたが、盗難であることが1日遅れで判明しました。

盗難事件の調査のためルーヴル美術館はすぐに閉鎖され、事件現場で見つかった親指の指紋を元に捜査官は美術館の全従業員から指紋を取りました。しかし、この手がかりだけでは犯人は見つけることはできませんでした。

この事件では、フランスの詩人ギヨーム・アポリネールや彼の友人だった画家のパブロ・ピカソが、《モナリザ》盗難事件に関与していると疑われて誤認逮捕されてしまいました。アポリネールは別の美術品盗難に関係がある人物とのつながりがあったため疑われ、ピカソも盗難に関与しているのでは…と疑われますが、後の調査を通じて二人が事件と無関係であることが確認されて釈放されました。

今では信じがたいことですが、この盗難事件が起こる前までは《モナリザ》はそれほど広く一般に知られてはいませんでした。しかし皮肉なことに、事件の捜査が進むにつれて《モナリザ》の名声は飛躍的に高まっていきました。

盗難事件の真犯人は、



以前ルーヴル美術館で働いていたイタリア人のヴィンチェンツォ・ペルージャという男でした。

ルーヴル美術館が月曜日に閉館することを知っていたペルージャは清掃用具のクローゼットに隠れて夜を過ごし、翌日、職員のスモックを身にまとって目立たないように美術館内を移動しました。そして《モナリザ》の展示エリアが無人であることを確認したペルージャは絵を壁から取り外して保護していたケースと額縁を外し、スモックの中に隠したまま警備をすり抜けて《モナリザ》をまんまと外へ運び出すことに成功しました。

ペルージャは盗んだ後に、2年間《モナリザ》を自宅に隠していました。しかし、当時のフィレンツェ・ウフィツィ美術館の館長であったジョヴァンニ・ポッジに絵を売ろうとして逮捕されました。

ペルージャが《モナリザ》を盗んだ背景には、彼のプロフェッショナルな技術と深い愛国心がありました。ガラス職人としてルーヴル美術館で働いていた経験から作品のガラス張りや額縁から絵を取り外すことには慣れており、これが盗難を容易にした要因の一つでした。

ペルージャの犯行動機は

「ナポレオンによる誘拐からの復讐」

としてのイタリア愛国心に根差しているとされていて、かつてこの絵がナポレオンに盗まれてフランスへ渡ったというペルージャの主張に基づいています。しかし史実では、《モナリザ》を描いたレオナルドが晩年にフランス王フランソワ1世の宮廷画家になった時に自ら《モナリザ》を含む数点の絵画を携えてフランスに赴いていて、これはナポレオンが生まれる250年も前の16世紀の出来事です。

なにはともあれペルージャは《モナリザ》のイタリアへの『奪還』を通じて、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品がイタリアの文化遺産に属するという事実を世界に示そうとしました。この行動はイタリア本国で英雄視され、裁判では彼の愛国的な動機が考慮されて刑期はわずか6ヶ月にとどまりました。

この後も《モナリザ》は、頭のおかしい輩にケーキを投げつけられたりといった災難に遭遇することとなったため、現在《モナリザ》は



パーティーションと防弾ガラスの向こう側に飾られています。かつて



あまりにも無防備に飾られていた頃とは比べ物にならないくらい、遠い存在となっています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そして、2004年に盗まれたのは



エドヴァルド・ムンクの代表作《叫び》です。

《叫び》は、もう1つのムンクの代表作である



《マドンナ》とともに、2004年8月22日にノルウェー・オスロのムンク美術館から、武装した2人組の覆面姿の窃盗団によって白昼堂々盗み出されました。窃盗団は2枚の絵画を壁から外すと、共犯者が運転する盗難車に乗りこんで犯行現場から逃走しました。
 
後にオスロ警察当局は、2006年8月にこの2枚の絵画を保護し、容疑者たちを逮捕しました。ただ、発見された状況や発見時までの所在については、現在でも謎に包まれたままとなっています。

発見された当初、《マドンナ》の画面には穴が空いてしまっていたそうですが、現在では修復されました。しかし《叫び》には何らかの液体がかけられた痕があり、残念ながら完全な修復には至っていません。

実は《叫び》は、1994年にも盗難被害に遭っています。その時の犯人は、なんとプロのサッカー選手でした。

実行犯のパル・エンガーはオスロのサッカークラブであるヴァーレンガに所属していて、1985年、18歳の時にイングランドのプレミアリーグのノルウェー版であるエリテセリエンでプロデビューを飾っていました。しかし、その後繰り返し犯罪を犯して実刑判決を受けたことで、サッカー界の伝説になるチャンスを失うことになってしまいました。

エンガーが《叫び》と出合ったのは、彼が学生時代のことでした。彼にとっては、絵の中の叫ぶ人物が暴力的な継父に与えられたトラウマに苦しむ自分と重なって見えてしまい、以来この作品を盗むことはエンガーの犯罪人生の大きな目標となっていきました。

1994年2月12日、オスロから北へ車で2時間ほどのところにあるリレハンメルで開催されていた冬季オリンピックの開会式に世界中の注目が集まっていました。そして、数多くの警察官がオリンピックに動員されて美術館の警備が手薄になったチャンスを、エンガーは逃しませんでした。

エンガーは協力者のホームレスと協力して梯子を使って美術館の窓を破って美術館内に侵入し、わずか90秒の間に《叫び》を持ち去ったといいます。

後にエンガーは画商を通じて《叫び》を売ろうとし、画商はオスロのホテルでアメリカのJ・ポール・ゲティ美術館の職員を名乗る男と会いました。しかしこの男、実際はチャーリー・ヒルというロンドン警視庁のおとり捜査官でした。

画商は1億5千万ドル(現在の為替レートで約218億円)の絵画に対して約40万ドル(約5800万円)を要求し、おとり捜査官ヒルは同意しました。2人はオスロの南にある小さな村に車を走らせ、画商が地下室から《叫び》を取り戻すと同時に警察はその場で画商を逮捕しました。

主犯のエンガーは幼い息子を抱え、銃を手に車で逃走を図りましたが、ガソリンスタンドで警察に待ち伏せされて、激しく抵抗することなく逮捕に至りました。結局、「銃犯罪」で起訴されたのち《叫び》の窃盗でも起訴され、こうした犯罪ではノルウェー史上最長となる6年の刑期を言い渡されました。

こうした事件があったからか、現在では様々な名画がなかなかの距離に離れてしまいました。個人的には非常に残念なのですが、名画を後世に伝えていくためには仕方ないことなのかも知れません。

今日は日差しがあまり無かったこともあって、夕方になってだいぶ気温が落ち着いてきました。このまま順調に秋になぅていってくれればいいのですが、どうやらそう簡単には事は進まないようです…。

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特別展《神護寺》@上野・東京国立博物館

2024年07月30日 20時00分00秒 | アート
相変わらずの暑さの中、今日は思い切って上野の東京国立博物館に行きました。現在、こちらでは



特別展《神護寺》が開催されています。

京都北郊の紅葉の名所、高雄の神護寺は、和気清麻呂(わけのきよまろ)が建立した高雄山寺を起源とします。後に唐から帰国した空海が活動の拠点としたことから、このお寺が真言密教の出発点となりました。

この特別展は、824年に正式に密教寺院となった神護寺創建1200年と空海生誕1250年を記念して開催されています。平安初期彫刻の最高傑作である国宝『薬師如来立像』や、約230年ぶりの修復を終えた国宝『両界曼荼羅(高雄曼荼羅)』など空海ゆかりの宝物をはじめ、神護寺に受け継がれる貴重な文化財を紹介するものとなっています。

始めのコーナーには密教の法具などが展示されていたのですが、その中で人々の目を引いていたのが



『灌頂暦名』(かんじょうれきみょう・国宝)です。これは平安時代・弘仁3(812)年に書かれた空海の直筆の書です。

空海は書にも秀でていて、嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆と称えられています。この灌頂暦名は灌頂会という法会の参加者名などを書き留めたメモのようなものですが、空海ともなればメモすら国宝になってしまうのですから驚きです。

この灌頂暦名に限らず、空海の遺した書状の中にはしばしば天台宗の祖である伝教大師最澄の名前が登場しています。灌頂暦名の右から三列目筆頭にも『釈最澄』と記されていますが、こうしたものを見ると空海と最澄という二大高僧が宗派を超えて交流をもっていたことが分かります。

そして、次に人々の目を引いていたのが



伝源頼朝像(鎌倉時代・13世紀、国宝)です。日本史の教科書で見たことのある絵だけあって特に大人たちが立ち止まって見ていたのですが、ほぼ等身大という思いの外の大きさに一様に驚いている様子でした。

第一会場の最後に登場したのは



江戸時代以来、およそ230年ぶりに修理された《両界曼荼羅》でした。紫の絹地に金泥と銀泥で描かれたこの曼荼羅は、高雄山神護寺に伝わったため『高雄曼荼羅』とも呼ばれていて、空海が在世時に制作されたことが確認できる現存最古の両界曼荼羅です。

金剛界と胎蔵界という、密教の二つの世界観を図示したのが両界曼荼羅です。今回は前期展示の胎蔵界のみの展示でしたが



4メートル四方もの大きさを誇る巨大なもので、その大きさと、描かれた夥しい数の仏たちの細密な表現に圧倒されます。

第二会場の目玉は、なんと言っても仏像彫刻です。

先ずは神護寺多宝塔に祀られている《五大虚空蔵菩薩坐像》(平安時代・9世紀、国宝)です。これは三筆のひとり嵯峨天皇の皇子である第54代仁明(にんみょう)天皇御願とされ、鎮護国家を願って制作されたといわれています。

空海の入定後に高野山をを継いだ真済(しんぜい)の代に安置された《五大虚空蔵菩薩坐像》は、日本で制作された作例のうち五体が揃う現存最古のものです。











品の良い顔立ちと均整の取れた造形は、当時最高の技術を持った工人によって制作されたものです。

寺外で五体揃って公開されるのは、今回が初めてのことだそうです。会場では五体の虚空蔵菩薩坐像が



法界虚空蔵を中心に円形の台座に安置されていて、360°あらゆる角度からじっくりと観賞することができるようになっています。

そして、今回の特別展最大の見所が



神護寺の御本尊《薬師如来立像》(平安時代・8〜9世紀、国宝)です。

この《薬師如来立像》は神護寺の前身寺院にまつられていた御本尊で、それを神護寺の御本尊として空海がお迎えした仏様です。つまり、この御像は空海自身も拝んだ尊像ということになります。

薬師如来というと穏やかで柔和な表情をされているイメージですが、神護寺の御本尊は





量感あふれる造形と威厳あふれる表情で独特の迫力を生み出し、厳しさすら感じさせます。平安初期の仏像彫刻の最高傑作といえるもので、今回は



脇侍の日光・月光両菩薩立像とともにお出ましになり、360°展示ではないにせよ、普段は絶対に拝見できないお背中も観ることができるようになっています。

今回は御本尊の台座の修繕に伴う出開帳で、神護寺史上初の機会とのことです。暑さをおして上野まで来た甲斐がありました。

その他にも



楼門に安置されている持国天と増長天、明治16年に小松宮彰仁親王が揮毫された『高雄山』の扁額が展示されていました。こちらでは撮影OKということで、観客たちが盛んにシャッター音を響かせていました。

厚木に戻ってきたら、どうやら私が都内に行っている間に雨が降ったようで、体感温度がだいぶ下がっていました。これくらいの気温がずっと続いてくれたら…と思うのですが、残念ながら明日も日中は暑いようです…。

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夕景に浮かぶロダン

2024年07月26日 20時25分00秒 | アート
今日は暑い中、上野の東京文化会館資料室まで調べものをしに出かけました。本当はこの暑い最中に都内になんぞ行きたくなかったのですが、必要に迫られたので仕方ありません…。

閉館時間ギリギリまで資料室に籠もっていたら、外に出た頃にはすっかり暮色が広がっていました。やはり夏至から一月も経つと、夕方になるのが少しずつですが早くなってきているようです。

今日は金曜日ということで、上野公園の各博物館や美術館が19時まで開館時間を延長していました。なので、ちょうど東京文化会館の真向かいにある国立西洋美術館の前庭のロダンを観賞していくことにしました。

ロダンといえば、何はなくとも



『考える人』です。こちらでは外の通りからも見える一番目立つところに設置されています。

ところで、なんで東京・上野にロダンの彫刻があるのか…ひょっとしたらレプリカなんじゃないか…と思われる方もおいでかと思います。しかし、台座のキャプションを見ると

オーギュスト・ロダン(1840年-1917年)

考える人(拡大作)

1881-82年(原型)
1902-03年(拡大)
1926年(鋳造)

とあります。

「1917年に亡くなったロダンのブロンズ像を1926年に鋳造ってどういうことだ?レプリカじゃないの?」

と思われるかも知れませんが、ブロンズ像というものは型さえあれば作者が他界していても鋳造できるのです。

ブロンズ像ができるまでには

●粘土などで元になる像を作る
●石膏などで型をとり、原型を作る
●さらに原型から型をとって鋳型を作る
●溶かしたブロンズを流し込んで固める

といった段階があります。そしてもちろん一人の作家が全工程を手がけるわけではなく、最初の像を作った後は専門の職人の仕事になります。

作者の死後に完成した像が「元の像を作った作者の作品」になるのは、何だか不思議な気もします。しかし、例えば葛飾北斎や歌川広重の浮世絵も、彼らが原画を描いた後は彫り師や摺り師といった専門の職人たちの扱いになるのに、完成作品には北斎や広重の名前がつくのと同じ…といえばいいでしょうか。

そして、キャプションにあった『拡大』という文言ですが、これにもちゃんとした理由があります。『考える人』の庭を挟んで反対側に



同じくロダン作の『地獄の門』という巨大な作品がありますが、



この門の扉の上をよく見てみると



なんと『考える人』がいるのです。

これこそが『考える人』のオリジナルであり、単体の『考える人』はここから抜き出されて正に『拡大』されたものなのです。そう考えると、なかなか面白いものだなと思います。

国立西洋美術館には、この他にも



同じくロダンの『カレーの市民』や


エミール=アントワーヌ・ブールデルの『弓を引くヘラクレス』といった、様々なブロンズ像があります。こうした作品を間近で観賞できるということは、やはり嬉しものです。

本当はもう少し観ていたかったのですが、日が落ちても止まぬ東京の暑さにあてられてスゴスゴと帰ってきました。やはり、夏にそうそう都内になんぞ出てくるものではありません…。

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浄土寺開宗850年記念特別展《法然と極楽浄土》

2024年05月23日 18時50分18秒 | アート
今日は薄雲が空一面に広がる、比較的涼しい陽気となりました。そんな中、今日は休みをとって上野の東京国立博物館に出かけました。

こちらの平成館では、現在



特別展《法然と極楽浄土》が開催されています。この特別展は令和6年(2024)に浄土宗開宗850年を迎えることを機に、開祖である法然による浄土宗の立教開宗から、弟子たちによる諸派の創設と教義の確立、徳川将軍家の帰依(きえ)によって大きく発展を遂げるまでの浄土宗850年におよぶ歴史を、全国の浄土宗諸寺院等が所蔵する国宝や重要文化財を含む貴重な名宝によってたどるものとなっています。

いろいろとバタバタしていたら、いつの間にか前期日程が終了してしまってしまっていたため、個人的にお目当てだった



《阿弥陀如来二十五菩薩来迎図(早来迎)》(鎌倉時代・14世紀、京都・知恩院蔵・国宝)や



《綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら》(奈良時代・8世紀、奈良・當麻寺蔵、国宝)といった貴重な名宝を見逃してしまいました。やはり、会期のチェックはきちんとしないといけません…。

それでも、今回の展覧会での収穫は



こちらの《阿弥陀如来立像》(鎌倉時代・建暦2(1212)年、浄土宗蔵、重要文化財)を観られたことでした。この御像は法然の一周忌に向けて弟子や信徒から浄財を集めて作られたもので、鎌倉時代を代表する仏師快慶による、俗に『安阿弥様』と称される仏像の特徴が見て取れるものです。

写真で見ると目に嵌め込まれた玉眼がギラギラした感じに見えてしまいますが、実際には



上からの照明に照らされて玉眼がそこまでギラギラせず、安心して観ていられました。こうしたことも、実際に観に来てみないと分からないことです。

他には



《法然上人絵伝》(鎌倉時代・14世紀、京都・知恩寺蔵、国宝)も展示されていました。かなり長大な絵巻物なので期間ごとに展示する場面を変えているそうなのですが、私が今日観た時にはちょうど上の法然上人の入滅の場面が開かれていて、釈尊の涅槃の如く頭を北に、顔を西に向けて念仏を唱えながら阿弥陀如来等の来迎を受ける場面は感動的でした。

他にも様々な書画が展示されていたのですが、圧巻だったのが香川県高松市の法然寺にある《仏涅槃群像》(江戸時代・17世紀)でした。これは、かの徳川光圀(1628〜1701)の兄で高松藩初代藩主であった松平頼重(1622〜1695)が、かつて法然が弟子の不始末の責任を被って流罪にされた寺を移築して寛文8(1668)年から3年の月日をかけて造営した寺で、《仏涅槃群像》はそこの三仏堂内にあります。

仏涅槃は釈迦の入滅の場面を描いたもので、よく見られるのは



こうした大きな掛け軸状の絵画ですが、法然寺の仏涅槃は



それを立体的に彫像で表しているのです。昔から『京(嵯峨・清凉寺)の立ち釈迦、讃岐(髙松・法然寺)の寝釈迦』と言われて知られていたようですが、今回は全82軀の中から26軀が展示されています。

ここは写真撮影が許されたスペースだったので、お言葉に甘えて撮影させていただきました。会場に入ると、



正に今釈尊が涅槃に入った瞬間の様子が広がっています。



横たわる釈尊の側では





弟子たちや





阿修羅をはじめとした八部衆と呼ばれる守護神たちが嘆き悲しむ姿が表されています。

仏涅槃図では動物たちが嘆き悲しむ姿が描かれますが、こちらでも





様々な動物たちが登場しています。白象や獅子、兎や亀や猿やコウモリまでもが釈尊の死を嘆き悲しんでいます。

それでちょっと面白いのが、コウモリの後ろに



カタツムリがいたのです。このカタツムリ、木像ながら触覚や腹足のうねりなどがかなりリアルに作られていて、ほとんどの人がこの姿を写真に収めていました。

そして、反対側の動物グループの中に



ハチワレ猫が鎮座していたのです。他の動物たちが釈尊の方を向いて悲しみの表情を見せている中、このニャンコだけは

「わしゃ聞こえまへん…」

と言わんばかりに明後日の方向を向いて座っているのが如何にも気ままな猫らしく、見かけた人たちも思わず笑ってしまっていました。

お目当ての国宝は見られませんでしたが、



限定の《阿弥陀如来二十五菩薩来迎図》のクリアファイルはGETできたので、今回はこれで納得させることにしました。今度は、会期中の展示替え内容をしっかりとチェックしてから出かけるようにします…。

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建立900年記念特別展《中尊寺金色堂》

2024年03月03日 18時18分18秒 | アート
昨日のことなのですが、光悦展の後に行ったもう一つの展覧会のことを書こうと思います。現在、東京国立博物館本館では



特別展《中尊寺金色堂》が開催されています。

この特別展は、



上棟の記録の残る天治元年(1124)を建立年ととらえて、中尊寺金色堂の建立900年を記念して開催するものです。



堂内中央に設置された須弥壇に安置される国宝の仏像11体が一堂にそろうほか、かつて金色堂を荘厳(しょうごん)していた



国宝・金銅迦陵頻伽文華鬘(こんどうかりょうびんがもんけまん)をはじめとする、まばゆいばかりの工芸品の数々を紹介しています。

現在、中尊寺金色堂は



覆堂(おおいどう)という建物にスッポリと覆われた中の、ガラス張りの向こう側にあります。当然のことながら仏像群を近くで拝観することは不可能ですが、今回は



藤原清衡の遺体が安置されている金色堂中央須弥壇上の国宝仏を間近に、しかも



普段は絶対に観ることのできない背面まで360度観ることができるように展示されています。

会場に入ると、



黄金に輝く金色堂を8KCGの技術を用い原寸大で再現しています。かなり迫力満点の画像でしたが、私が不慣れなのか画像が動くとちょっと酔いそうになって大変でした…。

その映像の裏側にまわると、



金色堂中央須弥壇上の仏像たちが姿を現します。会場の中央には阿弥陀三尊像が、光背を外したかたちで展示されています。



阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)

(中央)国宝 阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)
(右)国宝 観音菩薩立像(かんのんぼさつりゅうぞう)
(左)国宝 勢至菩薩立像(せいしぼさつりゅうぞう)
平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵

腹前で定印(じょういん)を結ぶ阿弥陀如来坐像を中心に、前方左右に観音菩薩立像と勢至菩薩立像が並ぶ全身皆金色(かいこんじき)の三尊で、ふっくらとした頬を持つ穏やかで優美な表現が特徴です。金色堂内の3つの須弥壇上の諸仏像は長い歴史の中で安置場所が入れ替わっていると考えられていますが、この三尊像は当初より清衡が眠る中央壇に安置されていた可能性が高いとされます。

清衡が創建した時の像であるならば、『尊容満月の如し』と称えられた定朝(生年不明〜1057)の流れをくむような当時の京の一流仏師による像と遜色のない仏像が奥州に伝えられていたことになります。奥州藤原氏によって築かれた平泉の文化水準の高さをうかがい知ることができる、貴重な作例です。



きりりとした阿弥陀如来坐像の眼差しには、思わず引き込まれます。脇侍の観音勢至両菩薩は阿弥陀如来坐像と同じ時代の作のはずですが、阿弥陀如来坐像と比べると甘美な顔つきをしていて、もしかすると少し時代が下るのではないかとも思えてきます。

阿弥陀三尊像の両脇には



阿弥陀三尊の両脇に3体ずつ安置される6体の地蔵菩薩立像が展示されています。阿弥陀三尊と六地蔵のセットは、六道輪廻(ろくどうりんね)からの救済を願う当時の往生思想を体現したものと考えられます。

頬がやや引き締まっていること頭部がやや小ぶりに作られていることから、阿弥陀三尊像よりも後の時代に作られたようで、造像当初に置かれていた壇から移動している可能性があります。この展覧会では、現在中央壇に安置されている状況と同じように3体ずつ展示されています。

その前には四天王のうち



増長天立像と



持国天立像(平安時代・12世紀 国宝)が展示されています。大きく腰をひねって手を振り上げる躍動感にあふれた二天像は、引き締まった面貌と大きく翻る袖の表現が見どころです。



こうした激しい動きの表現は、のちに慶派仏師が得意とする鎌倉様式を先取りしたような先駆的感覚が奥州の仏像にみられることを示しています。西北壇・西南壇に安置されている二天像と比べても、動きの表現は際立っています。

この他には



紺紙金銀字一切経(こんしきんぎんじいっさいきょう 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院蔵)が展示されています。金泥字(きんでいじ)と銀泥字(ぎんでいじ)で一行おきに書写し、見返しにも金銀泥を用いて経意を絵画で表現した唯一無二の一切経で、『中尊寺経』の名で知られます。

使われている料紙は京の都で調達したことが確実視され、見返し絵も当時一流の絵師が担当したと考えられています。藤原清衡が8年の歳月をかけて制作させた入念の一切経で、かつては金色堂手前の経蔵に安置されていました。

そして、金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅(こんこうみょうさいしょうおうきょうきんじほうとうまんだら)も出品されていました。これは



最頂部の水煙(すいえん)から屋根、組物、初重の扉、基壇の欄干から階段にいたるまで、全て経文の文字を使って九重の宝塔を描いたもので、その意匠の細かさには度肝を抜かれます。

他には



金銅迦陵頻伽文華鬘(こんどうかりょうびんがもんけまん 平安時代・12世紀 
国宝)も展示されていました。華鬘とは仏殿の柱や梁を装飾するもので、金銅の薄板に唐草や天上世界にいるという人面鳥身の迦陵頻伽の優美な姿が切り出されています。

因みに、この華鬘の迦陵頻伽はかつて



120円切手のデザインになったこともあります。なので、特に切手蒐集家や昭和世代の方には見覚えがあるかも知れません。

展示スペースの最後には、1962年から行われた昭和の大修理に際して制作された実物の5分の1サイズの金色堂の模型が展示されていました。こちらは撮影OKとのことでしたので、


私も撮影してきました。



板葺の屋根にまで金が施された模型は実にきらびやかで、



隅々までいつまでも眺めていたくなります。屋根の後ろは



組物が見えるようになっていて、扉の中を覗くと



須弥壇の螺鈿細工まで精巧に再現されています。

私はかつて一度だけ中尊寺に行ったことがあるのですが、それはまだ幼稚園児の頃で記憶も朧げなものでした。今回こうして金色堂の仏像群を目の当たりにしたことで、改めて現地で拝観したい気持ちになりました。

この特別展は4月14日まで、東京国立博物館本館特別5室で開催されています。現地では絶対に観られない近さで仏像を観ることができる貴重な機会ですので、興味を惹かれた方は是非行ってみてください。

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本阿弥光悦の大宇宙@東京国立博物館

2024年03月02日 18時18分20秒 | アート
今日は、上野の東京国立博物館に行きました。こちらでは、現在



《本阿弥光悦の大宇宙》と題された特別展が開催されています。



戦乱の時代、刀剣三事〜磨蠣(まれい=刀を研ぐ)、浄拭(じょうしょく=ぬぐい清める)、鑑定〜を家職にする名門一族『本阿弥家』に生まれた本阿弥光悦(1558〜1637)は、書、漆芸、作陶、茶の湯など様々な芸術に関わり、革新的で傑出した品々を生み出し続けました。現代風に言うところのマルチクリエイターとして後代の日本文化に与えた影響も大きいのですが、今回の展覧会は光悦の広大過ぎる世界観に迫るものとなっています。

会場に入って先ず目に飛び込んでくるのは



『舟橋蒔絵硯箱』(国宝)です。

異様なまでに盛り上がった蓋に金蒔絵で四艘の小舟が描いた上に鉛の板を大胆に貼り付けて舟橋を表現し、銀細工で和歌の文字をあしらっています。実用的には不要とも思えるような蓋の形状に驚かされますが、こうしたところも光悦ならではの遊び心ということができます。

光悦は加賀前田家にも所縁の深い刀剣師でしたが、会場には



光悦が所持していたことが分かっている志津兼氏作の短刀『花形見』と、それを収めた鞘が展示されていました。茎に金で象嵌された『花形見』の文字は、光悦自身のものです。

本阿弥家は、熱心な法華信徒でもありました。そのことを表すものとして



『花唐草文螺鈿経箱』(重要文化財)が出品されていました。これは光悦の菩提寺、京都・本法寺に寄進した経典を収めるためのものです。

当時流行した朝鮮王朝時代の螺鈿表現の技法を用いていて、漆工品としては光悦と直接結びつけられる唯一のものです。漆地の上に輝く螺鈿の輝きは、何とも言えない美しさを放っています。

『南無妙法蓮華経』を保持する光悦にとって、蓮の花は特別なもののようでした。それを表したものとして



『蓮下絵百人一首和歌巻断簡』が展示されていました。

蓮の花を描いた上に、『光悦流』と呼ばれる独特の書体で百人一首の和歌が書かれています。元は長い巻物だったのですが、関東大震災で一部が焼損してしまったため、断簡にして掛け軸にしたもののひとつです。

能書(のうしょ)ともうたわれた光悦の書は、肥痩をきかせた筆線の抑揚と下絵に呼応した巧みな散らし書きで知られていますが、



『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(重要文化財)はその代表作です。これは『風神雷神図屏風』でも有名な俵屋宗達(1570〜1643)が波濤を越えて飛ぶ鶴の下絵を金銀泥で描いた料紙に光悦が三十六歌仙の和歌を書いた、長さ13m余もある和歌巻です。

宗達と光悦の合作には、他にも



『桜山吹図屏風』が出品されていました。こちらの屏風も宗達が絵を描き、光悦が色紙の枠に和歌をしたためています。

因みに、宗達の妻が光悦の縁戚だったようで、宗達と光悦は遠縁ながら親戚関係にあったようです。そんな二人が作り上げた一連の作品たちは、才能の相乗効果によって異なる時空を創造した場の空気をも写し込んでいるようです。

光悦は徳川家康から、京都北部の鷹峯の地を拝領しました。光悦はそこに住まうようになってから樂焼で知られる樂家と親しくなり、自らも数々の茶器を制作しました。

そのひとつが



『時雨』と銘打たれた黒樂茶碗です(重要文化財)。ろくろを使わず手捻りで作られた樂茶碗は口の厚みや全体のバランスがアシンメトリーになっていますが、それが絶妙な掌への収まり具合を演出していて実に面白い逸品となっています。

この特別展は今月10日まで、東京国立博物館平成館で開催されています。本当はもう一つの展覧会にも行ったのですが、長くなってしまうのでまた明日にさせてください(汗)。

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博物館に初もうで@上野・東京国立博物館

2024年01月02日 16時50分35秒 | アート
今日は上野の東京国立博物館に出かけました。本来なら皇居での新年一般参賀に参加したかったのですが、昨日の令和6年能登半島地震の発生を受けて天皇皇后両陛下が取り止めるご意向を示されたため中止になったのです。

正月早々発生した大地震では日本海沿岸ほぼ全域に大津波警報や津波警報も発令され、石川県輪島市では大規模火災も発生しました。一夜明けて特に石川県・富山県・新潟県近辺でかなり甚大な被害が確認されていますが、先ずはこれ以上被害が拡大しないことを願うばかりです。

曇りがちな空の下、



東京国立博物館まで来ました。会場の内外には



華やかな生け花が飾られ、新春の目出度くも華やかな雰囲気をかもし出しています。

今日からこちらでは



『博物館に初詣 ー年の初めの龍づくしー 』という企画展が始まっています。甲辰年を迎えて龍に因んだ文化財がいろいろと展示されていて、会場内撮影可ということでいろいろと撮影させていただきました。

会場に入って目を引いたのが


清朝第4代皇帝康煕帝(こうきてい、1654〜1722)直筆の『龍飛鳳舞』という堂々たる書です。これは康煕25(1686)年に書かれた書ですが、名君の誉れ高い康煕帝の威厳をも感じさせる逸品です。

その近くには



第107代後陽成天皇(ごようぜいてんのう、1571〜1617)宸筆(しんぴつ=天皇の直筆)の『龍虎二大字』の書が出品されています。書画に通じる能書帝としても知られた後陽成天皇ですが、堂々たる文字の中に昇り行く龍や猛々しい虎の尾を表した独特なタッチの一軸です。

工芸品としては



ポスターにもなっている京都・浄瑠璃寺伝来の、鎌倉時代・13世紀に製作された《十二神将立像、辰神》(じゅうにしんしょうりゅうぞう、しんしん)が目を引きました。十二神将は薬師如来が従える12人の武装した守護神、いわばガードマン集団ですが、この御像もその内の一体です。




はじめは純粋に武神として登場した十二神将ですがいつの頃からか十二支になぞらえられるようになり、頭上に十二支の姿を戴く姿で製作されるようになっていきました。こちらの御像でも





頭の上で龍がにらみをきかせています。

鎌倉時代の仏像製作の特徴のひとつに『玉眼』という技法が挙げられます。これはくり抜いた頭部の目の部分の内側から水晶を嵌め込む技法で、まるで生きた人間の濡れた眼球のように光り輝くため、かなりリアルな目つきになります。

こちらの御像も



まるで荒事の歌舞伎役者の見得切りのような鋭い目線を表現するために、玉眼が効果的に使われています。訪れた人たちは、皆いろいろな角度から盛んにシャッターを切っていました。

他には



中国・元時代に作製された《龍涛螺鈿稜花盆》(りゅうとうらでんりょうかぼん 14世紀・重要文化財)が展示されています。波涛逆巻く背景に浮かんだ火焔宝珠を見据える五本爪の龍が螺鈿で描かれています。

皇帝の権威を象徴する五本爪の龍には、鱗(うろこ)の部分に青い貝を、鰭(ひれ)の部分には赤い貝を嵌め込むという細かい工夫がされています。そのことで、見る角度を変えると











黒い漆の背景の中で龍が様々な表情に光り輝く、当時の中国における螺鈿工芸の水準の高さを如実に表す逸品となっています。

更に



舞楽《陵王(蘭陵王)》で使用される面と装束も展示されています。

古代中国・北斉(ほくせい:550~577年)の蘭陵王・高長恭(らんりょうおう・こうちょうきょう、541〜573)は優れた武才とともに眉目秀麗な美男子としても知られていました。そのあまりの美しさに、部下が長恭の顔に見とれて戦にならなくなってしまうほどだったと言われています。

困った長恭は、味方の兵士たちの士気を高めるために獰猛(どうもう)な龍を戴いた異形の仮面をつけて指揮をとりました。すると兵士たちは鼓舞されて次々と勝利をものにしていったと伝えられていて、それを祝して作られた曲が《陵王》だといわれています。

鎌倉時代に製作された舞楽面には





龍…というより西洋のドラゴンに近いような霊獣があしらわれています。江戸時代に製作された裲襠(りょうとう)と呼ばれる前当てのような唐織の衣装には



猛々しい龍の姿が金糸で表されています。

この他にも様々な展示がありました。

2階にある国宝室という部屋には



長谷川等伯(はせがわとうはく、1539〜1610)の名作《松林図屏風》(しょうりんずびょうぶ、国宝)が展示されています。等伯50代の作といわれているこの屏風は美術史上「日本の水墨画を中国の山水画から自立させた」と称されている、近世日本水墨画の代表作のひとつです。

一説には等伯の郷里である能登・七尾の情景を描いたともいわれていますが、はからずもその能登で昨日、大規模な地震が発生してしまいました。それを知ってこの屏風を観る人たちの目に、一様に複雑なものを感じました。

他に興味深いものとしては



名作《動植綵絵》(どうしょくさいえ)などで知られる江戸時代の画家伊藤若冲(いとうじゃくちゅう、1716〜1800)作の《松梅群鶏図屏風》(しょうばいぐんけいずびょうぶ、18世紀)か展示されています。若冲は『鶏の画家』ともいわれるくらい鶏の表現について定評がありますが、この屏風でも



比較的早い筆致ながら、いかにも伊藤若冲の面目躍如たる生き生きとした鶏たちの姿を観ることができます。

屏風の左隻には



梅の古木の下で群れ遊ぶ鶏たちが、右隻には



粗い筆致の松の木の下に、様々な表情の鶏たちが描かれています。右隻には



石灯籠が描かれているのですが、よく観ると石灯籠が花崗岩製であることを表情するために



なんと若冲は点描画で描いています。

こうした技法は、新印象派に分類される19世紀フランスの画家ジョルジュ・スーラ(1859〜1891)の作品に多く見られるものですが、若冲はその何年も前に点描画という技法を用いていたことになります。こうして観ると、伊藤若冲という画家の斬新な発想には改めて驚くばかりです。

様々な展示を観てから博物館を出て、そのまますぐ近くにある寛永寺に行くことにしました。 

天台宗東叡山寛永寺は徳川将軍家の菩提寺として建立され、かつては上野公園のほぼ全域に広がる大寺院でした。しかし、徳川幕府と明治新政府軍とが戦った戊辰戦争で殆どの堂宇が焼け落ちた上に明治新政府から所領を著しく減らされ、今では上野公園の片隅に僅かな諸堂を残すのみとなっています。

東京国立博物館から徒歩10分ほどで



東叡山寛永寺に到着します。こちらには、





根本中堂という看板が掲げられた御堂がありますが、正確にはこちらは寛永寺の中の円頓院瑠璃殿(えんとんいんるりでん)といい、本来の根本中堂は上野公園の大噴水の辺りにありました。

今日と明日の二日間は普段は立ち入れない根本中堂の中に入れるということで、私も拝観してきました。歴代徳川将軍の肖像画が飾られた根本中堂内で焼香をし、



『瑠璃殿』の御朱印と散華を頂いてきました。

今日はほぼ一日使って、かなりのびのびとすることができました。明日は、また別のところに出かけます。

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発表されて100周年《夕焼け小焼け》の絵を描こう

2023年02月28日 18時30分18秒 | アート
今日は、日中はかなり暖かくなりました。完全に上着要らずでしたが、気温が上昇した分スギ花粉もなかなかの飛散量だったようで、たまりかねて早退してしまった子もいたほどでした。

今日は放課後子ども教室のある日でした。今までにも宿題を済ませた後の子どもたちにいろいろな体験をさせてきましたが、今日は



こんなものを用意してみました。

先日、作詞家の中村雨紅についての記事でも書きましたが、今年は雨紅が作詞した《夕焼け小焼け》が発表されてから、ちょうど100年目の節目の年となります。こんなタイミングに此の世に生を受けているのもなかなかレアなことなので、


ゆうやけこやけで 日がくれて
山のおてらの かねがなる
おててつないで みなかえろ
カラスといっしょに かえりましょう


という1番の歌詞を元にして、子どもたちに歌の世界観の絵を描いてもらうことにしたのです。

私がピアノで《夕焼け小焼け》のメロディを弾いている最中、子どもたちは思い思いに自分なりの夕焼けの絵を描いていました。そして20分ほどで







こんな感じの作品ができました。

面白いことに『山のお寺の鐘』を描いた子どもたちの何人かが、仏教寺院の梵鐘の形ではなく、真ん中の絵に見られるようにキリスト教会の釣り鐘的な形を描いていました。中にはその絵を観て

「お寺の鐘は、こんなんじゃないよ。」

と否定的な意見を言う子もいたのですが、今回は別に正解を求めているわけではなく、あくまでもその子がイメージした夕焼けの絵を自由に描いてもらうことが目的なので、その子がそう感じたのならそれはそれで有りだということを説明しておきました。

教室の最後にはそれぞれが描いた《夕焼け小焼け》の絵を持って、歌を歌って終わりました。子どもたちも、自分たちがなかなかなレアなタイミングに生きていることを知ってもらえたようでした。

さて、早いもので明日から3月になります。週末には桃の節句も迎えるわけですから、改めて時の移ろいの速さに驚かされますね。

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奈良時代の一木造の名品たち〜《奈良・大安寺の仏像》展

2023年01月08日 15時15分15秒 | アート
昨日の《松林図屏風》特別公開に続き、今日は東京国立博物館で開催されているもう一つの展示についてご紹介しようと思います。それが



特別企画《大安寺の仏像》展です。

奈良の大安寺(だいあんじ)は、日本で最初の官営寺=国によって建てられた寺です。古くは舒明天皇が発願した百済大寺(くだらのおほてら)や高市大寺(たけちのおほてら)に始まり、その後藤原京に建てられた大官大寺(だいかんだいじ)と名前や規模を変えながら、平城京遷都に伴って現在の地に移築した時に大安寺という名前になりました。

現在の大安寺は、東大寺や興福寺がある奈良公園と、薬師寺や唐招提寺が建ち並ぶ西ノ京との中間地点にひっそりと建つ小さななお寺です。しかし、かつては境内に90余の堂宇が建ち並び、800余名もの僧侶を擁した巨大寺院でした。

近年、奈良文化財研究所監修の下で製作された再現画像では



南大門に金堂や講堂をはじめとしたいくつもの巨大な建物が建ち並び、その前には



巨大な七重塔が東西に二基建ち並ぶ『薬師寺式』と呼ばれる伽藍配置を誇る、正に大寺であったことが分かります。俯瞰図で見ると境内には



杉山古墳という天皇の墳墓たる古墳まで擁してしまっていますが、これも官営寺だからこそ可能だったことでしょう。

大安寺の特徴的な点といえば、奈良時代に製作された木彫仏が多く遺されているということです。これらはいずれも一本の大木から彫り出された一木造(いちぼくづくり)で作られていて、優れた身体表現や細やかな表現が素晴らしいものばかりです。

今回の展覧会ではフラッシュを焚かなければ写真撮影がOKということでしたので、お言葉に甘えて撮影させていただくことにしました。お寺では絶対にできないことですから、そういった意味でも貴重な機会です。

本館1階11室に設けられた会場に入ると



ガラスケースに入った四天王の一人『多聞天』が出迎えてくれます。

左手を腰に当て、戈(ほこ)か戟(げき)を携えていたであろう右腕は力強く振り上げられています。丁寧にまとめられた太い体つきは奈良時代彫刻の伝統的な特徴ですが、一方で身に着けた鎧には



緻密な文様が彫り込まれていて、こうしたところには唐時代の彫刻表現の影響が見られます。

こちらは360度展示となっているため、お寺ではあまりよく観ることのできない仏像の背面をしっかりと観ることができるようになっています。勿論、『多聞天』の背面も



ガラスケース越しにしっかりと拝見することができました。

その先に進むと、江戸時代に作られた弘法大師像の向こうに



大安寺を代表する仏像『楊柳(ようりゅう)観音菩薩立像』が展示されています。観音菩薩というと慈愛に満ちた穏やかな表情が多く見られる中で、楊柳観音菩薩は観音菩薩としては珍しく目をカッと見開いて口を大きく開く忿怒の形相が特徴です。

均整のとれたプロポーションや衣の柔らかな質感も見事で、着衣にはわずかに彩色の痕が残っています。そして更にこの観音菩薩立像が特徴的なのが、通常なら蓮華座の上に裸足で立つところを



ゴツゴツした岩座の上に履物を履いて立っている点です。

こちらの展示でも、普段はまず目にすることのできないや仏像の背面も見られることです。楊柳観音菩薩立像も背面を見ることができるのですが、





礼拝対象として絶対に目にされることのない像の背面にまでも隙のない造形が施されていることが分かります。

その隣には



『聖観音菩薩立像』があります。こちらも頭部から



足元の履物までを一木から彫り出していますが、制作当時は下の岩座まで一木で彫り出していたのではないかともいわれています。

衣の細かな襞や柔らかな身体表現は天平時代の彫刻の特徴が、一方で胸に刻まれた装飾の緻密な浮き彫りには唐からの影響が色濃く表れていて、伝統的な天平彫刻と大陸からの新しい表現とを巧みに融合した奈良時代木造彫刻の名品のひとつとなっています。こちらも背面が観賞することができて





楊柳観音菩薩立像と同様に、柔らかいながらも細部にまで隙のない造形を見ることができます。

そして、部屋の一番奥には



『不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩立像』が展示されています。八本の腕は後の時代に作られたものですが、それ以外は頭の先から台座の蓮肉まで一木から彫り上げられています。

全体に木のもつ重厚感が発揮されていていますが、弾力を感じさせるような肌や柔らかな衣の表現には天平期に流行した乾漆造(かんしつづくり)像の特徴も見て取れます。勿論、こちらも





しっかりと背面を拝見してきました。

この他にも、先程の『多聞天』とセットの



『広目天』や



『増長天』



『持国天』も揃い踏みしていて、見応えのある展示でした。

普段は見られないような角度から貴重な奈良時代の一木造の仏像を堪能できるこの展示会は、3月22日まで開催されています。日時指定も必要なく常設展のチケットで入場できますので、興味をもたれた方は是非おいでになってみてください。

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長谷川等伯の真骨頂!国宝《松林図屏風》@東京国立博物館

2023年01月07日 16時05分40秒 | アート
今日もいいお天気となりました。ただ、気温としては寒い状態が続いていて、いかにも寒の内といった風情です。

そんな中、今日は



東京・上野公園の東京国立博物館に来ました。

こちらでは今、個人的に非常に興味深い展示会が二つ開かれています。それらを一気に書いてしまってもいいのですが、それだとちょっと勿体ないので、今日と明日とに分けて一つずつ書いていくことにします。

今回ご紹介するのは、昨日サントリー美術館で観賞した長谷川等伯筆の《松林図屏風(国宝)》の特別公開です。これは



帝室博物館から続く東京国立博物館の創立150周年を記念する企画展で、普段は許可されない写真撮影が許可されているという貴重なものとなっています。

本館二階の7室に向かうと、



長谷川等伯の代表作のひとつである《松林図屏風》が展示されています。他には何もない、この屏風だけが展示された空間です。

《松林図屏風》は六曲二双の屏風です。右隻には



長年の風雪に耐えて斜めに立つ松の木が印象的な松林が、左隻には



右隻よりも少し遠目に濃霧に煙る松林と遠山が描かれています。

智積院の豪華な金地の障壁画とは対照的に、《松林図屏風》は紙の白地を霧に見立てた中に墨一色で松林を描いたものです。近くで見ると、



かなり荒々しい筆致で松の枝が表現されているのが分かります。

《松林図屏風》は、いろいろと謎が多い作品です。

先ず、製作された時期や経緯が分かっていません。恐らく昨日の智積院展で観た《桜図》を描いた子息の長谷川久蔵の死後に描いたものと考えられていますが、誰かから依頼があったわけではなく私筆であるといわれています。

また描かれた紙も粗雑なもので、松の木の描き方も筆で描いたとも藁や竹を束にして雑な感じに描いたと思われ、何かの絵の下描きなのではないかともいわれています。しかし、使われている墨は水墨画の本画に使われるような高級なものが使われていますし、松の木の配置も屏風の曲線と絶妙に合うようになっているのも不思議なのです。

そもそもこの作品は、始めから屏風だったかどうかも分かっていません。というのも、よく見ると



左隻の端の部分に襖の引手の環が嵌められていたような痕があったり、







屏風の枠に合わない部分を拡張した痕跡が見られたりするのです。

それに、通常このくらいの大きさの屏風を仕立てるためには紙を五枚ほど貼り継いで画面を作るので紙の継ぎ目が残るのですが、右隻を見てみると右端の二曲だけ紙が不自然に六枚継ぎになっていて





本来なら左右で揃っているはずの紙の継ぎ目が明らかにズレているのです。このことから、この作品は始めは屏風ではなく障壁画だったのではないかともいわれています。

《松林図屏風》に限ったことではありませんが、屏風には

①元から屏風として製作されたもの

と、

②障壁画や襖絵だった絵を剥がして貼り替えて屏風に仕立て直したもの

とがあります。紙に描かれた絵画ならではのリメイク法ですが、どのような経緯で仕立て直されたのかについては詳しい記録が残されていないことが殆どのため、元の形が分からないままのものも多いのです。

そのことから推測するに《松林図屏風》は②であろうことは確実視されています。それでも、元はどんな絵だったのかや、いつ誰がどのような目的で屏風に仕立て直したのかは今持って謎のままです。

それでもこの屏風を眺めていると、まるで自分が屏風の中の霧に煙る松林の中に入っていけるのではないかと思うような気持ちになります。今まで何度となく観てきた屏風ですが、何度観ても全く飽きることがありません。

はたして等伯は、何に衝き動かされてこの水墨画を描いたのでしょうか。そしてこれを完成させた時、等伯は何を思ったのでしょうか。

さて、すっかり長くなりました(汗)。なので、もう一つの展示については明日書こうと思います。

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長谷川等伯親子渾身の国宝障壁画〜《京都・智積院の名宝》展@サントリー美術館

2023年01月06日 18時18分18秒 | アート
今日は二十四節気のひとつ『小寒』です。本郭な冬の始まりを意味する日ですが、日中は日差しの温もりを感じられる陽気となっていました。

そんな中、まだまだ冬休み真っ最中の私は今のうちに行っておきたいところがいくつかあるので、学校が始まってしまう前に出かけておくことにしました。今日やって来たのは六本木の東京ミッドタウンの中にあるサントリー美術館で、こちらでは現在



《抒情と荘厳〜京都・智積院の名宝》展が開催されています。

智積院は京都の東山七条に位置するお寺で、真言宗智山派の總本山です。末寺には成田山新勝寺や川崎大師平間寺などがあります。

こちらのお寺には、国宝に指定された有名な障壁画があります。それが、当時のナンバーワン絵師派閥の狩野派を脅かすほどの存在だった長谷川等伯(1539〜1610)と子息長谷川久蔵(1568〜1593)を筆頭とする長谷川派が手掛けた作品です。

今回の展覧会では、その中でも名品の誉れ高い『桜図』と『楓図』を始めとする障壁画が寺外で鑑賞できる貴重な機会となっています。私自身もお寺で観たのは何十年も前のことなので、楽しみにしていました。

弘法大師を始めとした尊像が居並ぶ中を進むと、先ず目に飛び込んでくるのが



『松に秋草図(国宝)』です。金地を背景にして雄々しく立つ松の木の根本にはムクゲやススキ、萩、菊などの秋草の花が咲いていて、ダイナミックな中にも華やかな印象を受けます。

その先にあるのが



等伯の子息久蔵が中心となって手掛けたとされる『桜図』です。

金地に映える八重桜の花は牡蠣殻を砕いた胡粉(ごふん)を幾層にも厚く盛り上げて描かれていて、近くは勿論、ある程度離れて観ていても立体感を感じることができます。桜の根本にはスミレやタンポポといった可憐な野の花が咲いていて、豪奢な中にも軽やさが演出されています。

久蔵は長谷川派最大のライバル狩野派の筆頭絵師狩野永徳(1543〜1590)亡き後、長谷川派を担う次世代リーダーとして大いに期待されていましたが、この『桜図』を描いた翌年に26歳という若さで突然亡くなってしまいました。あまりにも急に、しかも狩野派にとってあまりにも都合よく他界してしまったこともあってか、一時は狩野派による暗殺工作による死ではないかと、まことしやかに噂されたほどでした。

その『桜図』の隣りに展示されているのが



等伯が中心となって手掛けたとされる『楓図』です。

久蔵の急死によって、等伯は失意のどん底に叩き落されることとなりましたが、その悲しみを乗り越えるかのように等伯はこの『楓図』の製作に没頭したといいます。無骨なゴツゴツした幹の楓から伸びる枝には紅葉している中にもまだ青い葉が見受けられますが、これはもしかしたら若くして世を去ってしまった子息久蔵を思って描いたものなのかも知れません。

この他にも



長谷川派の手による襖絵『雪松図(国宝)』など、様々な障壁画も展示されていました。本来ならば智積院にはもっと沢山の長谷川派の障壁画があったのですが、昭和27年に発生した火災によって『枇杷図』を始めとしたいくつかの作品が灰燼に帰してしまったのは残念でなりません。

他にも様々な法具や経典や書、



鎌倉時代に描かれた『孔雀明王図』などが展示されていましたが、個人的に気になったのが



『蓮舟(れんしゅう)観音図』という仏画です。この仏画は江戸時代に描かれたものですが、画面左側の落款(らっかん)の上の署名をよく見ると



「内大臣綱吉筆」と書いてあります。

内大臣綱吉…?

そう、実はこの観音様は徳川幕府第5代将軍



徳川綱吉(1646〜1709)が自ら描いたものだったのです!綱吉は幕府お抱えの狩野派の絵師から絵の手解きを受けていたと言いますが、この仏画ひとつを観てもなかなかの画力の持ち主であったことがしのばれるのです。

別会場では智積院に関する動画が流され、訪れた人たちが思い思いに見入っていました。その会場の入口には



『楓図』のパネルが置かれていて、自由に撮影できるようになっていました。

この展覧会は今月22日(日)まで、東京ミッドタウン内にあるサントリー美術館で開かれています。京都に行かなくても等伯の名作が観賞できる貴重な機会となっていますので、興味をもたれた方は足を運んでみてはいかがでしょうか。

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《日本美術をひも解く〜皇室、美の玉手箱》展・後期日程へ

2022年09月22日 18時45分18秒 | アート
今日は昨日以上に涼しくなりました。暑がりの私もさすがにTシャツ一枚では心許なく、一枚羽織れるものを引っ張り出したくらいでした。

そんな陽気の中、今日は



東京・上野公園内にある東京芸術大学大学美術館にやって来ました。以前にも来ましたが、こちらで開催中の



《日本美術をひも解く〜皇室、美の玉手箱》展の後期日程を鑑賞するためです。

前期日程では『唐獅子図屏風』や『蒙古襲来絵詞』といった見応えのある展示物がありましたが、後期日程も素晴らしい作品が目白押しでした。

先ずは会場に入ってすぐのところに展示されている



『菊蒔絵螺鈿棚』を鑑賞しました。明治天皇の肝いりで製作されたこの飾棚は佐渡金山の金を使った金蒔絵や沖縄の夜光貝を使った螺鈿細工などがふんだんにあしらわれ、漆工家・蒔絵師の川野邊一朝(かわのべいっちょう 1831〜1910)や彫金師の海野勝珉(うんのしょうみん 1844〜1915)といった当時の一流の職人たちが心血を注いで9年もの歳月をかけて1903(明治36)年に完成させたものです。

360度から鑑賞できるように展示されている飾棚は、菊の花や小鳥の形を立体的に描いた金蒔絵の中に夜光貝を切り抜いて嵌め込まれた螺鈿が観る角度によって赤や翠や蒼や紫といった様々な輝きを放ち、観る者を魅了します。誤解を恐れず大袈裟な言い方をするならば、一日中観ていられる素晴らしい一級工芸品です。

そして後期日程の一番の目玉は、何と言っても伊藤若冲(1716〜1800)の傑作『動植綵絵(どうしょくさいえ)』です。『動植綵絵』は若冲の代表作の一つで、江戸時代中期にあたる宝暦7(1757)年頃から明和3(1766)年頃にかけての時期に制作された30幅からなる日本画で、元々は京都の相国寺に収められていたものが明治になって皇室に献納されたものです。

全部で30幅もの大作掛軸ですが、今回はその中から



『向日葵雄鶏図』をはじめとした10幅が展示されていました。個人的に一番観たかった



『老松白鳳図』が今回は展示されていなかったのが残念でしたが、貴重な国宝ですから仕方ありません。

絵画では他に



円山応挙(1733〜1795)が描いた『牡丹孔雀図』も展示されていました。この絵は応挙44歳の時の作で、アズライトやマラカイトといった鉱物を砕いた岩絵具を用いて写実的に描かれているのが特徴的です。

1900年にフランス・パリで開催された万国博覧会に、日本からも多くの美術工芸品が出品されました。今展覧会では、その時に出品された後に皇室に献納された作品も展示されていましたが、特に印象的だったのが



『菊蒔絵螺鈿棚』の制作にも関わった海野勝珉作が1899(明治32)年に完成させた『太平楽置物』です。

太平楽とは舞楽のひとつで、天下泰平を祝って舞われる演目です。舞楽については下の動画を御覧いただきたいと思いますが、



勝珉は舞人の足捌きによって跳ね上がった帯の房や鈴、長くひいた裾の布がたわむ様子までも表現し尽くしていて、その出来栄えには舌を巻きます。

また同じ年に、明治期の日本を代表する七宝家の一人で京都を中心に活躍した並河靖之(1845〜1927)が制作した


『七宝四季花鳥図花瓶』も展示されていました。近代七宝工芸の原点である有線七宝という技法によって山桜や青紅葉が描かれた七宝焼きの花瓶は、『太平楽置物』と共に当時パリ万博に訪れた人々の度肝を抜いたと伝えられている一級品です。

普段はなかなか目にすることのできない貴重な皇室献納の品々を一堂に観ることができるこの展覧会は、9月25日(日)まで開催されています。当日券の販売もありますので、お時間が許せばこの貴重な機会を是非御堪能ください。

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