今日は午前中には冷たい雨が降りましたが、その雨が止むと昼前から徐々に気温が上昇していきました。その後、午後から薄日が差すようになると気温だけでなく不快指数まで上昇してきて、小学校では子どもたちも大人たちもグッタリしてしまっていました…。
ところで、今日5月31日はハイドンの祥月命日です。
『交響曲の父』や『弦楽四重奏曲の父』と呼ばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)は、この日に77歳という、当時とあってはなかなかの長寿を全うしました。
晩年のハイドンはロンドンで活躍していて、一時はそこに永住も考えていたほどでした。しかし1793年には住み慣れたオーストリアに戻ってウィーン郊外のグンペンドルフという場所に家を建て、ここが晩年の住居となりました。
それからのハイドンは、《天地創造》と《四季》という2つの大作オラトリオを作曲して大成功を収め、器楽曲では《トランペット協奏曲 変ホ長調》のほか、『五度』『皇帝』『日の出』といったサブタイトルの曲で有名な6曲セットの《エルデーディ四重奏曲 作品76》等を作曲しています。この時ハイドンはすでに還暦を過ぎていましたが、その創作意欲は衰えることはなかったようです。
それでも1802年、ハイドンは持病が悪化して、もう作曲ができないほど深刻になり、1803年を最後として指揮台に立つこともなくなってしまいました。晩年のハイドンは、かつて自身が作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え(皇帝讃歌)』をピアノで弾くことを、数少ない慰めとしていたようです。
1803年には、弦楽四重奏曲としては最後の作品となる第83番を作曲しましたが、これは中間の2つの楽章だけで放棄されて、1806年に未完成のまま出版されました。そして1809年5月31日、ハイドンはナポレオンのウィーン侵攻による占領下のウィーンで77歳で死去し、葬儀は翌6月1日に執り行われ、後の6月15日にはウィーン市民の参列できる追悼式が行われて、大勢の参列客が集まったと伝わります。
ところで、ハイドンの埋葬については何とも奇怪な話があります。ハイドンの死後、オーストリアの刑務所管理人であるヨハン・ペーターという人物が、なんとハイドンの遺体から首を切り離して持ち帰ってしまったのです。
ヨハン・ペーターは、当時流行していた骨格や脳の容量と人格とに相関関係があるとする『骨相学』という奇怪な学説の信奉者でした。それを基に他にも何人かの囚人の頭蓋骨を収集していたのですが、ハイドンの天才性と脳容量の相関関係についても研究し、
『ハイドンの頭蓋骨には音楽丘の隆起が見られた』
などとする論文を発表しています。
そんな奇怪な「研究」の終了と共にハイドンの頭蓋骨は、かつてハイドンも仕えていたエステルハージ家の書記で、ハイドンを尊崇していたローゼンバウムという人物に下げ渡されまし
た。その後、ローゼンバウムの家では
『ハイドンの頭蓋骨が顎をカタカタ鳴らしながら、うなり声を上げて家の中を飛び回った』
という怪談話まで伝わっています(汗)。
その後の頭蓋骨はローゼンバウムの元を離れて所有者を転々とし、胴体は第二次世界大戦後にソ連よって接収されていました。しかし1954年になって、1895年以降頭蓋骨を所有していたウィーン楽友協会から引き渡され、先にソ連から返還された胴体とようやく一緒になって
無事にアイゼンシュタットの霊廟に葬られることとなりました。
それにしても、故人の頭の部分だけが約150年もの間胴体と切り離されて別々に保管され続けていた…という奇怪なエピソードは、日本人にはちょっと理解し難いものです。所持している本人や家族たちは、他人の頭蓋骨なんかを家の中に置いておいて気持ち悪くはなかったのでしょうか…(怖)。
さて、オカルト話はこのくらいにして(笑)、ハイドンの誕生日には交響曲を紹介しましたので、命日には弦楽四重奏曲を紹介したいと思います。数あるハイドンの弦楽四重奏曲の中から、今回は第79番ニ長調を選んでみました。
弦楽四重奏曲第79番ニ長調作品76-5は、先に挙げた《エルデーディ四重奏曲 作品76》の中の一曲で、特に第2楽章が大変美しいために、この曲そのものを『ラルゴ』というサブタイトルで呼ぶこともあります。
そんなわけで、ハイドンの祥月命日である今日はその『ラルゴ』を、コダーイ弦楽四重奏団の演奏でお楽しみいただきたいと思います。嬰ヘ長調という
♯が6つ(!)もついた調性ならではの、抑制された響きを御堪能ください。