今日は8月15日、終戦記念日です。今から73年前の今日の正午にラジオから昭和天皇による詔、いわゆる『玉音放送』が流され、大東亜戦争に終止符が打たれました。
ここ数年、私は出来る限り終戦記念日に靖國神社に詣で、正午に昇殿参拝をするように心がけています。
幸いなるかな私の身内は、父方(軍需産業)も母方(常磐炭鉱検査役)も内地徴用ということで、召集令状が交付され男手が戦地に採られることはありませんでした。それでも、ここには先の戦争で様々なかたちで犠牲となられた約310万柱もの御霊を神として祀っておる御社でありますので、今日の日本の発展の礎となられた方々への感謝と鎮魂の念を申し上げるべく参拝しております。
うだるような暑さの中で二の鳥居と神門から続く長い参拝客の列に並んで待っていると、熱中症対策のミストが降り注いできたり、ところ何処に置かれた巨大な冷風扇の冷たい風が吹いてきたりと、昨今の酷暑の夏に向けた、参拝客への心遣いがありました。
そして、
拝殿前へと進んで参拝してから参集殿に向かい、どうにか正午の昇殿参拝に間に合ったので、受付を済ませて拝殿に昇殿しました。
こちらでは正午近くになると、すぐ近くにある日本武道館で行われている全国戦没者追悼式に天皇皇后両陛下がお出ましになる辺りからの様子を伝えるラジオの生中継が流れます。拝殿内でも一同起立してその時を迎え、ラジオの音声に合わせて国歌を斉唱します。
その後、内閣総理大臣の式辞が読み上げられている最中に、拝殿では本殿に向けて祓え言葉が奏上され、お祓いを受けます。
そして正午の時報と共に、1分間の黙祷が捧げられます。この時になると、外から聞こえていたお賽銭の音やガヤついた参拝客の話し声がパタリと止み、蝉時雨と鳥の声のみが境内を支配します。
黙祷を終えると、そのままラジオの音声で天皇陛下の御言葉を拝聴します。来年4月を持って、光格天皇以来約200年ぶりに御退位あそばすことが決定したため、今上陛下が天皇として全国戦没者追悼式に参加され御言葉を述べられるのは今年が最後となりました。そうした感慨も一入深いものがあったでしょう、居並ぶ参拝客は皆、陛下の一言一言を噛みしめるように拝聴していました。
御言葉が終わると、両国の相撲甚句保存会の面々によって追悼のための供養甚句が奉納されました。その後、順番に本殿へと進み、御神体である大きな鏡の前で二礼二拍手一礼を捧げ、退出口前の回廊で献杯を頂きました。
私が退出口に向かっていた時に、何やら神職が右往左往している一角がありました。何だろうと思って通りかがりに目をやると、石原慎太郎前都知事が覚束ない足取りで本殿に繋がるエレベーターに向かうところでした。あの意気軒昂な御仁もさすがに御老体になられて、本殿の階の段差もキツいのでしょう。それでも、昨年には無かった本殿へ昇殿するエレベーターがいつの間にか出来ていて、それを使って昇殿したようです。
それにしても、このエレベーターがスゴいのです。本殿域の雰囲気を損なわないようにエレベーター全体が木材で覆われていて、遠目には真新しい柱が一本建ったかな?くらいにしか見えないように工夫されています。この気遣いには恐れ入りました。
御老体を見送った後、
資料館である《遊就館》にも足を運びました。こちらには御覧のような零戦の実機や、泰緬鉄道で使用されていた蒸気機関車が置かれていて、間近に見ることができるようになっています。
入館料を払って中に入ると、様々な激戦地での様子や人々の戦中の暮らしぶり等が紹介されています。そして一番最後の部屋には、特攻隊を始め若くして命を散らせた御柱に、遺族から納められた花嫁人形が展示してあります。いずれも、恋することも儘ならず戦場に散った若き御霊に、せめてもお嫁さんを添わせてあげたいという御遺族の切なる思いが伝わってきます。
今年も境内には台湾民政府の皆様を始めとして、タイ・マレーシア・フィリピン・ベトナムといった、かつて戦場だった地域からも靖國神社にいらした方がありました。
よく、『終戦記念日に靖國神社に参拝することに、アジア諸国は反感を抱いている』と声高に宣う向きがあります。しかし、もしそれが本当だとするならば、こんなに多種多様なアジア圏の国々から参拝客が訪れていることを、どうやって説明するのでしょうか?そのことについて、彼らは口を噤んだままです。
『アジア諸国が反感を抱いている』のではありません。『《特定のアジア諸国》が反感を抱いている』のです。
その《特定のアジア諸国》、つまり中国と韓国がガヤガヤ言い始めたのも、戦後すぐからではありません。それまでは終戦記念日には昭和天皇も靖國神社に参拝され、私が覚えている範囲で大平正芳氏や鈴木善幸氏といった歴代総理大臣も参拝していました。中曽根康弘大勲位も就任当初は参拝していました。しかし、何故か1985年8月7日に朝日新聞が首相や閣僚の靖國神社公式参拝に関して政教分離や戦犯合祀についての社説を掲載し、翌週8月14日にまるでそれに乗っかるようにして中国が突然『閣僚の靖國神社公式参拝』に対してクレームをつけて来たのです。韓国青瓦台がその中国の言葉尻に乗っかってきたのは更にあとになってからでした。そして、何故か日本政府はそのクレームを真正面から受け取り、それ以降は総理大臣はおろか、天皇陛下ですら参拝することはタブーのような扱いになって今日に至っています。
それならば、私達は問わなければなりません。
『戦争が終結してから40年も経ってから首相や閣僚、国会議員の靖國参拝を中国共産党が《問題視》するようになるまで、鄧小平以前の毛沢東も周恩来も何故何事も言ってこなかったのでしょうか?』
もし、中国が本気で靖國神社参拝を国際問題にでっち上げたいのであれば、少なくともサンフランシスコ講和条約締結後くらいからでも、まだ戦争の傷跡深い中国国民として先ず声を挙げるべきだったでしょう。しかし1949年に建国した中華人民共和国の偉大なる指導者毛沢東も周恩来も何の文句も言わなかったのです。それを突然蒸し返すのに、どうして四半世紀以上もの時間を必要としたのか…彼らはこの極めてシンプルな質問に答えなければなりません。
答えは簡単です。
当時、カンボジア内戦に干渉してポル・ポト政権を追い出したベトナムに対し、ポル・ポト政権を支持していた鄧小平率いる中国共産党政府はベトナム軍への報復措置として10万人もの軍隊をカンボジアに派遣します。しかし、当初の共産党政府の思惑とは異なりベトナム軍からの予想外の返り討ちにあって、この軍事介入は失敗に終わります。そのことによって、中国国民の間に中国共産党政府に対しての失望感が拡がっていきました。また、来たる1989年の学生民主化要求運動、いわゆる天安門事件勃発に向けての萌芽が国内で散見されるようになり、中国共産党政府の足元は建国以来かつて無いほどグラついていました。
その時、国民の憤懣に対するいわばガス抜き策として中国政府は朝日新聞の社説を叩き台とした靖國問題をでっち上げ、『日本の戦争責任を問う』という錦の御旗を振りかざして中国国民の関心を国外に向けさせ、保身の材料に使ったのです。靖國神社参拝にケチがつくようになったのは、こうした中国の極めて国内的な事情に裏打ちされたものに他なりません。
そして、私達はそろそろ約13億人の中国人民にギャースカ言われっ放しになっている状況から脱却しなければなりません。そのために必要なのはプロパガンダでもファンタジーでもない、正しい歴史的時系列に基づいた正しい歴史的知識と見解です。それを持つことこそが『戦わずして勝つ』最短距離の方法です。
文部科学三流省は、いつまで立っても本当のことは教えてはくれません。もっと正しい時系列を把握し、堂々と論じていきましょう。それこそが、先の大戦で落命した多くの御霊に対する何よりの感謝と供養になるのです。
相変わらずの蝉時雨の中、御霊安かれと祈念して御社を後にしました。