共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

弱り目にネコさん…

2024年05月31日 18時40分35秒 | ネコ(=゚ω゚=)
前日の予報通りに関東南岸を通過した台風1号の影響で、小田原は強い雨の降り続く朝となりました。こうなると、ちょっとしたことに妙に敏感な支援級の子どもたちが、いろいろとやらかすようになります。

中でも、当人には失礼ながら自己チューが服を着て歩いているようなかなり厄介なタイプの4年生の子がいるのですが、この子が終日荒れました。とにかく自分の癇に障ることがあれば誰彼構わず罵詈雑言を投げつけ、まるでオモチャを買ってもらえなかった2歳児のように手足をバタつかせながら泣き喚くのです。

こんな時、他の支援員はなんとかしようとなだめてかかるのですが、私は相手にせず放置しておきます。何しろ喚いている内容が

『アタシが』こんなこと言われた!
『アタシが』イヤな思いをさせられた!
『アタシが』傷ついた!
『アタシが!』『アタシが!』
『アタシが!』『アタシが!』
『アタシが!』『アタシが!』
『アタシが!』『アタシが!』
『アタシが!』『アタシが!』。。。。。。。

と、他者への思いやりは欠片も無く、二言目には『アタシが!』を連呼するので、ハッキリ言って聞いていられないのです。

実際に放置しておいてやると

『…え?ホントにアタシのこと放っておく気なの?』

みたいな顔をしてこちらの様子を窺って来ているのが丸わかりなので、必死になだめるだけ労力の無駄なのです。そんな自己チューの相手をするくらいなら、他にサポートしなければならない子なんていくらでもいますので。

そうかと思うと、通常級ではいわゆる『支援級とのグレーゾーン』の男子が教室内で同級生を突き飛ばし、押された子が後ろにあった机に後頭部を強打して救急車で運ばれる事案も発生してしまいました。このグレーゾーンは普段から他人の言う事を全く聞かないので本来ならば支援級に入れて性根を叩き直した方がいいくらいなのですが、親の意向と学力的には問題がないのとで通常級に入ってしまっている厄介な存在です。

これが高校生なら即停学か退学処分にでもなるのてしょうが、さすがに義務教育、しかも小学生ともなるとそうもいかないでしょう。ただ、普段からの狼藉ぶりを知っている身としては、個人的には小学生といえども数日間の自宅謹慎くらいはさせるべきだと思って憚りません。

なんだかいろいろとバタバタさせられっぱなしのまま学校が終わってしまい、子どもたちを下校させた後にはグッタリした大人たちだけが取り残されていました。まだ始まって2ヶ月しか経っていないのにこんなんでは、これから先が思いやられます…。

そんな疲れを引きずって小田原駅まで歩いていたら、いつもお参りしている辯天堂の玉垣のところで



見慣れたネコがジッ…と目を瞑っていました。思わず

『おまえさんはいいよなぁ…』

と心で呟いてしまったのは内緒です(汗)。

明日の土曜日も、関東地方はスッキリと晴れるわけではなさそうです。このままシレ〜ッと梅雨入りなんぞしないといいのですが…。

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音楽から縁遠くなる街・厚木

2024年05月30日 18時55分10秒 | 音楽
今日は自宅でデスクワークに勤しんでいたのですが、五線紙のストックが少なくなっていることに気づいて買い出しに行くことにしました。本厚木駅直結のミロードの中にある山野楽器に行ってみたのですが…



何と3月末日を以て店舗がなくなってしまっているではありませんか!

前回ここで楽譜を買ったのがいつのことだったか覚えていませんが、年内に少なくとも2回は買い物をした記憶があります。その時には無くなるような素振りは微塵も感じませんでしたが、まさか大手の銀座山野楽器までが厚木から撤退するとは…。

ここには併設の音楽教室もありましたが、当然のように閉鎖されていました。講師も生徒も関連の相模大野の店舗に移籍したか辞めたかしたのでしょうが、こうして無くなってみるとやはり衝撃です。

かつて厚木の街には、楽器店やレコードショップといった音楽に関する店舗がいくつもありました。それが今ではレコードショップもなく、山野楽器が撤退したことで楽器店すらもなくなりました。

結局、五線紙を買うためだけにわざわざ電車に乗って、ひとつ隣の海老名まで行かなければなりませんでした。たったひとつ隣へ行けばあちこちに音楽関連の店があるという現状を見るにつけ、音楽からどんどん縁遠くなっていく厚木と見比べて暗澹たる気持ちにさせられたのでした。

文化が蔑ろにされていく街に、真の魅力はありません。そのことに街が気づいた頃には、既に手遅れになっていると思うのですが…。

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酷暑のプール清掃からの『マンゴーワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年05月29日 18時45分25秒 | スピリチュアル
昨日の暴風雨から一夜明けて、今日は午後から日が差してきました。そんな中、今日は小学校のプール清掃がありました。

5年生の子たちが携わったのですが、一年近く放置していたプールの汚れっぷりはなかなかのものでした。土埃だけでなく、近くの木から散り落ちた枯れ葉や、プールのすぐ脇にある棚から落ちたヘチマの実なども堆積してヘドロ化しており、かなりカオスだったのです。

子どもたちは主にプールの中を、大人たちはプール周辺のタタキの清掃や、柵を越えて侵食してきた周辺の木の枝打ちをしました。照りつける日差しの中で力を合わせて作業した結果、かなりいいところまで綺麗にすることができました。

私も作業に参加したのですが、日陰の全くないプールサイドで掃除をしていたら、すっかり日焼けしてしまいました。今まで日焼けは全く気にしてこなかったのですが、そろそろ日焼け止めのお世話になった方がいいのかも知れません。

そんな小学校勤務を終えて子どもたちを下校させてから、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は



明後日で終わってしまう今月限定メニューの『マンゴーワッフル』をオーダーしました。お店の看板メニューであるクロワッサン生地のワッフルと濃厚なマンゴーの風味が絶妙にマッチしていて、美味しいコーヒーと共にいただくと幸せな気持ちになれます。

明日は学校勤務がない日なので、自宅でゆっくりと過ごそうと思います。

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放課後子ども教室スタートに向けて

2024年05月28日 19時40分30秒 | 日記
今日は授業を終えてから、来月から始動する放課後子ども教室のスタッフミーティングがありました。3月で前年度が終了してから2ヶ月ぶりでしたが、馴染みの顔も新規のスタッフも勢揃いしてくれていました。

始まるにあたって様々なことを確認したのですが、中でも重要視していたのが『7つの約束』というものでした。これは前年度にもあったのですが、



こうした約束事を放課後子ども教室に来た子たちに認識させて徹底していくということです。

本来ならばこんなことは書きたくないのですが、小さい子たちが何人か寄ると必ずルールを逸脱してなにかをやらかす事象が出てくるので、こうしたことを明文化しなければならなくなります。いつか、この紙が無くても子どもたちがきちんと過ごしてくれることを願うばかりですが、さて、そう上手くいくでしょうか…。

夕方になって、雨風ともに強くなってきました。雨は未明までとのことでしたが、明日の出勤時間までに止んでくれるでしょうか…。

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休みます…

2024年05月27日 20時20分20秒 | 日記
すみません、今日はかなり調子が悪いので、明日の学校勤務に備えてお休みします。

調子が戻ってきたらまた更新しますので、今日は本当に申し訳ございません…。
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今日はモーツァルト《2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365》の公式初演日〜コチシュ&デジェーによるデュオ

2024年05月26日 15時55分51秒 | 音楽
今日は朝からなんだか調子がよくなかったので、ほぼ一日寝ていました。それでダラダラ過ごしていたら、いつの間にか夕方近くになってしまっていました…。

ところで、今日5月26日はモーツァルトの《ピアノ協奏曲 第10番 変ホ長調》が
公式に初演された日です。《ピアノ協奏曲第10番 変ホ長調 K.365》は



モーツァルトが作曲した2台のピアノを独奏楽器とした協奏曲で、通し番号を付けて《ピアノ協奏曲 第10番》とも呼ばれています。

このピアノ協奏曲は、1775年から1777年にかけてザルツブルクで作曲されたものです。従来は1779年に作曲されたと考えられてきましたが、近年の研究によって、第1楽章と第2楽章はモーツァルトがおよそ1775年5月から1777年1月の間に用いていた五線紙に書かれていることもあって、協奏曲自体もこの時期に属すると見られています。

モーツァルトは1781年に、ウィーンにいる自分に宛てて父レオポルト・モーツァルト(1719〜1787)からこの協奏曲のコピーを送ってもらっていて、同じ年の11月23日にパトロンであるアウエルンハンマー家での私的な演奏会で、ピアノの弟子でありパトロンでもあったヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー(1758〜1820)と共演しています(この時、同時に初演されたのが『のだめカンタービレ』で一躍有名になった《2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448》です)。そして翌年の5月26日にはアウガルテンでの公開演奏でも演奏していて、これが公の場での初演と見なされています。

旧モーツァルト全集では第10番と位置づけられているこの作品ですが、事実上は《3台のピアノのための協奏曲(ピアノ協奏曲第7番)K.242》と姉妹編を成していると考えられています。ピアノ3台という特殊な編成の第7番と同じく、何らかの委嘱によって書かれたと考えられていますが、一方で変ホ長調の輝かしく華やかなこの協奏曲は、


(ヨハン・ネポムク・デッラ・クローチェ『モーツァルト一家の肖像』)

モーツァルトと実姉ナンネル(マリア・アンナ・モーツァルト、1751〜1829)が一緒に演奏するために自発的に作曲されたという説もあります。

2台のピアノはユニゾンで、あるいは旋律を分け合いながら互いに一歩も引かない活躍を見せますが、特に目立つのは3度の音程を保ちながら同じ動きしている点でしょう。そのため、当然のことながら同等の技量を持った2人のピアニストの息の合った演奏が要求される、隠れた難曲でもあります。

第1楽章はアレグロ、変ホ長調、4/4拍子の協奏的ソナタ形式で、ピアノの16分音符の細かい音が終始動き回り、華やかに盛り上げられています。2台のピアノは計4オクターヴのユニゾンによるトリルで、その登場をアピールしています(因みにこの楽章のカデンツァはモーツァルト自身の筆になる楽譜が遺されています)。

第2楽章はアンダンテ、変ロ長調、3/4拍子。ピアノを縁取るようなオーケストラに乗って、2台のピアノが中心となってかけ合いを展開する緩徐楽章です。

第3楽章はアレグロ、変ホ長調、2/4拍子のロンド形式で、愉快で親しみやすいロンド主題をもつ楽章です。この楽章で2台のピアノは同時に異なった音型を奏する場面が多くなり、フィナーレにふさわしい華やかさと幅広さを出しています(この楽章のカデンツァもモーツァルトが遺しています)。

そんなわけで、今日はモーツァルトの《2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365》の演奏動画を御覧いただきたいと思います。ハンガリー出身の2人のピアニスト、コチシュ・ゾルターンとラーンキ・デジェーのピアノによる演奏で、モーツァルトと愛弟子、もしくは愛すべき実姉とが演奏したかも知れない、華やかな音楽をお楽しみください。


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いろいろとスゴいもので…

2024年05月25日 16時55分10秒 | 日記
今日は久々にゆっくりと起きました。今週一週間が個人的に怒涛の展開だったので、本当にゆっくりとしたのです。

そうは言ってもやることはあるので、お昼前にセブンイレブンにコピーをとりに行きました。すると、店内が何だかざわついていたのです。

特に気にもせずコピーをとっていたのですが、その後でざわついていた原因が分かりました。それが



この『みそきん』なるカップラーメンでした。

これはユーチューバーのHIKAKINがプロデュースして日清食品から発売されていた味噌ラーメンのカップ麺なのですが、ちょうど今日の10時が発売解禁時間だったようなのです。支援級の子どもたちも好きだと言っていたこともあって名前は覚えていたのですが、偶然目にすることになりました。

私がセブンイレブンに入ったのが11時頃だったのですが、解禁時間には山積みになっていたものが、ものの1時間ほどであと3個を残すのみになっていました。そして、この写真を撮ってほどなくして、呆気なく完売したのです。

見ていると、買っていくのはほとんどが子どもたちで、そこに付き合わされた親や祖父母がついでに買っていっているようでした。何しろお一人様1個のみの販売だったので、人海戦術にうって出た面々も少なくなかったのです。

因みに、私は買いませんでした。そもそも味噌ラーメンは店で食べた方が断然美味しいですし、このテのカップラーメンは塩っぱ過ぎて食べられないのです。

有名ユーチューバーともなれば、こんな経済効果をも生み出すのか…と、呆れるやら感心するやら…子どもたちが将来なりたい職業にユーチューバーを挙げるのも無理からぬことだと再認識しました。ただ、これだけの経済効果を挙げるユーチューバーになるには、企画を生み出し続ける才気と、人身を掌握する語彙が必要であることも子どもたちに伝えていこうと思います。

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私も頑張ります…

2024年05月24日 18時55分18秒 | 日記
怒涛の宿泊学習が終わって今日は支援級担任も復活していたので、心置きなく個別学習支援員の仕事に従事できました。やはり、過度な責任感というものは疲れるものです。

今日は中学年の子たちの算数の時間がありましたが、支援級の子たちは様々な理由で学習が遅れを取っているので、学年相応より易しいところを勉強しています。今回は割り算の計算だったのですが、一人の子が九九が覚束ないことが理由で全くプリントが進みませんでした。

割り算をするには掛け算が不可欠なわけですが、だからと言ってそこで詰まってしまって先に進まないのを容認するわけにもいきません。そこで私が用意したのが



九九の一覧表が載っている下敷きです。

これは支援級の子どもたちの指導のために持っていたのですが、実は最近ちょっと九九の記憶があやしくなっている私のためにもカンペ代わりに持っていたものです。ただ、とりあえず私よりもその子の方がより必要だという判断をしてプレゼントすることにしました。

これで、その子の算数の時間が少しでも充実するよう願うばかりです。そして私も、これが無くても九九が諳んじられるようにしておかないと…。

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浄土寺開宗850年記念特別展《法然と極楽浄土》

2024年05月23日 18時50分18秒 | アート
今日は薄雲が空一面に広がる、比較的涼しい陽気となりました。そんな中、今日は休みをとって上野の東京国立博物館に出かけました。

こちらの平成館では、現在



特別展《法然と極楽浄土》が開催されています。この特別展は令和6年(2024)に浄土宗開宗850年を迎えることを機に、開祖である法然による浄土宗の立教開宗から、弟子たちによる諸派の創設と教義の確立、徳川将軍家の帰依(きえ)によって大きく発展を遂げるまでの浄土宗850年におよぶ歴史を、全国の浄土宗諸寺院等が所蔵する国宝や重要文化財を含む貴重な名宝によってたどるものとなっています。

いろいろとバタバタしていたら、いつの間にか前期日程が終了してしまってしまっていたため、個人的にお目当てだった



《阿弥陀如来二十五菩薩来迎図(早来迎)》(鎌倉時代・14世紀、京都・知恩院蔵・国宝)や



《綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら》(奈良時代・8世紀、奈良・當麻寺蔵、国宝)といった貴重な名宝を見逃してしまいました。やはり、会期のチェックはきちんとしないといけません…。

それでも、今回の展覧会での収穫は



こちらの《阿弥陀如来立像》(鎌倉時代・建暦2(1212)年、浄土宗蔵、重要文化財)を観られたことでした。この御像は法然の一周忌に向けて弟子や信徒から浄財を集めて作られたもので、鎌倉時代を代表する仏師快慶による、俗に『安阿弥様』と称される仏像の特徴が見て取れるものです。

写真で見ると目に嵌め込まれた玉眼がギラギラした感じに見えてしまいますが、実際には



上からの照明に照らされて玉眼がそこまでギラギラせず、安心して観ていられました。こうしたことも、実際に観に来てみないと分からないことです。

他には



《法然上人絵伝》(鎌倉時代・14世紀、京都・知恩寺蔵、国宝)も展示されていました。かなり長大な絵巻物なので期間ごとに展示する場面を変えているそうなのですが、私が今日観た時にはちょうど上の法然上人の入滅の場面が開かれていて、釈尊の涅槃の如く頭を北に、顔を西に向けて念仏を唱えながら阿弥陀如来等の来迎を受ける場面は感動的でした。

他にも様々な書画が展示されていたのですが、圧巻だったのが香川県高松市の法然寺にある《仏涅槃群像》(江戸時代・17世紀)でした。これは、かの徳川光圀(1628〜1701)の兄で高松藩初代藩主であった松平頼重(1622〜1695)が、かつて法然が弟子の不始末の責任を被って流罪にされた寺を移築して寛文8(1668)年から3年の月日をかけて造営した寺で、《仏涅槃群像》はそこの三仏堂内にあります。

仏涅槃は釈迦の入滅の場面を描いたもので、よく見られるのは



こうした大きな掛け軸状の絵画ですが、法然寺の仏涅槃は



それを立体的に彫像で表しているのです。昔から『京(嵯峨・清凉寺)の立ち釈迦、讃岐(髙松・法然寺)の寝釈迦』と言われて知られていたようですが、今回は全82軀の中から26軀が展示されています。

ここは写真撮影が許されたスペースだったので、お言葉に甘えて撮影させていただきました。会場に入ると、



正に今釈尊が涅槃に入った瞬間の様子が広がっています。



横たわる釈尊の側では





弟子たちや





阿修羅をはじめとした八部衆と呼ばれる守護神たちが嘆き悲しむ姿が表されています。

仏涅槃図では動物たちが嘆き悲しむ姿が描かれますが、こちらでも





様々な動物たちが登場しています。白象や獅子、兎や亀や猿やコウモリまでもが釈尊の死を嘆き悲しんでいます。

それでちょっと面白いのが、コウモリの後ろに



カタツムリがいたのです。このカタツムリ、木像ながら触覚や腹足のうねりなどがかなりリアルに作られていて、ほとんどの人がこの姿を写真に収めていました。

そして、反対側の動物グループの中に



ハチワレ猫が鎮座していたのです。他の動物たちが釈尊の方を向いて悲しみの表情を見せている中、このニャンコだけは

「わしゃ聞こえまへん…」

と言わんばかりに明後日の方向を向いて座っているのが如何にも気ままな猫らしく、見かけた人たちも思わず笑ってしまっていました。

お目当ての国宝は見られませんでしたが、



限定の《阿弥陀如来二十五菩薩来迎図》のクリアファイルはGETできたので、今回はこれで納得させることにしました。今度は、会期中の展示替え内容をしっかりとチェックしてから出かけるようにします…。

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担任不在2日目の支援級勤務と『コーヒーフロート』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年05月22日 18時20分55秒 | カフェ
今日は、支援級担任不在2日目でした。

昨日の自立活動でアイロンビーズをさせましたが、今日の自立活動では6月のカレンダーを作らせました。タブレットを使って6月をイメージする画像を検索してそれぞれ思い描く6月の絵を描き、カレンダー部分に曜日と日付を記入させたのですが、カエルを描く子やカタツムリを描く子、中には大量の傘の花を描いた子もいて、なかなか個性が爆発していました。

その後は算数や国語のプリントをさせたのですが、同じ学年でも習熟度が違うため、漢字や計算ができる子と分からない子とでどうしても差が出てしまいます。そして、できないことに苛ついて床を踏み鳴らしたり騒いだりするので、その都度場所を移動して落ち着かせ、クールダウンをはかることも仕事となります。

今日は一人一人と個別に対応したこともあってか、想定していたよりも騒ぎ立てる子はいませんでした。むしろ大人しく私の話を聞いてくれたくらいで、内心ホッとしました。

本来ならば支援級主任も様子を見に来るはずだったのですが実際には殆ど姿を現すこともなく、ほぼ私たち個別支援員で授業を回すこととなりました。もっとも、主任の情緒クラスにはかなり粗暴な子が揃っているので、他のクラスの面倒を見るどころではない…というのが本音だったでしょう。

昨日と今日とで大きな騒動もなく、何とか無事に全日程を終えることができました。そして、子どもたちを下校させて後片付けを済ませてから横浜あざみ野の音楽教室に移動して、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日はとにかく冷たいもの!と思っていたので、



久しぶりにコーヒーフロートをオーダーすることにしました。よほど私が疲れた顔をしていたのか、ただでさえ盛り盛りのアイスクリームがいつも以上に盛り盛りに見えたのは、恐らく気のせいではないと思います(笑)。

明日は一日休みにしました。なので、ちょっと遠出しようと思います。

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こだわり強めのアイロンビーズ

2024年05月21日 17時50分25秒 | 工作
今日と明日は5年生が宿泊学習に行っていていません。そして、その引率で支援級の担任も明日までいません。

というわけで、先週に引き続きまたしても私が留守居役を仰せつかりました。果たして私のことを信用していただいているのか、それとも、ただいいように使われているだけなのか…。

今日は、自立活動の時間というものがありました。これは様々な作業をさせることて子どもたちの集中力を養うプログラムですが、今回は



アイロンビーズで簡単な作品を作らせることにしました。

ご存知の方もあろうかと思いますが、アイロンビーズは箱の中にあるプラスティックの筒状ビーズを、図案を基にしてトゲトゲのついた板の上に並べます。そしてパラフィン紙を敷いた上からアイロンで加熱するとビーズが少し溶けて互いにくっつき、



このような作品が出来上がります。

予め、1時間分の枠しかないことを子どもたちに告げて簡単なものを作るように指示したのですが、中学年だったこともあって凝ったものを作ろうとする子が多く見受けられました。おまけに拘りが強い子たちなので細部の仕上がりにまで目を光らせていたため、とても時間内に出来上がるものではありませんでした…。

担任がいないことで浮足立っていた子どもたちでしたが、今日は特に大きな事件もなく終えることができました。子どもたちを下校させた後でどっと疲れが出ましたが、明日も担任がいないため油断してはいられません…。

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いつ咲いたかはしらんけど

2024年05月20日 17時35分17秒 | 
朝のうち降っていた雨は昼前に上がり、午後からは薄日の差す瞬間もありました。そんな中、私は明日からの小学校勤務に備えていろいろと準備をしていました。

ところで、今日外に出てみたら自宅の敷地内の一角に



いつの間にか紫蘭の花が咲いていました。去年はこんなところに何の花も咲いていなかったのですが、いつの間に咲いたのか…。

紫蘭という花は文字通り蘭の仲間で、基本的に球根で増えていく植物です。しかし調べてみると、どうやら紫蘭は種子でも増やせるらしいので、もしかしたら鳥か何かが種子をここまで運んできたのかも知れません。

これを期に、毎年ここで花を咲かせてくれることになるのでしょうか。

知らんけど。

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余韻が魅力!小田原御殿風鈴

2024年05月19日 17時18分19秒 | 日記
今日は日差しがない分、昨日より涼しく感じられました。そこで、今日はこの涼しさを活かして部屋の『中掃除』をしました。

年末にやる大掃除もいいのですが、一年溜まったホコリを一気に片づけるより半年に一度中掃除をした方が楽なことに、数年前に気づきました。それからは陽気のいい暇な日に、ちょっと気合の入った中掃除をしています。

そして、衣替えは済ませているのですがついでに夏仕様にしてみようということで、



小田原御殿風鈴を出してみました。これは昨年購入したものですが、銅と錫(すず)の合金である砂張(さはり)で出来ている風鈴で、余韻が長いことが特徴です。

何回かスマホで録音してみたのですが、あの魅力的な余韻を録るには至りませんでした。なので、湘南ベルマーレフットサルクラブの選手が製造元である柏木美術鋳物研究所を取材した動画を転載してみましたので御覧ください。


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今日はマーラーの祥月命日〜性格が垣間見える自筆譜ーアバド指揮による『アダージェット』

2024年05月18日 16時50分15秒 | 音楽
今日の日中は、かなりの暑さとなりました。日陰に入ると風は涼しいのですが、まだ5月なのにこの暑さは堪りません…。

ところで、今日5月18日はマーラーの祥月命日です。



グスタフ・マーラー(1860〜1911)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家・指揮者で、交響曲と歌曲の大家として知られています。

1907年(47歳)12月、マーラーはニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれてウィーンから渡米して《交響曲第8番変ホ長調》(千人の交響曲)を完成させましたが、翌1908年5月にはウィーンへ戻りました。そしてトーブラッハ(旧オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)で《交響曲『大地の歌』》を仕上げ、秋に再度渡米しました。

1909年(49歳)にはニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となりますが、春にまたヨーロッパに帰ることとなりました。夏にトーブラッハで《交響曲第9番ニ長調》に着手して約2カ月で完成させた後、10月には再び渡米して旺盛な指揮活動を続けていました。

1910年8月(50歳)、マーラーは自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受けることを決意しました。18歳年下の妻アルマが自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていましたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、そこからは劇的な改善をみるようになっていきました。

マーラーは、かつて作曲家だった妻アルマの作品を世に出すことを固く禁じていましたが、ここへきてようやく彼女の作品出版を勧めるようになりました。同年9月12日にはミュンヘンで《交響曲第8番》を自らの指揮で初演し、成功を収めました。

1910年冬からの演奏会シーズンもニューヨーク・フィルハーモニックで精力的に演奏会活動を続けていたマーラーでしたが、冬に咽喉炎を患い、翌1911年2月(50歳)に発熱もしました。医師の見立てで連鎖球菌による感染性心内膜炎と診断されたマーラーはパリで治療を受けましたが回復の見込みが立たず。最終的に病躯をおしてウィーンに戻ることとなりました。

そして、51歳の誕生日の6週間前だった5月18日の暴風雨の夜、マーラーはこの世を去りました。遺骸はウィーン郊外のグリンツィング墓地に埋葬されましたが、

「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」

という生前のマーラー自身の考えを反映して、



墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていません。

さて、そんなマーラーの祥月命日にご紹介するのは《交響曲第5番嬰ハ短調》より『アダージェット』です。

《交響曲第5番嬰ハ短調》は、マーラーが1902年に完成させた交響曲で、5つの楽章からなっています。マーラーの作曲活動の中期を代表する作品に位置づけられるとともに、作曲された時期はウィーン時代の絶頂期とも見られる期間に当たっている作品です。

『アダージェット』はこの交響曲の第4楽章に相当する曲で弦楽合奏とハープのみで演奏され、壮大な規模の第3楽章とフィナーレである第5楽章との架け橋となる間奏曲のような立ち位置の音楽です。自筆譜を見てみると



長く歌う弦楽合奏の間をハープが印象的に分散和音を奏でていきますが、神経質なまでの几帳面さで音符ひとつひとつが書かれているのが分かります。

この第4楽章『アダージェット』は、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画『ヴェニスに死す』で使われたことで、後のマーラーブームの火付け役を果たしました。また



この曲を筆頭にして1995年に発売されたヘルベルト・フォン・カラヤンのコンピレーションアルバム『アダージョ・カラヤン』が全世界で500万部以上を売り上げたことで、この『アダージェット』は今やマーラー音楽の代名詞的存在ともなっています。

そんなわけで、今日はマーラーの《交響曲第5番嬰ハ短調》より第4楽章『アダージェット』をお聴きいただきたいと思います。クラウディオ・アバド指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団の演奏で、ヴィスコンティ監督や帝王カラヤンをも魅了したマーラーの名作をお楽しみください。


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再認識したポテンシャル

2024年05月17日 18時50分18秒 | 工作
今日は疲れました…。

今日は中学年が遠足で朝から出かけていたため、私が久しぶりに支援級の留守居役を仰せつかりました。私は、ただの個別学習支援員のはずなのですが…。

その中で、支援級の図工の時間がありました。そこで



紙粘土と小粒の磁石を使って、家の冷蔵庫等にくっつけられるマグネットを作ることになりました。

紙粘土で形を作って柔らかいうちに裏側に磁石を埋め込み、水彩絵の具で着色して作りましたが、ここで制作をサポートしていた時に紙粘土のポテンシャルの高さを再認識しました。何しろ加工しやすく、油粘土のような臭いもせず、絵の具を塗ったり混ぜ込んだりすれば鮮やかに染まり、完成品を風通しの良い場所に置いておけば翌日には硬化してくれるのです。

子どもたちのサポートをしておきながら、私がハマりそうな予感がしてしまいました。あまり趣味の幅を広げ過ぎないように、気をつけないと…。

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