共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

ハイドン《交響曲第45番嬰ヘ短調『告別』》

2024年09月14日 18時28分39秒 | 音楽
昨日の涙のお別れから一夜明けましたが、まだ何となく気分を引きずってしまっているようです。折角の連休の始めにこれではイカん!ということで、今日は音楽を聴いて気晴らしをすることにしました。

いろいろと聴いていたのですが、その中で今日は



やはりハイドン先生にご登場ねがう率が高くなりました。そんな中から、今回は《交響曲第45番 嬰ヘ短調》を取り上げてみようと思います。

《交響曲第45番 嬰ヘ短調》は、ハイドンが1772年に作曲した交響曲です。『告別』の愛称で知られるこの交響曲はいわゆるハイドンの「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)期」の作品の一つで、ハイドンの交響曲全体の中でも人気のある作品のひとつです。

この曲は嬰ヘ短調という、18世紀の交響曲にはほかに見ない調性で書かれていて、第3楽章と終楽章ではさらに嬰ヘ長調(嬰音(シャープ)記号が6つ)になります。有名な終楽章を除いても、第1楽章の激しいリズムや展開部に突然出現する新しい主題、第2楽章の半音階的な進行など、ハイドンの創意が随所にあふれています。

この曲で一番問題になるのが、唯一の移調楽器であるホルンです。

第1楽章と第4楽章のホルンは、1本がA管(ラ)、もう1本がE管(ミ)を、長調の第2楽章では2本のA管を使用していますが、第3楽章では何と2本の『Fis管(ファ#)』ホルンを使用しています。実はハイドンはこの曲と同じく特殊な調性で書かれた第46番とこの曲の2曲のためにホルン用の替え管を特注していて、ハイドン自身による1772年10月22日付けのホルン製造会社宛ての支払書が残されています。

『告別』の愛称はハイドンの自筆譜には見えず、他の18世紀の資料にも見えませんが、19世紀初めから広く使われるようになりました。19世紀初めに書かれたハイドンの伝記の逸話によると、


「エステルハージ家の夏の離宮エステルハーザでの滞在期間が予想以上に長引いたため、大抵の楽団員がアイゼンシュタットの家族の元に帰りたがっていた。このため、ハイドンは終楽章で巧みにエステルハージ侯ミクローシュに楽団員の帰宅を認めるように訴えた。」

「終楽章後半のアダージョで、演奏者は1人ずつ演奏をやめ、蝋燭の火を吹き消して交互に立ち去って行き、最後に左手に、弱音器をつけた2人のヴァイオリン奏者(ハイドン自身とコンサートマスター)のみが取り残される。エステルハージ侯は明らかにメッセージを汲み取り、初演の翌日に宮廷はアイゼンシュタットに戻された。」


とありますが、この逸話を裏付けるような証拠は何も残されていません。

それでも、終楽章で一人、また一人と舞台から消えていく奏者たちを見ていると、こうした逸話が生まれてもちっともおかしくありません。そしてもし逸話が本当なら、『帰りたい』という楽団員たちの思いを嘆願や書面ではなく、音楽で表したハイドンのセンスには脱帽です。

そんなわけで、今日はハイドンの《交響曲第45番嬰ヘ短調『告別』》をお聴きいただきたいと思います。コンラード・ファン・アルフェン指揮によるシンフォニア・ロッテルダムの演奏で、シャレの効いたハイドンのメッセージを聴き取ってみてください。


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元気でいてね…

2024年09月13日 18時20分18秒 | 日記
今日、勤務先の小学校の一人の子が引っ越すことになり、学校を去っていきました。この子は支援級ではなく通常級の子なのですが、交流授業のサポートのために私が付いていった頃から仲良くなり、教室や廊下で会う度に

「先生!」

と挨拶してくれる人懐っこい子でした。

今回かなり遠くに引っ越してしまうということで、告げられた時には正直驚きました。それでも、聞くところによると父方の親族が多くいる地域への引っ越しで、いきなり知らない人だらけになってしまうようなことはないそうなので、そこだけは安心できます。

クラス担任やクラスメイトたちはいろいろなサプライズを用意していて、本人も喜んでいました。最後に大きな声で校歌を歌ったのですが、分からないように必死になりながら涙を堪えている子もチラホラ見受けられました。

そして帰りの会が終わって、いよいよこれでお別れ…という時に、またしてもサプライズがありました。同学年の子たち全員が廊下の両側に並んで、即席のアーチを作ったのです。

そこに音楽担当の先生が、5年生の音楽の教科書に載っている《Believe》をかけたのです。



これには私もグッときつつも何とか堪えた…と思ったのですが、年若いクラス担任の男性教諭が子どもたちに見つからないようにそっと涙を拭っている姿を見てしまい、ダメでした…。

最後の最後、昇降口から外へ出ていく姿を陰ながら見守っていたのですが、そこでその子と目があってしまったのです。

『あちゃ〜…』

と思ったのですが、その子が

「先生〜!ありがとうございました〜!」

と叫んで、あらん限りの力で手を振ってくれたので

「元気でな〜!!」

と声をかけることができました。

あとで聞いたところによると、私が物陰から見ていることを支援級の子がその子に教えていたようでした。本来、私のような立場の者は日陰の存在でなければならず、担任よりも出しゃばってはいけないのですが、今回は担任も私とその子の関係性を知っていてくれたので、感動的なお別れをさせていただきました。

数日前、その子は

「できればこの小学校でみんなと卒業式をしたかった。」

と言っていました。それは叶わぬこととなりましたが、新天地での生活が幸多からんことを願って止みません。

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歌詞に『小田原』が明記!《お猿のかごや》

2024年09月12日 17時55分17秒 | 音楽
今日は、勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室がありました。夏休み明け初回ということもあってか参加人数は少なめでしたが、出席した子どもたちは元気いっぱいでした。

宿題や工作をしてから、私が担当する歌のコーナーになりました。今月は《お猿のかごや》を歌わせることにしました。

この歌には『小田原提灯ぶらさげて』という歌詞がありますが、歌詞に『小田原』の名が明記されている歌は滅多にありません。ましてや地名が明記されつつここまで有名な歌は、他に見当たりません。

小田原提灯は、江戸時代中頃から小田原で作られるようになった円筒形の提灯です。JR東日本小田原駅の改札口には、


巨大な小田原提灯が提げられています。

本当は小田原提灯の実物を持って子どもたちに見せようと思っていたのですが、学校に着いてカバンを開けてみたら…

『…ない?』

そう、見事に家に忘れてきました(汗)。なので、敢えなく来週に持ち越しとなりました。

それにしても、日本人なら殆どが知っている歌が小田原から生まれているということに、改めて驚かされます。他県からの移住者たる私からしたら、羨ましい限りです。

特に低学年の子どもたちは今ひとつピンときていない様子でしたが、これからも

「小田原って、こんなに文化的環境が豊かな場所なんだ」

ということを伝えていこうと思っています。

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クタクタ勤務からの『みるくぷりん』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年09月11日 18時50分45秒 | カフェ
今日の支援級勤務で、先生ちょっと怒っちゃいました。

支援級の子どもたちたいうのは基本的に『空気が読めない』ではなく『空気を読まない』子が多いのですが、その中でも群を抜いてKYな女子がいます。 その子が今日、担任に向かって吐いた暴言が聞き捨てならなかったため、説教すべく

「ちょっとこっちにおいでなさい」

と呼び寄せました。

そこで攻撃の矛先を私にすり替えてガタガタ言ってきたのですが、

ゴチャゴチャ言ってないでいらっしゃい!」

と、久しぶりにカミナリを落としました。その子が間髪入れずに泣きわめき出したので担任は慌てていたのですが、私はその泣きが虚偽であることを見抜いていたので、構わずに別室に引っ立ててみっちりとお説教をしました。

最終的には号泣しながら担任に

「ごべんなざぁぁいぃぃぃ…」

と謝っていましたが、そのことで子どもたちが下校した後で何故か支援級主任が出っぱらかってきて私に

「ちょっとあのやり方は…」

と苦言を呈してきたのです。どうやら私のやり方が◯ワハラだと言いたかったようでしたが、

「子どもに保身のための嘘泣きを覚えさせるのが『教育』なら、この学校は既に破綻しています。」

と言って、如何に支援級の子どもたちの何人かが大人たちをみくびった狡猾な根性の持ち主であるかを徹底的に反論させてもらいました。

日本の教育現場は、いつの頃からか子どもたちや保護者たちに対して『忖度』しながらビクついてしまっています。そうした学校側の『忖度』を今の子どもたちは敏感に感じ取って、学校の先生に対して平気で『お子様風』を吹かせるようになってしまっているのです。

勿論、◯ワハラは容認すべきではありません。それは論を待たないところですが、だからといって何でもかんでも子どもたちの都合の良いように『忖度』するのは間違っていますし、『違うことは違う』『いけないことはいけない』と言えない教育機関など論外です。

そんな無駄な労力を使ってすっかり疲弊してしまった心身を抱えたまま、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は、先週登場していた『桃のミニパフェ』に替わって登場していた



『みるくぷりん』をオーダーすることにしました。昨年の11月にも登場していたメニューが、再びの登場となりました。

昨年はキャラメルソースやベリーソースがありましたが、今回は



桃のソースでいただきました。優しい甘さのみるくぷりんと、自家製の桃のソースとの相性は抜群です。

『桃のミニパフェ』は残念ながら終了してしまいましたが、こちらはしばらくは続くようですので、また違うソースでオーダーしてみようと思います。

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何がしたくて『特定』なんか…

2024年09月10日 17時30分25秒 | 日記
今日は、夏休みが明けてから最初の放課後子ども教室のある日でした。子どもたちは元気いっぱいに参加していて、中には元気があり余り過ぎて先生に叱られていた子もいました(汗)。

ところで、放課後子ども教室の大人たちは全員



首からネームプレートを提げているのですが、今日その中身を取り替える作業がありました。それまでは漢字で学校名と個人名がフルネームが書かれ、そこにルビが振ってあるものだったのですが、新しく『放課後子ども教室スタッフ』という文言と、ひらがなで苗字のみが書かれたものに変更となったのです。

なんでまたこんなタイミングで…と思ったのですが、小田原ではないどこかの自治体で写真に写ったスタッフのネームプレートの名前から個人を特定して不当に拡散されるという事件があったのだそうで、それを受けて一斉取り替えとなったとのことでした。いやはや、なんとも恐ろしい世の中になったものです。

私は2つの学校の放課後子ども教室を兼務していますが、学校名が伏せられたことで一つのネームプレートでどちらでも付けられるようになりました。それがよかったのか悪かったのかは、私にも分かりません…。

今日も子どもたちから

「時間が短い!」

と文句を言われてしまいました。今年度から素っ頓狂な時間帯を設定した教育総務課と、それにまんまと乗っかった学校とが、本当に恨めしいばかりです…。

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今日はエリック・サティ処女作《アレグロ》が発表された日〜ジャン=イヴ・ティボーデのピアノで

2024年09月09日 17時35分25秒 | 音楽
9月に入って1週間が過ぎましたが、まだまだ日中は暑い日が続いています。こう暑いと、そろそろ『残暑』という日本語が死語になりそうです…。

ところで、今日は『重陽の節句』ですが、それとは違う話をしようと思います。今日9月9日は、



エリック・サティの処女作 《アレグロ》が作曲された日です。

『音楽界の異端児』と呼ばれる一方で、作曲家としては『現代音楽のルーツ』とも称されているサティは、後世に多大な影響を及ぼしました。同世代の音楽家であるドビュッシーやラヴェルたちも

「現代の多くの作曲技法はサティによって決定づけられたものだ」

と公言しています。

パリ音楽院の学生時代のサティは、『学校始まって以来の怠惰な生徒』という最低の評価でした。優等生ではなく落第生というレッテルを貼られていたサティでしたが、その後『音楽界の異端児』と呼ばれる所以を発揮することになります。

西洋音楽の常識だった調性音楽、いわゆる『ドレミファソラシド』のあり方に問題意識を持っていたサティは、当時、入り浸っていた教会の影響もあって、自作に教会旋法を取り入れるようになりました。グレゴリオ聖歌に代表される厳かで不安定な印象を与える教会旋法に魅了されたサティは、それまでの伝統を無視し、タブーとされていた不協和音をも取り入れ、既存の音楽の概念を壊していきました。

また、それまで意識的に聴く『鑑賞用』として作られてきた音楽を、意識的に聴かれることなく生活に溶け込む音楽として『家具の音楽』と称する曲を多数発表することとなりました。1888年に発表した《3つのジムノペディ》に代表されるような、主役にはならず、まるで家具のように日常生活を妨げない音楽を作っていったのです。

そんなサティの処女作である《アレグロ》は、



このたった9小節のピアノ作品です。これを作曲家の処女作として提出されたら

「ふざけてるのか!」

と怒られるか呆れられるかでしょうが、よく聴くと、この9小節の中に後のサティ作品を匂わせる要素が詰まっていることに気づかされます。

そんなわけで今日はサティの処女作《アレグロ》を、フランス・リヨン出身のピアニストのジャン=イヴ・ティボーデの演奏でお聴きいただきたいと思います。20秒ほどで終わってしまうので、くれぐれも油断なさらないようお気をつけください(笑)。


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今日はドヴォルザークの誕生日〜幸せに満ち溢れた《弦楽セレナーデ ホ長調》

2024年09月08日 18時18分18秒 | スピリチュアル
昨日よりも雲の多い空模様でしたが、それでも日中は暑くなりました。朝晩の秋めいた感じが長続きしないのが、なんとも言えず残念です。

ところで、今日9月8日はドヴォルザークの誕生日です。



アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(1841〜1904)は後期ロマン派に位置する、チェコ国民楽派を代表する作曲家です。日本語ではドヴォルザークと表記されることが多いですが、最近では現地チェコ語の発音により近い

アントニン・ドヴォルジャーク
アントニン・ドヴォルジャック
アントニン・ドヴォジャーク

という表記も用いられています。

ドヴォルザークの来歴等についてはこれまでにもいろいろと書いてきたので、今回は割愛します。それで、今回ご紹介するのは《弦楽セレナーデ ホ長調》です。

《弦楽セレナーデ ホ長調》は、ドヴォルザークが33歳だった1875年5月に、11日間という短い期間で一気に書き上げられた作品です。チャイコフスキーやエルガーがそれぞれ作曲した弦楽セレナーデと合わせて、『三大弦楽セレナーデ』の一つとして数えられることもあります。

ドヴォルザークはこの曲を書く2年前の1873年に初恋の相手だった女性の妹と結婚していましたし、作曲に着手する2か月前にはブラームスや音楽評論家ハンスリックらが審査員を務めるオーストリア政府奨学金の審査に合格して当時の自身の年収の倍を超える額の奨学金を5年間にわたって受給することが決まっていました。当面の生活の安定が約束された状況下で作曲に打ち込むことが出来るという幸福感からこの作品を書き上げているためか、明るく穏やかな空気が作品全体に流れています。

《弦楽セレナーデ ホ長調》の初演は作曲の翌年の1876年に、プラハ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏により行われました。

第1楽章はモデラート、ホ長調。



ヴィオラが刻み続けるさざ波のような8分音符のリズムに乗って、第2ヴァイオリンとチェロが抒情的な主要主題を歌い出します。第1ヴァイオリンが舞い上がるような対旋律を歌い出す中、第2ヴァイオリンが広い音域の中を動き回って旋律主題を歌い継いで行きます。

中間部でト長調へと転調すると、



付点リズムが特徴的な舞曲風の主題が現れます。そして



ホ長調の主要主題に戻り、



そのままホ長調の主和音で平和に終わります。

第2楽章はテンポ・ディ・ヴァルス(ワルツのテンポで)、嬰ハ短調。



揺れ動くような舞曲(ワルツ)の旋律に始まり、第2主題の後半では、



付点リズムが特徴的な旋律も現れます。第1主題が再帰すると、第1部の締めくくりのカデンツでは、



嬰ハ短調の主和音のフォルティッシモで締められます。

第2部は、



嬰ハ長調の異名同音音階である変ニ長調に転調します(ド#=レ♭という平均律ならではの理屈です)。この楽節の主題が一通り展開された後、第1部が再現され、最後は嬰ハ長調の和音で終止します。

第3楽章はスケルツォ、ヴィヴァーチェ、ヘ長調。

通常こうした作品にはワルツかスケルツォかどちらかが登場しますが、ドヴォルザークの弦楽セレナーデではなんと両方とも登場します。舞曲が2つというのもなかなか斬新ですが、そうしたくなるくらい作曲当時のドヴォルザークは心弾んでいたのかも知れません。



カノンの技法を用いたスケルツォ主題が呈示されると、すぐさま様々な楽節や雰囲気のうちに展開されます。中間部は



イ長調のトリオへとなります。

全曲で最も単主題的な楽章であり、トリオの結びにおいてもスケルツォ主題が再帰しています。その後スケルツォ主題が再現され、コーダにもスケルツォ主題が現れて締め括られます。

第4楽章はラルゲット、イ長調。



静けさと憧れに満ちた緩徐楽章です。この楽章の流れるような旋律と甘美なフレーズは、精力的な第3楽章とこの後の第5楽章との間奏曲的な役割を果たしています。

第5楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェ、
弱起の活き活きとしたフィナーレです。



カノン風の下降音型の導入部に始まり、付点リズムが特徴的な第1主題が続いた後、ヴィオラの八分音符の刻みに乗って第2主題が現れます。それから、忙しないヴィオラの16分音符の走句にあわせてヴァイオリンとチェロがカノン風に呈示と応答によって、ロ長調の第3の主題を呈示します。

終盤で徐々に速度を落としていくと



第1楽章の主要主題が回想され、あたかも始まったときに立ち返って、静けさと平和のうちに終わるかに見せかけます。

ところが…



いきなり『プレスト』と指示された急速なコーダとなって楽章の導入主題が再び現れ、



賑々しい性格のままホ長調の主和音を3度鳴らして作品全体を閉じます。

終楽章のコーダのところで第1楽章の初めに登場した旋律が再び現れる点は、チャイコフスキーが作曲した《弦楽セレナード 作品48》と共通するところです。しかし、2つの弦楽セレナーデには大きな違いがあります。

チャイコフスキーのセレナーデは甘く派手なメロディーで、宮殿の舞踏会でドレスをまとって踊るが如き優雅なリズムで書かれてます。対してドヴォルザークのセレナーデは地味で渋く哀愁の漂う味わい深さを帯びるメロディーで、爽やかな青空の下で民族衣装をまとった田舎の人々が軽快に踊るが如くのリズムで書かれているといわれています。

そんなわけで、ドヴォルザークの誕生日である今日は《弦楽セレナーデホ長調》をお聴きいただきたいと思います。パーヴォ・ヤルヴィ指揮によるチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏で、短調部分ですら喜びに満ちた弦楽セレナーデの名作をお楽しみください。


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謎の『F管トランペット』が大活躍!華やかな《ブランデンブルク協奏曲 第2番 ヘ長調》

2024年09月07日 18時15分00秒 | 音楽
今週は本格的に小学校勤務がスタートして、いろいろなことがありました。そして、夏休み中に鈍っていた感覚を子どもたちだけでなく大人たちも取り戻さなければならず、ものすごくつかれました。

こういう週末には、とにかく休養して心身をリセットするのが一番です。ということで、今日は自宅で音楽を聴きなから静かに過ごしていました。

何となく気分をスッキリさせるために、



今日もバッハの《ブランデンブルク協奏曲》のレコードを聴いていました。そんな《ブランデンブルク協奏曲》の中から、今回は第2番をご紹介しようと思います。

前回ご紹介した第6番もなかなかですが、《ブランデンブルグ協奏曲 第2番》の楽器編成は、これまた他に類をみないものです。楽器編成は

【ソロ楽器】
F管高音トランペット・オーボエ・リコーダー・ヴァイオリン
【合奏】
ヴァイオリン I・ヴァイオリン II・ヴィオラ・通奏低音(チェロ・ヴィオローネ・チェンバロなど)

となっています。

《ブランデンブルク協奏曲 第2番》は4つの独奏楽器と弦楽合奏による協奏曲ですが、先日ご紹介した第6番と正反対に編成が高音楽器に偏っています。しかもこの曲の最低音楽器であるヴィオローネは標準サイズの8フィートの楽器を使いますから、いまひとつ低音感がありません。

4つの独奏楽器群の中でも、とりわけ無理難題を強いられるのはトランペットです。

当時のトランペットは



金管を丸めただけでヴァルヴの無いナチュラル・トランペットです。この楽器は自然倍音の中にある音を出すので、専門的に言うとその倍音プラスα以上の音が出せる奏者でないと、この曲を吹くことはできません。

バッハの要求は更に厳しく、そんなトランペットに超高音を吹かせておいて、



尚且つヴァイオリンのように速いパッセージをどんどん演奏させています。実際この曲のトランペットパートは、オーボエ・リコーダー・ヴァイオリンと同じ旋律をフーガでリレーして吹きこなさなければならないように作曲されています。

ナチュラル・トランペットでの演奏は勿論至難ですが、だからといって機能的に勝るモダン・トランペットでも容易く吹ける曲ではありません。それどころか、



高音域専用のピッコロトランペットが登場した1950年代以前は、この曲は実質『演奏不可能』な作品でした。

ここでひとつ問題になるのが、

「そもそもこの曲には本当に『F管トランペット』なるものが用いられたのか?」

ということです。確かに、



楽譜の一番上には『Tromba(イタリア語でトランペット)』と書いてありますが、本当にそうなのでしょうか。

これまでに『F管高音トランペット』なるものの実器は、ヨーロッパのどの地域でも見つかっていないそうです。だとするとこのF管トランペットは、第6番の超低音ヴィオローネのように『かつてあったはずのニッチな楽器』なのでしょうか。

これに関して私見を述べるならば、2つの可能性が考えられると思います。先ず第一には『F管トランペットという楽器が必要ということはなかった』ということです。

今でこそチューニングのピッチはA=440~445Hz と全世界で定められていますが、これは20世紀に入ってからのことで、それ以前は実はコンサート・ピッチというものは明確に定まっていませんでした。それまでピッチは地域によりけりで、18世紀当時だとフランス・ヴェルサイユの392Hz(ほぼ現在のソ)から北ドイツの496Hz(ほぼ現在のシ)まで様々なピッチが存在していて、その差は最大で約2全音分もの大きな開きがあります。

こうしたチューニング事情は19世紀に入ってからも続いていて、かつてブラームスがピアニストとして地方に演奏旅行に行った時に、現地のピアノが想定より1音低くチューニングされていたことがありました。同行していたヴァイオリニストは激怒して演奏会をキャンセルしようとしたものの、ブラームスがその場の機転で全ての音を1音上げて演奏して喝采を受けた…という逸話がありますが、言い方は悪いですがそのくらい当時のヨーロッパのチューニング事情というのはいい加減だったのです。

話をバッハに戻しますが、当時の管楽器奏者はそうした幅広いチューニング事情を汲んで、様々な場所で演奏するために替えの楽器や替えの管をいくつも携帯していました。例えば496Hzの北ドイツでD管として用いられたトランペットを415Hzの地方に持っていけば実質2度高いF管として響くため結果的にはD管がF管に化けることになるので、特別に『F管』と名のつくトランペットがなくてもよかったのではないか…ということです。

そんなわけで、先ずは珍しい高音域トランペットが響く《ブランデンブルク協奏曲 第2番》をお聴きいただきたいと思います。ネザーランド・バッハ・ソサエティの演奏で、先日ご紹介した渋い第6番とは対極にある華やかな音楽をお楽しみください。



さて、もう一つの私見は『実はこのパートはトランペットではなかったのではないか』ということです。何を言い出すのかと思われるかも知れませんが、もしかしたらホルンだったのではないか…という可能性も捨てきれないのです。

《ブランデンブルク協奏曲 第2番》では、



トランペットと他のソロ楽器が3度や6度のハーモニーを聴かせるところが多々出てきます。つまりトランペットパートは、オーボエやリコーダーやヴァイオリンが対等にバランスがとれる音量で吹かなければならないわけです。

ただ、オーボエやヴァイオリンはともかく、リコーダーはひとたびトランペットが華々しく響くと完全に消し飛んでしまいます。しかし、1オクターブ低く響くホルンならばリコーダーと絡んでも消し飛んでしまうということはありませんし、そもそもホルンはF管が一番一般的な楽器なので、より自然なのです。

近年ではそんな可能性を考慮した演奏もされるようになってきていますので、その一例も載せてみました。終楽章のみですが、スヴァピンガ・コンソートによるホルンバージョンでの演奏で、従来のトランペットバージョンとの響きの違いを聴き比べてみてください



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無理しなくてもいいのに…

2024年09月06日 17時35分10秒 | 音楽
今日も小学校支援級では、いろいろな出来事がありました。その中で、今日は音楽の授業中にちょっとしたことがあったのです。

中学年の音楽の授業で合奏をすることになり、支援級の子は



木琴を担当することになりました。演奏自体は小学校の教科書レベルですから大したことはないのですが、その時に





ヘッドの硬いタイプのマレットを使って演奏していたのです。

子どもというものは往々にしてそうした傾向があるものですが、特に支援級の子どもたちというのはこういうことに対して手加減ができず、思いっきりぶっ叩いてしまうのです。その結果、硬い木琴を硬いマレットで全力で叩くことになるのですが、当の本人がその打撃音に耐えられなくなってうずくまってしまったりするのです。

そういう場合、私は



マリンバ用のマレットを持っていって

「これで叩けば頭に響きませんよ。」

と渡してみます。しかし、殆どの子がこの申し出を断り、半ば意地になって硬いマレットで木琴を叩き続けるのです。

支援級の子たちは、始めに『こうだ』と教わったもの以外に応用が効かない、いわゆる『セカンドオピニオン』が効かない傾向があります。それがいいように作用すれば上手いこと学習につなげられるのですが、変な方向に作用してしまうと

『そんなこと教わってない!』

と意固地になってしまうので悩ましいのです。

結局その子は、最後まで自分の木琴の打撃音にやられっぱなしで終わってしまいました。こうなると音楽を楽しむどころではなく、心労ばかりが残ってしまうことになるのです。

こうしたことが『音楽が嫌い』につながらなければいいのですが、こればかりはその時の本人のテンションと、こちらの創意工夫にかかっています。今後もこうした場面はいくらでもあるでしょうから、自分でできる限りのことはしてみるつもりです。

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今年も登場!マクドナルドの『月見バーガー』

2024年09月05日 17時00分00秒 | グルメ
9月に入って、朝晩はかなり涼しい風が吹くようになってきました。それでも日中は相変わらず真夏日になることが多く、朝晩との気温差に注意しなければならないようになってきています。

さて、9月の個人的楽しみといえば、何と言っても



マクドナルドの『月見バーガー』です。

普段殆どマクドナルドを利用しない私ですが、この時期になるとこれが食べたくなります。要はいわゆるベーコンエッグバーガーなのですが、これに『月見』の名を冠した人は天才ではないかと思っています。

明日も小田原の小学校勤務がありますが、ここ最近体調不良を訴えて欠席したり早退したりする子どもたちが見受けられています。夏休みが終わってしまったという精神的なものなのか、或いは何か厄介なウィルス感染症でも蔓延し始めているのか分かりませんが、自身も気をつけつつ、様子を見守ろうと思います。

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桃が満載!『桃のミニパフェ』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年09月04日 18時40分20秒 | カフェ
小田原の小学校は、今日から完全通常モードに突入しました。本来なら2回くらい午前中授業をして慣らしてから通常モードになるわけですが、台風で月曜日が潰れてしまったことで慣らし日が1日しかなかったのです。

そうなったことで、支援級の子どもたちはかなりグダグダ状態になっていました。中には体調不良を訴えて早退する子まで出る始末で、決して順調な滑り出しとはいきませんでした。

そんな小学校勤務を終えてから、横浜あざみ野の音楽教室に移動しました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

9月に入って月替わりメニューも一新していましたが、今回はその中から



『桃のミニパフェ』をオーダーすることにしました。桃のジュレ、ソルベ、コンポートと正に桃満載のパフェはミニサイズながら結構なボリュームで、水出しコーヒーとの相性もなかなかのものでした。

今週はまだ放課後子ども教室が始まらないので、明日は一日フリーです。最近は凉しくなってきたこともあるので、自宅でゆっくり過ごそうと思います。

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黒板アートでスタート!

2024年09月03日 16時20分25秒 | アート
9月も3日目を迎えて、今日からようやく小田原の小中学校がスタートしました。私は先日の小田急線の盛土崩落から間もないこともあっていつもより早い電車に乗ったのですが、当該箇所では電車が徐行運転していて、まだまだ油断ならない状況であることを感じました。

小学校に到着して校長をはじめとした先生方に挨拶をして、担当の教室にむかいました。そこで見たものは、



黒板いっぱいに描かれた担任から子どもたちへの渾身の黒板アートメッセージでした。

私の勤務している小学校にはこうしたイラストに長けた先生が何人かいらしていて、毎年入学式・夏休み明け・お正月休み明け・卒業式・修了式の時になると、こうした黒板アートで子どもたちを楽しませてくれています。そのどれもが玄人はだしで、いつ見ても感心してしまいます。

他の教室にも様々なキャラクターの黒板アートが描かれていて、投稿していた子どもたちは一様に歓声を上げていました。こうしたサプライズは、やはり嬉しいものでしょう。

今日は午前中授業でしたが、明日からいきなり通常授業が始まります。午前中授業でさえも支援級の子どもたちはグダグダ状態でしたが、さて明日からどうなりますでしょうか。

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中音の魅力!バッハ《ブランデンブルク協奏曲 第6番 変ロ長調》

2024年09月02日 18時00分00秒 | 音楽
台風10号は昨日の昼頃に熱帯低気圧に変わり、今日は今までの悪天候を取り戻すかのような晴天となりました。ところが、昨日小田原市が出した決断は

『9月2日全校一斉休校』

というものでした。

この通達がメールで送られてきた16時過ぎの段階では、台風は既に熱帯低気圧になっていました。それなのにどうして一斉休校になってしまったのか甚だ疑問なのですが、とにもかくにも始業式は明日に持ち越しになってしまいました。

何だか出鼻をくじかれたような気分になってしまいましたが、こればかりはどうしようもありません。なので、今日は大人しく自宅にこもって音楽でも聴きながら過ごすことにしました。

ここ最近ハイドンが続いていましたが、今日はハイドンではなく、



バッハでいこうと思います。今日、主に聴いていたのは《ブランデンブルク協奏曲》ですが、今回は個人的にお気に入りの第6番をご紹介しようと思います。

改めて説明するまでもないかも知れませんが、《ブランデンブルグ協奏曲》は6曲のいろいろな編成とスタイルによる協奏曲を集めた曲集で、1708年から1723年にかけてバッハがケーテン公の宮廷楽長をつとめていた時代に、当地の宮廷管弦楽団のために書かれたものと考えられています。それらがまとめられて、後にブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに捧げられたので《ブランデンブルグ協奏曲》とよばれています。

ケーテン公レオポルトはたいへん音楽好きで、この時代としては比較的規模の大きな、しかも優秀な管弦楽団を抱えていました。主にこの楽団で演奏するためにバッハが存分に筆をふるった作品ですから、どの曲も独奏者には相当の腕前が要求され、音楽的にも密度の高い傑作ぞろいになっています。

《ブランデンブルク協奏曲》の最後を飾る第6番は実は一連の《ブランデンブルク協奏曲》の中では一番古く、1717年頃の作と考えられています。この曲にはヴァイオリンがおらず、高音楽器の音がしない渋い響きが特徴です。

楽器編成は

ヴィオラ・ダ・ブラッチョ✕2
チェロ✕1
(ヴァイオリン属)
ヴィオラ・ダ・ガンバ✕2
ヴィオローネ✕1
(ヴィオル属)
通奏低音(チェンバロ、オルガン等)

というように、ヴァイオリン属の楽器3部とヴィオル属の楽器3部に、鍵盤楽器などの和声楽器が即興で彩りを添えるという構造です。これだけの少人数ですので、協奏曲とはいうものの独奏と合奏の区別は殆どありません。

ヴィオラ・ダ・ガンバは、



古弦楽器の代表格ともいえるもので、ガンバはイタリア語で脚という意味(ガンバ大阪のガンバと同じ意味です)、つまりヴィオラ・ダ・ガンバは〝脚のヴィオラ〟という意味で、



両足で挟んで演奏するヴィオラということです。一方でヴィオラ・ダ・ブラッチョとは何かというと、ブラッチョはイタリア語で腕、つまり〝腕のヴィオラ〟となり、これが現在よく見るヴィオラのことです。

実は〝ヴィオラ〟というイタリア語は、元々は弦をこすって音を出す楽器の総称だったのです。ヴァイオリンも元をたどれば『こする弦楽器Viola + 小さい〜ino=Violino 』という意味で生まれたものです。

旋律は主としてヴィオラ2部とチェロが語り、ヴィオル合奏は主として和声を添える伴奏役ですが、2挺のガンバは時折メロディを担当することもあります。第2ヴィオラ・ダ・ガンバのパートは簡単に弾けるように配慮されていて、恐らくバッハ自身がヴィオラを弾き、当時のパトロンだったケーテン侯レオポルトが第2ヴィオラ・ダ・ガンバを弾いて合奏に参加していたのではないかと思われます。

第1楽章は変ロ長調、速度指定のない2/2拍子。ヴィオラのメロディは16分音符が切れ目なく演奏されたいるように聴こえますが、実際には



2挺のヴィオラが半拍ずれたカノンによってメロディを奏でるという、なかなかトリッキーなことをしています。ヴィオラ・ダ・ガンバも基本的には伴奏ですが




時折フーガや対旋律的に絡んでくることもあり、弾き応えのあるものとなっています。

第2楽章は変ホ長調、アダージョ・マ・ノン・タントの3/2拍子。




調性は♭3つの変ホ長調ですが調号は♭2つの変ロ長調のままになっていて、臨時記号を使って変ホ長調にしています。

この楽章ではヴィオラ・ダ・ガンバは完全休止で、一度も登場しません。また、ブランデンブルク協奏曲全6曲の緩徐楽章の中で唯一長調をとった曲であり、そのことも相まって魅力的なカンタービレとなっています。

第3楽章は変ロ長調、アレグロの12/8拍子。




とても軽快な曲調で、2小節目からヴィオラに登場するシンコペーションのリズムが特徴的です。ヴィオラ・ダ・ガンバも適度にメロディに絡んで、ただの伴奏ではない動きを見せています。

この楽章で謎なのが通奏低音の最後の音で、



この低音シ♭は鍵盤楽器では問題ないのですが、ヴィオローネでは通常出ない音なのです。当時最低音弦楽器だった16フィートヴィオローネでも現在使用されている5弦コントラバスでも最低音はドの音までなので、このままだと楽譜通りには演奏できないことになってしまうのです。

もしかしたらケーテンの宮廷楽団にとんでもなくニッチな低音弦楽器があったのかも知れませんが、この最低音の真相は今もって謎のままです。現在では、鍵盤楽器は楽譜通りに、ヴィオローネやコントラバスではオクターブ上げて演奏されるのが通例となっています。

そんなわけで、今日はバッハの《ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調》をお聴きいただきたいと思います。ガードナー室内管弦楽団の演奏で、スコアにト音記号が一切出てこない中音域の魅力満載の名曲をお楽しみください。


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今日はパッヘルベルの受洗日〜切々と変奏を刻む《シャコンヌ ニ短調》

2024年09月01日 15時15分15秒 | 音楽
日本列島を散々引っかき回した台風10号は、今日の昼頃に熱帯低気圧に変わりました。とりあえず明日以降の小学校授業に影響はなさそうですが、相変わらず小田急小田原線は盛土流出のため伊勢原〜秦野駅間で運転見合わせが続いています。

ところで、今日は久しぶりに誕生日シリーズをやってみようと思います。今日9月1日はパッヘルベルの受洗日です(洗礼を受けた記録のある日なので、誕生日自体は8月末頃と思われます)。



ヨハン・パッヘルベル(1653〜1706)はバロック期のドイツの作曲家であり、南ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者で、教師でもある人物です。宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作し、コラール前奏曲やフーガの発展に大きく貢献したところから、バロック中期における最も重要な作曲家の一人とされています。

パッヘルベルの音楽は、



ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616〜1667)



ヨハン・カスパール・ケルル(1627〜1693)といった南ドイツの作曲家や、



ジローラモ・フレスコバルディ(1583〜1643)などのイタリアの作曲家、さらにはフランス・ニュルンベルク楽派などの作曲家から影響を受けていたとされています。パッヘルベルの音楽はどちらかといえば技巧的ではなく、たとえば



北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデ(1637〜1707)のような大胆な和声法も用いず、旋律的・和声的な明快さを強調した明快で単純な対位法を好んで用いました。

パッヘルベルの作品は生前から人気が高かったため師事する弟子も多く、またドイツ中部・南部の多くの作曲家の手本となりました。現在ではどうしても《パッヘルベルのカノン》のみで有名になっていますが、《シャコンヌ ヘ短調》や《トッカータ ホ短調》などのオルガン曲、ブクステフーデに捧げた鍵盤楽器用の変奏曲集《アポロンの六弦琴》などが知られています。

パッヘルベルはバッハ家とも親しく交流していて、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの長兄のヨハン・クリストフ・バッハ(1671〜1721)の家庭教師をしていたこともありました。その関係でヨハン・クリストフはパッヘルベルの楽譜を沢山所持していましたが、その楽譜をヨハン・ゼバスティアン少年がこっそり写譜してパッヘルベルの二重フーガなどを会得した逸話は有名です。

パッヘルベルのことをネットで調べようとすると、どうしても《カノン》に関することがズラ〜っと出てきてしまいます。しかし、パッヘルベルの真価を問うなら、どうしてもオルガン作品を避けては通れません。

パッヘルベルのフーガやシャコンヌといったオルガン作品は決して派手なものではありませんが、内に秘めた感情を切々と歌っていく美しさに満ちています。特にその美しさを味わうことができるのが、変奏曲であるシャコンヌです。

一番有名なのは《シャコンヌ ヘ短調》ですが、今回は《シャコンヌ ニ短調》をお聴きいただきたいと思います。ベルンハルト・シュナイダーのオルガンで、バッハに多大な影響を与えたパッヘルベルのオルガン作品をお楽しみください。


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