共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日は《魔笛》の初演日〜古楽オーケストラによる序曲

2022年09月30日 18時45分18秒 | 音楽
今日も日中はカラリとした暑さの晴天となりました。真夏のようにベタつかないだけまだいいのですが、明日から10月だというのに今のところまだまだTシャツ一枚で快適に過ごせてしまっています。

ところで、今日9月30日は



モーツァルトの歌劇《魔笛》が初演された日です。

《魔笛》はモーツァルトが1791年に作曲した歌劇ですが、正確にはジングシュピール=今日でいうミュージカルのような歌芝居のかたちで書かれています(ただ、現在では一般にオペラの一種として分類されています)。モーツァルトがその生涯の最後に完成させたオペラで、現在もモーツァルトのオペラの中でも筆頭の人気を持つ作品となっています。

《魔笛》は、現在のオーストリアやドイツで活躍した俳優で台本作家であり、劇場支配人でもあったエマヌエル・シカネーダー(1751〜1812)が台本を手がけ、自らもパパゲーノ役で出演しました。シカネーダーは初演が行われたアン・デア・ウィーン劇場を設立した人物としても知られています

当時、興行主でもあったシカネーダーは仕事がなく困っていました。そこで自身が台本を書き、秘密結社フリーメイソンの会員同士で友人でもあるモーツァルトに作曲を依頼して出来たオペラが《魔笛》です。

初演は1791年9月30日に、アン・デア・ウィーン劇場で行われました。すると《魔笛》はすぐに人気を博し、モーツァルトの生前の間で100回以上の公演がうたれたと言われています。

モーツァルトの他のオペラが上流階級の劇場で公演されていたのに対して《魔笛》が公演されたのは一般市民を対象とした一座でしたので、物語はわかりやすいお伽噺になっています。しかし、一方で物語は秘密結社フリーメイソンの思想との深い繋がりも感じさせるものとなっています。

『おいらは鳥刺し』『復讐の炎は地獄のように胸に燃え』『恋人か女房がいれば』といった名曲揃いの《魔笛》ですが、今日はオペラの幕開けを告げる序曲をご紹介しようと思います。

序曲では、はじめに象徴的な和音が鳴り響いた後に夜の雰囲気を思わせる厳かなアダージョを抜けると、その後のアレグロでは一転して軽快なテーマが現れます。これは、パパゲーノの立ち回りや、その恋人パパゲーナとの愛の二重唱を思わせる、どこかコミカルなものです。

その後、劇中で王子タミーノに試練を告げる管楽器のファンファーレが鳴り響く中間部を経て再びアレグロのテーマが、はじめは変ロ短調という物哀しい調で演奏されます。しかし、程なく明るい変ホ長調の主題が戻ってきて、聴衆を賑々しくオペラの幕開けに誘います。

そんなわけで、今日は《魔笛》の幕開けを告げる序曲をお聴きいただきたいと思います。カウンターテノールのルネ・ヤーコプスの指揮、古楽オーケストラのアカデミー・フュア・アルテ・ムジーク・ベルリンの演奏でお楽しみください。


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秋の香り

2022年09月29日 17時40分17秒 | 
今日は一日曇り空だったこともあってか、日中でもかなり涼しい陽気となりました。新たに発生した台風も小笠原諸島沖を進んでいて、関東地方への直接の影響はなさそうです。

秋のお彼岸が明けて日毎に秋の気配が進んでいるのを感じていますが、外を歩いていたらどこからともなく『あの甘い香り』が漂ってきました。風に誘われて行ってみると



金木犀の花が咲いていて、辺り一面に甘い香りを放っていました。

この花が咲くと、いよいよ秋も本番になってきたことを感じます。この何とも言えない甘い香りは、正に秋の香りです。

ただ、明日から週末にかけての日中はまだ暑くなる予報が出ています。週明けに一雨降ってから一気に秋が深まるようですので、それを楽しみにしてみようと思います。

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これが最後の『グレープソーダ』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2022年09月28日 17時45分40秒 | カフェ
今日も比較的カラッとした晴天に恵まれました。ただ、体育の時間になるとさすがに暑さは否めなくなって、子どもたちもそれなりに汗をかいていました。

今日はとりたてて大きな事件も起きず、粛々と授業を終えました。そして、その足で小田急線に乗り込んで横浜あざみ野の音楽教室に移動して《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日はちょっと爽やかなものがいただきたくなったので、メニューにのっていた



『グレープソーダ』をオーダーしてみました。見た目涼しいグラスに注がれたソーダには、お店自家製のグレープシロップと葡萄の粒が色鮮やかです。

今日は



『シャインマスカットワッフル』のハーフサイズと一緒にいただきました。甘酸っぱい葡萄のソーダと葡萄のワッフルの相性は絶妙です。

ただ、マスターさんに伺ったところ、このグレープソーダはこれが最後の一杯だというのです。何でもシロップを作ること自体もなかなか大変な上にあまりオーダーされなかったらしく、週末に月が改まるのを期に早々にメニューから外すことを決定されたのだそうです。

はからずも、そんな一杯をいただけたことは嬉しい限りでした。と同時に、これだけ美味しいものがもう最後だというのとに、一抹の寂しさも感じたのでありました…。

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小学生の力作揃い!小田原提灯@小田原城址公園本丸広場

2022年09月27日 18時00分18秒 | 日記
今日も日中はそこそこ暑くなりました。今日は安倍元総理の国葬が日本武道館で挙行されたようですが、素頓狂な輩に台無しにされたりはしなかったようです。

ところで、昨日の夜テレビで日本の難攻不落の名城ランキングのような番組をやっていたのですが、その中で小田原城が第4位に喰い込んでいました。広大な総構えをはじめとした鉄壁の守りが、専門家たちから評価されたようです。

そんな番組を観た次の日でもあったので、今日は仕事帰りに小田原城址公園に立ち寄ってみることにしました。本丸広場に登ると



黄昏の空に天守閣が堂々と聳えていました。

現在、『小田原ちょうちん祭り』に向けていろいろと準備が進んでいるようですが、その一環として広場には









小田原市内の小学生たちが製作した小田原提灯が飾られていました。私も自身が勤務する小学校で作成の補助をしましたが、会場には見覚えのある作品も飾られていました。

折角なので、提灯に灯りが入るまでちょっと待ってみることにしました。そして、17時ちょっと前くらいになった時に突然大音響で音楽が流れ出したと思ったら









一斉に明かりが灯り始めました。

柔らかな明かりが広場を照らすと、あたりは幻想的な雰囲気に包まれます。個人的には子どもたちの制作過程も見ているので、感慨もひとしおです。

来月には3年ぶりに『小田原ちょうちん祭り』が開催される予定になっています。その時には、より多くの人たちに子どもたちの力作を見てもらいたいものです。

本当はもっと暗くなるまで待ってみようか…とも思ったのですが、あまり遅くまで粘っていると厚木に帰るのがとんでもなく遅くなってしまうので、このくらいのところで敢え無く帰路につきました(泣)。明日も学校に出勤なので、提灯を作った子どもたちにこれらの写真を見せてやろうかと思っています。

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サイタサイタ赤白黄色!?

2022年09月26日 16時40分35秒 | 
今日も朝晩と日中との気温差が開いた一日となりました。朝が肌寒いので外出する時に一枚羽織りたくなるのですが、そうすると日中その羽織物が無用の長物になってしまうのが悩ましいところです。

さて、秋のお彼岸も終わりを迎えて10月の声も聞こえる頃となりましたが、我が家の近所でもようやく



曼珠沙華が咲いているところを見つけました。よく見てみると赤だけでなく、



白い花の曼珠沙華もあちこちに咲いているのが見受けられました。

また、別の場所では



黄色い曼珠沙華も咲いていました。ただ、こちらは曼珠沙華というより『リコリス』と呼んだ方がよさそうなものではあります。

日中は暑くなったものの湿度が低かったからか、よほど走り続けたりしない限りは真夏のように汗だくになるようなこともありませんでした。10月に向けて、こうした爽やかな風の日が増えていってくれることを願うばかりです。

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今日はショスタコーヴィチの誕生日〜初めての交響曲《交響曲第1番》

2022年09月25日 12時12分12秒 | 音楽
昨日の雨天から一転して、今日は穏やかな晴天に恵まれました。ここ数日の偏頭痛も落ち着いて、だいぶ心地よく過ごせる休日となりました。

ところで、今日9月25日はショスタコーヴィチの誕生日です。



ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906〜1975)はソビエト連邦時代の作曲家です。

ショスタコーヴィチは1906年9月25日、ポーランド系で度量衡検査院主任の父親とペテルブルグ音楽院を卒業したピアニストの母親との間に誕生しました。ドミートリイ少年は9歳から母親にピアノを習い始めると異常なほどの上達ぶりをみせ、さらに作曲にも大きな関心を示して《自由の賛歌》というピアノ曲を書きあげました。

1915年に私立の学校とグリャッセルの音楽学校という二つの学校に通い出したショスタコーヴィチは、1917年、二月革命で警官が子供を殺害するという事件に衝撃を受けて《革命の犠牲者の行進曲(葬送行進曲)》というピアノ曲を作曲しました。1919年には母親の出身校でもあるペトログラード音楽院に入学し、ピアノと作曲を学びました。

この頃から作曲活動も活発になり、ピアノ曲のほか、未完に終わったオペラ《ジプシー》やオーケストラ伴奏歌曲、リムスキー=コルサコフ作品のオーケストラ編曲も行いました。1922年に父親が亡くなったことによってショスタコーヴィチ家の経済状態は貧窮に陥りますが、指導教員でもあったアレクサンドル・グラズノフ(1865〜1936)が手をさしのべてくれたおかげで学業を続けることができました。

1925年には作曲科を修了し、卒業作品の《交響曲第1番》作品10の初演は大成功を収めました。この作品はソヴィエトだけでなく西欧でも演奏されたことでショスタコーヴィチの名一躍世界に広まり、これが作曲家としての本格的なデビューになったといえるでしょう。

1926年春に新設された大学院に入学したショスタコーヴィチは、《交響曲第1番》の成功にも関わらず、ピアニストとしての実力の高さからも進路を決めあぐねていました。翌1927年1月には第1回ショパン・コンクールに参加しますが、急性盲腸炎のためいつも通りには弾けず、結局第1位にはレフ・オボーリン(1907〜1974)が選ばれて、ショスタコーヴィチは特別賞を受賞することになりました。

受賞後、新作の《ピアノ・ソナタ第1番》作品12を各地で演奏する一方、1927年3月末には国立出版所音楽部門から、その年の秋に控えた十月革命10周年記念式典で演奏される作品の作曲を委嘱されました。同年にはピアノ組曲《アフォリズム》作品13を書き上げ、大胆なオペラ《鼻》作品15にも着手しました。

同じ1927年の8月から9月、ショスタコーヴィチはレニングラード近郊のデッツコエ・セロのサナトリウムで盲腸炎手術後の休養をとっていましたが、同地で工業大学の物理の学生ニーナ・ヴァルザルと出会い、のちの結婚へと繋がって行きます。この年の暮れにはスターリンによる独裁体制も始まりましたが、これがその後のショスタコーヴィチの作曲家人生を大きく翻弄し苦悩させることとなります。

そんなショスタコーヴィチの誕生日である今日は、処女作ともいえる《交響曲第1番》をご紹介しようと思います。先程も書きましたが、《交響曲第1番》作品10は音楽院の卒業制作作品として発表されたものです。

1924年の夏にショスタコーヴィチはクリミア半島で結核の療養をしていましたが、回復後にレニングラードへ戻った直後の10月に音楽院の卒業も控えていたため、交響曲の作曲に着手することとなりました。第1楽章と第2楽章は同年12月初旬に、翌1925年1月に第3楽章をそれぞれ完成させ、第4楽章は本人が友人に宛てた手紙の中で

「一向に進んでいない」

と漏らしていたほど作曲に行き詰っていましたが、3月下旬には1週間ほどで一気呵成に書き上げました。

1925年5月6日、音楽院作曲科の卒業試験で2台ピアノ用に編曲した本作がグラズノフやマクシミリアン・シテインベルク(1883〜1946)らを前に披露されました。その時の反応は様々だったものの結果は概ね良好で、公開演奏が決定しました。

しかしグラズノフから

「序奏部が斬新すぎる」

という理由で、和声法の規則に則って自らが和声付けをした部分を示してその箇所を訂正するよう要求されてしまいました。ショスタコーヴィチはその意見に渋々従ったものの、結局公開演奏の直前に本来の和声に戻してグラズノフの意向を完全に無視して初演してしまったため、グラズノフは機嫌を害してしまったといいます。

《交響曲第1番》作品10は1926年5月12日、ニコライ・マルコの指揮によるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の演奏によって初演されると熱狂的な反応を得て大成功を収め、第2楽章がアンコール演奏されました。この交響曲の発表によりショスタコーヴィチは『現代のモーツァルト』と喧伝され、成功と同時に作曲者の名を国際的に知らしめることになりました。

また当時レニングラード・フィルに客演していたブルーノ・ワルターはこの交響曲に感銘を受けて、1927年5月5日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して国外初演を行いました。このワルターの演奏をきっかけとして、オットー・クレンペラー、アルトゥーロ・トスカニーニ、レオポルド・ストコフスキー、アルバン・ベルクといった様々な指揮者や作曲家から賞賛されて西側への紹介が行われ、ショスタコーヴィチは音楽界に衝撃的なデビューを果たすこととなりました。

第1楽章や終楽章での金管楽器の輝かしい旋律は、後の大曲《交響曲第5番》を彷彿とさせるものがあります。また、第2楽章や終楽章ではオーケストラの中でピアノが大活躍しますが、これも優れたピアニストだったショスタコーヴィチならではの使い方といえるでしょう。

そんなわけで、今日はショスタコーヴィチの《交響曲第1番》作品10をお聴きいただきたいと思います。20世紀の音楽界を震撼させた、若き日のショスタコーヴィチのデビュー作をお楽しみください。


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雨の日にバッハ聴き比べ〜《2台のチェンバロのための協奏曲ハ短調BWV1060》と原曲《オーボエとヴァイオリンのための協奏曲ハ短調BWV1060a》

2022年09月24日 18時00分18秒 | 音楽
台風15号は早々に温帯低気圧に変わりましたが、静岡県付近では土砂崩れや水害もあったようです。神奈川県ではそこまでの被害はなかったものの、曇り空かと思うと凄まじい雨が降ったりするのを繰り返す、何とも奇妙な空模様となりました。

私は昨日の頭痛が今日になっても治まらず、今日も自宅で大人しく過ごしていました。世間は三連休と浮かれているようですが、私はそんなものとは無縁な生活満喫中です…。

それでも、ただひたすらグダグダしているのもつまらないので、音楽を聴いて過ごすことにしました。何を聴こうかと思ったのですが、



なんだかんだバッハになりました。

いろんなバッハのCDやレコードを引っ張り出して聴いていましたが、その中でも今回は



チェンバロ協奏曲を中心に聴いていました。

上の写真は、私が小学6年生の時にお年玉で買ったカール・リヒターのレコードです。A面には名曲《チェンバロ協奏曲第1番 ニ短調 BWV1052》が収録されているのですが、私が好きなのはB面に収録されている《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ短調 BWV1060》です。

バッハのチェンバロ協奏曲は元々違う楽器のために書かれた曲をアレンジしたものが殆どですが、この《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ短調 BWV1060》も元はオーボエとヴァイオリンのために書かれた協奏曲をアレンジしたものといわれています。ただ、残念ながらその原曲の方の楽譜は失われているので、それを実証することはできません。

子ども時代の私は、第1楽章の冒頭のメロディを聴いていっぺんにこの曲が好きになりました。エコーを伴う甘美な主題から始まって、2台のチェンバロがそれぞれに掛け合いをしながら進んでいく様は実に華やかです。

第2楽章はアダージョのシチリアーノで、弦楽オーケストラのピチカートにのって2台のチェンバロが優雅なメロディを紡いでいきます。オーボエとヴァイオリンでの2声部の原曲と違って、それぞれに左手がプラスされていることによって実質4声部になった独奏部が織りなす綾は、原曲とは違った美しさです。

第3楽章は下降音型が印象的なメロディから始まって、バッハらしいポリフォニーが展開されていく見事なフィナーレです。オーボエとヴァイオリンの原曲と比べると、2台のチェンバロでの演奏はより優雅で落ち着きが感じられます。

今日はその《2台のチェンバロのための協奏曲 ハ短調 BWV1060》をお聴きいただきたいと思いますが、折角ですから、この曲から再現された《オーボエとヴァイオリンのための協奏曲 ハ短調 BWV1060a》との聴き比べをしていただこうと思います。

先ずは2台のチェンバロのための協奏曲から。



そして、上のチェンバロ協奏曲から再現されたオーボエとヴァイオリンのための協奏曲がこちらです。



それぞれにそれぞれの良さがあると思います。皆さんはどちらがお好きでしょうか。

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今日はベッリーニの祥月命日〜最後のオペラ《清教徒》からグルベローヴァによる『狂乱の場』

2022年09月23日 17時17分17秒 | 音楽
今日は二十四節気のひとつ秋分です。ここ数年の秋分の日はいいお天気に恵まれていたのですが、今年の秋分の日はどんよりした雨模様となりました。

本当なら、今日は相模國一之宮・寒川神社に参詣して、春分と秋分の年2回授与される『御来光守』を頂いてくるつもりでした。しかし、ここ数日の疲れが一気に襲ってきてすこぶる体調が悪いのに加えて、台風15号に発達した熱帯低気圧絡みの気圧の急降下にすっかりあてられてしまったので、今年は諦めて自宅で静養することにしました。

ところで、今日9月23日はベッリーニの祥月命日です。



ヴィンチェンツォ・サルヴァトーレ・カルメーロ・フランチェスコ・ベッリーニ(1801〜1835)はシチリア島のカターニアに生れ、パリ近郊で没した作曲家です。主としてオペラの作曲家として有名で、



1985年から1996年まで発行された5000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されていました。

ベッリーニはロッシーニやドニゼッティと共に『ベルカント・オペラ』と称される19世紀前半のイタリアオペラを代表する作曲家です。父親も祖父も音楽家であり、音楽を学ぶ前から作曲を始めたという神童であったといわれています。

合唱指揮者でオルガニストでもあったロサリオ・ベッリーニを父として生まれたベッリーニは3歳で音楽の勉強を開始し、6歳で最初の宗教声楽曲を作曲しました。1819年、貴族の後援者の助力の元でナポリの王立サン・セバスティアーノ音楽院に入学したベッリーニは、音楽院在学中であった1825年に最初のオペラ《アデルソンとサルヴィーニ》を作曲して学校付属の小劇場で初演しました。

これが、当時いくつものオペラハウスの支配人であったドメニコ・バルバイアの目に留まり、直ちにサンカルロ劇場のための新作の作曲を依頼されることとなりました。その結果制作されて1826年に初演された第2作《ビアンカとジェルナンド》は、またしても聴衆たちから好評を得ました。

この成功を受けてバルバイアから名門ミラノ・スカラ座のための新作を依頼されたベッリーニは第3作となる《海賊》でそれに応え、1827年に初演されるとまたも大成功を収めました。この成功によってベッリーニは『ロッシーニの後継者』と目されるようになり、貴族階級の集まるサロンにその一員として迎えられることとなりました。

またベッリーニは、このオペラで初めて台本作家フェリーチェ・ロマーニとコンビを組みました。ベッリーニはロマーニを「私の音楽的霊感の源泉」と呼んで絶大な信頼を寄せ、以降の第10作《テンダのベアトリーチェ》までの7作でロマーニの台本を採用しました。

29歳を迎えた1831年の3月に《夢遊病の女》、12月には《ノルマ》と、ベッリーニの名声を確固たるものにするオペラを立て続けに発表して大好評を博しましたが、1833年に発表した《テンダのベアトリーチェ》が不評だったことから、再起を賭けてパリに移住することとなりました。そして1835年に発表したオペラ《清教徒》が大成功を収めましたが、慢性の腸疾患が悪化したベッリーニは9月23日にパリで33年の短い生涯を閉じました。

そんなベッリーニの祥月命日である今日は、最後のオペラとなった《清教徒》をご紹介しようと思います。

《清教徒(I Puritani)》の原作はイギリスの清教徒革命を題材にした戯曲『議会党派と王党派』で、カルロ・ペーポリが台本を手がけました。初演は1835年1月25日に、パリのイタリア座で行われました。

舞台は清教徒革命の最中の17世紀イングランド。当時のイギリス国内では清教徒革命で国王を処刑したオリバー・クロムウェル(1599〜1658)率いる議会党派(清教徒)と、処刑されたチャールズ1世を支持する王党派とが対立していました。

エルヴィーラ(議会党派の娘)とアルトゥーロ(王党派の騎士)は互いに愛し合い、婚約関係にありました。しかしアルトゥーロは二人の結婚が祝われる中で、議会党派によって幽閉されている亡王チャールズ1世の王妃エンリケッタを救うことを決意します。

アルトゥーロは王妃にエルヴィーラの婚礼衣装のヴェールを被せて姿を隠し、逃亡することに成功します。ところがエルヴィーラはそれを

「アルトゥーロが自分を捨てて、別の女性と駆け落ちしてしまった」

と勘違いし、正気を失ってしまいます。

その後、二人の誤解は解けて再会を喜びあいますが、アルトゥーロが議会党派に捕まって死刑を宣告されてしまったことでエルヴィーラは再び錯乱してしまいます。しかし死刑に処せられる直前に、

「議会党派が王党派に勝利した」

という知らせが入ってきます。

戦いが終わったことで罪人は解放されることとなり、アルトゥーロも解放されます。最後にエルヴィーラとアルトゥーロは無事結ばれ、ハッピーエンドでオペラは終わります。

そんな《清教徒》の中から、今日はエルヴィーラの『狂乱の場』を取り上げたいと思います。

アルトゥーロが別の女性を連れて逃げたと聞いて、恋人に裏切られたと勘違いして廃人のように発狂したエルヴィーラを同情する人々のところに、アルトゥーロを恋敵と憎む議会党派の大佐リッカルドが現れ、

「アルトゥーロが議会で断罪されて死刑の判決を受けた」

と語ります。そこにエルヴィーラが登場して、アルトゥーロに裏切られた気持ちを切々と訴えるのが『あなたの優しい声が(Qui la voce sua soave)』と歌う『狂乱の場』てす。

《清教徒》はベッリーニを代表するオペラであると同時に、歌手にとって演奏の難しいオペラであることでも知られています。中でもコロラトゥーラソプラノのエルヴィーラやテノールのアルトゥーロには、歌手としてかなり高度な技術が求められます。

そんなわけで、今日はベッリーニの最後のオペラ《清教徒》からエルヴィーラの『狂乱の場』をお聴きいただきたいと思います。ベルカント・オペラを得意としたエディタ・グルベローヴァによる、素晴らしい歌唱と演技をお楽しみください。


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《日本美術をひも解く〜皇室、美の玉手箱》展・後期日程へ

2022年09月22日 18時45分18秒 | アート
今日は昨日以上に涼しくなりました。暑がりの私もさすがにTシャツ一枚では心許なく、一枚羽織れるものを引っ張り出したくらいでした。

そんな陽気の中、今日は



東京・上野公園内にある東京芸術大学大学美術館にやって来ました。以前にも来ましたが、こちらで開催中の



《日本美術をひも解く〜皇室、美の玉手箱》展の後期日程を鑑賞するためです。

前期日程では『唐獅子図屏風』や『蒙古襲来絵詞』といった見応えのある展示物がありましたが、後期日程も素晴らしい作品が目白押しでした。

先ずは会場に入ってすぐのところに展示されている



『菊蒔絵螺鈿棚』を鑑賞しました。明治天皇の肝いりで製作されたこの飾棚は佐渡金山の金を使った金蒔絵や沖縄の夜光貝を使った螺鈿細工などがふんだんにあしらわれ、漆工家・蒔絵師の川野邊一朝(かわのべいっちょう 1831〜1910)や彫金師の海野勝珉(うんのしょうみん 1844〜1915)といった当時の一流の職人たちが心血を注いで9年もの歳月をかけて1903(明治36)年に完成させたものです。

360度から鑑賞できるように展示されている飾棚は、菊の花や小鳥の形を立体的に描いた金蒔絵の中に夜光貝を切り抜いて嵌め込まれた螺鈿が観る角度によって赤や翠や蒼や紫といった様々な輝きを放ち、観る者を魅了します。誤解を恐れず大袈裟な言い方をするならば、一日中観ていられる素晴らしい一級工芸品です。

そして後期日程の一番の目玉は、何と言っても伊藤若冲(1716〜1800)の傑作『動植綵絵(どうしょくさいえ)』です。『動植綵絵』は若冲の代表作の一つで、江戸時代中期にあたる宝暦7(1757)年頃から明和3(1766)年頃にかけての時期に制作された30幅からなる日本画で、元々は京都の相国寺に収められていたものが明治になって皇室に献納されたものです。

全部で30幅もの大作掛軸ですが、今回はその中から



『向日葵雄鶏図』をはじめとした10幅が展示されていました。個人的に一番観たかった



『老松白鳳図』が今回は展示されていなかったのが残念でしたが、貴重な国宝ですから仕方ありません。

絵画では他に



円山応挙(1733〜1795)が描いた『牡丹孔雀図』も展示されていました。この絵は応挙44歳の時の作で、アズライトやマラカイトといった鉱物を砕いた岩絵具を用いて写実的に描かれているのが特徴的です。

1900年にフランス・パリで開催された万国博覧会に、日本からも多くの美術工芸品が出品されました。今展覧会では、その時に出品された後に皇室に献納された作品も展示されていましたが、特に印象的だったのが



『菊蒔絵螺鈿棚』の制作にも関わった海野勝珉作が1899(明治32)年に完成させた『太平楽置物』です。

太平楽とは舞楽のひとつで、天下泰平を祝って舞われる演目です。舞楽については下の動画を御覧いただきたいと思いますが、



勝珉は舞人の足捌きによって跳ね上がった帯の房や鈴、長くひいた裾の布がたわむ様子までも表現し尽くしていて、その出来栄えには舌を巻きます。

また同じ年に、明治期の日本を代表する七宝家の一人で京都を中心に活躍した並河靖之(1845〜1927)が制作した


『七宝四季花鳥図花瓶』も展示されていました。近代七宝工芸の原点である有線七宝という技法によって山桜や青紅葉が描かれた七宝焼きの花瓶は、『太平楽置物』と共に当時パリ万博に訪れた人々の度肝を抜いたと伝えられている一級品です。

普段はなかなか目にすることのできない貴重な皇室献納の品々を一堂に観ることができるこの展覧会は、9月25日(日)まで開催されています。当日券の販売もありますので、お時間が許せばこの貴重な機会を是非御堪能ください。

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ドタバタ小学校勤務からの爽やか『レモンパフェ』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2022年09月21日 20時45分50秒 | カフェ
昨日に引き続き、今日も肌寒い日となりました。昼頃から日差しがあってからは多少過ごしやすくなりましたが、それでも半袖一枚ではちょっと涼し過ぎる感じはありました。

今日は図工の時間に木材を釘打ちするという授業があったのですが、何となく始まる前から嫌な予感がしていました。授業が始まるとその予感は的中し、上手く釘打ち出来ない子や真っ直ぐ釘を打ち込めなくて釘抜きで抜こうとするも抜けない子、勢い余って金槌で手を叩いちゃう子が教室中に何人もいて、あちこちから

「先生〜、できな〜い!」
「先生、釘抜いてくださ〜い!」
「いたぁ〜い!」

と声が飛んでくるので、その度に金槌持ったり釘抜き持ったり絆創膏持ったりと大童になったのです。

どうにかこうにか作品を作り上げた子どもたちが後片付けにとりかかる頃には、こちらはすっかりヘロヘロになってしまっていました。それでも使った道具の後片付けや絵の具の始末はさせなければならないので、それはそれで大変でした(汗)。

そんな小学校勤務を終えてからグダグダの状態で小田急線に乗り込み、そのまま横浜あざみ野の音楽教室に移動しました。そして、2週間ぶりに《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は涼しいのでどうしようかと思ったのですが、今回は



先週見送った『レモンパフェ』をオーダーすることにしました。レモンソルベやバニラアイス、ヨーグルトが盛られた上にはお店自家製のレモンのシロップ漬けがあしらわれていて、いただくとレモンの爽やかな酸味が口いっぱいに広がるパフェです。

あれだけドタバタさせられた後だけに、更に美味しく感じることができたような気がします。そういった意味では、小学校の子どもたちに感謝してもいいかも知れません(笑)。

明日は今日より更に涼しくなるようです。服装選びに気をつけながら、ちょっと都内まで出かけてこようと思います。

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今日はシベリウスの祥月命日〜最後の交響曲作品《交響曲第7番ハ長調》

2022年09月20日 16時45分20秒 | 音楽
昨日の台風14号の被害は、厚木市ではあまりありませんでしたが、午前中は台風がもたらしたねっとりとした南風にのった湿気が漂い、気温以上に暑さを感じさせる陽気となりました。ところが、昼過ぎ頃から風向きが変わったためか急激に涼しくなってきて、Tシャツ一枚だとちょっと肌寒いくらいになるまで一気に気温が下がりました。

小学校の子どもたちもこの気温の急降下に戸惑っているようで、むしろエアコンが寒く感じる子もいたようでした。涼しくなるのは喜ばしいことですが、あまりにも急激な温度変化は身体に堪えます…。

ところで、今日9月20日はシベリウスの祥月命日です。



ジャン・シベリウス(1865〜1957)は、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家・ヴァイオリニストです。フィンランドが輩出した最も偉大な作曲家であると広く認められていて、フィンランドが帝政ロシアからの独立を勝ち得ようとしていた最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与した『国民楽派』の作曲家としても知られています。

高校を卒業した後に一度は法律を学ぶために大学に進学したシベリウスでしたが、音楽への思いを断ち切ることができずにヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)へ進学しました。音楽院で本格的に作曲を学んだシベリウスは優秀な成績により奨学金を得てベルリンに短期留学し、帰国後に最初の交響曲である《クレルヴォ交響曲》を発表して大成功を収めました。

ロシア帝国による言論統制や圧政が高まる中の1899年、シベリウスは祖国フィンランドの民族意識を高らかに歌う歴史的な作品《フィンランドは目覚める》を発表しました。これは後に交響詩《フィンランディア》に編曲され、現在でも演奏機会の多いシベリウスの代表作の一つとなっています。

この《フィンランドは目覚める》の作曲によってシベリウスの名はフィンランド国内中に知れ渡るだけでなく、フィンランドを代表する作曲としてヨーロッパでも一躍知られるようになりました。その後、1917年に勃発したロシア革命をはじめとしたいくつかの争いの末にフィンランドは独立を宣言して自由を獲得するに至りましたが、シベリウスの作品もその活力の一端となっていたことは間違いありません。

その後のシベリウスは、1905年に《ヴァイオリン協奏曲 ニ短調》、1907年には《交響曲第3番 ハ長調》など今日でも世界中で愛奏されている名曲を次々と生み出しました。更に1915年には《交響曲第5番 変ホ長調》、1920年代に入ると《交響曲第6番 ニ短調》や《交響曲第7番 ハ長調》を完成させ、シベリウスは名実ともにフィンランドを代表する世界的作曲家となりました。

1955年にはシベリウスの卒寿を祝う特別演奏会が盛大に行われてその業績が讃えられましたが、そのおよそ2年後の1957年9月20日に、脳内出血のため91歳で他界しました。シベリウスという世界的作曲家の訃報は瞬く間に世界に伝わり、当時開かれていた国連総会では黙祷が捧げられました。

フィンランドでは国葬が執り行われ、シベリウスは妻アイノと長きに渡って暮らしたアイノラの家の庭に埋葬されました。12年後に亡くなったアイノもシベリウスの隣に埋葬され、現在はシベリウスと並んで静かに眠っています。

そんなシベリウスの作品の中から、今日は《交響曲第7番 ハ長調》をご紹介しようと思います。

《交響曲第7番 ハ長調》は《交響曲第6番 ニ短調》とほぼ同じ1910年代に作曲が開始されたといわれていますが、実際に完成したのは1924年のことでした。初演は1924年3月25日にストックホルムで、シベリウス自身の指揮で行われました。

《交響曲第7番》は単一楽章の交響曲で、初演時には《交響的幻想曲》と呼ばれていました。ただし、実際には3つの楽章形式で切れ目なく演奏される音楽といったほうが正確なようです。

《交響曲第6番》も似た傾向があるのですが、晩年のシベリウスは鬱病傾向にあったこともあってか、短い交響曲であるにもかかわらず作曲に思いの外長い時間がかかったようです。単一楽章であることもあって交響曲としては地味なものではありますが、シベリウスの最後の交響曲だけに円熟と深みが感じられ、とても美しく洗練された曲です。

そんなわけで、シベリウスの祥月命日である今日は《交響曲第7番ハ長調》をお聴きいただきたいと思います。シベリウスが交響曲として最後に遺した絶対音楽の集大成ともいえる作品を、楽譜動画と共にお楽しみください。



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嵐の日に聴くベートーヴェン〜ピアノ・ソナタ第17番ニ短調《テンペスト》

2022年09月19日 17時00分20秒 | 音楽
台風14号は九州から中国地方にかけて上陸し、各地に一方ならぬ被害を出しながら東寄りに進んでいるようです。神奈川県では午前中に白く煙るほど激しい雨が降ったかと思うと午後から急激に晴れ渡ったりと、まるでジェットコースターのような目まぐるしさとなりました。

昨日に引き続き、今日も我が家に籠もってデスクワークに勤しんでいました。昨日のうちに買い物を済ませておいて、本当に良かったと思います。

こんな嵐の日に何を聴こうかと思ったのですが、昨日はバッハのチェンバロだったので、今日は



ベートーヴェンのピアノソナタを聴くことにしました。中でも『嵐』といえば…ということで、今回はピアノソナタ第17番《テンペスト》を取り上げてみようと思います。

作品31としてまとめられている第16番・第17番・第18番の3曲のピアノソナタは、1801年から1802年の初頭にかけてほぼ同時期に作曲が進められました。初版譜は出版社を営むハンス・ゲオルク・ネーゲリが企画した『クラヴサン奏者演奏曲集』に収録される形で、1803年4月に世に出されました。

作品31を作曲している時期は、ベートーヴェンが難聴への苦悶からハイリゲンシュタットの遺書を書いた時期にも一致しています。そんな作品31の中でもこの《テンペスト》は特に革新的で劇的な作品となっていて、3つの楽章の全てがソナタ形式で作曲されていることもユニークな点のひとつとなっています。

《テンペスト》という通称は、弟子のアントン・シンドラーがこの曲の解釈について尋ねたとき、ベートーヴェンが

「シェイクスピアの『テンペスト』を読め」

と答えたとされることに由来しています。しかし、現在この《テンペスト》の由来はベートーヴェンの秘書を自称するシンドラーによって生み出された作り話である…と考えて、ほぼ間違いないと思われています。

全体は3つの楽章で構成されています。

意表を突くようなドミナントの分散和音から始まって、嵐の不穏さを表すように低音と高音が左手で交差するように演奏される第1楽章、一転して柔らかな印象の変ロ長調の響きの中で、複付点リズムによって特徴づけられた主調の主題と断続的な属音のトレモロを伴奏とする属調の主題とが交錯する第2楽章、16分音符の連鎖が切れ間なく続き、3拍子の曲ながら拍節のずれ感によって2拍子的な特徴をもつパッセージが印象的な第3楽章と、いずれも魅力的な展開をみせる作品となっています。

そんなわけで、今日はベートーヴェンのピアノソナタ《テンペスト》をお聴きいただきたいと思います。現代のグランドピアノとは風合いの違う、フォルテピアノによる演奏をお楽しみください。


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雨中のバッハ《半音階幻想曲とフーガ ニ短調》

2022年09月18日 13時15分13秒 | 音楽
今日は朝から雨が降り続き、遠くで雷も轟く天気となりました。大型で強い台風14号は着実に日本列島に近づいていますが、遠く離れた神奈川県にも今から影響が及んでいるようです。

今日はひたすら我が家に籠もって、デスクワークに勤しむことにしました。今日の音楽のお供は



バッハのチェンバロ作品でしたが、その中から今日は《半音階幻想曲とフーガ ニ短調》を取り上げたいと思います。

《半音階幻想曲とフーガ ニ短調》は自筆譜は現存していないため作曲時期は明確ではありませんが、恐らく1717年までのヴァイマル時代か1723年までのケーテン時代に書かれ、1730年前後に改訂が加えられたものと考えられています。一節には1720年に亡くなったバッハの最初の妻マリア・バルバラ・バッハの死に際して書かれた『トンボー(墓)』てあるという解釈もありますが、それを裏付けるような確かな根拠はありません。

バッハはメンデルスゾーンが再評価するまでは、旧時代の作曲家として一部の識者以外からは忘れ去られていた存在でした。しかしこの曲はバッハの死後も影響力を保つ数少ない作品として人気を博し、18世紀中にはウィーンやフランス、イタリアなどヨーロッパ各地で知られていた作品でした。

その人気は19世紀に入っても続いていて、ベートーヴェンが1810年に楽譜の筆写を行っているほか、メンデルスゾーンやリスト、ブラームスなどが演奏した記録が残っています。また、1819年にはバッハの息子ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの指示を記したと称する版が出版されたをはじめ、ピアノ教則本でお馴染みのカール・チェルニーやブラームスの友人で指揮者のハンス・フォン・ビューローなど、多くの音楽家や研究者が校訂版を発表しました。

この作品の全体は幻想曲とフーガの2つの場面からなっています。ただ半音階的音形なのは後半のフーガの方なので、《幻想曲と半音階的フーガ》といった方が正確かも知れません。

前半の『幻想曲』は、ソナタやロンドといった形式に縛られない自由に書かれた曲に付けられるタイトルで、バッハはクラヴィーアやオルガンのために度々この幻想曲を書いています。この幻想曲は



冒頭からうねるように縦横無尽に駆け巡るパッセージが印象的な曲です。

この一連のうねりが終わると『レチタティーヴォ』と呼ばれるオペラや受難曲での語りの部分が登場します。



静かな雰囲気の中にも厳かさを感じさせるこのレチタティーヴォは『父なる神とキリストとの対話』とも表現されることがあり、闊達な幻想曲と次に展開するフーガとをつなぐ意味合い以上の存在感を放っています。

続くフーガは



ラの音から半音階的に紡がれる主題が印象的です。♭一つのニ短調の曲ですが、随所に♯が出てくることによって一瞬長調のような響きも感じられるので、聴いていると厳格な中にもちょっとした浮遊感のような不思議な印象を受けます。

ところで、フーガ冒頭部に着目していただきたいと思います。最初の4つの音を見てみると

『ラ→シ♭→シ♮→ド』

となっていますが、これをドイツ音名で言うと、

『A→B→H→C』

となります。そして、ちょっと無理やり感はありますが、これらを並べ替えてみると…



『B・A・C・H』

なんとバッハのドイツ語表記である『BACH』が隠れているのです。

『BACH主題』については《フーガの技法》の未完成フーガのところでも取り上げましたが、こうしたところにバッハの自身の名前に対しての愛着や、まるで言葉遊びをしているかのようなチャーミングさをも感じることができるのです。厳格さの中にこんな仕掛けが内包されていることも、この曲が今日でもなお愛され続けている理由の一つなのかも知れません。

そんなわけで、今日はバッハの《半音階的幻想曲とフーガ ニ短調》をお聴きいただきたいと思います。楽譜動画と共に、長く人々に愛されてきたバッハの音楽世界をお楽しみください。



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今日はフランチェスコ・ジェミニアーニの祥月命日〜師匠コレルリの影響色濃い《ヴァイオリン・ソナタ ハ短調 Op.4-9》

2022年09月17日 14時35分55秒 | 音楽
今朝はかなり涼しい風が吹いていましたが、お昼近くになると結局暑くなりました。かつての猛暑日に比べれば気温はそこまでではないにせよ、やはり台風絡みなのか、空気中の湿度はなかなかの高さでした。

ところで、今日9月17日はジェミニアーニの祥月命日です。



フランチェスコ・ジェミニアーニ(1687〜1762)はイタリア後期バロック音楽の作曲家・ヴァイオリニスト・音楽理論家です。演奏家として主にロンドンやダブリンで活躍し、後期バロックの作曲家としてアルカンジェロ・コレルリ(1653〜1723)からゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685〜1759)をつなぐ存在でもありました。

イタリア・ルッカに生まれたジェミニアーニは、音楽全般をアレッサンドロ・スカルラッティ(1660〜1725)に、ヴァイオリンをコレルリにという、いずれ劣らぬビッグネームに師事しました。1711年からはナポリの宮廷楽団のコンサートマスターに就任し、しばしば旧師スカルラッティと接触する機会を持ちました。

1714年にヴィルトゥオーソとしての評判を買われてロンドンに招かれたジェミニアーニは、とりわけ第3代エセックス伯ウィリアム・カペルの格別の庇護を受けました。1715年にはヘンデルの通奏低音による共演で、イギリス国王ジョージ1世の御前で演奏を披露したこともありました。

ジェミニアーニの作品のうちでも有名なのは、作品3や恩師コレッリのヴァイオリン・ソナタを改作した作品5、作品7といった《合奏協奏曲集》です。ジェミニアーニの合奏協奏曲の特徴は、通常ヴァイオリン✕2とチェロの3名で構成されるコンチェルティーノ(ソリストグループ)にヴィオラを導入して、実質的な弦楽四重奏を形成していることです。

こうした作品は、当時コレルリの音楽を愛していたロンドンの聴衆を喜ばせるために作曲されました。ジェミニアーニの音楽はコレルリのスタイルを踏襲して非常に対位法的に労作されていて、同時代のヨーロッパ大陸で流行していたいわゆる『ギャラント様式』の音楽とは好対照を成すものとなっています。

また、1751年にロンドンで出版されたジェミニアーニの理論書『ヴァイオリン奏法論』は18世紀イタリアのヴァイオリン演奏の方法論について最も有名な概説となっていて、ヴィブラートやトリルなどの演奏技巧に詳しい説明が加えられていることから、後期バロック音楽の演奏習慣の研究者にとって、有意義な著書となっています。また『和声法指南』は通奏低音の実践についての全2236ものパターンが載っている後期バロック音楽の比類ない理論書で、作曲の学習者がこの著書を基に学べば、その後どんなバス課題に対してもすっかり対応することができるように配慮された百科事典的な著書となっています。

ジェミニアーニは音楽教師や作曲家として生計を立てる一方で美術の蒐集や販売にも熱を上げていましたが、こちらは必ずしも成功したとはいえませんでした。しばらくはパリで暮らしていましたが、1755年には再びイングランドに戻りました。

ところが1761年にダブリンを訪れた際、多くの時間と労力を捧げた手稿を使用人の一人に盗まれてしまいました。一説によると、この事件の悔しさと心労がジェミニアーニの死期を早めてしまったのではないかとも言われています(享年74)。

さて、そんなジェミニアーニの作品から今回は《ヴァイオリン・ソナタ Op.4》をご紹介しようと思います。

合奏協奏曲で有名なジェミニアーニですが、ヴィルトゥオーゾだったこともあってソロソナタも作曲していました。《ヴァイオリン・ソナタOp.4 》は1739年にロンドンで出版されたもので、師匠であるコレルリの影響が随所に見られるものとなっています。

そんなわけで、ジェミニアーニの祥月命日である今日は《ヴァイオリン・ソナタOp.4》から第9番ハ短調をお聴きいただきたいと思います。師匠のコレルリやアレッサンドロ・スカルラッティの短調作品にも通じるような、後期バロックらしいジェミニアーニの旋律世界をお楽しみください。


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富士とニャンコと月見バーガー

2022年09月16日 18時18分58秒 | 日記
今朝は、出勤時にはTシャツ一枚だと薄ら寒く感じるくらいかなり涼しくなりました。見上げると空も高く見えるように感じられ、通勤電車の中からは



富士山の姿もハッキリと見えていました。

小田原駅に着いて職場の小学校に向かう途中、ちょっと寄り道した神社の鳥居の根本には



ニャンコが涼んでいました。毛づくろいの真っ最中だったのでそ〜…っと近づいたつもりだったのですが、うっかり砂利を踏んでしまった音に気づかれてのこの睨まれっぷりです(汗)。

小学校での勤務が始まる頃には朝の涼しさはどこへやら、日中は厳しい暑さに見舞われました。子どもたちも暑さにあてられてグッタリしながら授業を受けていて、傍目に見ても可哀想なくらいでした。

子どもたちが下校してから教室の片付けや掃除をして学校を出ても暑さは衰えておらず、駅に着く頃には汗だくになってしまっていましたが、とりあえず小田急線に乗って厚木まで戻ってきました。そして、帰宅する途上でちょっと気になったので



マクドナルドで『月見バーガー』を買って帰りました。

なんでしょう、身も蓋もない言い方をしてしまえばいわゆる一つのベーコンエッグバーガーなのですが、それに『月見バーガー』という名をつけた人物のセンスは素晴らしいと思うのです。中秋の名月の頃に限定して発売していることも、なかなかの戦略だと思います。

大型で非常に強い台風14号が、明日からの連休を狙ってひたひたと日本列島に迫ってきています。まともに上陸すれば2018年の台風20号以来の被害が予測されていますが、さてどうなるでしょうか。

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