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共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はテレマンの誕生日〜《フルート、オーボエ・ダモーレ、ヴィオラ・ダモーレのための協奏曲 ホ長調》

2025年03月24日 17時00分17秒 | 音楽
昨日の暑さから一転して、今日は曇天模様の一日となりました。日差しがない分気温もあまり上がらず、20℃前後あったものの前日比から肌寒く感じる陽気でした。

ところで、もう何度もやっていますが、今日3月24日はテレマンの誕生日です。



ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)は、後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家で、18世紀前半のドイツにおいて高い人気と名声を誇り、フランスでの人気も高かった人物です。クラシック音楽史上もっとも多くの曲を作った作曲家として知られていて、その記録はギネスブックにも登録されてします。

作曲たけでなく、テレマン自身もヴァイオリン、オルガン、チェンバロ、リコーダー、リュートなど多くの楽器を演奏することができました。特にヴァイオリンとリコーダーについては高い技術を有する名人であったことが、同時代の人々によって語られています。

同時代の作曲家であった



ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685〜1759)とはライプツィヒ大学時代からの友人で、頻繁に手紙のやり取りをしていました。また



ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685〜1750)とも親密な交友関係にあったテレマンはバッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなり、1750年にバッハが死去した時には、バッハの業績を最大限に称える追悼の言葉を送っています。

テレマンの音楽様式には、20歳代~30歳代に触れたフランス・イタリア・ポーランドの民族音楽、特に舞曲からの影響があり、ドイツの様式も含めてそれらを使いこなし、ロココ趣味の作風も示しました。テレマンは86歳と長生きだったため晩年はハイドンの青年時代などと重なっていましたが高齢でも創作意欲が衰えず、トリオソナタの編成で『ディヴェルティメント』と書かれた晩年の作品もあり、常に新しい音楽傾向の先頭に立ち続けていました。

そんなテレマンの誕生日である今日は、《フルート、オーボエ・ダモーレ、ヴィオラ・ダモーレのための協奏曲 ホ長調》をご紹介しようと思います。

この曲に使われるオーボエ・ダモーレは中音域のオーボエで、


(左からオーボエ、オーボエ・ダモーレ、コーラングレ)

オーボエ(左)とコーラングレ(右)の中間の楽器です。オーボエよりも丸みのある音色は何とも愛らしく、バッハやテレマンが好んで使用しました。

ヴィオラ・ダモーレはヴィオル族の弦楽器で、



7本の弦と



7本の共鳴弦をもっています。共鳴弦はアフガニスタンのラバーブやインドのシタールなどにあるものですが、一説にはかつてインドを支配下に治めていたイギリス経由で発祥したものともいわれています。

この曲がどのような機会に作曲されたのかは定かではありませんが、作品全体にテレマンらしい明るい雰囲気が漂っています。さざ波のようなオーケストラのにのってロングトーンのソロが交錯する第1楽章、いかにもギャラントな雰囲気の華やかな第2楽章、メランコリックなシチリアーノのメロディに三連符の装飾音が美しく絡む第3楽章、ロンド形式で各楽器のソロが楽しめる第4楽章と、いずれもテレマンの面目躍如たる音楽が連なります。

そんなわけで、今日はテレマンの《フルート、オーボエ・ダモーレ、ヴィオラ・ダモーレのための協奏曲 ホ長調》をお聴きいただきたいと思います。アンドルー・マンゼ率いるラ・ストラヴァガンツァ・ケルンの演奏で、多作家にして駄作無しのテレマンの協奏曲をお楽しみください。


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映画『ピアノ・レッスン』の名曲《楽しみを希う心》〜今日はマイケル・ナイマンの誕生日!

2025年03月23日 16時30分30秒 | 音楽
今日はいきなり夏日に迫る暑さとなりました。まだ桜も咲いていないのにこんなに暑くなってしまい、桜も人もビックリです。

そんな中、今日は用事があって相模大野まで出かけていました。すると、駅のコンコースに



電子ピアノが置かれていました。

今回は事前予約無しで、並べば誰でも10分前後演奏できるとのことでした。いろいろな人が入れ替わり立ち替わり演奏していたのですが、その中のひとりが



1993年公開の映画『ピアノ・レッスン』の《楽しみを希(こいねが)う心》を演奏していました。

この曲は



イギリスの作曲家マイケル・ナイマン(1944〜)が『ピアノ・レッスン』のために作曲したもので、今ではマイケル・ナイマンの代表作と呼ばれる作品です。

映画『ピアノ・レッスン(邦題)』は、19世紀のニュージーランドを舞台に、言葉を話せずにピアノの音色を言葉代わりにする女性と、原住民マオリ族に同化した一人の男性との激しい愛を描いた恋愛映画です。この映画は第66回アカデミー賞において作品賞を初めとした8部門にノミネートされ、脚本賞、主演女優賞、助演女優賞の3部門で受賞を果たしました。

マイケル・ナイマンによるサウンドトラックは注目を集め、全世界で300万枚以上の売り上げを誇りました。特にメインテーマとも言うべきピアノソロ曲《楽しみを希う心》は印象的で、劇中では主人公エイダ・マクグラス役をつとめたホリー・ハンターが自身で演奏を行っています。

そんなわけで、今日はマイケル・ナイマンの《楽しみを希う心》をお聴きいただきたいと思います。因みに調べてみたところ、今日はマイケル・ナイマンの81歳の誕生日でした、おめでとうございます🎉。


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オール・バッハ・プログラム・コンサート〜カンタータ第51番《全地よ、神に向かいて歓呼せよ》

2025年03月22日 18時18分18秒 | 音楽
今日はオール・バッハ・プログラムのコンサートがあったので、東神奈川にある『かなっくホール』に行きました。こちらのホールでは2011年5月にフルートとピアノと私でリサイタルをしたことがあるのですが、それから実に14年ぶりの来訪となりました。

コンサートの内容は



●ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調

●カンタータ第209番《悲しみの如何なるかを知らず》よりシンフォニアとアリア

●ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調

●カンタータ第51番《全地よ、神に向かいて歓呼せよ》

と、バッハの作品の中でも名曲中の名曲揃いという、素晴らしく贅沢な内容でした。チケットは完売で当日販売は無しということでしたので、事前予約しておいて本当に良かったです。

今回、特に個人的に楽しみにしていたのがカンタータ第51番《全地よ、神に向かいて歓呼せよ》でした。この曲は、バッハのカンタータの中でもとりわけ華やかな作品として知られています。

バッハのカンタータといえば冒頭の合唱に始まり、そこにソリストのレチタティーヴォやアリアがつながってコラールで締めくくられるという定型がありますが、このカンタータ第51番はそうした定型とは全く異なった構成になっています。さらに言えば合唱は一切使わずに最初から最後までソプラノのが全てを歌いきるため、教会カンタータと言うよりは、まるでオーケストラ伴奏付きのソプラノ歌曲のようにも聴こえてきます。

1930年の9月17日にライプツィヒで初演されたこのカンタータは、バッハがライプツィヒ時代に全てをやりきった後に生み出された作品に分類されます。バッハはこのカンタータの自筆の楽譜に

「三位一体節後第15日曜日」

と記したあとに

「及びあらゆる全ての機会に」

と記しているので、ある特定の日曜日だけでなく他の目的で演奏することも想定していたようです。

第1曲は



トランペットをはじめとした全楽器によるハ長調の分散和音的なパッセージで力強く始まり、ソプラノが

「全地よ、神に向かって歓呼せよ。天と地の中にある被造物は、全て神の誉れを讃えよ。」

と歌うアリアが続きます。ここではオーケストラをバックにソプラノ・トランペット・ヴァイオリンソロが三重協奏曲のように有機的に絡み合い、聴く者を魅了します。

第2曲のレチタティーヴォでは

「私たちは神殿に向かって祈ります。神の栄光がそこに宿っています。」

と歌われます。この曲ではともするとトランペットの入る華やかな第1曲と終曲に注目が集まりますが、神への思いを吐露するこのレチタティーヴォも感動的な音楽です。

第3曲は

「至高者よ、あなたの恵みを朝ごとに常に新しくして下さい」

という、深い祈りに満ちたソプラノのアリアが配されています。

続く第4曲では、2台のヴァイオリンソロがオブリガートを奏でる上にソプラノが

「賛美と誉れと栄光が、父なる神と御子と聖霊と共にありますように。」

というコラールを展開していきます。そして、最後にソプラノがフィナーレとして「アレルヤ」を何度も繰り返し、トランペットも加わったフーガで華々しく曲を締めくくります。

そんなわけで、今日はバッハのカンタータ第51番《全地よ、神に向かいて歓呼せよ》をお聴きいただきたいと思います。マリア・ケオハネの独唱によるネザーランド・バッハ・ソサエティの演奏で、一段と華やかなバッハの名カンタータをお楽しみください。


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巣立つ卒業生に幸多かれ!〜いきものがかり《Yell》

2025年03月21日 17時00分17秒 | 音楽
今日は勤務先の小学校の卒業式でした。

晴れ渡った空の下に、小学校を巣立っていく6年生たちが集いました。晴れやかな姿の彼らを見ていると、いろいろなことを思い出しました。

彼らは、コロナ禍前の放課後子ども教室の1年生だった子たちでした。しかし3月にパンデミックが発生して打ち切りになってしまい、きちんとしたお別れができないままになってしまっていたのです。

そこから御縁があって再び放課後子ども教室が始まったのですが、3年生になっていた彼らは私のことを覚えていてくれていました。そして、放課後子ども教室をやっている部屋の前に来ては

「先生!」

と言って明るい笑顔を見せてくれていた子たちでした。

そんな子たちが立派に成長し、一人ずつ卒業証書を受け取る姿をを見ていたら、胸に迫るものがありました。卒業生が壇上に上がっての『呼びかけ』の時には、やはりコロナ禍に翻弄された戸惑いと苦悩が吐露されていました。

そして卒業生たちが歌を披露する場面になり、私はてっきり《旅立ちの日に》がくると思っていたのですが、彼らが歌い始めたのは



いきものがかりの《Yell》でした。ここまで本格的な合唱ではありませんでしたが、それでも涙を堪えながら一生懸命に歌う彼らの姿に、会場にいた大人たちは感動に打ち震えていました。

万雷の拍手に送られて卒業生たちが会場を去ると、我々個別支援員も一足先に会場を出ました。教職員でもない我々は、そんなにいつまでもウロチョロしているわけにはいかないのです。

自分の荷物を持ってそっと退勤しようとしたら、ちょうど卒業生たちが集合写真を撮るために教室から体育館に移動してきたところでした。その時、かつて放課後子ども教室に来ていた子たちが

「先生!」
「先生!」

と次々と声をかけてくれて、教職員たちが驚いていました。

私も驚きましたが、彼らに

「おめでとうございます。これから沢山楽しんでくださいね。」

と、自分なりのエールを贈りました。こういう場面でよく

「頑張ってね!」

と言ってしまいがちですが、彼らは普段から十分に頑張っているので、私はできるだけその言葉を避けて

「楽しんで!」

と言うようにしています。

相変わらず晴れ渡った空の下を小田原駅までそぞろ歩いていたら、



道すがらのお寺のコブシの花が満開になっていました。桜はまだ咲いていませんでしたが、時折吹く風に真っ白な花弁を一片一片散らせていくコブシの花を見ていたら、卒業生の前で堪えていた涙が溢れてきてしまいました。

今日は、早くに休もうと思います。

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今年度最後の放課後子ども教室〜桜の記念樹と《ゆりかごの歌》

2025年03月18日 17時00分17秒 | 音楽
今日は勤務先の小学校の最後の放課後子ども教室の日でした。今まで私がほとんど関われていなかった分、今日は私が個別支援員の休みを取って主導して進めていくことにしました。

先ず始めに



ピンク色の折り紙を貼り付けて作った桜の木に、桜の花の形に切った桜色の折り紙にメッセージを書いて



放課後子ども教室の記念樹を作りました。下地のピンク色の部分は全て桜の花の形に切った折り紙を60枚以上貼り重ねたもので、そこに淡い桜色の花を貼ったことで綺麗に子どもたちの文字が浮かび上がりました。

その後で、小田原市の夕方の放送で流されている《ゆりかごの歌》について話をすることにしました。本来ならば放課後子ども教室の初回に紹介している話なのですが、学校側に開催時間を著しく短縮されてしまったため話せずにいたのです。

全国的には《夕焼け小焼け》が流されている夕方の時報ですが、小田原市では《赤とんぼ》が流されていました。それが2016年から《ゆりかごの歌》に変わったのですが、これには



大正期の詩人北原白秋(1885〜1942)と小田原市との関わりが起因しています。

白秋が、上京するまでの19年間暮らした故郷柳川(福岡県)に次いで長く居住し、初めて自宅を持った土地が小田原でした。白秋が生涯に作った1,200編におよぶ童謡作品のうち、約半数の作品を小田原時代に創作しています。

大正7(1918)年3月、33歳の時に小田原に転居した白秋は、その後大正15(1926)年5月まで8年2ヶ月にわたり居住しました。そして

「雨ふり」
〽雨雨ふれふれ母さんが〜♪

「赤い鳥小鳥」
〽あ〜かい鳥ことり、なぜなぜ赤い♪

「ペチカ」
〽雪の降る夜は、楽しいペィチカ〜♪

「待ちぼうけ」
〽待ちぼうけ〜待ちぼうけ〜♪

「この道」
〽この道は〜いつかきた道〜♪

「ゆりかごの歌」
〽ゆ〜りかごの歌を〜♪

など、今日知られている多くの作品を小田原時代に創作しました。

小田原での生活は快適で、白秋は終生小田原で暮らすことを考えていたといわれます。しかし、大正12(1923)年に発生した関東大震災で住居が半壊し、やむなく東京へ移ることになってしまいました。

こうした北原白秋と小田原との関わり合いの中で、夕方の時報に《ゆりかごの歌》が流されることになりました。対象が低学年の子どもたちなので彼らはこうした経緯があったことを知らなかったようでしたが最後には全員で《ゆりかごの歌》を4番までフルコーラス歌って終わりました。

子どもたちは口々に

「楽しかった!」
「また来たい!」

と言ってくれました。それでも、学校側との折衝に負けて十分な時間をとってあげられなかった敗北感は、最後まで大人たちの中にくすぶっていました。

今日は、最後に子どもたちと歌った《ゆりかごの歌》をお聴きいただきたいと思います。小田原ゆかりの名童謡を、ハープ伴奏による優しい歌声でお楽しみください。


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今日はショパン《ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調》初演の日〜ルービンシュタイン&プレヴィン&LSOによる演奏で

2025年03月17日 17時00分17秒 | 音楽
今日は朝から空一面に雲の広がる、日差しの乏しい一日となりました。気温も予報ほどには上がらず、肌寒さを感じる陽気となりました。

ところで、今日3月17日は



ショパンの《ピアノ協奏曲第2番ヘ短調》作品21が初演された日です。

《ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調》は、ポーランドの作曲家であり音楽教育家でもあったユゼフ・エルスネル(1769〜1854)の元で《ピアノソナタ ハ短調》や《ピアノ三重奏曲》を書いて経験を積んだショパンが、ピアニストとして名を挙げるために満を持して作曲した作品です。第2番とありますが、実際には第1番よりも先に書かれたショパン初のピアノ協奏曲です。

初めての大作ということもあって曲は第1番よりも自由な構成を持つ一方で、随所に様々な創意がこらされています。現在では《夜想曲第20番(遺作)》として有名な作品《レント・コン・グラン・エスプレッシォーネ》にはこの協奏曲の第1楽章や第3楽章からの断片的なモチーフが引用されていますが、《ピアノ協奏曲第1番 ホ短調》に比べて演奏回数はやや少ないのが現状です。

ショパンのピアノ協奏曲では、第1番同様にオーケストレーションの貧弱さがよく指摘されています。この点についてはショパンのオリジナルではなく、管弦楽法に長じた他者により新たにオーケストレーションが施されたためだ…という主張があります。

その証拠としては、現存する自筆スコアの管弦楽部分が他人の筆跡で書かれていてショパンの直筆はピアノパートのみである点が挙げられていますが、ショパンが友人らと一緒に写譜したものである可能性もあるので断言はしにくいものとなっています。しかし、第3楽章の弦楽パートにコル・レーニョという特殊奏法を取り入れていることなど、ショパンがオーケストレーションにあたって自分なりに創意工夫を凝らしたことは明らかです。

《ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調》は1830年に完成され、同年の3月17日にワルシャワで作曲者のピアノ独奏により初演されました。作品は、パリで親交を結んだデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人に献呈されています。

第1楽章はマエストーソ、ヘ短調 4/4拍子の協奏風ソナタ形式。

オーケストラによる提示部は、問いと答えのような第1主題、オーボエによって提示される変イ長調の第2主題からなっています。ピアノソロがドラマティックに登場すると、熱い音楽が繰り広げられていきます。

第2楽章はラルゲット、変イ長調 4/4拍子
の三部形式。

この楽章は、当時ショパンが恋心を抱いていた、コンスタンツィヤ・グワトコフスカへの想いを表現したと友人ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛ての手紙で述べています。中間部は変イ短調に転じ、弦の刻みの上にユニゾンで激しいレチタティーヴォ風の音楽が展開されていきます。

第3楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェ、 ヘ短調~ヘ長調 3/4拍子のコーダを持つロンド形式。

ポーランドの代表的な民族舞踊であるマズルカが基になっていて、中間部は弦楽器に弓の木の部分で弦を叩くコル・レーニョ奏法が指示され、ピアノもユニゾンとなります。コーダはヘ長調に転じ、ホルンのファンファーレによって明るく華やかに終結します。

そんなわけで、今日はショパンの《ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調》をお聴きいただきたいと思います。アルトゥール・ルービンシュタインのピアノ、アンドレ・プレヴィン指揮によるロンドン交響楽団の演奏で、第1番と並ぶショパンの名作協奏曲をお楽しみください。


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『軍隊』や『ロンドン』にも引けを取らない傑作〜ハイドン《交響曲第103番 変ホ長調》『太鼓連打』

2025年03月16日 17時00分00秒 | 音楽
今日は朝から冷たい雨がふり、久しぶりに寒くなりました。ここ数日の暖かさに慣れた身には堪える寒さで、暖房必須の一日でした。

そんな中、今日私のところに仕事で使う譜面が届いたのですが、その中にものすごく久しぶりに演奏する曲がありました。それが



フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)の《交響曲第103番 変ホ長調》通称『太鼓連打』です。

『傑作の森』と言っても良いハイドンの12曲の『ザロモン交響曲』の中でも、特にきっちりとした形式的な完成度の高さを持っているのがこの作品です。何と言っても『太鼓連打(The drum roll(Mit dem Paukenwirbel)』という独特のニックネームが目を引きますが、これは



第1楽章の序奏の最初に出てくるティンパニのドロドロドロ…という連打に基づくものです。

第1楽章は序奏とソナタ形式の主部からなっています。

序奏はアダージョ、変ホ長調の4分の3拍子。

『太鼓連打』というニックネームの由来となった、印象的なティンパニのドロドロドロ…というロールで始まり、その後に低弦部とファゴットによる聖歌を思わせるような落ち着いたメロディが続きます。この動機は展開部でも登場しますが、こうした形はハイドンとしては珍しいものです。

主部はアレグロ・コン・スピリート、変ホ長調の8分の6拍子。

第1主題は序奏から一転して軽やかなもので、小躍りするように進む魅力的なものです。その後フォルテの部分になった後にオーボエが主題を変形し、経過部になります。

第2主題は属調の変ロ長調になりますが、第1主題同様に軽快で親しみやすいものです。この第2主題部は短く切り上げられ、小結尾になります。

展開部では第1主題の展開が行われますが、その後雰囲気が変わって序奏部で出てきた動機が短調で出てきます。その後第1主題・第2主題の動機がさらに展開された後、再現部となります。

再現部では第1主題・第2主題が共に変ホ長調で再現された後、突然変イ長調のフォルテ部とななります。さらに序奏部が再現され、最後は簡潔なコーダで締めくくられます。

なお、この『太鼓連打』の部分ですが、ハイドン自身による音量や強弱の指示が最低限しかないこともあり、指揮者によっていろいろな解釈がある部分です。20世紀の録音では楽譜通りに演奏しているものがほとんどですが、近年ではティンパニの乱れ打ちソロになっていたりと、なかなかアグレッシブな演奏もあります。

第2楽章はアンダンテ・ピウ・トスト・アレグレット、ハ短調の4分の2拍子。

この楽章はハイドンお得意の変奏曲ですが、ハ短調の第1主題とそれと同じ楽想をハ長調にしただけの第2主題が交互に登場し、それぞれが変奏されていく二重変奏曲となっています。落ち着いた歩みを感じさせる素朴なメロディは、いかにもハイドンらしいものです。

各主題は2部形式で前半・後半から成っていて、2回変奏されます。第2主題の第1変奏では、独奏ヴァイオリンが3連音で華麗にオブリガートを付ける部分が特徴的です。

第1主題の第2変奏では金管楽器やティンパニが加わり、ダイナミックな盛り上がりを見せ、その後、第1ヴァイオリンに細かい音の動きが絡み合ってきます。続く第2主題の第2変奏はオーボエなどによってほとんど変奏されることなく歌われ、終結部となります。

第3楽章はメヌエット、アレグロ、変ホ長調の4分の3拍子。

メヌエット部は素朴な感じで堂々と始まった後にホルンなどが合いの手を入れる形で進んでいき、後半は対位法的に展開されます。同じく変ホ長調のトリオではクラリネットが第1ヴァイオリンに重ねてレントラー風のメロディを歌った後、いろいろな楽器が受け継いでいきます。

第4楽章は2つの主題によるロンド・ソナタ形式のフィナーレ、アレグロ・コン・スピリート、変ホ長調の2分の2拍子。

ホルンによる4小節の導入部の後で一旦休符が入り、その後、仕切り直しのような感じで第1主題が軽快に始まります。この主題のリズム動機は、その後繰り返し繰り返し楽章を通じて出てきて、ダイナミックに盛り上がりながら経過部に入っていきます。

第2主題は第1主題が少し発展したもので、その後も基本リズムを中心に、主題が対位法的に絡んだり、新しい動機を加えたり、様々なアクセントや和声を加えたり…と次々と登場する感じで曲は進んで行きます。その中で曲はいつの間にか巨大に成長していき、堂々と全曲が締められます。

そんなわけで、今日はハイドンの《交響曲第103番 変ホ長調》通称『太鼓連打』をお聴きいただきたいと思います。ハリー・クリストファー指揮によるヘンデル&ハイドン・ソサエティ・オーケストラの演奏で、『軍隊』や『ロンドン』と並ぶハイドンの名作交響曲をお楽しみください。


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今日はヨハン・ハルヴォルセンの誕生日〜ヘンデルもビックリ!《パッサカリア ト短調》

2025年03月15日 17時00分17秒 | 音楽
昨日までの暖かく晴れた天気から一転して、今日は朝から空一面に雲の広がる空模様となりました。午後からは雨も降り始めて気温もあまり上がらず、実際の気温よりも寒い体感の一日でした。

ところで、今日3月15日はヨハン・ハルヴォルセンの誕生日です。



ヨハン・ハルヴォルセン(1864〜1935)は、ノルウェーの作曲家・指揮者です。

一般的な知名度はあまり高くありませんが、若年の頃から洗練されたヴァイオリニストとして活動し、ノルウェー楽壇の著名人となった人物です。ノルウェー語では『ヨハン・ハルヴォシェン』と呼ぶようですが、日本では『ヨハン・ハルヴォルセン』という呼称が定着しています。

クリスチャニア(現オスロ)とストックホルムで音楽教育を受けたハルヴォルセンは、1893年にノルウェー西岸の都市ベルゲンのベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任した後、ドイツのライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に入団しました。1893年にはノルウェーに帰国してベルゲン国立劇場のオーケストラの指揮者に就任し、1899年には新設されたクリスチャニア国立劇場のオーケストラの指揮者に任命され、1929年に引退するまで30年間にわたってその座にありました。

ハルヴォルセンは舞台音楽に加えて30曲のオペラ公演を指揮し、30曲以上の劇付随音楽を作曲しました。劇場を引退してからは作曲に専念し、3つの壮大な交響曲や2つのノルウェー狂詩曲を作曲しました。

ハルヴォルセンの作品は華麗な管弦楽法を特徴とする作風によって、エドヴァルド・グリーグ(1843〜1907)によって実現されたロマン主義的なノルウェー国民楽派の伝統を発展させたものです。実際ハルヴォルセンは、グリーグ本人や音楽との関わり合いの深い人物でもありました。

ハルヴォルセンはグリーグの姪と結婚し、またグリーグのいくつかのピアノ曲に管弦楽法を施しました。また、ハルヴォルセン編曲の《リカルド・ノルドローク追悼の葬送行進曲》は、グリーグの葬儀で演奏されました。

そんなハルヴォルセンの誕生日である今日は、ヴァイオリンとヴィオラのための《ヘンデルの主題によるパッサカリア ト短調》をご紹介しようと思います。

《ヘンデルの主題によるパッサカリア ト短調》は、ハルヴォルセンが33歳の1897年に作曲されました。オリジナルの編成はヴァイオリンとヴィオラの二重奏というシンプルな編成ですが、ヴァイオリンとチェロの二重奏で演奏されることもあります。

原曲は



『音楽の母』ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685〜1759)作曲の《クラヴィーア組曲ト短調 HWV432》の最終楽章の



『パッサカリア』です。原曲もなかなか迫力ある展開を見せる見事な曲なのですが、



ハルヴォルセンの曲は弦楽器二台という実にシンプルな編成であるにも関わらず、原曲にも負けない迫力のあるかっこいい曲となっています。

この曲はヘンデルという有名人の名前を借り、ヘンデルのパッサカリアを作曲の動機として使ってはいますが、実際にヘンデルに倣っているのはごく一部で、内容的にはほぼハルヴォルセンの創作です。しかしその出来栄えは弦楽器に精通したハルヴォルセンの力量を余すところなく示した傑作となっていて、たった二台の弦楽器からこんなにも豊かな音楽が生まれるのか…と驚かされます。

そんなわけで、今日はヨハン・ハルヴォルセンの《ヘンデルの主題によるパッサカリア ト短調》をお聴きいただきたいと思います。イツァーク・パールマンのヴァイオリンとピンカス・ズーカーマンのヴィオラの演奏で、原作者ヘンデルもビックリのすさまじく難しいデュエット曲をお楽しみください。



次に、このハルヴォルセンのデュエットの元になったヘンデルの《クラヴィーア組曲ト短調 HWV432》の最終楽章『パッサカリア』をお聴きいただきたいと思います。ブラジル出身のチェンバロ奏者フェルナンド・コルデラの演奏で、先程のハルヴォルセンの音楽はこれが元になっている…ということを感じながら聴き比べてみていただきたいと思います。


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東日本大震災から14年目の3月11日〜御霊安かれとバーバー《弦楽のためのアダージョ》を

2025年03月11日 17時17分17秒 | 音楽
今日は、東日本大震災が発生してから14年目の3月11日です。あの恐ろしい震災からそんなにも月日が経ってしまったのかと、改めて思わされます。

現在私が面倒を見ている小学校の子どもたちはもれなく、あの震災の後に生まれてきた子たちです。そういう子たちと向き合っていると、津波も、陸前高田の『奇跡の一本松』も、福島原発の海水注入も、当時の政権与党の無能さも、全てが『歴史の中の出来事』になろうとしていることを感じざるを得ません。

あの時、私は横浜あざみ野の音楽教室にいました。激しい揺れとともに、レッスン室の全てのピアノがゴン!ゴン!ゴン!と音を立てながら動きだした様は、今も忘れることはできません。

かつて私は、支援級の子どもたちに



雪の降りしきる被災地を慰霊行脚して廻られた盛岡市石雲禅寺の小原宗鑑禅師(当時28歳)のことを教えたことがありました。そして、当時末期がんの床にあった父のいる郷里に帰るに帰れずにいた私にとって、小原禅師の祈りの姿がどれほど有り難いものだったかを伝えました。

常磐線が壊滅した中で1週間後に常磐高速道路がいち早く開通し、病院に駆けつけた時には既に父は昏睡状態でした。その次の日に他界してしまったのですが、医療体制が整わない中で臨終を迎えてしまったということについては、震災関連死と言ってもいいような気がしています。

あれから14年、少しずつ東北は復興しつつあるようですが、そこにどれほどの地元民の努力があったか、当時の国のテコ入れはどの程度のものだったのか、我々が知らなければならないことは山積しています。私たちにできることは、これからを生きる子どもたちに自身の体験を繰り返し伝え、心の奥に震災の記憶を留めることだと思っています。

東日本大震災から14年目の今日は慰霊の意味も込めてサミュエル・バーバーの《弦楽のためのアダージョ》を、クリスティアン・マセラル指揮によるWDR交響楽団の2021年のライブ演奏でお聴きいただきたいと思います。

ここに改めて、かの震災の犠牲者全ての御霊安かれと、そし、御遺族全ての心の安寧を祈ります。

合掌。


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今日はヴェルディの歌劇《ナブッコ》初演の日〜レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場での序曲

2025年03月09日 15時15分15秒 | 音楽
昨日の小雪のちらつく寒々しい天気から一転、今日は陽光が降り注ぐ春らしいお天気となりました。外を歩く人たちの装いもどこか軽やかで、春の到来を待ち望んでいるような雰囲気がありました。

ところで、今日3月9日は歌劇《ナブッコ》が初演された日です。歌劇《ナブッコ》(Nabucco)は、



ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)が作曲した全4幕からなるオペラです。

この名作オペラの作曲の経緯は、実は意外なほど判明していません。通説では、第2作《一日だけの王様》(最後のオペラ《ファルスタッフ》以外のヴェルディの数少ない喜劇)の初演で失敗し、私生活では2人の子供と妻を相次いで亡くし、絶望のあまり作曲の筆を折ろうとまで考えていたヴェルディに対してミラノ・スカラ座の支配人バルトロメオ・メレッリが紹介したテミストークレ・ソレーラ(1815〜1878)作成の台本に、1841年秋頃までに作曲がなされた…といわれています。

《ナブッコ》の題材は、旧約聖書の『エレミヤ書』と『ダニエル書』から取られています。もともとこの台本は歌劇《ウィンザーの陽気な女房たち》を作曲したドイツ出身の新進作曲家オットー・ニコライ(1810〜1849)に当てがわれていましたが、

「作曲に値しない」

としてニコライが返却したものでした。

ソレーラの台本は、

①旧約聖書中の記述
②旧約聖書を基にしたオギュスト・アニセ=ブルジョワおよびフランシス・コルヌの著した1836年初演のフランス語の戯曲『ナブコドノゾル』
③更にその戯曲に基づいて1838年にアントニオ・コルテージが作曲したバレエ

のすべてに依拠していると考えられています。特に③のバレエは同じスカラ座での上演でもあり、その舞台装置、衣装など多くのものがオペラ初演時には流用されたともいわれています。

初演は1842年3月9日に、ミラノ・スカラ座で挙行されました。当時の実力派歌手たちを取り揃えた初演は稀に見る大成功で、これによってヴェルディは一躍ガエターノ・ドニゼッティ(1797〜1848)などに比肩しうるイタリアオペラ作曲界の新星としての評価を勝ち取ったのでした。

《ナブッコ》といえば、『イタリア第二の国歌』とも称される合唱『行け我が思いよ、金色の翼に乗って』があまりにも有名ですが、今回はオペラの序曲をご紹介しようと思います。

《ナブッコ》序曲は全329小節とイタリアオペラの序曲としては長い部類に属し、ヴェルディ初の本格的なオーケストラ作品ともいえる力作で、単独で演奏会のプログラムにとりあげられることもあります。全体は劇中の旋律をいくつか散りばめてオペラの内容を暗示するという、当時のイタリアオペラで一般的にとられていた序曲の形式に従って書かれています。


(《ナブッコ》序曲の冒頭。原題である『ナブコドノゾール』と書かれている。)

序曲はトロンボーンとテューバが奏でるコラール風の序奏で始まり、主部では第2幕のヘブライ人の合唱『裏切り者よ』と第3幕の『行け我が思いよ…』の旋律が現れます。更に第2幕冒頭、第1幕フィナーレ、第3幕の二重唱からとられた音楽が組み合わされて、豪快なクライマックスを築いていきます。

とりわけ、オーボエとクラリネットが先導して全オーケストラに広がっていく『行け我が思いよ』の旋律の抒情的な美しさは印象的で、その後に続くエネルギッシュなクライマックスとの対比はヴェルディ音楽の真骨頂であり醍醐味です。この序曲は管楽器が活躍することから吹奏楽にもアレンジされて、腕に覚えのある吹奏楽団が演奏会やコンクールで演奏することもあります。

そんなわけで、今日はヴェルディの歌劇《ナブッコ》から序曲をお聴きいただきたいと思います。ジェームズ・レヴァイン指揮、メトロポリタン歌劇場管弦楽団の演奏で、実質的なヴェルディの出世作となったオペラの幕開けの音楽をお楽しみください。


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今日はカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの誕生日〜ハイドンやベートーヴェンに先鞭をつけた《交響曲ニ長調》

2025年03月08日 17時00分17秒 | 音楽
今日は、昼前から雪がちらついていました。気温もほとんど上がらず、寒い一日となりました。

ところで、今日3月8日はエマヌエル・バッハの誕生日です。



カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (1714〜1788)は音楽一族バッハ家の出身で、



大バッハことヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685〜1750)が最初の妻マリア・バルバラとの間にもうけた次男です。

他のバッハ一族の作曲家と区別するために「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」などとも呼ばれていました。更に晩年は、後に父の尊称となる「大バッハ」とも呼称されていました。

エマヌエル・バッハは父よりも、父の友人でエマヌエルの名付け親でもあったゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)の作曲様式を受け継いでいました。エマヌエル・バッハはバロック音楽の重厚な多声音楽から脱却した優雅で華やかなギャラント様式や多感様式の音楽を追究して後の古典派音楽の基礎を築き、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)やベートーヴェン(1770〜1827)の音楽にも影響を与えました。

エマヌエル・バッハは生前は父バッハよりも有名で、末の弟ヨハン・クリスティアン(1735〜1782)と同様に世俗的な成功を収めましたが、本人は

「父の指導があったからこそ自分が成功することができた」

と訴え続けていました。その意味において、初期のバッハ神話を創り出した張本人であったと言うことができます。

そんなエマヌエル・バッハの誕生日である今日は《交響曲ニ長調 Wq.183-1》をご紹介しようと思います。この曲はエマヌエル・バッハが1776年に作曲した『4つのシンフォニア(交響曲)Wq.183』の冒頭を飾る作品です。

《交響曲ニ長調 Wq.183-1》は3つの楽章からなっています。

第1楽章はアレグロ・ディ・モルト、ニ長調の4分の4拍子。

ヴァイオリンによるモールス信号のような音形の下を、ヴィオラや低音部楽器が8分音符で行き交います。やがてヴァイオリンが16分音符で駆け巡る中をフルートやオーボエ、ホルンが加わって華やかな音楽が展開していきます。

やがて変ロ音(シ♭)というニ長調の中に自然には存在していない音が全音符で奏され、聴いている側は何事かと思わされます。そして、そんな困惑を他所にニ長調の曲のはずが半音上の変ホ長調になっていき、聴衆を困惑させたまま第2楽章に突入していきます。

第2楽章はラルゴ、変ホ長調の4分の3拍子。

2本のフルートとヴィオラとチェロのソロがヴィオローネに下支えされて穏やかなメロディを展開していき、ヴァイオリンはその間にピチカートで合いの手を入れていきます。やがてニ長調の属和音であるイ長調の和音に落ち着き、この楽章も次の第3楽章へとつながっていきます。

第3楽章はプレスト、ニ長調の8分の3拍子。

スケルツォのように快活な終楽章で、高音の16分音符や中低音の8分音符が縦横無尽に駆け巡ったり、弦楽器群が不穏な弱奏でユニゾンになったりと、どことなくハイドンの交響曲への影響を思わせるパッセージが聴かれます。そして、最後は全楽器が参加して華やかに全曲を締めくくります。

そんなわけで、今日はカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの《交響曲ニ長調》をお聴きいただきたいと思います。グスタフ・レオンハルト指揮、ジ・エイジ・オヴ・エンライントンメント管弦楽団の演奏で、ハイドンやベートーヴェンに先鞭をつけたエマヌエル・バッハの先進的な交響曲をお楽しみください。


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今日はビゼーの《カルメン》初演の日〜アグネス・バルツァ歌唱による『ジプシーの歌』

2025年03月03日 15時55分51秒 | 音楽
今日は3月3日、ひな祭りです。しかし、神奈川県ではあちこちで雪が降り、かなり冷え込んだひな祭りとなりました。

ところで、今日3月3日はオペラ《カルメン》が初演された日です。

オペラ《カルメン》はプロスペル・メリメ(1803〜1870)の小説『カルメン』を元にアンリ・メイヤック(1831〜1897)とリュドヴィク・アレヴィ(1834〜1908)が台本を作り、



ジョルジュ・ビゼー(1838〜1875)が作曲した4幕もののオペラです。オペラと呼ばれてはいますが、音楽(歌)の間をメロディのない台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれています。

1875年3月3日に行われたパリのオペラ=コミック座での初演は不評でしたが、その後の客入りと評判は決して悪くはありませんでした。やがてビゼーのもとには《カルメン》のウィーン公演と、そのために台詞をレチタティーヴォに改めたグランド・オペラ版への改作が依頼されました。

この契約を受けたビゼーでしたが、持病の慢性扁桃炎による体調不良から静養中の6月4日、心臓発作を起こして急死してしまいました。そこで友人である作曲家エルネスト・ギローが改作を担当してウィーン上演にこぎつけ、それ以降フランス・オペラの代表作として世界的な人気作品となっていきました。

物語の舞台がスペインであるため、日本では登場人物の役名の「José」をスペイン語読みで「ホセ」と書き表しますが、実際はフランス語読みで「ジョゼ」と発音して歌われています。音楽もハバネラやセギディーリャなど、スペインの民族音楽を取り入れて作曲されています。

合間が台詞のためダイジェスト版も作りやすく、アマチュアオペラ公演でも取り上げられることの多い作品です。また、各幕の前奏曲やハバネラ、闘牛士の歌など名旋律を連ねた歌のない管弦楽組曲も編まれて、オペラとは別にコンサートでよく演奏されています。

そんな《カルメン》の中から、今回は『ジプシーの歌』をご紹介しようと思います。

第1幕の最後でホセをたぶらかしてまんまと監獄行きから逃げおおせたカルメンがリリア・バスティアの酒場で仲間たちと歌い出し、その歌は酒や場の雰囲気によって徐々に熱を帯びていきます。この場面ではバレエやフラメンコのダンサーが登場し、終幕の闘牛場の場面とならぶ華やかな場面となっています。

そんなわけで、今日はビゼーの歌劇《カルメン》から第2幕幕開けの音楽『ジプシーの歌』をお聴きいただきたいと思います。アグネス・バルツァのカルメン、ジェームス・レヴァイン指揮によるメトロポリタン歌劇場での公演で、エキゾチックなメロディが高揚していく名旋律をお楽しみください。


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今日はスメタナの誕生日〜《モルダウ》へと誘う連作交響詩『我が祖国』第1曲《ヴィシェフラド》

2025年03月02日 17時00分17秒 | 音楽
今日の日中、神奈川県は春のような陽気となりました。気温も19℃まで上昇し、桜が咲いてしまいそうな暖かさとなりました。

ところで、今日3月2日はスメタナの誕生日です。



ベドルジハ・スメタナ(Bedřich Smetana,1824〜1884)は、チェコの作曲家・指揮者・ピアニストで、ドイツ語名のフリードリヒ・スメタナ (Friedrich Smetana)でも知られています。

スメタナは1824年3月2日、当時はオーストリア帝国(ハプスブルク君主国)領であったボヘミア北部、現在のパルドゥビツェ州に位置する都市リトミシュルで生まれました。音楽に造詣の深かった父の影響から早くに音楽に触れたこともあって幼少期から音楽的才能を開花させ、早い時期からヴァイオリンを学んでいました。なお、ヴァイオリンを習っている際に即興でワルツを弾き、それを教師が書きとったものがスメタナの最初の作品であるとされています。

のちにピアノも本格的に習って上達し、ヴァイオリンよりもピアノの方が気に入ったといいます。1830年、6歳の時には、公の場でダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール(1782〜1871)のオペラ《ポルティチの唖娘》の序曲のピアノ編曲版を演奏して好評を得ました。

そんなスメタナの誕生日である今日は、連作交響詩『我が祖国』をご紹介しようと思います。

『我が祖国(Má Vlast)』はスメタナの代表的な管弦楽曲で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩です。第2曲《ヴルタヴァ》(モルダウ)が特に著名で、合唱曲にもなっていますから、歌ったこのとある方も多いのではないでしょうか。

スメタナは1856年から1861年まで、故国ボヘミアを離れてスウェーデンのヨーテボリでピアニストおよび指揮者として活動していましたが、この時期にリストの影響を受けて《リチャード三世》作品11(1857〜1858)、《ヴァレンシュタインの陣営》作品14(1858〜1859)、《ハーコン・ヤール》作品16(1861〜1862)の3曲の交響詩を作曲しています。これらはスメタナの作品の中ではあまり知られていませんが、それぞれシェイクスピアの戯曲、三十年戦争を扱ったシラーの戯曲、中世のノルウェー王ハーコン・シグルザルソンを題材としたもので、いずれも特に国民主義的な作品ではありません。

チェコ国民音楽として記念碑的な作品を交響詩の連作の形で創作しようとスメタナが考えたのは、1869年から1872年の間のことであると言われています。当初は《ジープ(Říp)》、《ヴィシェフラド》、《ヴルタヴァ》、《リパニー(Lipaný)》、《ビーラー・ホラ(Bílá hora)》の5つの地名を各曲の題名として構想していましたが、最終的には《ヴィシェフラド》、《ヴルタヴァ》、《シャールカ》、《ボヘミアの森と草原から》、《ターボル》、《ブラニーク》の6曲が作曲されました。

第1曲《ヴィシェフラド》が完成したのは、1874年のことでした。これと前後してスメタナは聴覚を失ってしまっていますが作曲活動は続けられ、最後の第6曲《ブラニーク》は1879年に完成しました。

当時の聴衆にとって「交響詩」がなじみの薄いジャンルであったことに配慮して、スメタナは自ら解説を書いて楽曲の意図が理解されるよう努めました。さらに楽譜にも、標題のページだけでなく楽曲の各箇所に注釈が記されています。

ここまできたら第2曲《モルダウ》がくる…と思われるかも知れませんが、残念でした。今回ご紹介するのは、第1曲《ヴィシェフラド》です。

『我が祖国』の第1曲《ヴィシェフラド》は1872年から1874年の間に構想され、1874年9月末から11月18日にかけて作曲されました。6曲のうちで唯一、スメタナが失聴する前にかなりの部分が出来上がっていた作品です。

この曲はプラハにあるヴィシェフラド城を題材としていて、ヴィシェフラドは「高い城」を意味するのでそのように題名が訳されることもあります。この城はボヘミア王国の国王が居城としていたこともある城でしたが戦乱によって破壊され、



現在では廃墟となってしまっています。

この曲は吟遊詩人(Lumír)のハープで始まり、この詩人が古の王国の栄枯盛衰を歌う…というのが内容で、冒頭のハープの音色のあと、城の工廠の響きに転換していきます。この部分で現れる



4つの音で構成される主題(B♭-E♭-D-B♭)がヴィシェフラド城を示していて、第2曲《ヴルタヴァ》(モルダウ)の終わりと第6曲《ブラニーク》の終わりにも提示され、『我が祖国』全曲を通じて繰り返し用いられています。

因みに、この主題の最初の部分には



   ↑ ↑
   B S
  シ♭ ミ♭

スメタナの名前の頭文字B.S.が音として刻まれています。壮大な音楽のこうしたところにスメタナの茶目っ気のようなものが垣間見えて、なかなか興味深いものです。

冒頭のアルペジオでは、2台のハープが必要とされます。属七の和音のあと管楽器が主題を引き継ぎ、弦楽器がそれに続いて、やがてオーケストラの全楽器によるクライマックスに達します。

次のパートでは、スメタナは速いテンポを用いて城の歴史を呼び覚まし、これは行進曲に発展していきます。表面上は明るいクライマックスは、やがて城の衰退を描写する下降パッセージで中断され、音楽は静かになります。

そして冒頭の主題が再び提示され、現在では廃墟となってしまった城の美しさを再び奏でます。やがて音楽は静かに終わり、城の下を流れるヴルタヴァ川(モルダウ)の描写へと続いていくのです。

そんなわけで、今日はスメタナの連作交響詩『我が祖国』から、第1曲《ヴィシェフラド》をお聴きいただきたいと思います。イルジ・ビェロフェラーヴェク指揮、プラハ音楽院交響楽団による演奏で、名曲《モルダウ》へと誘う壮大な音楽をお楽しみください。


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今日はショパンの誕生日〜中学生の藤井風による《幻想即興曲》

2025年03月01日 16時45分15秒 | 音楽
今日から3月に入りましたが、今日は今年に入ってから一番ではないかと思うような暖かさとなりました。このまま桜の蕾が刺激されて、卒業式頃に満開になってしまうのではないかと懸念するほどの陽気でした。

ところで、今日3月1日はショパンの誕生日です。



フレデリック・フランソワ・ショパン(1809or1810〜1849)は、ポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家です。

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名で、その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占めていることから『ピアノの詩人』とも呼ばれています。ショパンは様々な形式や美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を飛躍的に拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いていきました。

夜想曲やワルツ、ポロネーズやマズルカなど、情熱的かつダイナミックな曲はクラシックピアノを学ぶ者の憧れであり、大きな目標となっています。パリを中心として活躍したことからフランスの作曲家という認識もされがちですが、母国ポーランドへの強い愛国心を持ち続けた作曲家でもあります。

来歴等は割愛させていただくとして、今回は名曲《幻想即興曲》をご紹介しようと思います。

正式名称《即興曲第4番 嬰ハ短調 遺作 作品66》はショパンが作曲した4曲の即興曲のうち最初に作曲された作品ですが、ショパンの生前には発表されることはありませんでした。ショパンの死後1855年に、ショパンの友人のひとりユリアン・フォンタナ(1810〜1869)の手によって《幻想即興曲》と題して出版された曲で、 現在ではショパンの作品の中でもよく知られる楽曲のひとつです。

ショパンは、遺言で自分の未出版作品の破棄を希望していましたが、その希望は受け入れられず、フォンタナをはじめとするショパン研究者によって『遺作』として出版されました。主な遺作には《幻想即興曲》や



映画『戦場のピアニスト』に使われたことでも有名な《レント・コン・グラン・エスプッレシオーネ 嬰ハ短調(夜想曲 第20番)》などがあります。

この《幻想即興曲》は、ピアノ上級者にとっての必須曲のひとつとされています。とにかく難しいポイントとしては



楽譜を見るとお分かりいただけると思いますが、左手が3連符の連続である6連符を演奏している上で、右手が16分音符を
演奏する…つまり左手で奇数、右手で偶数の音符を演奏しなければならないわけですΣ(゚Д゚lll)。

勿論、テクニカルなことだけに没頭するわけにもいかず、『ピアノの詩人』たるショパンの音楽世界も表現しなければ曲になりません。ショパンという人は、とんでもない作品を後世に遺してくれたものです…。

これまでに名だたるピアニストが演奏し、録音や画像を残していますが、今日はその中から異色なピアニストの演奏をご紹介しようと思います。

日本人の中学3年生が演奏している画像なのですが、この少年の現在の姿が



こちらです。そう、今やアーティストとして名高い藤井風さんの中学時代の演奏動画が残っているのです!

正直、画質は粗いし、少々ミスタッチもあるし、何しろ電子ピアノだしと、ショパンの《幻想即興曲》を紹介する動画としてはツッコミどころがないわけではありません。それでも、この少年が十数年後に味の素スタジアムを満席にするアーティストになるわけですから、その萌芽を見届けるものとして十分に観る価値のある動画です。

そんなわけで、ショパンの誕生日である今日は、名曲《幻想即興曲》をお聴きいただきたいと思います。当時14歳の藤井風さんの演奏で、初々しくも感動的なショパンをお聴きください。


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今日はヘンデルの歌劇《リナルド》初演の日〜悲しみを長調で歌う名アリア『私を泣かせてください(Lascia ch'io pianga )』

2025年02月24日 15時55分51秒 | 音楽

今日も朝から冷え込む一日となりました。天気予報では明日から徐々に春めいてくるということでしたが、にわかには信じ難いような天候が続いています。

ところで、今日2月24日は歌劇《リナルド》が初演された日です。《リナルド》は



ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685〜1759)の作曲したオペラで、イタリアの詩人トルクァート・タッソ(1544〜1595)による11世紀のエルサレムを舞台にした叙事詩『解放されたエルサレム』が原作です。

《リナルド》はロンドンで初演された最初のヘンデルのオペラで1711年2月24日の初演は大成功し、上演回数は1711年のシーズンで15回、ヘンデルの生前に合計53回を数えるほどの人気を誇りました。《オルランド》、《アルチーナ》、《テゼオ》、《アマディージ》とともに5つあるヘンデルの『魔法オペラ(魔法使いが登場するオペラ)』のひとつで、スペクタクル的な要素もふんだんに盛り込まれているのが特徴です。

ヘンデルは1706年ごろからイタリアのローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアなどを旅行し、イタリアオペラののエッセンスを吸収することができただけではなく、自作の歌劇《アグリッピーナ》を本場ヴェネツィアで成功させることができました。1710年にはハノーファー選帝侯づきの宮廷楽長の地位を得たもののハノーファーには居つかずに旅行に出かけ、同年末になってイギリスへ渡りました。

ロンドンでヘンデルはヘイマーケット劇場の支配人アーロン・ヒルと知り合い、ヒルはタッソーを元に脚本を書いて、それをもとにジャコモ・ロッシが台本を仕立てました。速筆で知られるヘンデルはわずか2週間でこのオペラに作曲し、台本の作成が追いつかないほどであったといいます。

ただし、オペラのうちの15曲は過去の自作からの流用であったことが速筆を可能にした要因でもありました。完成したオペラはシーズン中に15回も上演されるという大成功をおさめ、ヘンデルはシーズンが終わる1711年6月までロンドンに滞在しました。

全部観ると3時間近くかかるので、今回はその中から有名なアリア『私を泣かせてください(Lascia ch’io pianga)』をご紹介しようと思います。



(ヘンデルの自筆譜)

『私を泣かせてください』 は主人公である十字軍の英雄リナルドの恋人アルミレーナのアリアで、エルサレムのイスラーム側の魔法使いの囚われの身になったアルミレーナが、敵軍の王アルガンテに求愛されても愛するリナルドへの貞節を守るため


Lascia ch'io pianga

mia cruda sorte,

e che sospiri la libertà.

Il duolo infranga queste ritorte

de' miei martiri sol per pietà.


どうか泣くのをお許しください

この過酷な運命に

どうか自由にあこがれることをお許しください

わが悲しみは、打ち続く受難に鎖されたまま

憐れみさえも受けられないのであれば


とアルガンテに歌うアリアです。後に19世紀のイタリアの音楽学者アレッサンドロ・パリゾッティ(1853〜1913)が17〜18世紀のオペラや宗教曲のアリアを編曲・編集して1914年にリコルディ社から出版した“Arie antiche”(古典アリア集)に含まれていたため単独で有名になり、日本では



“Arie antiche”を基にした『イタリア歌曲集』に掲載されている曲として知られていて、今でも音大生の必須歌曲のひとつとなっています。


そんなわけで、今日はヘンデルの歌劇《リナルド》から名アリア『私を泣かせてください』をお聴きいただきたいと思います。絶望や悲しみを長調で歌う、ヘンデル歌曲の真骨頂をご堪能ください。


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