毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
叔母
12月21日は回文の日だったらしい。回文とは、右から読んでも左から読んでも同じ意味を表す文のことだから、12・21、確かに回文になっている。5月15日でもよさそうだが、1番数字が多いからこの日を選んだのだそうだ。しかし、私にとって12月21日は、母方の叔母の誕生日として記憶にとどめている日だ。と言っても、昨日は全く忘れていた。思い出したのは、叔母の夫、叔父がケーキ箱を手に提げて歩いていたのをバスの運転中に見かけたからだ。「どうしてケーキなんか・・ああ、そうか」と思いついた時には、あの叔父にも優しいところがあるんだなと感心した。というのは、叔母はずいぶんこの叔父には悩まされてきたからである。
叔母は9人兄弟の末娘として生まれたが、どういうわけか少々グレて、家族の中では頭痛の種だった。挙句の果てには、20歳そこそこで駆け落ち同然で叔父と一緒に暮らすようになった。叔父はかなりの不良青年で、近隣にはちょっと名の知れたワルだったらしいが、叔母と暮らし始めてからはトラック運転手として真面目に働くようになった。生活は楽ではなかったようだが、叔母が働きに出て人並みの生活は送って来た。一男一女をもうけて、それなりに幸せな家庭を築くことができた。ただ、叔父が我儘な性格で、独善的というか、家庭内では王様のような存在で、叔母は叔父の言うことには絶対服従の態度を取り続けてきた。傍目から見るとかなり窮屈な暮らしに見えたのだが、たいして愚痴もこぼさず、家庭を維持してきたのは不思議に思うし、立派にも思える。
私の母が存命中は、母を慕って長い間私の家で母と一緒に働いていた。私たちは「叔母さん」などと呼んだことは一度もなく、「・・ちゃん」と名前で呼んできた。働き者で、母が亡くなってからは、親戚が経営している工場へ勤めに出て、もう20年近くはなるだろう。息子が大学を卒業し、就職して結婚し、孫も一人できて一段落したと思った矢先に、なんと叔父が脳梗塞で倒れてしまった。今から6年ほど前のことだ。幸い一命はとりとめたが、後遺症が残り、運転手として働けなくなってしまった。家計を支えるため働き続けながら、叔父の看病に朝夕懸命に頑張り続け、その甲斐あってか、叔父は何とか独力で身の回りのことができるまで回復し、自力で歩けるようにもなった。体が不自由になった分、少し気弱にはなったように見えるが、まだまだ我儘を言って困らせる叔父を上手にあしらいながら、叔母はなんとか家族を支えてきた。ここしばらくは、大きな問題もなく平穏に暮らしていたのだが、最近になってまたもや叔母に試練が襲い掛かった。
叔母には今年34歳になる娘がいるが、一度結婚して一年もたたないうちに離婚してしまい、ずっと実家で父母と暮らしている。この私の従姉妹は、一風変わった娘で、話をしていると面白い奴だが、最近妊娠しているのが分かり、子供を産むと言い出したのだそうだ。相手は誰だと、家族がいくら問い詰めても、固く口を閉ざしてどうしても言わないらしい。どうしても産んで育てると言い張るので、叔母は生まれてくる子供には何も罪はないのだから、できることはしてやろうと心を決めたらしい。妊婦が腹帯を巻く日に親戚に紅白の餅を配る風習が私の住む地域にはあるのだが、それを生まれてくる孫のためにまずはやってやろうと、私の家にもその告知に訪れた。
その話をして叔母が帰った後に、私の父が「あいつは本当に可哀相な奴だ。何であんなに次から次に苦労が襲ってくるんだ」と半分涙ながらに、ぽつんと言った。父も末っ子で、同じ末っ子の叔母を可愛がって、自分の畑で作った野菜をせっせと運んでいくのを見ても、「運の悪い奴だ」と叔母のことを心から気にかけているのがよく分かる。叔母を見ていると本当にそんな気がする。私の知っている限りでは、そんなに楽なことはあまりなかったように思う。旅行とか楽しみに出かけたことは余り聞いたことがない。ただ、休日ごとに叔父の目を盗んでパチンコに行って遊んでくるのが、唯一の楽しみのようだ。
叔母ももう57歳。そろそろゆっくりしてもいい頃なのに、これから生まれてくる新しい孫のために、もうひと頑張りもふた頑張りもしなければならない。私はこの叔母のことを思うたびに、とにかく丈夫でいつまでも元気でいて欲しいと願っている。
叔母は9人兄弟の末娘として生まれたが、どういうわけか少々グレて、家族の中では頭痛の種だった。挙句の果てには、20歳そこそこで駆け落ち同然で叔父と一緒に暮らすようになった。叔父はかなりの不良青年で、近隣にはちょっと名の知れたワルだったらしいが、叔母と暮らし始めてからはトラック運転手として真面目に働くようになった。生活は楽ではなかったようだが、叔母が働きに出て人並みの生活は送って来た。一男一女をもうけて、それなりに幸せな家庭を築くことができた。ただ、叔父が我儘な性格で、独善的というか、家庭内では王様のような存在で、叔母は叔父の言うことには絶対服従の態度を取り続けてきた。傍目から見るとかなり窮屈な暮らしに見えたのだが、たいして愚痴もこぼさず、家庭を維持してきたのは不思議に思うし、立派にも思える。
私の母が存命中は、母を慕って長い間私の家で母と一緒に働いていた。私たちは「叔母さん」などと呼んだことは一度もなく、「・・ちゃん」と名前で呼んできた。働き者で、母が亡くなってからは、親戚が経営している工場へ勤めに出て、もう20年近くはなるだろう。息子が大学を卒業し、就職して結婚し、孫も一人できて一段落したと思った矢先に、なんと叔父が脳梗塞で倒れてしまった。今から6年ほど前のことだ。幸い一命はとりとめたが、後遺症が残り、運転手として働けなくなってしまった。家計を支えるため働き続けながら、叔父の看病に朝夕懸命に頑張り続け、その甲斐あってか、叔父は何とか独力で身の回りのことができるまで回復し、自力で歩けるようにもなった。体が不自由になった分、少し気弱にはなったように見えるが、まだまだ我儘を言って困らせる叔父を上手にあしらいながら、叔母はなんとか家族を支えてきた。ここしばらくは、大きな問題もなく平穏に暮らしていたのだが、最近になってまたもや叔母に試練が襲い掛かった。
叔母には今年34歳になる娘がいるが、一度結婚して一年もたたないうちに離婚してしまい、ずっと実家で父母と暮らしている。この私の従姉妹は、一風変わった娘で、話をしていると面白い奴だが、最近妊娠しているのが分かり、子供を産むと言い出したのだそうだ。相手は誰だと、家族がいくら問い詰めても、固く口を閉ざしてどうしても言わないらしい。どうしても産んで育てると言い張るので、叔母は生まれてくる子供には何も罪はないのだから、できることはしてやろうと心を決めたらしい。妊婦が腹帯を巻く日に親戚に紅白の餅を配る風習が私の住む地域にはあるのだが、それを生まれてくる孫のためにまずはやってやろうと、私の家にもその告知に訪れた。
その話をして叔母が帰った後に、私の父が「あいつは本当に可哀相な奴だ。何であんなに次から次に苦労が襲ってくるんだ」と半分涙ながらに、ぽつんと言った。父も末っ子で、同じ末っ子の叔母を可愛がって、自分の畑で作った野菜をせっせと運んでいくのを見ても、「運の悪い奴だ」と叔母のことを心から気にかけているのがよく分かる。叔母を見ていると本当にそんな気がする。私の知っている限りでは、そんなに楽なことはあまりなかったように思う。旅行とか楽しみに出かけたことは余り聞いたことがない。ただ、休日ごとに叔父の目を盗んでパチンコに行って遊んでくるのが、唯一の楽しみのようだ。
叔母ももう57歳。そろそろゆっくりしてもいい頃なのに、これから生まれてくる新しい孫のために、もうひと頑張りもふた頑張りもしなければならない。私はこの叔母のことを思うたびに、とにかく丈夫でいつまでも元気でいて欲しいと願っている。
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