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夕暮れ

 「枕草子」に『秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり』とあるが、私には秋の夕暮れを楽しむ時間的余裕など、残念ながらない。今は、授業を始めてふと気が付けば窓の外は真っ暗、という時期であるから、夕暮れなどないに等しい。それでも、清少納言が秋には夕暮れがいいと選んだのには同感できる。昼のほのかな暖かみが日の入りとともに褪せていき、冷気が体を包み込み始め、夜の訪れを肌で感じる時、何故かもの寂しさに襲われる。ふと朱に染まり始めた天を仰げば、からすが小さな群れを成して巣へと帰っていく。ああ、一日が終わるんだな、と心で感じ取れる瞬間だ。電気などなかった古人にとっては、夕暮れとはまさしく闇の世界への入り口であっただろう。それから翌日の朝まで続く長い闇の時間を思えば、夕暮れとは、私たちからは想像しがたいほどの感慨を彼らに催させたのではないだろうか。
 現代に生きる私たちは真の闇というものにほとんど接することができない。いくら私のように市街地から離れて暮らしている者の周りでも、どこかそこかに常に灯りが点いている。窓から訪れるのは月光のみなどと風流をきめこむことができないのが私たちの生活だ。夜が短くなったわけではないが、私たちは古人ほど夜に対する恐れを感じなくなったのではないだろうか。闇に潜む妖怪の類を恐れながら、古人はいくつもの怪奇譚を著したが、私たちはそうした想像力を刺激する真の闇から遠ざかってしまった。
 しかし、夕暮れ時は私たちの心をセンチメンタルにする力を失ってはいない。
    
   「夕暮れ時はさびしそう」  作詞/作曲 天野滋
  田舎の堤防 夕暮れ時に
  ぼんやりベンチに すわるのか
  散歩するのも いいけれど
  よりそう人が 欲しいもの

  あの娘がいれば 僕だって
  さびしい気持にゃ ならないさ
  まわりの暗さは 僕達のため
  あの娘が来るのを 待っている
  夕暮れ時は さびしそう
  とっても一人じゃ いられない

これは、NSPというグループが1974年に発表した楽曲である。詞は洗練されたものとは言いがたく、曲も泥臭くて、当時の私の周りでも好き嫌いが分かれた歌であった。NSPとは「ニューサディスティックピンク」の略だが、そんなシュールなグループ名を持った者たちには似つかわしくない、己の心情をストレートに表現した純朴な歌であった。高校生であった私が、この詞に激しく共感できるような体験をしていたわけではないが、何故だか今でも心の片隅に残っている my favorite songs の1つである。
 この歌を歌っていた、天野滋氏が今年の7月1日に亡くなった。その後しばらくは、いくつかのラジオ番組で、彼の死を悼んで何度かこの曲を耳にした。その度に昔のことが頭を過ぎったものだが、私が若かった頃に繰り返し聞いていた歌を歌っていた人たちが近年次々と亡くなっていく。「初恋」の村下孝蔵氏が1999年に、「酒と泪と男と女」の河島英五氏が2002年に亡くなってしまった。いずれも早すぎる死である。心から惜しまないではいられない。しかし、音楽の力は偉大だ。彼らがこの世を去った後でも、その名曲は私たちの心にいつまでも行き続けている。勿論、それは音楽に限ったものではなく、芸術全てに共通するものだ。
 まさしく、Art is long, life is short. (芸術は長し、人生は短し)である。
 夕暮れから連想しこんな話にたどり着いてしまった。やはり、夕暮れは人にものを思わせる力を持っている。
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