毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
電飾
12月になればクリスマス、とばかりにいくつかの家でイルミネーションが飾られるようになる。上品に飾り付けられた家もあれば、やたらケバケバしく原色の電燈を点滅させるだけの家もあり、その家に住む人の感性や品性がほの見えて、夜の運転も楽しくなってくる。写真は私の家の近所のイルミネーションだ。中央に万博でおなじみのモリゾーとキッコロのイラストを置いて、その前にはトナカイや汽車の電飾された模型、横には光り輝くツリーを配し、なかなか上品な美しさを醸し出している。道を行く人たちもしばしば立ち止まって眺めている。塾の教室の窓から真っ直ぐに見える位置にあるので、私も授業の合間にチカチカ光る様子を見ては楽しんでいる。
この家のイルミネーションは毎年進化を続けている。7・8年位前から飾り付けを始め、年を追うごとにきれいになっている。毎年少しずつ変化する趣向に研究の跡が窺え、頑張ってるな、と声をかけたくなる。ここは、周りがどこも電飾を施していないから、自分たちの思い通りにのびのびやっていられるのだろうが、向こう三軒両隣という具合に、辺り一帯がイルミネーションで飾り付けられている所は大変だろうと思う。話し合って協力している所もあるだろうが、多くは一軒一軒が単独で行っているように思う。それは飾り付けに統一性が見られないから勝手に思っていることだが、統一が取れていないからこそ、変な競争意識が芽生えて苦労しているのではないだろうかと、要らぬ心配をしてしまう。隣家が今年は電球の数を増やしたから、我が家も新しい飾り付けを買って来ようかなどと互いに意識し合い、切磋琢磨しながら、あるいはライバル意識をむき出しにしながら年々派手で大仕掛けになっていく所をよく見かける。愚かな負けん気の張り合いだと嘲笑することもできるだろうが、本人たちは結構涙ぐましい努力をしているかもしれないのだから、一概に馬鹿にしてはいけないだろう。
無駄な電気を使って、電気代も大変だろうし、第一資源の無駄遣いだとイルミネーションが流行りだした頃はよく言われたが、今はあまり聞かなくなった。それよりもどこそこの電飾がきれいだという話題の方が中心になって、昨今では色々な公共施設も工夫を凝らして美を競っている。私の市でも、今年オープンした大きな市民ホールに昨夜から大きな電飾が施され、周辺の道路のガードレールは全て電燈で飾られるようになった。これがわが市の年末の風物詩になるのかと思うと、「狛犬」をかたちどった電飾はちょっと悪趣味だろうとは思うが、期間限定のものだからと素直に楽しめばいいのかもしれない。
でも、わざわざイルミネーションしなくても、今はコンビニという一年中街を明るくする大きな電飾がどこにでもあるからいいじゃないかと、ちょっと嫌味を言ってみたくなる。今まで真っ暗だった場所にコンビニができると、一気に辺りが明るくなる。一晩中煌々と灯りを点けているから当然のことだが、そのおかげでかなり街が華やぐ。車の流れや人通りもコンビニができればかなり変わる。暗い夜道を歩きながら、コンビニの明かりが見えるとほっとする人も多いではないだろうか。まあ、誘蛾灯の役目をしていて、訳の分からぬ集団が集まって来るという弊害はあるにせよ、コンビニが街を明るくするのに大きな役割を果たしていることは紛れもない事実だろう。
それが一番よく分かるのは、コンビニがつぶれたときだ。今まで不夜城の如く明るかった場所が、突如暗闇に変わってしまう。人通りもまばらになり、うすら寒い風だけが駐車場を吹きぬける。まさしく現代の廃墟だ。兵どもが夢の跡、と言った悲しみを漂わせながら暗闇に佇立している姿は、見る者に人の世の無常を考えさせずにない。
そう言えば、イルミネーションを施したコンビニを私は見たことがない。そのことが既にコンビニという存在自体がそのままで一つの大きな電飾であることの、見事な証左ではないだろうか。
この家のイルミネーションは毎年進化を続けている。7・8年位前から飾り付けを始め、年を追うごとにきれいになっている。毎年少しずつ変化する趣向に研究の跡が窺え、頑張ってるな、と声をかけたくなる。ここは、周りがどこも電飾を施していないから、自分たちの思い通りにのびのびやっていられるのだろうが、向こう三軒両隣という具合に、辺り一帯がイルミネーションで飾り付けられている所は大変だろうと思う。話し合って協力している所もあるだろうが、多くは一軒一軒が単独で行っているように思う。それは飾り付けに統一性が見られないから勝手に思っていることだが、統一が取れていないからこそ、変な競争意識が芽生えて苦労しているのではないだろうかと、要らぬ心配をしてしまう。隣家が今年は電球の数を増やしたから、我が家も新しい飾り付けを買って来ようかなどと互いに意識し合い、切磋琢磨しながら、あるいはライバル意識をむき出しにしながら年々派手で大仕掛けになっていく所をよく見かける。愚かな負けん気の張り合いだと嘲笑することもできるだろうが、本人たちは結構涙ぐましい努力をしているかもしれないのだから、一概に馬鹿にしてはいけないだろう。
無駄な電気を使って、電気代も大変だろうし、第一資源の無駄遣いだとイルミネーションが流行りだした頃はよく言われたが、今はあまり聞かなくなった。それよりもどこそこの電飾がきれいだという話題の方が中心になって、昨今では色々な公共施設も工夫を凝らして美を競っている。私の市でも、今年オープンした大きな市民ホールに昨夜から大きな電飾が施され、周辺の道路のガードレールは全て電燈で飾られるようになった。これがわが市の年末の風物詩になるのかと思うと、「狛犬」をかたちどった電飾はちょっと悪趣味だろうとは思うが、期間限定のものだからと素直に楽しめばいいのかもしれない。
でも、わざわざイルミネーションしなくても、今はコンビニという一年中街を明るくする大きな電飾がどこにでもあるからいいじゃないかと、ちょっと嫌味を言ってみたくなる。今まで真っ暗だった場所にコンビニができると、一気に辺りが明るくなる。一晩中煌々と灯りを点けているから当然のことだが、そのおかげでかなり街が華やぐ。車の流れや人通りもコンビニができればかなり変わる。暗い夜道を歩きながら、コンビニの明かりが見えるとほっとする人も多いではないだろうか。まあ、誘蛾灯の役目をしていて、訳の分からぬ集団が集まって来るという弊害はあるにせよ、コンビニが街を明るくするのに大きな役割を果たしていることは紛れもない事実だろう。
それが一番よく分かるのは、コンビニがつぶれたときだ。今まで不夜城の如く明るかった場所が、突如暗闇に変わってしまう。人通りもまばらになり、うすら寒い風だけが駐車場を吹きぬける。まさしく現代の廃墟だ。兵どもが夢の跡、と言った悲しみを漂わせながら暗闇に佇立している姿は、見る者に人の世の無常を考えさせずにない。
そう言えば、イルミネーションを施したコンビニを私は見たことがない。そのことが既にコンビニという存在自体がそのままで一つの大きな電飾であることの、見事な証左ではないだろうか。
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