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門松

 新年を迎えるため、一対の門松が塾の玄関前に飾られた。これは業者に頼んだものなどではなく、私の父が毎年自分で竹を切ってきて、工夫をを凝らして作ってくれるものである。もう10年以上、毎年暮れになると準備を始め、クリスマスが終った頃に作り上げてくれる。最初の頃は、いかにも素人が作ったなと言いたくなるような出来だったが、年々腕前を上げ、最近ではどこの門松と比べても決して引けをとらないだけの大きさと品格を持ったものを作ってくれるようになった。元々が大工なので竹を切ることはお手のものだが、スパッと斜めに勢いよく切った切り口が気持ちいい。節をうまく利用して、人が笑った口元のように切るのがコツらしいが、3本ともそのとおりになっていて、笑い顔がうまく演出されている。門松というくらいだから、当然松も飾られているが、これも竹と同じように父が山の中で切ってきた。ワラを編んで作ったもので囲った桶に、竹と松さらに同じく山で採った梅と南天の枝を挿し、笹の葉も添えて上から砂を入れて固めてある。仕上げに白と紅の葉牡丹が一対ずつ植えられている。思うにこの葉牡丹がアクセントとなって全体を引き締めている。去年はどういうわけかこの葉牡丹がなかったものだから、ずいぶん貧相だったが、今年は立派なものが植えられた。唯一この葉牡丹だけがお金を払って買ってきたものだから、総経費は2,000円を越えていないだろう。業者に頼んだら一体いくらくらいかかるのだろう。勿論、お金を払ってまで門松を飾ろうなどという酔狂は持ち合わせていないが。
 塾生たちもこの門松を見ると、お正月が近いことを実感できるらしくて、玄関に入る前に立ち止まって見る者も多い。中には高かったでしょう、などと心配する生徒もいて、「あのお爺さんが作ったんだよ」と父を指差すと皆驚く。「すごいね」と褒めてくれると、自分で作ったわけでもないのに何だか嬉しくなる。 
 それにしても、父の工夫にはいつもながら驚く。大工という職業は、2つの「そうぞう」力が要る仕事だとかねがね思っていた。それは、住む人の身になってどういう家を造ろうかという『想像力』と、自分の持つ技術を駆使して思い通りの家を『創造する力』のことであり、この2つのどちらが欠けてもいい家は建てられないと思う。父を見ていると、本当にこの2つが備わった人物であることがよく分かる。それに比べ、今年大きな問題となった、耐震強度を偽ったマンションを建てた建築家たちにはこの想像力が全く欠如しているとしか思えない。机上の計算ではギリギリ耐えられるものだとしても、そこに住む人たちのことを考えたらとてもそんなことはできないはずだ。住民のことなどまるで頭に浮かべず、自分たちの利益をいかに大きくするかにのみ集中している。想像力のかけらすら持ち合わせていないからこそ、こんな暴挙を行っても平気な顔をしていられるんだろう。
 父は一連のニュースを見聞きするたびに厳しい言葉を浴びせるが、それも当然だろう。父は、建築士の作った設計図などなくても家一軒ちゃんと建てられた。私の住んでいる家も塾舎も、父が自分で引いた図面を建築士がなぞって建築許可を取り、父が力を込めて造り上げた。昔の大工で、棟梁と呼ばれた者たちは皆これくらいの想像力と創造力、そして確かな技術を持っていたのだと、今さらながら驚く。
   
    門松は 冥途の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

 一休禅師の有名な歌だが、毎年父が門松を作ってくれるたびに心に浮かぶ。年が明ければ、私たちは皆1つ年をとり確実に死に一歩近付くことになるが、ここまで生きてこられた喜びも、また大切にしなければならない。あと何年父が健康で門松を作り続けられるか分からないが、それが1年でも長く続いてくれることを、出来上がった門松を見ながら、切に祈った。
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