goo

「水死」

 大江健三郎の新刊小説「水死」を読んだ。大江の長編小説を読むのは実に久しぶりだ。2年前に「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」を読んで、その感想をこのブログにも載せたが、これは中編小説と呼ぶのがふさわしい長さの小説であり、ハードカバーで400ページを超えるような大江の長編小説を最後に読んだのは、「燃えあがる緑の木三部作」と言われる「揺れ動く(ヴァシレーション)」の途中までであり、その後の作品はすべて書棚に飾ってあるものの、ほとんど読まないままにしてある。それまでの大江の作品はほとんどすべて読んでいたのに、何故そこで止まってしまったのだろう・・。
 その答えを何とこの「水死」という小説の中で、大江自身が教えてくれたのには驚いた。それは、P.351で、唐突に登場した桂という男が語っている・・。

――それはその通り。これ(「臈たしアナベル・リイ」)は長江さん(大江と思しき語り手)としての本格小説ではある。文体にしても構造にしてもさ。しかし、この十年、十五年、長江さんのすべての長編がこの調子じゃないの、ウナイコ?基本的には語り手=副主人公が・・・時には主人公である人物すらが・・・みな作家自身に重ねてある。それはやりすぎじゃないの?小説らしい小説と受けとめられるだろうか?一般的にいって、小説らしい小説を読みたい読者を取り込めない。どうしてこのように、世界を狭く限られるんですか?
――それはぼくも認めますよ。もう放棄したけれど、この間までずっと準備してきた小説は、六十年以上前に五十歳で死んだ父親を書こうとしていた。そしてこれは書き上げることができないと観念して、今きみのいったことと同じことを考えた。自分はどうしてこういう隘路に入り込んだか、と・・・。そしてすぐにね、このような書き方でなければ、書くこと自体を持続できなかった、つまり自分を狭く限るほかなかったんだ、と思い当ってね。
――・・・しかし、この書棚だけを見ても、あなたは広い人じゃないですか?

 そうだ、大江を読むのを止めてしまったのは、新しい小説のページを開くたびに、同じような登場人物たちが、なんだか四国の山奥の伝説と呼ぶべきものを基にして、物語を展開していく・・、そんなことが繰り返されるのを何度か読むうちに、「またか・・」と先を読む気が萎えてしまったからだった。「もういいか・・」と、投げ出した本に埃がかぶるに任せていたが、それでも新しい小説が出るたびに、半ば義務感からか、ずっと買い続けてきた・・。
 だが、「アナベル・リイ」がちょうど読みやすい長さだったのが大江に戻るきっかけにはちょうど良かったようだ。さほど面白かったわけではないが、久しぶりに大江の文章にどっぷりつかることができたのが嬉しくて、この「水死」も書店で見つけたときには、読み通すつもりですぐに買ってしまった。ただ、年末から読み始めたものの、なかなか時間がとれず、ついには大江の75歳の誕生日を過ぎた頃になってやっと読み終えることができたのだが・・。
 面白くなかったわけではない。虚実ないまぜになった内容からも、大江健三郎とその家族の近況がうかがえ、また、50年以上にわたる小説家としての足跡を大江自身が振り返りながら書き進めているようで、まさに「最後の仕事」と呼ぶにふさわしい内容となっている。
 だが、400ページにもわたって語り続けてきた小説を、なぜ最後のわずか6ページであっという間に終わらせてしまったのだろう。最初に読んだ時は、あまりの唐突さに驚いてしまい、読み終わって呆然としてしまった。「大江が崩壊した・・」、思わずそんな感想さえ持ってしまった。しかし、それは私の読みが浅いからではなかったか、と一日置いて最後の10ページほどをもう一度読み直してみた。すると、最初の時とは違って、文章に何も破綻は見られず、書き急いでいるようにも見えなかった。ならば、私が結末を急ぐあまり慌てて読んでしまったのだろうか。そこでもう一度だけ読み直してみた。う~~ん、どうしてこんな終わり方にしたのだろう・・、結局よくわからなかった。 
 私としては、もうちょっと紙数を尽くして語ってくれたなら、どんな展開になったとしても、今の結末よりも納得がいったように思う。まさかページ制限があったわけでもないだろうし・・。どうしても納得できないし、残念な気もする・・。
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする