毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「日本辺境論」
内田樹「日本辺境論」(新潮新書)を読んだ。と言っても読み終わったのは、一週間以上も前のことであり、一冊本を読み終えたら、印象が鮮明なうちにその感想をこのブログに書き留めておくのが習慣となっている私にしてはずいぶん間が空いてしまった。勿論、オリンピックなど記事にしたいことがたくさんあったのも一つの要因だが、この書自体に感想を書き記すのが何となく億劫にさせるものがあったように感じる。決して面白くなかったわけではない。相変わらず内田センセイの筆は滑らかで読む者をぐいぐい引っ張っていく。怠け者の私であるから一気に読み通すことはできなかったが、それでもここ最近の私にしては珍しく短期間で読み終えることができた。
「ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以後「辺境人」と呼ぼうと思います」(P.44)
という定義によって、「日本人は辺境人である」と規定し、
「私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。外部に、「正しさ」を包括的に保障する誰かがいるというのは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想です。そして、それはもう私たちの血肉となっている。どうすることもできない。私はそう思っています」(P.100)
とまで言い切っている。そう言われれば、己の身にも当てはまることがままあるなあ、と思いながらさらに読み進めていくと、最後になって、
「その点では、私たちがしてきたこともそれほど奇矯なふるまいではありません。ただ、私たちは華夷秩序の中の「中心と辺境」「外来と土着」「先進と未開」「世界水準とローカル・ルール」という空間的な遠近・開化の遅速の対立を軸にして、「現実の世界を組織化し、日本人にとって現実を存在させ、その中に日本人が自らを再び見出すように」してきた。その点が独特だったのではないか。(中略)
さしあたり私たちにできるのは「なるほど、そういうものか」と静かに事態を受け止めて、私たちの国の独特な文化の構造と機能について、できる限り価値中立的で冷静な観察を行うことではないかと思います。とりあえずそこから始めるしかない」(P.245)
と結論付けているのだが、そこに至るまでの論証は、司馬遼太郎、丸山真男、親鸞、ハイデガー、レビストロースなど、まさに古今東西の碩学からの引用を基にして組み立てられていて、その過程には些かの淀みもない。ここまで来るとまさに名人芸だと、センセイの力量にただただ感服するばかりだ。
だが、内田センセイを初めて読んだ時の高揚感は味わえなかった。あとがきでセンセイはこの書を「私家版・日本文化論」と名付けてもよかったと書いているが、そう言えば私、「私家版・ユダヤ文化論」は中途で挫折してしまっている。あの本も読んでいる間は、知的刺激を受け、「ほお!」と感嘆した箇所も多々あったが、一旦書から離れてしまうと余りに私の暮らす日常からかけ離れてしまっていて、いくら理路整然と語られても単なる知的遊戯にしか見えなくなってしまい、次第次第に遠ざかってしまい、今は書棚に打っ棄ってある。「日本辺境論」からも同じような感覚は受けたが、扱っている題材が自分も含めた日本人論であったために挫折することなく、なんとか最後までたどり着けたのではないだろうか・・。
などとへ理屈をこねてみたところで、要するに知的冒険をするには、私はもう余りにも世間ずれしてしまったということなのだろうか。それとも、内田センセイが余りに浮世離れしてるってことかな。いやまさかそんなことは・・。
「ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以後「辺境人」と呼ぼうと思います」(P.44)
という定義によって、「日本人は辺境人である」と規定し、
「私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。外部に、「正しさ」を包括的に保障する誰かがいるというのは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想です。そして、それはもう私たちの血肉となっている。どうすることもできない。私はそう思っています」(P.100)
とまで言い切っている。そう言われれば、己の身にも当てはまることがままあるなあ、と思いながらさらに読み進めていくと、最後になって、
「その点では、私たちがしてきたこともそれほど奇矯なふるまいではありません。ただ、私たちは華夷秩序の中の「中心と辺境」「外来と土着」「先進と未開」「世界水準とローカル・ルール」という空間的な遠近・開化の遅速の対立を軸にして、「現実の世界を組織化し、日本人にとって現実を存在させ、その中に日本人が自らを再び見出すように」してきた。その点が独特だったのではないか。(中略)
さしあたり私たちにできるのは「なるほど、そういうものか」と静かに事態を受け止めて、私たちの国の独特な文化の構造と機能について、できる限り価値中立的で冷静な観察を行うことではないかと思います。とりあえずそこから始めるしかない」(P.245)
と結論付けているのだが、そこに至るまでの論証は、司馬遼太郎、丸山真男、親鸞、ハイデガー、レビストロースなど、まさに古今東西の碩学からの引用を基にして組み立てられていて、その過程には些かの淀みもない。ここまで来るとまさに名人芸だと、センセイの力量にただただ感服するばかりだ。
だが、内田センセイを初めて読んだ時の高揚感は味わえなかった。あとがきでセンセイはこの書を「私家版・日本文化論」と名付けてもよかったと書いているが、そう言えば私、「私家版・ユダヤ文化論」は中途で挫折してしまっている。あの本も読んでいる間は、知的刺激を受け、「ほお!」と感嘆した箇所も多々あったが、一旦書から離れてしまうと余りに私の暮らす日常からかけ離れてしまっていて、いくら理路整然と語られても単なる知的遊戯にしか見えなくなってしまい、次第次第に遠ざかってしまい、今は書棚に打っ棄ってある。「日本辺境論」からも同じような感覚は受けたが、扱っている題材が自分も含めた日本人論であったために挫折することなく、なんとか最後までたどり着けたのではないだろうか・・。
などとへ理屈をこねてみたところで、要するに知的冒険をするには、私はもう余りにも世間ずれしてしまったということなのだろうか。それとも、内田センセイが余りに浮世離れしてるってことかな。いやまさかそんなことは・・。
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