愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

あなたも、イエスの教えた「光を人々の前に輝かせ」ている一人であれば幸いです。

2017-06-12 22:59:44 | 神の言葉・聖書

 イエス・キリストは有名な山上の垂訓の中で、弟子たちを「世の塩」に例えられたあと、「世の光」であることを話されました(マタイ5:13,14)。さらに、イエス・キリストは弟子たちに「あなた方の光を人々の前に輝かせ」るように教えました(マタイ5:16)。その内容がマタイの福音書に次のように記されています。イエスは何を弟子たちに指示されたのでしょうか。

 あなた方(弟子たち・クリスチャン)は世の光です。都市が山の上にあれば、それは隠されることがありません。人はともしびをともすと、それを量りかごのしたではなく、燭台の上に据え、それは家の中にいるすべての人の上に輝くのです。同じようにあなた方の光を人々の前に輝かせ、人々があなた方のりっぱな業を見て、天におられるあなた方の父(エホバ)に栄光を帰するようにしなさい」(マタイ5:14~16)。

 イエスは上の聖句の通り、弟子たち・クリスチャンを「世の光」と言われました。さらに、イエスは弟子たちに「あなたがたの光を人々の前にかがやかせ」るように指示されました。「光」は聖書では、光と偉大な創造者エホバ神を結び付けています(詩編104:1,2)。神(エホバ)は光であり、神との結びつきにおいてはいかなる闇もありません」と記されています(ヨハネ第一1:5)。神エホバは「天の光の父」であられます(ヤコブ1:17)。また、神エホバの教えを「通り道の光」と教えています(詩編119:105)。さらに、イエス・キリストは地上での神の王国の宣教期間中、神エホバの恵みを得ようとしている人々のために、神の目的とご意志に関する霊的な啓発を与える光となられました(ヨハネ9:8.イザヤ42:6,7;61:1,2.ルカ4:43:8:1)。イエス・キリストに信仰を働かせ、その追随者・クリスチャンとなった人々は、「光の子ら」になり、「世の光」になりました(ヨハネ3:21;8:12;12:35,36,40)。イエスが、上の聖句で宣べた「光を人々の前に輝かせる」とは、神エホバとイエス、並びに神の王国の良いたよりの真理を証すること、加えてクリスチャンとしての言葉と模範を業で示すことが含まれています(マタイ5:14~16.ローマ2:17,24)。人々の前に光を輝かす動機は、イエスの教えの通り、神エホバに栄光を帰すためであることを忘れないようにしたいものです(マタイ5:16)。現在エホバの証人のクリスチャンたちは、イエスのこの教えを守り行っています。あなたも、人々の前に光を輝かせているお一人であれば幸いです。

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        家から家 伝道の午後 蒸し暑し 今日の一句

                    庭植の雨の中の「スイートピー」

 

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ピンクのスイートピーと花菖蒲

2017-06-12 00:35:40 | 四季折々の花々

 ご近所の庭にピンクのスイートピーは咲いていました。

 スイートピーの花は、とても花弁の柔らかな花で、

 わずかの風にひらひらします。

 花期は3月~5月と花図鑑には紹介されています。

 用途は切り花、鉢植え、花壇です。

 花言葉は「懐かしい思い出」と紹介されています。

 今日はピンクのスイートピーと花菖蒲を紹介致します。

                     ご近所の庭の「スイートピー」

                    近くの畑に咲いている「花菖蒲」

 

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あなたは、神の子イエスが涙を流された場面をご存知ですか?

2017-06-12 00:21:10 | 神の言葉・聖書

 神エホバの独り子イエスは地上に遣わされ、大群衆をご覧になると哀れに思い、霊的必要を顧み、あるゆる疾患、病気の人たちをすぐに治し、かつ必要な食べ物を満ち足りるまで与えられましたが、涙を流されることはありませんでした(マタイ4:23;14:14~21.マルコ6:34~44)。イエスが大群衆や病気の人たちをご覧になり、哀れに思われても涙を流すことがなかったのは、神エホバからすべてを行なう権威を授かっており(マタイ28:18)、人々の必要を満たすことができたので、悲しみの涙を流すことはありませんでした。しかし、それでもイエス・キリストが、友人ラザロを復活させる時に、涙を流された場面がヨハネの福音書に、下記のように記されています。イエスが涙を流されたことから愛する家族を亡くすることはこの事物の体制下では最も悲しい出来事であることを教えています。

 「こうしてイエスが到着してみると、ラザロは記念の墓に入れられてすでに四日たっていた。・・・実は、イエスはまだ村の中に来ておられず、マルタが出迎えた場所におられたのである。それで、一緒に家の中にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立って出て行くのを見ると、(ラザロを埋葬した)記念の墓に行ってそこで泣くつもりなのだろうと思い、そのあとに付いて行った。それからマリアは、イエスのおられる所に着いて彼(イエス)の姿を見ると、その足もとにひれ伏して、こう言った、「主よ、もしここにいてくださったなら、わたしの兄弟(ラザロ)は死ななかったことでしょう。それでイエスは、彼女が泣き悲しみ、また彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣き悲しんでいるのをご覧になると、霊においてうめき、また苦しみを覚えられた。そして、こう言われた、「あなた方は彼(ラザロ)をどこに横たえたのですか」。彼らは言った、「主よ、おいでになってご覧ください」。イエスは涙を流された。それゆえユダヤ人たちは言いはじめた、「ご覧なさい、彼に対してなんと愛情を抱いておられたのでしょう」。しかし、ある者は言った、「盲人の目を開けたこの人が、彼(ラザロ)の死ぬのを妨げなかっただろうか」(ヨハネ11:17,30~37)。 

 上の聖句に記されている通り、イエスが到着した時は、友人のラザロは既に亡くなり、記念の墓に横たえられてすでに四日たっていました。そのため、イエスは涙を流されたことが記されています。イエスは、すぐにラザロを復活させますので、涙を流すことはなかったかもしれませんは、愛する家族を亡くすることは人生にとって最大の悲しみであることをご存知であり、マルタやマリアに深い感情移入をされていたことが分かります。私たちもこうしたイエスの精神態度に見倣うことができます。

 イエスは涙を流された後、ラザロが横たえられている記念の墓に行かれます。当時の記念の墓は洞くつで、入り口には石が立てかけてありました。イエスがその石を取り除けるように指示すると、マルタが、四日もたっているので、臭くなっているに違いありません、とイエスに言いました。しかし、イエスはマルタに「信じるなら神(エホバの栄光を見るでしょう」と言われました。石だ取り除かれるとイエスは神エホバにラザロの復活の祈願をし、感謝を捧げられました。その後、イエスは大声で叫んで、「ラザロよ、さあ、出て来なさい!」と声をかけられました。すると死んでいたラザロはすぐに復活したのです(ヨハネ11:38~44)。これらの詳細はヨハネ11:1~44節に記されており、読むたびに慰めを見いだし、神の王国によって義の宿る社会・楽園が回復された以降に、それまでに亡くなった愛する家族の復活が始まることを楽しみに待つことができます(使徒24:15.ペテロ第二3:13)。

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        梅雨晴れや 磯の香の家 伝道す 今日の一句

                         雨の中の庭植の「バラ」

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