人はだれでもご承知の通り、口が一つです。その口は命の糧の食事を取り入れ、また言葉を語ります。その同じ口で愛を語り人を築き上げる言葉を語ります(コリント第一8:1)。一方人を中傷ちたり、罵声したりし、偽り、偽証をしたりし、人を汚す言葉を語ります。自分の口でありながら、語る言葉を制御することは難しい、とだれでも経験を通して感じていらっしゃるのではないでしょうか。あなたは、如何でしょうか。イエスは人を汚すのは心から出るものが汚すことを教え、心に何を満たしているかが重要であることを例えを用い教えられました。マタイの福音書に次のように記されています。
「「口の中に入るものはみな腸に進んで行き、下水に排出されるされることに気付いていないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来るのであり、それが人を汚します。例えば、心から、邪悪な推論、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒とくが出て来ます。これらは人を汚すものです。しかし、洗ってない手で食事を取ることは人を汚しません」」(マタイ15:17~20)。
上の聖句から、イエスが明らかにされている通り、心の中から邪悪な推論、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒とくが出て来て、人を汚すと教えています。ご承知の通り、現在の社会は姦淫、淫行が蔓延する社会となっています。結婚をしていないにも関わらず、性的な関係・淫行は当たり前という風潮が生じています。そのような性の不道徳を起こし、平然としている人々には愛がありません。特殊詐欺による盗みは拡大の一途をたどっています。偽りを語ることは時の内閣、文科省大臣等々の発言に見られる通り、国会の審議は審議にならず税の無駄遣いが生じています。一般の人も偽りを語り、トラブルが増大し、多くの訴訟事件が起きています。神エホバを冒とくすることから、他の人を冒とくする事象はあとを立ちません。邪悪な推論・不義の推論も人の心の中から出ます。これらは間違いなく人を汚します。
では、何を人は心に満たせばよいのでしょうか。それは、神エホバから出る教えの実・霊の実の愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信仰(明白な論証に基づき、抱く期待・希望が保証されていること)、温和、自制を培うことです(ガラテア5:22,23)。愛があれば互いに真実を語り築き上げ、喜び合います。愛があれば平和を生み出すことができます。愛があれば辛抱強く互いを惜しみなく許し合うことができます。愛があれば親切にし、善良な振る舞いができます。愛があれば義を愛し真の信仰に堅く立つことができます。愛があれば温和に話し、何事にも自制心を働かします。心の中が霊の実に満たされていれば、人を汚すことなく、築き上げることができます(コリント第一8:1)。あなたも愛に基づく霊の実を培い、日々の生活に適用されているお一人であれば幸いです。
裏道に ドクダミの花 続き咲く 今日の一句
道辺に咲いている「ドクダミ」