私がまだ若かった頃、先輩は仲間や友人と何かの事で仲たがいした時の対処を、「ボタンの付け違い」の例えで、対応を教えて下さいました。「ボタンの付け違い」とは、だれにも起こる可能のあることであり、ボタンの付け違いが起きれば、直ぐに直すように、仲間や友人とすぐに仲直りをすること、と教えて下さいました。ボタンの付け違いを放置すれば、それは品位を欠くことであり、直ぐに直すことの大切さを教えて下さったと思っています。では、聖書は仲間や友人と仲たがいした時はどのように対応するように教えているでしょうか。
イエスは有名な山上の垂訓の中で次のように教えられました。「それで、供え物を祭壇に持って来て、兄弟が自分に対して何か反感を抱いていることをそこで思い出したなら、あなたの供え物をそこ、祭壇の前に残しておいて、出かけて行きなさい。まず自分の兄弟と和睦し、それから戻ってきたときに、あなたのお供え物をささげなさい」(マタイ5:23,24)。
上の聖句に記されている通り、何かの事で兄弟と仲たがいし、兄弟が自分に対して何か反感を抱いていることを思いだしたら、まず自分が出かけて行き、「兄弟と和睦」するように促しています。まず和睦することが優先事項なのです。 仲たがいした仲間や友人と和睦する上で、どのようにすれば助けが得られるでしょうか。聖書のローマ人への手紙の中に次の言葉があります。「それですから、平和に役立つ事柄や互いを築き上げる事柄を追い求めましょう」(ローマ14:19)。何かの事で仲たがいを起こすまでは、長い間互いは平和な関係で来たはずなので、そのことを思い起こすなら、平和な関係を造り出すことが容易になるでしょう。平和は霊の実の一つです(ガラテア5:22,23)。愛があれば互いの平和な関係を造り出すことができます。愛は辛抱強くまた親切であり、善良な振る舞いをし、真実な事と共に歓び合うようにします(コリント第一13:4~8)。そのように積極的な対応をすることにより、平和な関係、和睦をすることができます。さらに、上の聖句では、「互いを築き上げる事柄を追い求めるよう」促しています。和睦する上で、「互いを築き上げる事柄を考えるなら」、以前に共に何を行ない、歓びを共にすることができていたか、を思い起こし、そのことを語り合うなら、容易に和睦の道を見いだし、さらに「互いを築き上げる」ために、互いに惜しみなく許し合い、和睦できるでしょう(コロサイ3:13)。愛は人を築き上げることを話します(コリント第一8:1)。
伝道に うちわの涼を 送られし 今日の一句
庭の「ランタナに紅シジミチョウ」