イザヤなの預言通りに、地上に遣わされたイエスは、み父エホバのご意志を反映し、愛と同情心に溢れた言葉と行動によって、柔和な人々を慰め元気付けました(マタイ11:28~30)。
しかし、イザヤなの預言で、イエスが「叫ばず、声を上げず、通りで声を発することもない」と述べているのはなぜですか(イザヤ42:2)。それは、イエスが当時の多くの人々のようにご自分を目立たせようとしなかったからです(マタイ6:5)。イエスが重い皮膚病・ハンセン病の人を癒された時には、その人に、「誰にも何も言わないようにしなさい」と命じられました(マルコ1:40~44)。イエスが望まれたのは、うわさになったり、又聞きの情報に基づき人々に結論を出させたりすることではなく、むしろ、ご自分が神エホバの油注がれた僕キリストであることを、人々が確たる証拠に基づいて自分で見分けることでした。
その選ばれた僕イエス・キリストは、「国々に公正をもたらす」ことになっており、イエスは地上に遣わされている間「公正」も行いました(イザヤ42:1)。イエスは、み父エホバの公正の、同情心に溢れた性質を強調しただけではなく、その公正が全ての人を包含することを教えました。ある時、イエスは、律法に通じた人に、神エホバと隣人を愛さなければならないことを思い出させました。その人は、「私の隣人とはいったい誰でしょうか」と、イエスに質問しました。イエスはその人に、隣人愛に富む親切なサマリア人の例え話しを語りましたその例え話に登場する親切なサマリア人は、強盗に襲われ半殺しにされた人を介抱しました。しかし、通りかかった同胞のレビ人と祭司は、その被害者を助けようとはしませんでした。イエスに質問した人は、真の隣人とは、同胞のレビ人や祭司ではなく、親切なサマリア人が隣人である、ということを認めざるを得ませんでした。イエスはその例えの結びに「行って、あなたも同じようにしなさい」と諭しました(ルカ10:25~37.レビ記19:18)。あなたも、イエスの教えられた通り、隣人を自分自身のように愛する方のお一人であれば幸いです(ルカ10:27)。
茶の花の 白の目立ちし 散歩道 今日の一句
ご近所の庭の「菊」