神エホバは、ご自分の預言者イザヤを通し、地上に遣わされるイエスは、神エホバに助けられ、恥をかくことはないことを明らかにされました(イザヤ50:7)。イザヤの預言の通り、遣わされたイエスは、迫害を受け、恥辱を受けましたが、毅然とした態度で神エホバのご意志を守り行ない、恥をかくことはありませんでした。そのようにして、私たちに手本を残されました(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書。ペテロ第一2:21)。
イエスの地上の歩みの勇気の根底には、み父エホバに対する全き確信でした。イエスの一貫した態度は、イエスが全くイザヤの預言の言葉通りの方であることを示していました。イザヤはさらに次のように記しています。
「「私(地上に遣わされるイエス)は正しいと認めてくださる方が近くにいる。誰が私を訴えられるだろうか。裁きの場に共に立とう。私に対して訴訟を起こすのは誰か。私に近寄るがいい。主権者である主エホバが私を助けてくださる。誰が私に有罪を宣告するのか。彼らは皆、衣服のように擦り切れ、蛾に食い尽くされる」」(イザヤ50:8,9)。
イエスが水のバプテスマ(浸礼)を受けた日に、神エホバはイエスを神の霊的な子として義と宣します。事実、その時、神エホバご自身の声がこう言うのが聞こえます。「これは私の愛する子、私は子のこのことを喜んでいる」(マタイ3:17)。地上でのイエスの生涯の終わりごろ、イエスがゲッセマネの園でひざまずいて祈っていると、「天使が現れてイエスを力づけられました」(ルカ22:41~43)。ですから、イエスは、自分の生き方がみ父エホバに是認されていることをご存知でした。神エホバのみ子イエスは罪を犯すことはありませんでした(ペテロ第一2:22)。イエスに適する者たちは、イエスが安息日を破る者、飲んだくれ、悪霊に取りつかれた者であるという偽りの非難を浴びせますが、そうしたうそによってイエスの名誉が汚されるわけではありません。神エホバが共におられるのですから、だれが、イエスに敵することができるでしょうか(ルカ7:34.ヨハネ8:18;7:20.ローマ8:31.ヘブライ12:3)。
現在の真のクリスチャンたちも様々な迫害を受けます。しかし、油注がれたクリスチャンたちは、「ほかの羊」の「大群衆」と呼ばれるクリスチャンたちと共に歩んでいます。神エホバは、「大群衆」が「大患難」を生き残れるように、その人々を正しいことを行う人々と宣しています(ヨハネ10:16.啓示7:9,14,15.ヤコブ2:23)。神エホバの定めの時に、それら反対者・迫害者たちは、蛾に食われて捨てるしかない衣服のようになります。イザヤの預言が述べている通り、預言が成就するまで、油注がれたクリスチャンも、「ほかの羊」の「大群衆」のクリスチャンたちも、絶えず神エホバに祈り、神エホバの言葉を研究し、神エホバのご意志を学ぶ集会に出席することによって、強さと勇気を保ちます。そのようにして、イエスの教えられた通り、神エホバの王国の良い便りを宣明し続けるのです(マタイ24:14;28:18~20)。
どれもみな 下向きており 八重椿 今日の一句
庭に咲いている「チューリップ」