市内の花の愛好家の方のお庭に
鉢植えの鮮やかなインパチエンスの花が咲いていました。
この花の原産地は熱帯アフリカです。
花期は8月~10月です。
用途は花壇、鉢物、釣り鉢です。
花言葉は「明朗快活」と紹介されています。
今日は鮮やかなインパチエンスの花とストロベリーキャンドルの花を紹介致します。
1.9月8日のインパチエンスの花
2.9月8日のストロベリーキャンドルの花(盛りをすぎていました)
市内の花の愛好家の方のお庭に
鉢植えの鮮やかなインパチエンスの花が咲いていました。
この花の原産地は熱帯アフリカです。
花期は8月~10月です。
用途は花壇、鉢物、釣り鉢です。
花言葉は「明朗快活」と紹介されています。
今日は鮮やかなインパチエンスの花とストロベリーキャンドルの花を紹介致します。
1.9月8日のインパチエンスの花
2.9月8日のストロベリーキャンドルの花(盛りをすぎていました)
聖書には、モーセとアロンに率いられてグループごとにエジプトをでたイスラエル人の行程が細かく記されています。引き続きイスラエル人の行程が次のように記されています。
「民(イスラエル人)はシナイの荒野を出発して、キブロト・ハタアワに宿営した。キブロト・ハタアワを出発してハツェロトに宿営した。ハツェロトを出発して、リトマに宿営しいた。リトマを出発し、リモン・ペレツに宿営した。リモン・ペレツを出発して、リブナに宿営した。リブナを出発をして、リサに宿営した。リサを出発して、ケへㇻタに宿営した。ケへラタを出発して、シェフェル山に宿営した。
民(イスラエル人)はシェフェル山を出発して、ハラダに宿営した。ハラダを出発して、マクヘロトに宿営した。マクヘロトを出発して、タハトに宿営した。タハトを出発して、テラに宿営した。テラを出発しいて、ミトカに宿営した。ミトカを出発して、ハシュモナに宿営した。ハシュモナを出発して、モセロトに宿営した。モセロトを出発して、ベネ・ヤアカンに宿営した。ベネ・ヤアカンを出発して、ホル・ハギドガルに宿営した。ホル・ハギトガルを出発して、ヨドバタに宿営した。ヨドバタを出発して、アブロナに宿営した。アブロナを出発して、エツヨン・ゲベルに宿営した。エツヨン・ゲベルを出発して、チンの荒野、カデシュに宿営した。
民(イスラエル人)はカデシュを出発して、エドㇺ地方の境界にあるホル山に登っていた。祭司アロンはエホバの指示でホル山に登っていき、イスラエル人がエジプトを出てから40年目、第5の月の1日にそこで死んだ。アロンがホル山で死んだ時、123歳だった。
上記の聖句の通り、エジプトを出た300万人を超えるイスラエル人の移動行程が細かく記されています。そしてその労苦の末、イスラエル人がエジプトから出て40年目に、神エホバの御指示で、祭司アロンがホル山に登った時、5月1日に死んだことが記されています。その時祭司アロンは123歳だったことも記されています。長寿だったことが分かります。
聖書には引き続きイスラエル人の移動行程が記されていますので、次回にお伝え致します。
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夕陽受け ハイビスカスの 鮮やかや 今日の一句
街中の鉢植えの「ハイビスカス」
宇和島藩(今の宇和島市)は仙台の伊達政宗の分家のため、
宇和島市は伊達文化財が伊達博物館に保管され、一般公開されています。
伊達博物館は偕楽園、天赦園を含めて一体となり
重要な文化財となっています。
その伊達博物館を破壊し、別の場所に新たな建物を建て
文化財を移転する、と聞き、建物を含めた重要文化財保護の観点から、
移転計画内容に疑義があり、何度か説明を受けるために
伊達博物館に行っています。
建物を含めた文化財は破壊ではなく大切に保存して欲しいと願っています。
7日も伊達博物館に行きました。
今日は宇和島市伊達博物館と日本最初の動力船の模型とお気に入りのバラの花を紹介致します。
1.宇和島市伊達博物館
(1)伊達博物館入り口門(文化的価値の高い門です)
(2)伊達博物館前の偕楽園(門を入ると右手が偕楽園です)
(3)伊達博物館(見事な石垣が宇和島城の石垣を連想し、伊達宇和島藩の宇和島城の繋がりを想起します。このような文化遺産を破壊する文化軽視と約50億円の税金を使用する意図が理解できないでいます)
2.宇和島市伊達博物館に展示されている日本最初の動力船の模型(宇和島藩の殿様が日本では最初に宇和島湾で蒸気を動力とした船(外部は鉄板で補強)を走らせたのです。そのため江戸幕府は宇和島藩の殿様を江戸に招き、黒船に対抗する船を造るように命じ、石川島の地に造船所を造らせました。その造船所が石川島播磨重工業(株)(現IHI)です。私はそのIHIに勤め、今は郷里で過ごしています)。
(1)外観
(2)船を前進さす外輪
(3)外輪を駆動する蒸気発生装置(私が小学6年生の時に永さ80cm位の小船を造り、蒸気でピストンを駆動し、スクリューを回転させた蒸気発生装置が写真のような形のものでした。燃料は菜種油を用い灯芯を用い蒸気を発生させました)。宇和島藩伊達の殿様は科学や医学に感心を抱き、早くから取り組まれたようです。
3.バラの愛好家のバラ園に咲いていた私のお気に入りのバラ
聖書には、モーセがガドとルベンに命じたことは、エホバが話されたこととして受け止め、その通りにしたことが記されていました。引き続き聖書にはモーセとアロンに率いられてグループごとにエジプトを出たイスラエルの民の行程が次のように記されています。
「モーセとアロンに率いられてグループごとにエジプトを出たイスラエルの民の行程は以下の通りだった。モーセはエホバの指示で各行程の出発地を記録していった。以下が、ある出発地から次の所までその行程である。イスラエル人は第1の月の15日にラメセスを出発した。過ぎ越しの翌日に、全てのエジプト人が見る中、意気揚々と出ていった。エジプト人は、エホバが打った全ての初子を葬っていた。エホバは彼らの神々を裁いて処罰したのである。
イスラエル人はラメセスを出発して、スコトに宿営した。スコトを出発して、荒野の端にあるエタムに宿営した。エタムを出発し、バアル・ツェフォンが見えるピアヒロトに向かって引き返し、ミグドルの前に宿営した。ピハヒロトを出発し、海の中を通って荒野に入り、エタムの荒野を3日間進んで、マラに宿営した。
民(イスラエル人)はマラを出発してエリムに来た。エリムには12の泉と70本のヤシの木があったので、そこに宿営した。ェリムを出発して、紅海のそばに宿営した。紅海を出発して、シンの荒野に宿営した。シンの荒野を出発して、ドフカに宿営した。ドフカを出発して、アルシュに宿営した。アルシュを出発して、レフィディムに宿営した。そこには民の水がなかった。レフィディムを出発して、シナイの荒野に宿営した。(民数記33:1~15)。
上記の聖書の記録にある通り、モーセとアロンに率いられてグループごとにエジプトを出たイスラエル人の行程が記されています。エジプトを出たイスラエル人は300万人を超えた数であったようですから、モーセとアロンの労苦は並々ならぬものだったと思いますが、神エホバの保護があって成し遂げられたものだと思います。現在と違い、毎日徒歩での移動と大量の食糧、飲み水のことを考えると水のなかった地域では忍耐と辛抱強さと神エホバへの信仰が必要だったに違いありません。
W人の移動の行程が記されていますので、次回にお伝え致します。
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コウロギの 鳴き声聞こゆ 日々となり 今日の一句
絵本作家の3歳の時を思い起こし描かれた自画像
ー この方は悲惨な戦争体験を通し恒久平和を
願っておられます ー