さわたのチーズ大福になんと生バージョンができました。
しかも12月3日限りの1日限定販売です。
年に1度、
歯医者さんに行って虫歯ができていないかどうか、見てもらうことにしています。
ついでに、歯石もとってもらいます。
結構痛いです。
「痛い時は左手を上げてくださいね」
と言われても、とっさにどっちが右か左かわかんなくて
つい反対の手を上げてしまったりします。
今回は、衛生士さんのおっぱいが自分のおでこに当たって、
痛いやら嬉しいやらでした。
それだけです。
すんません。
厨房からキッチンタイマーの音が聞こえるレストランって、やじゃないですか?
たいていは、目覚まし時計の音と同じなんですよね。
ピピッ、ピピッ
って鳴ってるうちはいいけど、
ピピピピピピ
になったら、
早く止めてくれ~
って思います。
ま、それだけなんですけど。
えーと。
「死は生の対極にあるのではなく、その一部として存在している」
と言ったのは、確か村上春樹だったと思います。
何度も、この言葉を思い浮かべた一週間でした。
まず、叔父が亡くなりました。
現役の会社社長だった事もあり、葬儀には大勢の方が参列しました。
一番印象に残ったのは、駆け込むように通夜の焼香に参列した工場の人達の姿でした。
油の染みのついた作業服、完全にとれていない油汚れのついた手を合わせて、
祭壇に手を合わせてくださいました。
遺族が、普段見ることのなかった故人の一面を垣間見た瞬間だったと思います。
葬儀というと、礼服で身を正して、失礼のないように正しいマナーで、
となりがちだけど、
むしろ遺族にとってうれしいのは、そんなことよりとにかく、
亡くなった人に最後のお別れを言いに来てくれる、
弔問者の姿勢、気持ちだと思います。
きちんとした服装だけど、
時間ぎりぎりに来て、
指名を受けて最初に焼香し、
その後はそそくさと帰ってしまうどこかの議員さんとは正反対だと感じました。
あ、言いたかったのはそれではなくて、
遺族が故人の死を、
その現実を受け入れるのには時間がかかります。
葬式、法事というのは、
残された人達が、
心にひと区切りをつけて
前に歩き出すために必要な儀式なんだと、
この年になってようやく気がつきました。
そして今週末、
今度は、会社でお世話になった先輩が亡くなりました。
僕が20代、30代の時に、仕事を教えてもらった人でした。
告別式に参列しました。
お孫さんが3人いて、3人ともハンカチを目に当て、泣いていました。
幼いのに。
自分もあのくらいの年齢で祖父を亡くしたけど、
その時泣いたかどうかは、記憶に定かではないです。
先輩が、優しいおじいちゃんだったことを知った瞬間でした。
会社では、クールな理論派で通っていたので、
少々驚きでもありました。
孫に惜しまれながら旅立つ先輩の事を、少しうらやましく思いました。
そして今日、
近所の川で、
おぼれ死んだ人を見ました。
男の人で、
うつ伏せで、素潜りしているような格好で水面に浮いていました。
警察の人が、5、6人川岸に立って何かやっているようでした。
引きあげるところは、たぶんリアルすぎて直視できないと思い、
その場を立ち去りました。
以前、橋の下に住んでた人なんじゃないかと思います。
先週、国交省の河川事務所の人が来て、
橋の下にあった家財道具の周りにロープを張ってました。
今週、それがすべて撤去されていました。
亡くなったのがもし、そこに住んでいた人だったら、
あまりに悲しい出来事だと思います。
今のご時世、
ホームレスは、
誰にでもなり得ることなのに。
このみっつの死。
関わり方はみな違うけど、
死は、非日常ではなく、
普段の暮らしの中にあるものだ、
と、
実感する一週間でした。
各々の魂に、
安らかにお眠りください。
としか言えないです。
それでいいんだと思うんだけど...。
北海道に帰りたいなぁ…
と、最近よく思います。
歳とったのかなあオレ。
18歳で本州に出てきて、
今までよくがんばったよなぁ。
もう、いいんじゃないかなあ。
自分でも十分がんばったと思うし。
「もういいよ、帰ってくればいいっしょや」
って
誰か言ってくれないかなぁ。