どんな職業であれ長年現場をこなして来た人の言葉には
重みがある。
会話の中で
ああそれが真実なんだろうなあ
って直感することが多々あります。
普段とは違う顔つき。
プロ。
すごい。
最近、
夜寝る前に
「明日死んでもいい今日を送れたかどうか」
考えるんですよね。
別に明日死にたいわけじゃないですよ。
でも人間いつ死ぬかわからない。
過去の人間の長い歴史の中で
死ななかった人はひとりもいないわけですから。
それが明日であっても別に不思議じゃない。
そう考えたときに、何が心残りになるかというと、
自分の場合、
こじれてしまった人間関係を
まっすぐに直しておきたい。
思いつくのはそれだけなんですよね。
なんか、
人間関係作りが下手すぎて
ほんとに。
...呼び捨てでいいんだろうか。
ギターを軽くじゃーんと鳴らしただけで
「チューニングしたい気持ちになった」
という男。
こういう人の前で三味線弾くのが一番緊張する。
津軽三味線を弾くからには五大民謡が弾けるようになりたい。
この夢だけは昔からずっと変わらないです。
なんだそれじゃ5曲で終わりじゃないかと思う人もいるかも知れないけど、
時代によって旧節、中節、新節があったり
字余りがあったり
長調短調があったり
踊りの地方用があったり
何より歌い手によって節回しが違ったり
とてもじゃないけど数年習ってはい、OK、とはならないものなんです。
たぶん五大民謡に限定してずっとやっても一生かかると思います。
そんな今の自分の願いは歌い手さんとの出会いです。
歌う人がいないと三味線つけられないので。
どっか近所にいないかなぁ。
津軽民謡歌える人...。
神様、いつかいい人と巡り合えますように。
大きなホールを借りてしまったから客席を埋めなければいけないって
本当にそうなんですかね。
客が多かろうが少なかろうが、路上だろうがホールだろうが、
やることは変わらない。なにかが突然できるわけでもない。
結局のところ、今の自分にできることをやるしかない。
今の自分に不釣り合いな人数を集めることも、できない手に挑戦することも、
演奏の本質からかけ離れた「欲」のようなものだと思うんですよね。
もっと言っちゃうと、音を出すのは三味線であって、人ではない。
弾き手はどう弾けばどんな音が出るのか、瞬間瞬間追いかけているだけで、
客と向き合っているのは三味線の音色だと思うんです。
だから「オレが弾いている」と思っているんだったら、もうそこから間違いで、そう思って弾くと自己顕示欲の塊のような音だったり、誰かに無理やり弾かされているようなすごく居心地の悪い音になってしまう気がして。
繰り返しになるけど、
どう弾けばどういう音が出るのか?
それを絶え間なく追いかけていればいい。
ただそれだけ。
それ以外は副産物というか、結果ですよね。