
金沢の観光スポットレポート(No.1923)
◇北陸大学教養別館 林鐘庭の「五人扶持の松」
〇五人扶持の松
藩政期、与力吉川牛右衛門(130石)の庭の松で、幕末には、すでに有名で、13代藩主斉泰公が兼六園に移植を望んだものの、余りにも枝先が長いために、年寄奥村栄実(てるざね17,000石)が斉泰公に移植のためには沿道150軒の取り壊しが必要であり、民の犠牲によるものと進言。斉泰公はあっさり了解したといわれている。
斉泰公は「天下に得難い松であるから、何時までも必ず事なく心して手入れを致すべし」とし、その維持費として五人扶持(1人扶持は1人1日玄米5合)を与えたということから「五人扶持の松」または「知行松」といわれるようになった。
■写真は天神町からの五人扶持の松

この松は、樹齢400年とも450年といわれ雌松(赤松)で、高さ7m、枝振りは南北24m、東西19mいわれています。松一株で100坪。盆栽だったものを庭に植えて丹精して育てているうちにどんどん立派になったといわれている。
この地は、明治の末に医師の邸宅になり、設計は、日本の近代建築における異色の建築家で築地本願寺や湯島聖堂、平安神宮を設計した伊東忠太氏によるものといわれ、昭和に入り、林屋亀次郎氏が取得し、林鐘庵の茶室と林鐘庭の露地を整えた。
■写真は天神町からの五人扶持の松
〇歴代の総理が来訪した林鐘庭
元参議院議員林屋亀次郎氏の邸宅で、林屋邸時代、たびたび茶会が催され、吉田茂氏から中曽根康弘氏まで歴代10人の総理が来訪したといわれ、吉田茂氏は「移植できるもなら欲しいが、とても移植できるものではないから断念せざるをえない。」と残念がったという話が伝えられている。
■写真は金沢大学付属病院からの五人扶持の松
〇来訪10人の歴代総理
吉田茂氏、芦田均氏、岸信介氏、池田勇人氏、佐藤栄作氏、田中角栄氏、三木武夫氏、福田赳夫氏、大平正芳氏、中曽根康弘氏。
■写真金沢大学附属病院からの五人扶持に松
〇天神町から馬坂を登り宝町へ

■写真は馬坂


■写真は馬坂不動尊

■写真は馬坂標柱

■写真は高源院

■写真は献珠寺




■写真は北陸大学教養別館(一般公開がされていない)
<関連移植のはなし>

〇兼六園の初代旭桜
初代の旭桜は、白山桜(シロヤマザクラ、山桜の一種)の大木で、園内第一の老樹であったため大桜と呼ばれていた。 かつて、この桜を第13第藩主斉泰公の所望により、長町の村井家から兼六園に運ぶために、道筋の50軒の家を取り壊し500人の人夫がかかったと伝えられている。 しかし昭和12年(1937)頃に枯死し、現在は2代目。 ソメイヨシノが散った後に旭桜が満開になる。

(つづく)