金沢の観光スポットレポート(No.1878)
◇ここだけは押さえたい「兼六園のツボVol.3」②(ユーチューブ連動解説版)
〇時雨亭(しぐれてい)
加賀藩5代藩主・前田綱紀は、延宝4年(1676)に作事所を城内に移し、その跡に蓮池御亭(れんちおちん)を建て、その周辺を作庭しました。これが兼六園の始まりです。
6代藩主・吉徳は御亭を建て替えましたが、明治のはじめに取り壊されるまで、今の噴水の前にありました。藩政後期には時雨亭とも呼ばれており、平成12年3月(200)に現在地に再現しました。抹茶・生菓子セット、煎茶・乾菓子セットあり。
□時雨亭紹介ページ
□時雨亭(兼六園内)体験レポート1
□時雨亭(兼六園内)体験レポート2
□金沢茶の湯めぐり 1-1(観光施設で抹茶を飲む)兼六園 時雨亭
〇塩竈桜(しおがまざくら)
桜の名所、塩竈神社神社に伝わる八重桜で、かつて千歳台の地蔵堂の後方にあった。初代は、文政5年(1822)に12代藩主斉広が竹沢御殿を造営した際、中庭に植えたもの。高さ約10m、周囲約7mの大木で花も大ぶりであった。その木は昭和32年(1957)に枯死し、2代目として塩竈神社神社から幼木をもらって育てたが、昭和53年(1978)に枯死、3代目は平成7年(1995)に倒れてしまった。現在の桜は平成14年(2002)春に塩竈神社から割愛して4代目として植え付けられたものである。
〇内橋亭(うちはしてい)
池の上に立つ水亭と手前のお部屋の間に橋が掛かっていることから「内橋亭」と呼ばれました。もと蓮池庭(兼六園の始まりとなった庭園)内にありました四亭の中の一つで、鯰之亭(なまずのてい)ともいわれており大変歴史のある建物です。
霞ヶ池に浮ぶ茶屋。夕顔亭、時雨亭、舟之御亭とならぶ蓮池庭四亭の一つ。5代藩主綱紀が延宝4年(1676)につくった蓮池庭には、石川門前から蓮池門にかけて、長さ67間3尺(約122m)、幅4間(約7m)の調教用の馬場があった。その中ほどに建てられた馬見所が内橋亭だ。2つの部屋を橋でつないでいたために、この名が付いた。
「馬見の御亭」とも呼ばれていた。
宝暦の大火(1759)で焼失し、11代藩主治脩が安永5年(1776)に再建。霞ヶ池に移転されたのは兼六園が一般開放された明治7年(1874)である。水際に8畳の間があり、板縁を通って反橋を渡ると6畳の水亭である。水亭は3方向が窓となっている。場所は変わったが、基本的な構造は治脩のつくったものと同じで、往時を偲ぶ貴重な遺構だ。普段、池に浮ぶ本席は非公開だが、毎年5月7日の開園記念日茶会の時のみ公開されている。
〇霞ヶ池(南側より)
南側から眺めると、近景に内橋亭、中景に蓬莱島、遠景に徽軫灯籠と虹橋という造園手法が駆使されており、さらに借景として庭外の卯辰山を取り入れ、奥行と広がりを持つ。兼六園の代表的な景観のひとつである。
〇内橋亭前の寄石灯籠(よせいしどうろう)
寄石灯籠は園内に2基。1基は山崎山の北西、もう1基は内橋亭右前にある。内橋亭の灯籠は、高さ2m30cmの大型で、笠部分も径1m50cmと大きくどっしりしている。約1mの竿の部分は虫食い石が使われている。
〇栄螺山(さざえやま)
13代藩主斉泰が三度にわたって霞ヶ池を掘り広げた時に出た土を利用して築いた山。高さは9m、周囲は約90m。左上がりで螺旋状に上って行く坂道があり、ぐるぐる上る様子が巻貝の殻のようなので、この名となった。実際のサザエの殻は右巻き右上がりで栄螺山は逆という話は、よく知られている。
〇栄螺山三重の塔
山頂の一段低いところには12第代藩主前田斉広を供養するために、斉広の正室真龍院と側室栄操院(13代斉泰生母)が二人で建立した石塔、三重の宝塔が立っている。
〇親不知
霞が池を周遊しながら内橋亭の横を通って行くと、栄螺山の山腹が霞が池に迫り、崖下には大きな護岸の配石とともに沢渡がある。山の下部、池畔に面したところに多くの石組みがなされ、特に美しい。
ここの岩の荒々しい様子が、北陸道の難所である新潟県の親不知海岸の険を偲ばせることから、親不知と名付けられた。
(つづく)
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