今日は蒸し暑い。でもお日様サンサン・・でもないんですけどね。
世の中まだ夏休みの余韻か町中もひっそり感が・・
世の中活気が感じられませんね。
○6月28日(日)
やっぱりここのようですね。ようやく辿りついたカイザープファルツ。
昨日のブログにも書いたカイザープファルツKaiserpfalzの意味。カイザーKaiserは良く聞くと思うけれど、プファルツpfalzという言葉は耳慣れないかもしれませんね。
昨日も書いたように『政務をとる場所』というようないみあいらしいのですが、もともとは古代ローマの権力の中枢であったパラティーノPalatinoの丘からきているとか。
権力の中枢にいる人達のすんだところよさしたようですが、それがパラティウpalatiumと呼れ、その言葉の部分がドイツ語になまってプファルツPfalzと言われるようになったとか。
英語のパレスPalaceドイツ語のパラストPalastという言葉と同じ語源らしいです。
入り口脇の窓口で入場料を払って・・英語の案内があるか?と聞いたら英語版のガイド本を貸してくれました。『終わったら返してね?』といわれましたです。
うーん、英語にしてもドイツ語にしてもkおばちゃんには良くわかんないんで一緒ですけどね。
さあ中に入りましょ。
最初に入ったところは守衛詰所?
どもうこの中で完全無傷で残っているところらしいです。
このホールの脇から上に上れる階段がついています。いつもの言ながら○カと煙で上ります。
テラスのような所に出ました。
もっと上の階からの眺めです。
川の中洲にある・・というのがわかりますかね。
反対は聖マリア教会が望めます。
雨ざらしになっていますがなんとなく印象深いです。
柱の上の装飾が3本一組なのでしょうか?
他の場所の柱もほら同じじゃないかしらね。
下に降りて裏側に周りますね。
1階小ホールにあった暖炉跡・・のようです。
これは正面入り口裏の右側
そしてこれは左側を同じく裏から見た様子。
これがさっき裏から石組みを確認した、昨日のブログに出てきた場所の反対側の眺めですね。中庭のはじっこです。
先程上に昇ったのはあそこです。
中庭からの建築物の正面の外観(ファザード)の眺めです。
これがガイドブックあったので、完成当初の予想図ですかね。
あの空間がメインの入り口だったんでしょうね。
建物が完全だった時はきっとこんな光景は望めなかったでしょうね。
入り口上にあるこのレリーフはバルバロッサ(赤髭公)をあらわしているんでしょうか。
丈夫の装飾も細やかですが
良く見ると『蔓草模様』というよりは人がからまってるように見えますけど・・違いますか?
往時はこの向こうに部屋があったんでしょうね。
中庭には大きな木が佇んでいますけど、これは往時はなかったでしょうね。
そういえば、バルバロッサBarbarossa(フリードリヒ1世Friedrich I)がこの宮殿をたてた1180年頃に、ここゲルンハウゼンで帝国議会が開催されたということです。
そしてその会議ではバルバロッサに当時敵対していたザクセンのハインリッヒ獅子公Heinrich der Löweの領地の処分(不服従の罪等)が決められた会議ではないか・・と言われているとか。
皇帝として居所を定められぬほど、あちらこちらの勢力に気を配らなければ行けない時代の終わりが近づいていたのでしょうか。
振り向くと先程昇ったテラスの下にある柱の
上部に、こんなかわいらしいお花が咲いておりました。
そんな権力争いは、今となっては夢の跡ですね。全ては時代の一部・・
ガイドブックの年表の『1816年』までの空白期間がむなしく見えるkおばちゃんでした。
世の中まだ夏休みの余韻か町中もひっそり感が・・
世の中活気が感じられませんね。
○6月28日(日)
やっぱりここのようですね。ようやく辿りついたカイザープファルツ。
昨日のブログにも書いたカイザープファルツKaiserpfalzの意味。カイザーKaiserは良く聞くと思うけれど、プファルツpfalzという言葉は耳慣れないかもしれませんね。
昨日も書いたように『政務をとる場所』というようないみあいらしいのですが、もともとは古代ローマの権力の中枢であったパラティーノPalatinoの丘からきているとか。
権力の中枢にいる人達のすんだところよさしたようですが、それがパラティウpalatiumと呼れ、その言葉の部分がドイツ語になまってプファルツPfalzと言われるようになったとか。
英語のパレスPalaceドイツ語のパラストPalastという言葉と同じ語源らしいです。
入り口脇の窓口で入場料を払って・・英語の案内があるか?と聞いたら英語版のガイド本を貸してくれました。『終わったら返してね?』といわれましたです。
うーん、英語にしてもドイツ語にしてもkおばちゃんには良くわかんないんで一緒ですけどね。
さあ中に入りましょ。
最初に入ったところは守衛詰所?
どもうこの中で完全無傷で残っているところらしいです。
このホールの脇から上に上れる階段がついています。いつもの言ながら○カと煙で上ります。
テラスのような所に出ました。
もっと上の階からの眺めです。
川の中洲にある・・というのがわかりますかね。
反対は聖マリア教会が望めます。
雨ざらしになっていますがなんとなく印象深いです。
柱の上の装飾が3本一組なのでしょうか?
他の場所の柱もほら同じじゃないかしらね。
下に降りて裏側に周りますね。
1階小ホールにあった暖炉跡・・のようです。
これは正面入り口裏の右側
そしてこれは左側を同じく裏から見た様子。
これがさっき裏から石組みを確認した、昨日のブログに出てきた場所の反対側の眺めですね。中庭のはじっこです。
先程上に昇ったのはあそこです。
中庭からの建築物の正面の外観(ファザード)の眺めです。
これがガイドブックあったので、完成当初の予想図ですかね。
あの空間がメインの入り口だったんでしょうね。
建物が完全だった時はきっとこんな光景は望めなかったでしょうね。
入り口上にあるこのレリーフはバルバロッサ(赤髭公)をあらわしているんでしょうか。
丈夫の装飾も細やかですが
良く見ると『蔓草模様』というよりは人がからまってるように見えますけど・・違いますか?
往時はこの向こうに部屋があったんでしょうね。
中庭には大きな木が佇んでいますけど、これは往時はなかったでしょうね。
そういえば、バルバロッサBarbarossa(フリードリヒ1世Friedrich I)がこの宮殿をたてた1180年頃に、ここゲルンハウゼンで帝国議会が開催されたということです。
そしてその会議ではバルバロッサに当時敵対していたザクセンのハインリッヒ獅子公Heinrich der Löweの領地の処分(不服従の罪等)が決められた会議ではないか・・と言われているとか。
皇帝として居所を定められぬほど、あちらこちらの勢力に気を配らなければ行けない時代の終わりが近づいていたのでしょうか。
振り向くと先程昇ったテラスの下にある柱の
上部に、こんなかわいらしいお花が咲いておりました。
そんな権力争いは、今となっては夢の跡ですね。全ては時代の一部・・
ガイドブックの年表の『1816年』までの空白期間がむなしく見えるkおばちゃんでした。