(いつでも批判を受け付けますが、これはボクのやり方なのであって、誰に押し付けるものでもないと言うことが前提です)
と、言い訳のような前段があって、ボクの歴史認識の話を少し書こうと思う。
まぁ、堅苦しい話は抜きにしていきたいので、最初は本当に初歩の初歩で。
ボクは歴史をこう見ることにしている。始めは「一」、次が「二」も含めた複数、次は「数えられる程度」の多数、そして「数え切れない」ほどの混乱と「革命」。
そして程度の差こそあれその繰り返し。繰り返しだが、始めの「一」は既に純粋な「一」ではなく、「一」であろうとする意志だけが突出している様。
「一」は言葉を変えれば「英雄」かもしれない。「二」は対立する存在の登場であり、それは必ずしも一人とは限らない。始めは一人だが、対立する存在はいくらでも生まれてくるものだから。そして「数えられる程度」の多数が生まれ、抗争が始まる。そして「数え切れない」ほどの自己主張と自己撞着の末に、再び意志の統一という名の「革命」が起きる。
かつてヘーゲルの「弁証法」というものがもてはやされた時代があった。それは「テーゼ=正」があり「アンチテーゼ=反」が生まれ「アウフヘーベン=止揚」し、「ジンテーゼ=合一」となるという、なんだか三段論法みたいなものだった。だがそのシンプルさ故に威力があった。それは歴史観でもあった。
ただ、ボクの歴史認識は、ヘーゲルの弁証法ではなく、どちらかというと仏教の歴史観、すなわち「正 像 末」の歴史観に近い。
「正」とは仏陀その人の教えであり、敷衍しても直接の薫陶を受けた弟子達の時代。「像」とは、仏の教えをすでに観念、想念としてしか理解できない人々の時代。そこには多くの人々がおり仏像を彫り、寺院を建立するなどし「正」を歪めはするが、まだ仏の威光は残っている時代。そして「末」にいたり、誰でもないすべての人が、まるで自分が仏でもあるように、聞きかじった真理を自分のもののように語る。それはまったく訳知り顔の、無知な人々の集まり。
ただ、仏教ではこの状態を「末法万年尽未来際」と説く。つまり、いつまでもそのような時が続くのだという。
ボクは、確かにその通りではあると思うのだが、今一度顕微鏡をのぞくように歴史をのぞくと、フラクタルのように繰り返しがあると思えるのだ。
やがては確かに「末法万年~」という事になるのだろうが、もう少し短いタームで眺めると、「繰り返し」という概念が生きてくるような気がする。
今日はここまでにしておきます。頭の芯が「グワッ」となってきましたので。