普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

誕生! 男子!

2011-09-10 23:40:15 | 普通な人々<的>な
 祝杯を挙げていた関係で、こんな時間になってしまったが、息子夫婦の子どもは本日13時15分前後に誕生した。

 そりゃまあ! かわいいこと。

 非の打ち所のない可愛さ。3500g以上あるにもかかわらず、全体のバランスは良いし、顔は小さく、まったく無理なく生まれた感じ。

 なにより、会えなかったが母であるヒナさんがいとも元気であることが良かった。
 母子共に健康!! なんという幸せな響きだろうか。

 一族が一人増えた。

孫はまだか?

2011-09-10 13:13:27 | 普通な人々<的>な
息子夫婦に第一子が誕生しそうだと連絡があって、いまクリニックに向かって電車移動中。
いまは特に感慨はないのだが、きっと生まれて対面したらかわゆいのだろうな! なにより息子の気持ちが手に取るようにわかるわけで、むしろそっちに感情移入している感じだ。
なんとなくワクワクした感じで、移動中、です。

歴史を読み解く、僕のやり方。

2011-09-10 01:16:39 | まあまあ社会<的>な
(いつでも批判を受け付けますが、これはボクのやり方なのであって、誰に押し付けるものでもないと言うことが前提です)

 と、言い訳のような前段があって、ボクの歴史認識の話を少し書こうと思う。
 まぁ、堅苦しい話は抜きにしていきたいので、最初は本当に初歩の初歩で。

 ボクは歴史をこう見ることにしている。始めは「一」、次が「二」も含めた複数、次は「数えられる程度」の多数、そして「数え切れない」ほどの混乱と「革命」。
 そして程度の差こそあれその繰り返し。繰り返しだが、始めの「一」は既に純粋な「一」ではなく、「一」であろうとする意志だけが突出している様。

 「一」は言葉を変えれば「英雄」かもしれない。「二」は対立する存在の登場であり、それは必ずしも一人とは限らない。始めは一人だが、対立する存在はいくらでも生まれてくるものだから。そして「数えられる程度」の多数が生まれ、抗争が始まる。そして「数え切れない」ほどの自己主張と自己撞着の末に、再び意志の統一という名の「革命」が起きる。

 かつてヘーゲルの「弁証法」というものがもてはやされた時代があった。それは「テーゼ=正」があり「アンチテーゼ=反」が生まれ「アウフヘーベン=止揚」し、「ジンテーゼ=合一」となるという、なんだか三段論法みたいなものだった。だがそのシンプルさ故に威力があった。それは歴史観でもあった。

 ただ、ボクの歴史認識は、ヘーゲルの弁証法ではなく、どちらかというと仏教の歴史観、すなわち「正 像 末」の歴史観に近い。
 「正」とは仏陀その人の教えであり、敷衍しても直接の薫陶を受けた弟子達の時代。「像」とは、仏の教えをすでに観念、想念としてしか理解できない人々の時代。そこには多くの人々がおり仏像を彫り、寺院を建立するなどし「正」を歪めはするが、まだ仏の威光は残っている時代。そして「末」にいたり、誰でもないすべての人が、まるで自分が仏でもあるように、聞きかじった真理を自分のもののように語る。それはまったく訳知り顔の、無知な人々の集まり。
 ただ、仏教ではこの状態を「末法万年尽未来際」と説く。つまり、いつまでもそのような時が続くのだという。
 ボクは、確かにその通りではあると思うのだが、今一度顕微鏡をのぞくように歴史をのぞくと、フラクタルのように繰り返しがあると思えるのだ。
 やがては確かに「末法万年~」という事になるのだろうが、もう少し短いタームで眺めると、「繰り返し」という概念が生きてくるような気がする。

 今日はここまでにしておきます。頭の芯が「グワッ」となってきましたので。