昔、ボクがまだ20歳代の頃、亡くなった父が生涯でたった一つと言ってもいい助言をしてくれた。
「貧しいときこそ、身なりをきちんとしなさい」
なんだか、分かったような分からないような、そんな印象で聞き流していた記憶がある。
常に貧しかったボクにとっては、なかなか厳しい助言となっていたが、確かにそれはそうだなと思う。
「貧すれば鈍す」という言葉が、頭に浮かぶ。
貧しさは大概の場合人を内向きにするし、人との関わりも思うようには運ばせてくれない。
畢竟自分のことしか考えられなくなり、対外的な感覚は麻痺する。
そのことを、自分で自覚し自省しながら、人と関わっていきなさいということなのだろうと、いまは理解する。人との関わりがある限り、いつか必ず蘇生できるというメッセージと、いまは思う。
父・加藤千代三は、88歳で脳梗塞で倒れ93歳まで闘病し続け亡くなったが、考えてみればいつもダンディだった。もちろん相応に老いていってはいたが、どこか「キチン」としていた。
明治の男の気骨だったかもしれないが、老醜を晒すまいとする胸の内の闘いの顕れだったのかもしれない。
父は、病に倒れ右半身に麻痺が残った。それでも歌を詠み、左手で墨絵を描き続けた。その集中力は半端ではなかった。
老いて、彼のように生きられるか?
なかなかな難題である。
今、父・加藤千代三の描いた墨絵を整理している。近々、ここで紹介させてもらおうと思う。
加藤千代三の魂の凝縮した墨絵たちだ。
ちなみにこれはその一つ。故郷の島根を描いたもの。半紙に描いたものだから、半紙がよれてしまっているが、なんとかよれを直せないか思案中。
左上に書かれた文章は、
「高盛山の中腹には
三本松があった。
ここまでは兄が見送
ってくれた。ここから
はひとり山を越えて
養家に帰っていっ
た。恐ろしかった。
少年の日の思い出
である。」
とある。
雲田という本家筋に養子に出された父・千代三が、ある日加藤の家に戻り、再び養家に戻る時に見た故郷の風景を描いている。
後ろ髪曳かれる思いで辿った道だろうことは、容易に想像できる。
「貧しいときこそ、身なりをきちんとしなさい」
なんだか、分かったような分からないような、そんな印象で聞き流していた記憶がある。
常に貧しかったボクにとっては、なかなか厳しい助言となっていたが、確かにそれはそうだなと思う。
「貧すれば鈍す」という言葉が、頭に浮かぶ。
貧しさは大概の場合人を内向きにするし、人との関わりも思うようには運ばせてくれない。
畢竟自分のことしか考えられなくなり、対外的な感覚は麻痺する。
そのことを、自分で自覚し自省しながら、人と関わっていきなさいということなのだろうと、いまは理解する。人との関わりがある限り、いつか必ず蘇生できるというメッセージと、いまは思う。
父・加藤千代三は、88歳で脳梗塞で倒れ93歳まで闘病し続け亡くなったが、考えてみればいつもダンディだった。もちろん相応に老いていってはいたが、どこか「キチン」としていた。
明治の男の気骨だったかもしれないが、老醜を晒すまいとする胸の内の闘いの顕れだったのかもしれない。
父は、病に倒れ右半身に麻痺が残った。それでも歌を詠み、左手で墨絵を描き続けた。その集中力は半端ではなかった。
老いて、彼のように生きられるか?
なかなかな難題である。
今、父・加藤千代三の描いた墨絵を整理している。近々、ここで紹介させてもらおうと思う。
加藤千代三の魂の凝縮した墨絵たちだ。
ちなみにこれはその一つ。故郷の島根を描いたもの。半紙に描いたものだから、半紙がよれてしまっているが、なんとかよれを直せないか思案中。
左上に書かれた文章は、
「高盛山の中腹には
三本松があった。
ここまでは兄が見送
ってくれた。ここから
はひとり山を越えて
養家に帰っていっ
た。恐ろしかった。
少年の日の思い出
である。」
とある。
雲田という本家筋に養子に出された父・千代三が、ある日加藤の家に戻り、再び養家に戻る時に見た故郷の風景を描いている。
後ろ髪曳かれる思いで辿った道だろうことは、容易に想像できる。