1980年代前半だったと思う。タイトルに記した「世界は音 -ナーダ ブラフマー-」という優れた著作があった。
詳細は覚えていないのだが、J・E・ベーレントというドイツのジャズ評論家でもありラジオ番組の制作者でもあった人物の著作。
簡単に言い過ぎかもしれないが、要は「世界は音=波動で成立している。だから真言=マントラは人間の生きる重要なファクター」ということを、様々な世界の音を分析・解説しながら、実証していくといった内容だったと記憶している。
曖昧な言い方になっているのは、本そのものをボクは持っているはずなのだが、どこにあるか分からなくなっているから。見つけ出してもう一度じっくり読みなおしたいと、この2~3日思っている。
それというのも、最近P-MODELはもちろんのこと、佐井好子さんの音を久しぶりに聴いて、心が震えたのだよ。
それは、あたかも仏前で真言=マントラ(これは真言宗の唱えるものに限ったことではなくて、例えば念仏の南無阿弥陀仏も、法華・日蓮大聖人の南無妙法蓮華経もマントラととらえる)を唱える効果に似て、生命的なカタルシスを覚えるのだ。
そうした波動を感じる音楽は少なくて、ボクにとっては日本ではP-MODEL=平沢進、佐井好子であり、宇多田ひかる(藤圭子も)、伊吹留香なのだ。おそらく人それぞれに感じる音は異なるのだろうが…(ただし、必ず共通のファクターはあると思う)。
波動そのものは、皆さんもご存じのクラドニ音響図形などでも明白な通り、一定の法則性を抱えていて、人の精神のみならず肉体にさえ物理的な影響を与える。
だからこそ、音=音楽は怖い側面も抱えているわけで、〇〇ドラッグのような、ある種の凶器にもなるのではないかと、ボクは思っている。低周波を使った音響兵器すら開発されているご時世だもの。
そうなると、まともな音を必死で探さなければならなくなるわけで、探した結果がボクにとっては前述のミュージシャン・アーティストになっているわけだ。
だいぶ前に、ここで心震えた三味線の音のことを書いたけれど、あの音も、まさにボクにとってはマントラに他ならない。
いつか(近いうちに)、このことについて、書いておかなきゃと思う。
詳細は覚えていないのだが、J・E・ベーレントというドイツのジャズ評論家でもありラジオ番組の制作者でもあった人物の著作。
簡単に言い過ぎかもしれないが、要は「世界は音=波動で成立している。だから真言=マントラは人間の生きる重要なファクター」ということを、様々な世界の音を分析・解説しながら、実証していくといった内容だったと記憶している。
曖昧な言い方になっているのは、本そのものをボクは持っているはずなのだが、どこにあるか分からなくなっているから。見つけ出してもう一度じっくり読みなおしたいと、この2~3日思っている。
それというのも、最近P-MODELはもちろんのこと、佐井好子さんの音を久しぶりに聴いて、心が震えたのだよ。
それは、あたかも仏前で真言=マントラ(これは真言宗の唱えるものに限ったことではなくて、例えば念仏の南無阿弥陀仏も、法華・日蓮大聖人の南無妙法蓮華経もマントラととらえる)を唱える効果に似て、生命的なカタルシスを覚えるのだ。
そうした波動を感じる音楽は少なくて、ボクにとっては日本ではP-MODEL=平沢進、佐井好子であり、宇多田ひかる(藤圭子も)、伊吹留香なのだ。おそらく人それぞれに感じる音は異なるのだろうが…(ただし、必ず共通のファクターはあると思う)。
波動そのものは、皆さんもご存じのクラドニ音響図形などでも明白な通り、一定の法則性を抱えていて、人の精神のみならず肉体にさえ物理的な影響を与える。
だからこそ、音=音楽は怖い側面も抱えているわけで、〇〇ドラッグのような、ある種の凶器にもなるのではないかと、ボクは思っている。低周波を使った音響兵器すら開発されているご時世だもの。
そうなると、まともな音を必死で探さなければならなくなるわけで、探した結果がボクにとっては前述のミュージシャン・アーティストになっているわけだ。
だいぶ前に、ここで心震えた三味線の音のことを書いたけれど、あの音も、まさにボクにとってはマントラに他ならない。
いつか(近いうちに)、このことについて、書いておかなきゃと思う。