鹿沢・万座パークボランティアだより

鹿沢・万座パークボランティアより皆様へ自然情報等をお届けします。

永遠なる小串(3)~古老が語る硫黄鉱山~

2014年09月17日 | 日記
硫黄採掘の坑内の様子や賃金水準がうかがえる語りです。
昭和初期と思えます。
画像は戦後のもののようです。
話の内容と画像は一致しませんが坑内のおおよそのイメージは作れます。

吾妻鉱山のトロッコ 撮影年次不明

明治41年生まれ 故HH様
昭和三年。自分は徴兵検査の年でした。
まだ寒い二月頃自分の友達にお願いして置いた処、
何日頃登山しろとの事で登山し探鉱飯場に案内され
採鉱雑夫として採雇されました。
飯場には見知らぬ人が沢山居り、
村の方も十二名居り良く来てくれたと迎えてくれました。
早速次の日より初めての鉱内にカンテラを持って人坑致しましたが、
何分一寸先は闇。掛の人や先輩に色々指導して頂いて
鉱石集め其を運鉱夫が製練場に運ぶのであった。
其の時の自分、一日の本番が壱円位でした。
尚時間外等合せ一ヶ月働高三十四、五円位でした。
其の内用度飯料を差引くと手取り十二、三円位と記憶して居ります。
只今其の時を思うと、一年中働いてハイライトの煙草一ケ位、
考えて見れば驚の外はありません。
其の後吾妻鉱山が滋賀県に本社に併山なり
吾妻鉱山より勤労年限に応じて手当を頂き最高二百七十円位、
自分も其の時二百二、三十円位頂いたと記憶して居ります。
其の時は予想しない事で実に嬉しかった。
其の反面悲しい事は鉱山の落盤でした。
自分は其の時雑役夫でしたが運鉱の常夫休み、
其の方の代番に出て行って、落盤に出合って九死に一生を得ました。
其の処は運鉱夫の交換場に成って居り、昔荒堀した処でした。
朝より其の前兆はありましたが、
運鉱夫は皆此の土地の人故落盤と言う経験なくも次第に危険を感じ、
事務所に交渉し、其の時のH所長自ら現場を見証して歩いたが大丈夫との事でした。
が次第に山鳴し、いよいよ危険との事にて運鉱夫十二人が坑道に五、六歩遁げた。
とたんに落盤し其の間一発にて鉱夫全員が命拾いした。
今考えても胸が熱く成る思いです。
(ことぶきのむかしがたり第三集 嬬恋村ことぶき学級 昭和56年)

硫黄産出は火山活動の結果です。熱水や火山ガスなどの通ったところでは、
熔岩の成分が溶けて出てしまうので、スカスカになり、非常にもろいと
考えられます。
火山は崩れやすいのは今でも同じです。
技術的にこの危険性をどう回避したのか、鉱山技術者に聞いて見たい所ですが、
今となっては不可能でしょうか?
給料が良いことと危険と隣り合わせの仕事であることも読み取れます。
(投稿:ワイルド三太)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする