鹿沢・万座パークボランティアだより

鹿沢・万座パークボランティアより皆様へ自然情報等をお届けします。

永遠なる小串(5の2)~古老が語る硫黄鉱山~

2014年09月22日 | 日記
(5の1から続く)
送砿夫は砿夫が堀った砿石を運搬する仕事で、一日十台運べば良いのである。
仕事は至極楽で時間も短かく二時頃には終り、後は娯楽もなく映画とてもなく、
ただ其の日、其の日を平凡に過して居た。
 其うして五、六年過ぎた頃、毎年六月十五、六日はツツジの満開で
丁度其の頃山では山神さんの祭りで私も何か一ッと思い、
青年時代村の祭りに手踊りをやった事を思い出し、
採砿の人達二〇人位集めて私が師匠となり
八木節、安来節、東京音頭等色々仕事から終り次第十日程練習し笛太鼓で賑やかし盛大にやった。
当時は何も娯楽も無かった為、山の人達も喜んでくれた。
 又私共坑内という明日の事もわからない危険な場所で働く為、
山神さんを信仰しようと思い
山神さんは十二さんであるから十二日が祭日十二講を作り五、六名でやった。
そうしてその晩は、下から商人に肉とか色々な品を上げてもらい賑やかに行った。
其れもあたり、山全体に山神さんを尊ぶようになった。
そうしてその晩は、あちらでも、こちらでも楽しく歌声が聞えるようになった。
ほんとうに嬉しく思った。
其うした甲斐あってか十年の間ー度も怪我もなく無事に務めさせてもらったのも、
山の神さんのお蔭と今でも有難く思いました。(以下略)


戦時中の吾妻鉱山のお祭り


昭和8年白根鉱山の仮装

坑内の様子、作業実態、娯楽、もっと敷衍すれば日本人の信仰観などを
うかがい知ることが出来ます。
様々な面で影響を及ぼした硫黄産出、企画展で触れてみます。
(投稿:ワイルド三太)
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永遠なる小串(5の1)~古老が語る硫黄鉱山~

2014年09月22日 | 日記
昭和初期の硫黄鉱山を語ったものです。

鉱山生活十年(ST様 明治四十二年生まれ)
 昭和六年六月軍隊より帰りこれといった仕事も手に付かず、
そうかと云って何時までも遊んで居るわけにも行かず、
何かと思い出したのが当時硫黄鉱山であった。
賃金も良いとの事ゆえ其れに引かされて行って見ようと思い
F集落のMさんが吾妻鉱山に務めて居たので頼んで見た。
早速話してくれ、其れから二ヶ月位たった十一月末、
山に上って来いとの事。雪のある山に登った。
 丁度其の年は雪も多く知らない山道を心配しながら
薄暗い山道を一人淋しく山にたどり着いた。
着いてみたらたまげた(驚いた)。
丸太造り薄暗いような飯場で、そうして真中に人きなストーブがあり、
中には一杯薪がくばり、赤々と燃え大ぜいの人達がストーブを囲み、
何やら盛んに話し合って居た。
私も初めてであるのでよろしくと頭を下げ、
Mさんに連れられ飯場長であるSさんに紹介してもらい、
よろしくとお願いした。
 其れより明けて次の日五時頃起き仕度をし初めてカンテラ(あかり)を下げて
怖わごわしく坑内に入った。
最初は一本道であったが其の中に二本三本又広い場所もあり、
水も落ちている所もあった。
其うしてーッの切羽(試験堀)に着き、其ここには坑夫がー人居た。
其の切羽は高さ六尺横五尺位で砿石が有か無いかを探るので
其処の土をはね出す仕事であった。
初めてであるので一生懸命に汗ー杯かいてやった。
坑内は夏は涼しく冬は暖く、至極良い所である。
私も力ー杯やった。それを見込まれ二ッ月余りで送砿夫になった。
(続く)
(投稿:ワイルド三太)



 
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