心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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裏寂れたような

2016年06月09日 | ほんのすこし
我が町。
早朝歩くと人っ子一人いない時間もあり。でも最近はどうやら歩く人もちらほら見えて、通りすがりの挨拶を交わす人も出てきた。今日はさぼったが、あの雨の中でも歩いている人はいたのだろうか。
以前、何かの漫画にこの通りが描かれていると噂があった。北の方から街を破壊していく生物? がいて、その破壊される通りがこの寂れた様子に似ていると噂されていた。なんという漫画だったのか失念したが。
その漫画家は東北出身だったのか・・・

今はこんな裏寂れたような街で通りを歩く人は日中でも少ない。みんな郊外や大きなショッピングセンターでしか見かけなくなった。人々は一体どこにいるのだろうと思えるほどだ。
しかも歩いているのは年をとった方が多い。まあ、日中若い人が外にいるというのも考えてみれば変かもしれない。働いているのだから。
それでも年々人口が減っていくのは否めない。
特に運転するよりこうして歩いてみると、その寂しさは大きく感じる。

この街が活気を帯びるのは一年で数少ない。
お盆や年末年始、あるいは地域の行事、きりたんぽ祭りやアメッコ市など。どこからともなく人で溢れ、活気がみなぎる。
行事にしか頼ることができない地方のジレンマ。日常的に集客できないということが都会に出るとしみじみ感じる。あの、人で溢れた電車や駅の構内。人の波に酔ってしまうほどの熱気。それらが日常の自分との隔たりを確実に感じさせてくれる。
またそれが戻ったときのある種の安心感にも繋がるのだが。

地方と都会との格差。

だが、寂れているようでもそこにいる一人一人の思いは寂れていない。
ここで生きている、その生活の中に喜びもあり、楽しみもあり。何に喜びを感じるか、何を友として生きるか、それは人によって様々だ。便利さを求めるなら都会だろう。でも田舎に住むのもまた良しとする何かがここにはあるのだと思う。
目の前の裏寂れたように見える町並みでも、そこに住む人にはそこで生きる喜びもまたあるのだと、思えるのだ。

今日はさぼった

2016年06月09日 | ほんのすこし
朝、4時。目が覚めた。
ザ-という音で。
雨が降っていたのだ。
雨が降っているということで、歩こうという意欲が消えていく。その日のわたしを描いていた図は新しく作り替えなければならない。このところ、歩くことに専念してきたので、この朝の時間は貴重だった。だが、やはり梅雨という時期には勝てない。
昨年、ウォーキング用に生協の宅配で注文したシューズ、思い描いていたよりずっと派手で、使うことに躊躇ししまい込んだ。だが、古いシューズをはいて歩いていると中で足が動く。どうもこれは良くないのではないかと思い、出してみた。ピタッと足に合う。中敷きにつぼに合うようなものがあって、歩くと痛がゆいというか痛いけど気持ちいい。なんでもっと早く使わなかったのだと自分を叱る。

今日もそのシューズを使おうと玄関に置いておいたが、それを使うことはなかった。
窓から道を見る。道は雨に打たれ色変わり。途中に雨の水たまりが見える。どうしようかと迷ったが、今日は歩かないほうがいいのだろうと決断した。

つまり、歩きをさぼったわけだ。
あまりに時間が早いので、上下の階の住民に音が聞こえないようにしなければ。気を遣いながら色々と。
6時頃になってようやく外にゴミ出しに出た。なんだ、これだったら歩いても良かったかも。自分の情けなさにがっかり。ちょっとぐらいの雨なんかしらん振りで歩けばよかったでしょ。
自分を叱る。

朝早く起きるということは、お腹も減るということだ。
いつもより多い食事の量をぺろっと平らげ、まだ足りない気分。これはいかん!
反省しきりで自分を叱る。

あぁ、今日は朝から自分を叱ることだらけだ。
そう。
そんな日なのだ。
朝がそうだから、これからの時間は切り替えていかなくては。

空は曇り、どんよりしている。
あの空の上に青いベールがあるのだと想像してみることにしよう。

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道ばたにバラの花びらが落ちている。
散りゆくものの最後。
美しくも悲しくもあり。勢いのある時期を見ていたものにとってはそうだろうが、これだけを見たものにとっては別の見方があるような気がする。

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