心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

グミの赤い実ひとつ

2016年06月17日 | 朝のことば&つぶやき
母の庭に赤いグミがついている。
この頃生まれたみたいだ。奥にもポツポツとついている。奥のグミもいずれ赤く色づくだろう。

生まれたて、じゃないのに、徐々に実になっていったはずなのに、なんだか突然赤くなって現れたように感じてしまう。

コツコツ、コツコツ、日々鍛錬してきた結果が記録達成に繋がっているイチロー、その記録の瞬間に目が行くけど(わたしからしてそうだ)、彼の毎日の練習ぶりは周りを驚かせているという。努力の積み重ねがたくさんの記録更新や記録達成に結びついているのだ。

どうかすると、グミの赤みが突然降ってわいたように感じるのと同じく、賞をもらったり注目を浴びたりすることに目が行きやすいけど、実は日頃のコツコツコツコツが知らず知らずのうちに実となってやがて美しいものへと変わっていくのだと思う。

グミの赤い実ひとつ。
わたしがその一つになるには、コツコツコツコツがまだまだ足りない。
毎日、弱い自分を見ながらため息をつき、やらなかったことにくよくよし、明日があるさって?
ほんとにそうかな。
明日はほんとに来るかな。
来なかったら何もしていないことを悔やむだろ。

グミの赤い実ひとつ。
わたしはその実にもなれないで。

コツコツの度合いが足りないんだ。

前はすごく気になった

2016年06月17日 | ほんのすこし
ここを開設してからすでに12年目に突入した。
その間、知り合えた方々、ずっとそばにいてくれた方々、色々な方との触れあいが自分をここまでとどめてくれたと思う。
言葉というつながりのなかで、自分はどれだけのものを出せるだろうか、いや、自分が出せるなどと言えない、ただつながりを求めて続けてきた。
gooを止めていった人もたくさんいる。別の方からやってきた人もいる。
このインターネットという世界で、わたしはどうにかこうにか自分を出せる場所を見いだした気がしてきたのだ。

すごく気になっていた。自分がどう見られているのかと。
でもそんなこと全然取るに足らないものだということに気がついた。自分が思うほどに他人はあなたのことを思っていないのよ、と友人に言われた。言われたときにはすごくショックだった。だって、なんだか自分というものがこの世に不必要な存在? って考えてしまったから。
でも友人が言いたいのはそういうことじゃなかった。
他人の目を気にして生きていたらだめよ、ということなのだ。彼女の姿を見ればわかる。自分が興味を持ったことには突進していく。
それがわたしにはなかったけど・

そんな他人の目というか、ネットでブログなるものを出していると、自分が出した記事にどんな反応があるのか? といった命題には敏感に反応する。
だが、最近それもどうかなと思えるようになった。
というのも、リアルで知り合っている友人が、わたしのブログをいつも見ていると言ってくれて、だからといってコメントを入れるまでもなく、といった感じ?
そうなのか。見ていてくれる人がいるのか。
なんとなくコメントを気にかけてきた自分がいたけど、そうじゃなくて、見ていてくれる人がいたんだなって気持ちになれるほうが楽なのかもしれないと思えるようになった。

でもね、逆を介せばコメントを残すような記事じゃないってことなんだよね・・・(笑)

あっでも自分もそうだな。
読者登録している方の更新記事に飛んでもコメントを残すことしてないなあって。
ランキング表示があれば必ずクリックはしているんだけど。
コメントって難しいなと思う。書きたいけど、なんとなく気後れするときが多い。



母の好きな色

2016年06月17日 | 母のこと
母の庭にさつきが何種類か植えてある。
色はそれぞれ。その中で母が一番好きな色だというさつき。
淡いピンクというか紫がかったピンクというか。色を表現する言葉が見つからない。
この色の他に赤もあるし、白とピンクが一本の幹で変化するものもある。それらを愛でながら、母はいつもこれを指さす。
「これが一番いいんだよねぇ」と。

目を細めて言う母を見ていると、まるでそこに我が子がいるような感覚だ。この庭の全てのもの、母が植え育ててきたもの全てがいとおしいのか。
裏庭に無造作に生い茂っている秋田蕗を見て
「このままにしておこう。来年は刈り取って食べよう」と。
今年はそのまま生い茂る様子を味わい、来年はその中身の新鮮な感動を味わう、そういった思いを感じる。

前庭には見栄えのいいものを、裏庭にはそんなでもないものを? そういう思いからなのかこのさつきは本当に好きなようだ。
母にとって庭はこれまでの自分の人生を語るものでもあるようだ。
父と共に暮らした時代。
父は庭仕事など何もできなかったから、ほとんど母がやってきた。レンガを並べたり、土を運んだり、自分の思い描いたように庭造りを楽しんできた。それが今では思い描いた通りなどほど遠い。何をするにも時間がかかる。人が30分で出来る所を今は1時間もかかるよ、と悲しそうな顔で言う。それでもやりたいのだ。
雨が降らないと、庭先に出て、座る。緑を眺め、咲き始めた花を見る。黙ってただ見る。見ているだけで1時間が過ぎていることもあるのだと。

母に
「今日は何していたの?」と聞くと
「庭に出て眺めていた」という答えが何度も返ってくる。
それだけで時間が過ぎていいることに苛立ちもあるのだろう。何かをしようと思って庭に出てきたものの、何もできずにただそこにいただけ。そんな時間が過ぎてしまったのだと。
でも、それでもいいんじゃない?
庭を愛でて生きてきた、あなたの世界がそこにある。
雑草を取りたくても時間がかかるから、わたしが手伝うといっても、おまえは雑草も大事なものもわからないからねぇ、と言われへこむけど、それでもそこに母がいるだけでなんだか嬉しくなる。
母の姿がこのままずっとそこにあってほしい。

最近、毎日母の様子がどうなのかと考えることが多くなった。
右目の痙攣、気にしないでいようと思っているようだけど気になるし、横になるとスッと消える疲れ方も気になるし、とれない咳があると疲れてへとへとになることも気になるし。そのどれもわたしが何もできないことで、母の辛さを我が身に置き換えることができない。
痛みというのは、味わう人でなければわからない。同じ痛みでなければ。寄り添うだけでもいいと思っていたけど、それは違うのかなと思う。
救われるのは、母の場合痛みが最大限にそのときに起きるけど、ずっと長時間あるわけではないということだ。
そのとき我慢すればいいから、と言う。
でもそのときがいつなのか、本人にもわからないことが多いのだ。

この薄いピンクのさつきを見ながら、母は何を思っているのだろう。