(1990年描画私)
年は私の親ほど離れているが、
段位は同期で盟友だった先輩
(古流抜刀術を始めたのは私よ
り2ヶ月先輩)が病気で他界し
て3年になろうとしている。
昨日、埼玉のご自宅までお
線香をあげさせてもらいに
伺った。
私ととても仲の良い息子さんと
大変お世話になった奥様が応対
してくれた。
奥様は倍賞姉妹のイトコだ。
実は昔の写真を見ると倍賞姉妹
よりもずっと美人だ。元ミス
浅草松屋。人柄は抜群に良い
方で、相撲部屋の女将さんの
ように先輩のところにくる若い
衆の面倒を見て取り仕切り、
多くの者がお母さんと呼んで
いた。
息子の事は私はちゃん呼び、
彼は私をジャニーズのように
くん呼びで昔から付き合って
いた。
息子は大学時代に射撃で日本一
になってるオートバイ乗りだ。
しかも、トロトロ走りはしない。
筑波でもかなり良いタイムで走
ってた男。
そして、先輩もオートバイ乗り
だった。
戦後、まだオートレースが始ま
る前からのダートトラックレー
サーで、全国を転戦した。
亡くなる前はハーレーのローラ
イダーに乗っていた。息子はずっ
とヤマハファンでヤマハのフラ
ッグシップに乗っていた。
先輩は私がまだ29才で独身の
頃、毎週家に泊めてくれて家族
のように扱ってくれた。
毎週土曜に泊めてくれ、ご夫婦
と娘さん二人と息子さんと一緒
にメシ食わせてくれた。ビール
も毎週しこたま飲ませてくれた。
それが半年も続いた。
私も図々しくも、よくも半年
も言葉に甘えてお邪魔したも
のだ。
「お前、家帰っても独りだろ?
俺んち来いよ」と毎週稽古の
帰りに誘ってくれた。
そして、その晩ごはんがとても
美味しくて楽しくて、私と歳が
変わらない娘さんたち(ダブル
美人)はいつも笑顔で、家族
も笑い転げての団らんの夕食
だった。
娘さんも「あー、おかしいー!
お腹よじれるぅ〜」と言いなが
ら笑い転げていた。
私は16才で親と別居(両親は
広島の実家に転居。私は一人
東京に残って高校大学と進学
し就職し結婚した)だったの
で、家族団らんがとても暖かく
感じた。
先輩と私の大家さん先輩を誘っ
て、私たち三人は同志として
今の師匠に転籍入門した。
東京都連から師匠が属する神奈
川県連に移籍した。
そして、多くのドラマを実体験
で経験した。
我ら三人は死ぬまで盟友ぞ、と
先輩は言っていたが、一度も医
者にかかった事が無い人なのに
突然亡くなってしまった。
あまりにショック過ぎて、不思
議と涙は出なかった。
人間ショックが大きいと涙も
出ないというのは本当のよう
だ。
先輩がまだ元気だった頃、神奈
川県から転籍して地元埼玉で一
門を構えたので、私の推薦
紹介で門下生に3名を入れさ
せてもらった。そのうちの
一人は次女だけでなく長女
も先輩の弟子になった。
ただ、先輩の道場では「先生」
呼びは禁止だったようだ。
「上下はあれどみんな仲間だ。
先生は俺の師匠だけが先生だ。
俺の事を先生と呼ぶのはやめ
ろ」としていたようだ。
流派を超えて実に多くの人が
先輩に私淑して、年に一度
伊豆での合宿会もかなりの
期間開催していた。昇段合格
と全日本大会に向けて錬成稽
古合宿のようなものだ。
夜は大宴会。
多くの人のまとめ役のような
心の重鎮のような人だった。
改めて冥福を心から祈る。
私が同門会に入会斡旋した
うちの刀剣会MCの奴が撮影
した亡くなるちょっと前の
先輩。男の中の漢だった。
○○山城守という武家の直系
子孫だった。陸軍中将だった
父君は戦後巣鴨へ入った。
先輩は父君と喧嘩して法政大
附属に入学したばかりなの
に家を飛び出して10代の
頃に自立して、その後起業
した。
人一倍、家族や仲間を大切に
する人だった。
人はやがて誰もが没するが、
やはりそこに居なくなると
いうのはとても寂しい。