渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

新たにナスカ地上絵発見

2023年12月27日 | open
 




いまだにナスカ地上絵が発見さ
れる事に驚く。
そういえば、日本の古墳も毎年
どんどん認定個数が増えている。
全国一の古墳の数の県は兵庫で、
その数17,000を超えている。
広島県三原市西部では「これは
どうみても古墳では」と思える
地形の場所がいくつもあるが、
古い祠があって祀られていても
古墳認定されていなかったり、
切り崩されて土地利用されて
いる場所もいくつかある。
昭和初期に私の先祖筋の小学校
校長が発見した古墳は、そうし
た現三原市西部の古代湾岸古墳
群エリアにあり、戦後も継続し
て広島県指定文化財として古
定を受けているので、切
り崩
れての土地利用はされ
ていな
い。
採集品から、古墳時代中期5世
紀頃中後半のものと推定されて
いるが、これまで本格的な発掘
調査はされていない。
鐵手鎌が発見されているので、
発掘調査研究が進めば西暦400
年代の日本の製鐵の歴史解明の
一助となると思われるが、一切
学術研究のメスは入れられてな
い。
日本の製鐵の開始は国定教科書
では6世紀からとしているが、
それは実際のところあり得ない。
舶載鐵時代があったとしても、
多方面からみて、日本の製鐵は
縄文末期から開始され、弥生
時代には国内製鐵は行われてい
た事だろう。
だが、砂鉄製鐵中心主義のヤマ
ト王権中心史観(≒皇国史観)で
は日本の製鐵は5世紀から6世紀
にかけてとしたがる。
たたら吹き製鐵(たたら製鐵とは
異なるが多くは混同)によって
の製鐵を唯一の製鐵としたが
るのが体制側の歴史観だ。
 
なお、現在のところ、考古学
的に国内最古の製鉄炉遺跡は、
広島県三原市内北部にあり、
そこは縄文末期から弥生時代
前期の遺跡と推定された。
本格的な解明はされないまま、
発掘遺跡は現在は埋められた。
そこは弥生時代ではなく、6
世紀の遺跡だとされて埋めら
れた。
そして、そこのエリアには古
代の謎がある。
それは、中央への納税の為に
整備された古代街道には必ず
決められた距離に駅=駅家(う
まや)が置かれ、指定数の馬
が常備されていたのだが、
その場所だけ、全国でポカン
と空白で「駅家は無い」と
して地図と駅家記録から消さ
れているのだ。
これは通常あり得ない。
あたかも大戦中に地図から消
された瀬戸内海の島=毒ガス
兵器製造の島を彷彿させる。
古代史研究者の間では「駅名
不明」としてその場所には
駅家があったものと推定さ
れているが、学究の手は入っ
ていない。

葦田駅家が()付きなのは
あった事は確実だが場所が
特定されていない為。
真良(しんら)の東の駅家
は存在そのものが記録されて
いない。これは、律令制の
原則から大きく逸脱するため、
研究者たちは現三原の垣内
(かいち)地区に存在しただ
ろうと推定している。

ちなみに、このエリアから
西に向かう次の駅家「真良
(しんら)」までの地域は、砂
鉄製鐵以前の超古代赤土製鐵
=リモ
ナイト製鐵の原料とな
る特殊
な土壌エリアである。


ソブ。異様なほどの鉄分を
含んだ土壌の証。
赤土を焼成する事で還元に
より鐵(低炭素鉄)が産出
できる。
私見だが、日本の白い神社
と赤い神社は、砂鉄製鐵族
と在来の超古代赤土製鐵族
の対立の名残ではと踏んで
いる。




三原市のカネクサ。鉱脈エリア
に生えている。
製鐵と密接な関係のある鞴祭り
と鏡餅お供えの際に三方の上に
載せる。
このエリアは、古老の話では、
謎の露天掘りの風化した遺構が
いたる所にあるという。


だが、本格的調査を進めれば
日本の歴史解明の決定打が続
出するだろうこのエリアは、
一切学術的な探索と調査研究
が行われていない。
日本最古の製鐵炉が発見され
ても、さらっと一通り調査し
てさっさと埋めてしまって
いる。
私が聞き取り調査した現地地元
の古老の話では、このエリアは
古くから「カナヤマ」と呼ばれ
ており、何のためか掘り返して
そこが大穴になった遺構と呼べ
る場所が無数にあるのだそうだ。
付近一帯は「カナクサ」と呼ば
れる産鐵地域特有の植物が群生
しているが、露天掘りの遺構と
思われる無数の場所は荒れるに
任せているのが現状だそうだ。
こうした事は、学術書などには
出て来ない。一切現地探査の
フィールドワークを「表のアカ
デミー」はしていないからだ。

 やはり、ヤマト成立以降から
この国の製鐵の歴史は始まっ
たとしたいのかもしれない。
日本の製鐵は産鐵の歴史でも
あるのだが、国内各地にヤマ
ト以前の製鐵の歴史事実があ
る事を体制側御用学者は認め
ようとはしない。
九州などは砂鉄製鐵以前から
リモナイトの赤土製鐵の一大
産鐵製鐵地であったが、そこ
に強大な先進技術と文化を
った在地王権が存在した
事も
認めない。
ひどい話、出雲にヤマトと
は別な強大な在地王権が存
在した事さえも、あの柱が
発見発掘されるまでは皇国
史観サイドの学術者たちは
認めようとしなかった。
自ら自分らの神話さえも
結果的に否定している点
が滑稽すぎたが、得てして
木で鼻を括ったような学術
界の権威どころはそんなも
んだ。
だが、砂鉄産鐵製鐵地であった
「白い砂鉄」の出雲
と同じく、
リモナイトと同色の「赤い砂鉄」
の赤目(あこめ)砂鉄や
鉄鉱石製
鐵の技術を持つ吉備を
征服し
た歴史は認めて
いる。認めて
いない存在をある側面からは
認めているという摩訶不思議。
「天皇家が偉大だったので
んでひれ伏し、あるいは
鬼は
征伐した」という史観
で。
の各地でもヤマトに従わ
い各地の在地勢力に対し
ては「征伐」と規定する

だが、それは内実としては
殺戮と簒奪と強奪
と陵辱を
意味する。
日本はヤマト王権=天皇が
作った国であるとするなら、
大古代の時代から、日本人は
侵略が大好きだったという
だ。
政権を分捕った新興階級の武
士でさえ、それを真似て侵略
しまくった。秀吉などは、国
内に地面がなくなったから
明国の外地にまで出兵して侵
略しようとした。
 
日本の長い歴史の中で、日本
人が侵略行為をやめたのは、
1945年の事だった。
そして、日本の学術界は、特定
の勢力の「力」によって特定の
方向に持って行かれる為、学問
の真理探究の場、つまり、本物
のアカデミックな場としては成
立していない。
その構造を崩そうと試みたのが
1960年代末期の全国の大学の
全共闘だったが、政治闘争と
学協同体制反対闘争に留ま
り、
個別武力撃破されて全共
闘運動
は解体した。
多くのリベラル教授陣からの
支援もあったが、学術界を
耳っている勢力の権力を
の立場から変革させる
は彼
らはできなかった。
そして、全共闘敗北後には、
本の国家観体制は磐石と
り、
学問の場においても完
全に「特定勢力」
が学術界
そのものも牛耳るよう
になった。
そうして、「勝者の歴史」と
して真実が覆い隠される事を
継続しているのが、日本の人
文科学歴史学考古学の分野で
ある。
正味のところ、それは学問で
はない。特定の勢力の意思が
大きく影響する場所、それは
学術界とは呼べず、政治の世
界だ。しかも、永田町政治の
ような。
 
 

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