

日本には戦後最大のギャグが
ある。
それは、奇才赤塚不二夫先生
が考案した「シェー」だ。
漫画『おそ松くん』は1962年
から連載が開始されたが、東
京オリンピック開催年の1964
年には「シェー」が日本中を
席巻した。子どもたちは誰も
がシェーをやった。
今上天皇陛下までがシェーを
披露し、ゴジラまでもがシェ
ーをやった。
日本中の子どもたちがシェー
をやっていた。
だが、しかし。
歴史的事実としては、正しい
シェーをやる人は大人も子ど
もも皆無だった。
正しいシェーは右腕を高く伸
ばし、右手の手首のみを曲げ、
手は甲を前に向ける。
そして左肩を上げて二の腕を
下げて手は胸に当てる。
左手の甲は前に向け、親指は
やや広げる。
軸足は左足で、膝は曲げて爪
先立つ。
右足は膝を曲げて前で交差さ
せて爪先を上に向けて腰あた
りまで持って行って足の甲は
伸ばす。
これが正しいシェーだ。
しかし、日本全国、この正し
いシェーをやる人は皆無だっ
た。
これは全日本シェー研究会会
長のとんねるずの石橋がかつ
て1990年代に指摘していたが、
ほぼ日本人全員が正しいシェ
ーをしていなかった。
『ALWAYS 三丁目の夕日’64』
(2012)はかなり時代考証が
正確で、1964年夏前の時代設
定で、お母さん役の薬師丸ひ
ろ子が「シェーって何?こう
いうの」と言うシーンで、日
本人の多くができていない不
正確なシェーをやっていた。
ナンセンスギャグの一発アク
ションの「シェー」は、1964
年に大爆発流行し、日本全国
を席巻した歴史があるが、日
本国内で正確なシェーをやっ
ている人は皆無だったという
事実がある。
これホント。
ただし、1964年の昭和少年た
ちは、不正確ながらもほぼ全
員がシェーをやっていた。
ジョン・レノン。
ポール・マッカートニー。
不正確ながらも、日本の子
どもたちはみんながシェー
をやった。
それでいいのだ。不正確だ
ろうが。「正しい」シェー
でなくとも。
そもそもが、イヤミからし
ておフランスなのに自分の
事はミーと英語で言う。出
鱈目でいい加減なのだが、
それを許容して笑いとして
受け止める日本人の心の広
さがあった。
現代のように少し何かを間
違えたら、それをあげつら
って揚げ足取りをして重箱
の隅つつきで嬉々とするネ
トカスのようなクズはあの
時代にはいなかったからだ。
心広く、大らかな日本人の心
の豊かさの象徴が「シェー」
の文化だったのである。
今のゲスい日本の世の中とは
まるで違う、全くの別世界だ
ったのだ。
今はもう、右を見ても左を
見ても、ネトカスのクズだ
らけ。
世の中、真っ暗闇じゃあござ
んせんか。
歴史上の功罪はともかく、
ナチスドイツ軍の軍装は
極めて洗練されていると
感じる。
日本の場合、戦時中は将校
の装備は「軍装品」扱いで
あり、官給品ではなかった。
そのため、軍刀や軍靴や拳
銃等は自弁=自費購入で好
みの物を装備した。
MC第8コマンド、日本刀探究苑
游雲会の友人が年末に確かな店
で名刀を購入した。
永正元年(1504年)の作。
かなりの出来だ。
この上掲一葉だけを見て、作者
が特定できる人は刀剣玄人。
【伝説の男】WGP500の強者
と戦い抜き、4度のワールド
タイトルを獲得したアグレッ
シブ・エディーローソン。
YZRからNSRにマシンをスイッ
チした1989年、現役引退後も
なお、燃え続ける魂。
1989年のホンダNSRは、ホンダ
のマシンというよりもローソン
が作ったローソン専用マシンだ
といえるだろう。
ホンダのワークスマシンではな
く、ローソンがホンダにマシン
を作らせた、というパターン。
内実はシャシの見直しから開始
された。
つまり、曲がらない、ハンドリ
ングの良くないホンダの車を根
本から改善する、という。
それは「セットアップ」とかの
範疇を遥かに超えていた。
フレームだけで15種類のワーク
スフレームを用意させてテスト
している。
根本から、根底からのNSRの作
り直しだ。
目指したところは、結局はシャ
ケさんが作ったヤマハの車の方
向性だろう。乗りやすく、よく
曲がる車。
多大なる功績を残したローソン
に対して、ホンダはケチらずに
契約年棒をアップしていれば、
ローソンはその後も「ホンダの
エディ・ローソン」になってい
たかも知れない。
だが、結局は古巣のヤマハに
ローソンは戻った。
ロードレースの車両の歴史的
な開発者は幾人かいるが、シ
ャケさんは日本人では第一人
者だろう。間違いなく。
なお、余談だが、ローソンの
開発ノウハウのフィードバッ
クかどうかはわからないが、
公道市販車では、250のNSR
が1988年型のMC18と1989年
型のMC18では、ハンドリン
グは激変している。
1989年式は、曲がらない88
とは比較にならない程ハン
ドリングが向上している。
捏造された88神話に目に鱗
つけている人たちはその事
実から目を逸らそうとする
が、88よりも89が確実に良
い。
これは、実際に乗ってみれ
ば判る。
オートバイは最新型が常に
良いという事は絶対に無い。
これは絶対に。
レーサーでもその現象は多
くみられる。
たとえば、ホンダの500レ
ーサーでも、最新型のNR
は✖だったし、83年に世界
王者となったNSも84年に
NSRになった時には不具合
多発だった。
ヤマハのTZ250も、1983年
式は完成度の頂点だったが、
新機軸を多く投入した85年
式は非常に未完成なマシン
だった。TZのそれはてき面
だった。
「最新型がすべて最良」と
か思っているとしたら、そ
れは二輪の素人だ。二輪だ
けでなく四輪でも。
シーズン途中でも熟成され
たマシンを翌年に引き継い
で発展させる改良がなされ
ずに、いきなり奇抜な新機
軸を投入して全面改訂する
と、そのシーズンは「テス
ト期間」になってしまう。
歴史の中でそうした事例は
多くみられた。
そのような流れを全体像と
して俯瞰するに、改めてエ
ディ・ローソンの偉大さに
瞠目せずにはいられない。
根底からNSRのネガ部分を
改良しきった。たった1シー
ズンで。
だが、その正しい車作りの
視点は、ヤマハのマシンに
乗っていたからだ、という
事は確実にいえると思う。
そして、ヤマハはシャケさ
んだ。河崎裕之さん。
スズキとヤマハのマシンを
開発したレーシングライダー。
自身も多く国内チャンピオ
ンをいろんなクラスで獲っ
ている。車も作れて走りも
トップだった人。愛称シャケ
さん。
シャケさんの開発ノウハウ
は平忠彦さんに引き継がれ
た。
その平さんに本間利彦さん
は身だしなみから座り方、
箸の持ち方まで躾けられた。
本間さんは、いつしか、シャ
ケさん、平さんに並ぶ「オー
トバイを最も知る人間」に
なっていた。
そうした人は歴史の中では
稀有なのだ。
シャケさん。世界一二輪を
知る男。1945年京都生まれ。
エディ・ローソンによって
ホンダの車は1989年に大き
く変わった。
だが、現在、そうした流れ
が「何が大切だったか」を
示していた事をメーカーさ
んはホンダもヤマハも忘れ
てしまっているようだ。
世界チャンピオンが乗って
も、誰が乗っても毎回転び
まくる車というのは、根本
からして、運転手ではなく
車が悪い。
その真実を今でも本間利彦
さんは動画で配信し続けて
いる。
だが、真実を知り、真実を
語る人を大企業は必要とは
しない時代になった。
この先も、日本車が世界の
頂点をかつてのように取る
事は可能性が限りなく低い
だろう。
企業の責任者を総入れ替え
しない限り。