【現地説明会、南側からは東西9間以上の格式の高い建物跡】
奈良市の平城宮跡東院地区の発掘調査で、奈良時代前期の床張りとみられる大型の建物跡と、後期の大規模な井戸と溝の遺構が見つかり、23日、奈良文化財研究所による現地説明会が開かれた。東院地区は平城宮東側の張り出し部の南半分(東西約250m、南北約350m)。奈良時代を通じて皇太子の居所である東宮や内裏に準じる天皇の居所の東宮・東院・東内として利用された。そこでは宴が度々開かれていることから、井戸の遺構は宴のために食膳を準備する厨(くりや)だった可能性が大きいという。
東院地区ではちょうど50年前の1967年に南東端で大きな庭園の遺跡が発見された。その後「東院庭園」として復元され2010年に特別名勝に指定されている。また西側では大規模な掘立柱建物群が頻繁に建て替えられていたことがこれまでの調査で判明している。今回の対象地域は北西部分の約970㎡で、今年10月初めから発掘が始まった。現在も継続中で、現地説明会の最中に井戸から須恵器の土器が出てきたと、発掘作業員が右手で差し上げ披露する場面もあった。
井戸は東西9.5m×南北9.0mの範囲を深さ約0.3m掘り込み、その中心に4m四方の井戸枠を設置した跡があった。その規模は天皇の宮殿である内裏地区から出土した井戸に匹敵する。井戸からは側石と底石で護岸した直線の溝と、途中で北側に分岐し西に延びるL字溝が検出された。溝の幅は0.8~1.2m。それら2本の溝に平行して柱の穴も見つかっており、屋根で覆われていたとみられる。溝の中からは奈良時代後半の皿や杯などの食器類のほか、土師器や須恵器の甕(かめ)、竈(かまど)、盤(ばん)などの調理具や貯蔵具も大量に出土した。
東院では奈良時代後半の孝謙、称徳、光仁天皇の時代、天皇と上位の役人が集まって度々宴会が開かれた。現地説明を担当した小田裕樹さん(都城発掘調査部考古第二研究部研究員)は「宴は重要な儀式の一つで、天皇や貴族が100人規模で参加した。この遺構は宴を準備するための空間で、井戸から汲み上げた水を溝に貯めて食器や野菜を洗っていたのだろう。今後、調理や(食材などの)貯蔵施設の遺構が近くから出土する可能性も」などと話していた。
奈良時代前期の大型建物跡が見つかったのはその井戸の遺構のすぐ南側。東西9間(約26.5m)×南北3間(約9m)と横に長く南側に廂(ひさし)が付いた構造で、建物はさらに調査区域の東側に延びる。柱穴には床を支える添束(そえづか)の痕跡があることから、床張りの格式の高い建物だったとみられる。検出した範囲での床面積は約260㎡。周辺から奈良時代前半を中心とした軒丸瓦や軒平瓦、鬼瓦なども出土した。奈良時代前半には文武天皇の皇子、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)が714年に皇太子となり24年に天皇に即位した。在位は749年に皇女安倍内親王(後の孝謙天皇)に皇位を譲るまで26年間に及ぶ。(下の写真㊧は奈良時代前半の大型建物の遺構、㊨は東院地区南東端に復元された「東院庭園」)
今回見つかった大型建物の遺構について説明役の小田さんは明言を避けたが、聖武天皇の時代のものだった可能性が高いようだ。東院地区では称徳天皇が767年に瑠璃色の瓦を葺いた美しい彩色の「東院玉殿」を建てた。その後、773年に完成した光仁天皇の「楊梅宮」もこの地にあったとみられている。考古ファンにとって今後も東院地区の発掘調査から目が離せない。