く~にゃん雑記帳

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<津山散策㊦城西> 「城西浪漫館」など歴史的建築物も多く

2019年11月18日 | 旅・想い出写真館

<津山散策㊦城西> 「城西浪漫館」など歴史的建造物も

【西寺町界隈には様々な宗派の寺院が勢ぞろい】

 津山滞在2日目、向かったのは市中心部を南北に貫く鶴山通りの西側「城西」界隈。大正ロマンを漂わせる「城西浪漫館」、明治時代に建てられた津山高校・中学の本館や「作州民芸館」など歴史的な建築物が点在する。白壁沿いに様々な宗派の寺院が軒を連ねる旧出雲街道沿いの西寺町周辺の町並みも見応えがたっぷり。後で数えてみたらこの日お参りした神社仏閣はお寺だけでも12カ寺に達していた。

 「城西浪漫館」の元々の正式名称は「中島病院旧本館」。1917年(大正6年)建築の木造2階建てで、正面上部のドームや門柱、窓などの凝った装飾が目を引く。当時院長を務めたのが津山出身の中島琢之氏。東京帝国大学医科大学を卒業後、東京都内の病院で活躍していたが、郷土の熱望に応えて帰郷し私設病院を開いていた。しかし研究のため再度の上京を考え始める。これに対し地元の人たちは「せっかくの名医を失っては大変」と引き止めに動いた。そして、とりわけ熱心だった銀行家を中心に最新医療機器を備えたこの病院を造ったという。12年前に建物が市に寄贈され、現在は館内に喫茶室や病院の歴史を振り返る展示場、貸しギャラリーなどが設けられている。

 

 「作州民芸館」は旧出雲街道に架かる翁橋のすぐ西側に位置する。こちらは1909年(明治42年)に土居銀行津山支店(後に本店)として建てられた。玄関の両翼が張り出した左右対称の木造2階建てで、ルネサンス調の意匠を基本としている(正面写真を撮るときどうしても電線が入るのが残念)。国指定重要文化財「旧遷喬(せんきょう)尋常小学校校舎」(岡山県真庭市)などを手掛けた江川三郎八(1860~1939)が設計した。民芸館のすぐ前には「作州絣工芸館」、東側には「津山城下町歴史館」があった。歴史館は武家屋敷の旧田淵邸の長屋門(1840年頃建築)と新たに建てられた津山だんじり展示棟、ガイダンス棟からなる。ガイダンス棟には大名行列の絵図や津山だんじり28台のパネル、武家屋敷に使われていた鬼瓦などが展示されていた。

 

 翁橋の東南側に位置する徳守神社は1604年に初代津山藩主森忠政が城下の総鎮守として造営した。山門を入って左手に赤穂浪士の四十七士の一人神崎与五郎の歌碑があった。「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」。与五郎は元津山藩士だったが、その後赤穂浅野家に仕えていた。歌は討ち入り前の1702年(元禄15年)秋、故郷津山の徳守宮祭礼を偲んで詠んだという。与五郎は浅野家きっての俳人として知られていた。国の重要文化財に指定されている県立津山高校本館(旧津山尋常中学本館)は奴通りを北上し城西通りを右に折れた津山裁判所の北側にあった。1900年(明治33年)築で、ベージュ色を基調とした壁面に正面中央上部の時計台が印象的。校門左手のすぐ手前に「NHK朝の連続テレビ小説『あぐり』ロケ地」という木柱が立っていた。

  

 旧出雲街道の西側にある西寺町周辺はその名の通りお寺の町だった。津山藩は城下の東西の端に寺院を集めて寺町を形成した。東の寺町が北側の丘陵地に置かれたのに対し、西の寺町は出雲街道沿いを中心に配置された。そのため江戸時代の前半に建立された寺院が多い。中でも本源寺・泰安寺・妙法寺は津山三箇寺といわれた。本源寺は城主森家の菩提寺で、本堂や庫裏、霊屋などは国指定重要文化財。泰安寺は森家の後の松平家の菩提寺。本堂の創建は本源寺が1607年、泰安寺が1644年、妙法寺が1653年と推定されている。(上の写真は㊧本源寺、㊨妙法寺)

 

  西寺町には他にも珍しい鐘楼付きの仁王門を持つ愛染寺、通称赤門と呼ばれる寿光寺(上の写真2枚)など見所が多い。この西寺町には古い商家などの建物も多く残っており、城東地区に続いて国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を目指す動きも高まっているそうだ。城西には他にも津山出身の第35代内閣総理大臣平沼騏一郎(1867~1952)の別邸「知新館」などもあり見所が多い。ただ津山城の四脚門を移築した神門がある中山神社まで足を延ばせなかったのが少々心残りだった。

 

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